ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬
1992年3月7日生。1996年1月28日死亡。牝。鹿毛。信岡牧場(浦河)産。
父フォティテン、母ラブリースター(母父トウショウボーイ)。領家政蔵厩舎(栗東)。
通算成績は、9戦2勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)。
(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
『9戦2勝の桜花賞馬』
日本競馬の歴史をひもとくと、グレード制導入よりはるかに昔、いまや伝説の域となった太平洋戦争前や戦時中は、2歳(旧3歳)戦が組まれていなかったこともあり、1勝馬によるクラシック制覇どころか、未勝利馬や未出走馬によるクラシック制覇も、決して珍しいことではなかった。
ただ、戦後になると、2歳(旧3歳)戦が組まれるようになり、競馬のレース体系の整備も進んだ結果、未勝利馬や未出走馬によるクラシック出走自体が困難になっていき、制覇の例も自ずと消えていった。
それでも、1勝馬によるクラシック制覇は、グレード制導入後、現代に至るまで、頻度こそ減ったものの、途絶えてはいない。中でも、牝馬限定かつ実施時期がクラシックの中で最も早い桜花賞は1勝馬による制覇の例が多く、戦後だけでも1948年のハマカゼ、54年のヤマイチ、80年のハギノトップレディ、95年のワンダーパヒューム、2013年のアユサン、15年のレッツゴードンキ、16年のジュエラー、22年のスターズオンアースの8頭が達成し、その中でもヤマイチ、ハギノトップレディ、スターズオンアースは、その後オークスを勝って牝馬二冠を達成している。
それに対し、前記の8頭のうちワンダーパヒューム、アユサン、ジュエラーの3頭は、その後に勝利を重ねることはできず、2勝馬のまま競走生活を終えている。そのうち唯一の20世紀の馬であり、3頭の中で出走数が最も多いワンダーパヒュームの生涯成績は9戦2勝、2着1回、3着2回、着外4回というもので、この戦績だけを見れば、Glの中でも特に高い格式を誇るクラシックの勝ち馬として物足りない印象を持つファンも多いだろう。
ただ、ワンダーパヒュームが95年牝馬三冠戦線で果たした役割をみれば、まぎれもなくその中心を担った1頭にほかならない。今回のサラブレッド列伝では、95年の牝馬三冠戦線で活躍しながら、波乱と悲運に満ちた生涯を歩んだワンダーパヒュームのことを振り返ってみたい。
『祖母の時代~焦がれた血~』
ワンダーパヒュームは、1992年3月7日、浦河の信岡牧場で生を享けた。ワンダーパヒュームの父は通算10戦2勝、シェーヌ賞(仏Glll)優勝、グランクリテリウム(仏Gl)3着等の実績を持つフォティテンで、母はJRAで31戦6勝、83年の金鯱賞と北九州記念と重賞2勝をあげたラブリースターである。
ラブリースターの牝系は、信岡牧場にとって特別な意味を持っていた。信岡牧場は、1960年ころ、家業の農業に限界を感じた信岡修氏が、アラブ馬2頭で馬産を始めたという。ただ、重賞級の馬はなかなか出せないまま十数年が過ぎたころ、「Ribotの直仔である種牡馬ロムルスの肌馬を探していた」という信岡氏のもとへ、そのロムルスを父に持つグッドサファイアという牝馬の譲渡話が持ち込まれてきた。
グッドサファイアは、確かにロムルスの直仔ではあったものの、自らは不出走で終わった上、繁殖成績もさんざんで見切りをつけられかけていた。そんなところに信岡氏がロムルスの血統の牝馬を探しているという情報が伝わったため、相手から声がかかったというわけである。
話を聞いてグッドサファイアを見に行った信岡氏は、
「姿かたちがよかった。気品が漂っていた」
ということで、喜んで譲り受けることにした。
ようやく念願の血統を手に入れた信岡氏は、グッドサファイアの交配相手について
「テスコボーイがいいのではないか」
と考えた。・・・とはいっても、当時のトップサイヤーの1頭であり、さらに日高軽種馬農協の看板種牡馬であるテスコボーイは、高倍率の抽選に当選しなければ、交配することさえできない。
