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スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~

『幻の欧州遠征』

 天皇賞秋春連覇によって古馬中長距離戦線最高の栄誉を手に入れたスーパークリークの今後について、巷では秋には凱旋門賞(仏Gl)に挑戦する、というプランが噂されるようになった。この話にはオーナーも乗り気で、ライバルのオグリキャップがアメリカのアーリントンミリオン(米Gl)に挑戦するという話もあわせ、この2頭の秋のローテーションに注目が集まった。
 
 しかし、このプランは実現には至らなかった。春競馬のフィナーレを告げる宝塚記念(Gl)は、スーパークリークにとっては、凱旋門賞への前哨戦という性格も併せ持っていたことに間違いない。しかし、その宝塚記念を直前に控えたスーパークリークの脚部に、またもや不安が発生したのである。
 
 結局、スーパークリークは、宝塚記念を直前に回避した。伊藤師は、スーパークリークの今後について
 
「国内戦に専念させたい」
 
と、凱旋門賞参戦の断念を明言した。遠征のプランがかなり具体化しつつあった矢先の発表だけに、ファンは突然の断念を残念がったが、この決定の裏側には、海外遠征を断念せざるを得ない事情があったということも事実である。
 
 実は、このころスーパークリークの脚部不安は極めて深刻なものとなりつつあった。生まれつき脚が曲がっていたスーパークリークにとって脚部不安は慢性的な持病だったが、それに加え空前の高いレベルでライバルたちとの死闘を繰り広げたことで、その症状は年を追うごとに悪化していった。ある場所が痛むと、それをかばって走るうちに、また別の部分を悪くする。そうしたことの積み重ねの結果が、宝塚記念の直前回避だった。伊藤師は後に、スーパークリークの生涯で、完全な状態で出走させることができたのは5歳秋、それも京都大賞典からジャパンCにかけての3戦だけだったと述懐している。武騎手に至っては、天皇賞・秋一度きりだったとしているほどである。ただでさえ壊れやすい脚を持ったサラブレッドだが、スーパークリークの場合はさらに脚の湾曲というハンデまで負い、まさにぎりぎりの状態で戦っていた。

『当然の勝利のあとに』

 凱旋門賞遠征を断念して前人未踏の天皇賞3連覇を目指したスーパークリークの秋の始動戦は、京都大賞典(Gll)とされた。京都大賞典といえば、前年も優勝して天皇賞・秋への弾みをつけた、相性のいいレースである。
 
 スーパークリークが京都大賞典に出走するという情報が流れると、それまで出走を目指していた他の馬たちの回避が相次ぎ、結局この年の京都大賞典のゲートにたどり着いたのは、なんとスーパークリークも含めて6頭だけだった。ここでファンが彼に与えた単勝110円という数字が、スーパークリークへの信頼の厚さを何よりも雄弁に物語っていた。
 
 そして、スーパークリークはここでも当然のように、秋の始動戦を勝利で飾った。スタートしてからすぐに2番手につけ、勝負どころで先頭に立つとそのまま押し切るレース内容は、着差こそ大きくはないにしても、余力すら感じさせるものだった。この日の競馬に、ファンの多くは天皇賞3連覇へ向けて死角なし、と感じたはずである。
 
 ところが、天皇賞・秋直前に、スーパークリークに異変が発生した。右後脚に軽靱帯炎を発症したのである。そのため天皇賞・秋への出走は不可能となり、天皇賞3連覇の偉業は幻に終わった。
 
 伊藤師は、最初は天皇賞・秋を回避して有馬記念に直行するつもりだったものの、長年の激しい戦いにきしむスーパークリークの肉体は、それすらも許さなかった。もともと脚部不安を抱えていたこともあって、故障の回復状況は思わしくなく、結局スーパークリークはそのまま引退することになった。6歳時の戦績は3戦3勝、力の衰えなきままの突然の引退だった。

『時代の終わりに』

 スーパークリークの引退が決まった後、無事ならばスーパークリークも出走するはずだった有馬記念を前にして、伊藤厩舎のスーパークリークの担当厩務員のところに、武騎手から突然連絡が入ったという。
 
「有馬記念でオグリキャップの騎乗を依頼されたんですが、乗っていいでしょうか」
 
 スーパークリークはこの時既に引退を決めており、有馬記念への出走はあり得ない。ならば、オグリキャップに騎乗するからといって、わざわざスーパークリーク陣営に連絡する必要はないはずである。しかし、この時武騎手は迷っていた。
 
 武騎手は、この年の安田記念でオグリキャップに騎乗し、そのことをオグリキャップ、スーパークリーク両方のファンから批判されたという苦い経験もあった。しかし、彼がこの時考えていたのは、スーパークリークの宿敵として戦い続けたオグリキャップに騎乗することへの単なるわだかまりではなかった。
 
 この年のGl戦線は勝ち馬がレースごとに異なる激戦で、この時点ではGl1勝のスーパークリークにも年度代表馬の可能性がある、といわれていた。しかし、もしオグリキャップが有馬記念を勝ったとすると、既に安田記念(Gl)を勝っていることもあわせると、年度代表馬の栄冠がオグリキャップに輝くことは確定的になってしまう。武騎手としては、スーパークリークに宿願の年度代表馬を取らせるためにも、オグリキャップの騎乗は断ろうかと迷っていたのである。
 
 しかし、返ってきた答えは
 
「ぜひオグリに乗って、そして勝たせてほしい」
 
というものだった。
 
「みんなが今年の4歳馬は凄いといってるけど、一番強いのは間違いなく、オグリ、イナリ、それにうちの馬です。でも、クリークもイナリも(引退が決まって)もう出られない。だから、オグリに乗って勝たせることで、本当に強いのはクリークやイナリであることも一緒に証明してほしい…」
 
 ひとあし早く引退を決めたスーパークリークを最も身近で見守り続けた男が、宿敵といわれながらこの年はついに直接対決することがなかったオグリキャップに自分たちの誇り、そして最後の願いを託したのである。これは、約2年間の長きにわたって競馬界の頂点で戦い、時にはその背中を追い、時にはその追撃に震え、その果てに互いを認め合ったものたちだけがたどり着ける境地だった。
 
 その言葉を聞いた武騎手は、迷っていたオグリキャップへの騎乗依頼を受けることにした。その年の有馬記念は、クラシック戦線を戦い抜いてきたばかりの4歳世代が強いと評判であり、それを迎え撃つ古馬の大将格であるべきオグリキャップが天皇賞・秋6着、ジャパンC11着と低迷していたことから、「4歳馬が有利」というのがもっぱらの噂だった。
 
 しかし、その結果は武騎手が手綱を取ったオグリキャップの見事な復活劇だった。オグリキャップは、最後の直線で強いといわれた4歳世代のメジロライアン、ホワイトストーンに並ばれながら、そこから凄まじい粘りを発揮し、決して抜かせることなく先頭でゴールを駆け抜けたのである。
 
 この奇跡のラスト・ランは、「平成三強」が覇を競った時代の劇的な幕切れとなった。その後の年度代表馬の選考では、武騎手が予測したとおり、オグリキャップが年度代表馬に選出された。しかし、そのことはスーパークリークの価値を高めこそすれ、落としたという者は誰もいないだろう。
 
 その後、スーパークリークは総額15億円という巨額のシンジケートが組まれて種牡馬入りし、北海道へと帰っていった。オグリキャップ、イナリワンも、それぞれ種牡馬として第二の馬生を歩むことになった。

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