タマモクロス本紀~白の伝説~
『罪と罰』
天皇賞・秋の2週間後、京都競馬場ではエリザベス女王杯(Gl)が行なわれた。牝馬三冠の最終関門であるこのレースに、タマモクロスの半妹であるミヤマポピーが出走していた。桜花賞馬アラホウトク、桜花賞の2着馬で前哨戦のローズS(Gll)を勝ったシヨノロマン、後のマイルCS(Gl)勝ち馬パッシングショット・・・そんなメンバーが揃う中、2勝馬で前々走の900万下特別は2着、前走のローズSでは4着に敗れていたミヤマポピーだが、1330円の6番人気という穴評価を受けていた。そして・・・シヨノロマンとのハナ差の叩き合いを制した彼女もまた、兄に続くGl勝ち、エリザベス女王杯制覇を果たしたのである。
既に消滅した錦野牧場の生産馬が、その後になってGlを次々と勝つ。彼らの競走成績には、そんな運命の皮肉さを感じずにはいられない。シービークロスに続いてカブラヤオーとの間からGl馬を輩出したグリーンシャトーも、もうこの世にはいない。
タマモクロス、ミヤマポピー兄妹の生産者である錦野昌章氏は、ミヤマポピーがエリザベス女王杯を勝った後、「優駿」の取材に応じている。新冠を夜逃げ同様に逃げ出した錦野氏は、ある人の保護を受けながら、東京の建築現場で働く毎日を送っていた。そんな彼は、タマモクロスとミヤマポピーの快進撃について、
「家族が私のわがままを許してくれたのが、せめてもの救いです。妻も、母も、3人の子供も私を許してくれました。タマモクロスとミヤマポピーのおかげで家族の心がひとつになったんです・・・」
と話したという。そんな錦野氏の一番の心残りは、今は亡きグリーンシャトーのことだった。牧場の主から建築作業員へと身を落とした錦野氏だったが、彼は自分の肉体を酷使し徹底的に傷つけることが、自分のために死んだグリーンシャトーへの償いになる・・・そんな思いで自分を苦しめ続けた。競馬界の掟は、敗れたものに対しては常に過酷である。
『四大陸の王者たち』
閑話休題。例年は「日本馬対外国馬」という角度から検討されることが多かった20世紀のジャパンCだが、この年の「日本馬」は、当然のことながらタマモクロス、オグリキャップに人気が集中した。もっとも、当然のことながら、外国馬たちも簡単に戦いを「タマモクロス対オグリキャップ」にさせてくれるはずもない。外国招待馬たちはヨーロッパ、オセアニア、アメリカから強豪が集結し、アジアの日本勢も加えた「四大陸決戦」との呼び声もかかった。
ジャパンCのために来日した外国招待馬たちの中では、祖国に26年ぶりとなる凱旋門賞制覇をもたらしたイタリア代表のトニービンが大将格とされていた。欧州勢では、他にインターナショナルS(英Gl)勝ち馬シェイディハイツ、サンクルー大賞典(仏Gl)勝ち馬ムーンマッドネスというメンバーが注目を集め、米国勢からは富士S(OP)を勝ったセーラムドライブ、仕上がり好調が伝えられるマイビッグボーイ、マンノウォーS(米Gl)など2つの米国Glで2着に入った実績があるペイザバトラー、オセアニアからはニュージーランドの英雄ボーンクラッシャー・・・。フランスのスカイチェイス、オーストラリアのアワーズアフターの2頭が故障で出走を回避したのは残念だったが、それを差し引いてもジャパンCならではのメンバーというに十分な顔ぶれが揃っていた。外国馬のシェイディハイツが鞍上に日本の柴田政人騎手を迎えたことも、注目を集めた。
そんな混戦模様の中で単勝オッズの動きを見ると、日本の王者・タマモクロスが320円で1番人気に支持された。トニービンが差のない390円でこれに続き、オグリキャップ、マイビッグボーイが単勝3桁配当の範囲内につけていた。ちなみに4番人気から10番人気まではことごとく外国馬が占め、日本勢はタマモクロスとオグリキャップの「二強」の様相が極めて濃かった。
『第8回ジャパンカップ』
重賞6連勝を含む8連勝で世界に挑むタマモクロスに対する日本の競馬ファンの声援は熱いもので、2番人気だった天皇賞・秋とは違って今度こそオグリキャップを上回る評価を得たタマモクロスは、まさに日の丸を背負った「日本の王者」だった。
だが、スタート直後にファンの目を集めたのは、タマモクロスではなくほかの馬だった。スタート直後の府中の観衆は、「二強」ならざる日本馬メジロデュレンの意表を衝いた逃げに、あっと驚いた。やがて柴田騎手が手綱を取るシェイディハイツが押し上げてハナを奪うと、ペースはよどみのないものへと変わっていった。
柴田騎手といえば、日本ダービーにあこがれ続けた騎手として有名であり、1993年にウイニングチケットで悲願を果たすまで・・・つまり、この当時も含めて日本ダービーは未勝利だった。だが、彼にとっては日本ダービーだけではなく、同じ府中2400mで行なわれるジャパンCにもこだわりがあった。1981年の第1回ジャパンCで日本馬のオールスターとも言うべきメンバーが、海外の二流馬たちの前に枕を並べて敗れ去り、翌年も同様の結果に終わったことで「日本馬は100年勝てない」とすら言われていた83年の第3回ジャパンCに、柴田騎手は1ヶ月前の天皇賞・秋を制したキョウエイプロミスとともに参戦した。そして、キョウエイプロミスは最後の直線でスタネーラとの激しい叩き合いに持ち込んだものの、わずかに及ばず2着に敗れ、日本馬初の連対と引き換えに、競走生命を失ったのである。その後の柴田騎手は、85年のウインザーノット、86年のミホシンザンでも勝てず、いつしかこのレースを強く意識するようになっていた。
そして、そのような思いを抱えていたのは、柴田騎手だけではない。2年前にも祖国の代表として来日しながら、レース直前に肺炎を発症して無為に帰国する憂き目を見たボーンクラッシャー陣営。前年5着の雪辱を期するムーンマッドネス陣営。いや、それだけではない。このレースに関わる人々すべての特別な思い、憧れ、誇り、不安・・・あらゆる思い入れを飲み込んで、第8回ジャパンCもまた、白熱していった。
日本馬の中心となる芦毛2頭の位置取りをみると、オグリキャップはややかかり気味に好位につけたものの、タマモクロスは後方からの競馬となった。ジャパンC初騎乗の南井騎手は、天皇賞・秋とは違って、この日は後方待機でも力を出し切れる展開になると読んでいたのか。
だが、タマモクロスの少し前には、米国から来た鹿毛の馬・・・ペイザバトラーの姿があった。南井騎手はこの時、9番人気のペイザバトラーとその鞍上C・マッキャロン騎手がその位置にいることの意味を測りかねていた。