すると、ちょうどそのタイミングで種牡馬として供用開始されたのが、テスコボーイの代表産駒で、現役時代は「天馬」とよばれ、皐月賞、有馬記念、宝塚記念を制したトウショウボーイだった。
後に内国産種牡馬として高い評価を受けるトウショウボーイだが、種牡馬としての供用初年度の人気は、「内国産種牡馬」というただ一点だけで、成功が疑問視されていた。日高軽種馬農協が、現役時代に素晴らしい成績を残したトウショウボーイをテスコボーイの後継種牡馬として導入しようと考え、トウショウボーイを所有する藤正牧場との間で、代金2億5000万円、テスコボーイの3年分の種付権などの条件で交渉を成立させた時、一般組合員たちからは、歓喜ではなく、むしろ
「なぜそんな法外な条件を吞んだんだ!?」
という不満と怨嗟の声が渦巻き、日高軽種馬農協の責任者たちは厳しく責任を追及されたという。トウショウボーイが日本を代表する種牡馬として扱われるようになったのは、供用2年目の産駒である83年の三冠馬ミスターシービーが結果を出した後のことで、まだ彼が不人気だった初年度のトウショウボーイとグッドサファイアを交配して生まれたのが、ラブリースターだった。
『母の時代~出会いのころ~』
しかし、ラブリースターの出産は、悲しみを伴うものだった。信岡牧場で初めてとなる出産を迎えたグッドサファイアは、出産の際に大動脈瘤破裂を起こし、生まれたばかりの子馬を残して力尽きてしまったのである。
生まれて間もなく母を亡くしたラブリースターは、幸いアングロアラブの乳母に育てられて順調に成長した。そして、セリに出されたラブリースターはJRAによって落札されて「抽せん馬」制度の対象となり、山本信行氏の所有馬として、領家政蔵厩舎からデビューすることになった。
山本氏は1960年代から馬主としての活動が確認でき、72年にはアチーブスターで桜花賞、ビクトリアCの牝馬二冠を制した古参馬主だが、馬主として一定の成功を収めた後も、庭先取引で買い入れた馬や自身が所有した牝馬の子以外に、抽せん馬制度を利用した馬の仕入れを続けていた。
また、領家師は、騎手として296勝、重賞6勝を挙げた後に引退して調教師に転身し、81年に自厩舎を開業したばかりだった。人脈も馬資源も豊富ではない中で、抽せん馬制度を使ってラブリースターを開業直後の厩舎の第一世代として迎え入れた形である。
すると、デビュー前は決して広く注目を集める存在ではなかったラブリースターは、山元氏や領家師の期待に大いに応えた。まず旧4歳時に格上挑戦で挑んだエリザベス女王杯で、13番人気ながら3着に入って注目を集めてファンを驚かせ、領家師らの面目を施した。さらに、古馬となった83年3月、田原成貴騎手と新コンビを組むと、初戦の白鷺特別(1300万下)こそ4着に敗れたものの、その次の花園特別(1300万下)で優勝し、さらにその勢いを駆って、1983年7月10日の金鯱賞、同年8月7日の北九州記念という夏の重賞を連勝した。
78年に騎手としてデビューした田原騎手は、1年目から28勝を挙げて新人賞を受賞した。さらに翌79年には64勝を挙げて関西リーディングジョッキーに輝き、その後も順調に成長して、関西のトップジョッキーの1人として地位を確立しつつあった。彼がラブリースターとともに戦った83年夏は、最終日の金鯱賞を制したことで当時のJRAの1開催での勝利記録である「19勝」に並び、さらに最終レースでも勝って「20勝」の新記録を樹立している。この年の田原騎手は、最終的に104勝を挙げて、自身にとって初めての全国リーディングジョッキーに輝いている。
田原騎手は、ラブリースターについて
「脚の使いどころを教えてもらった(馬)」
と思い出を語っている。ラブリースターの武器は、破壊力はあるものの持続力に欠ける一瞬の切れ味だったことから、使いどころが難しい一瞬の末脚を解き放つタイミングを、田原騎手はこの馬で学んだという。
領家師、田原騎手、信岡牧場。それぞれの事情の中で夏の重賞2連勝の喜びに沸いた彼らだったが、12年後、再び運命によって巡り会うことまでは予期していなかったに違いない。