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タマモクロス本紀~白の伝説~

『世界の勝負師』

 第3コーナーあたりから、豪快に大外を回って進出を開始したのは、タマモクロスとペイザバトラーだった。最初彼らの前にいたオグリキャップは、いつの間にか彼らの後ろにいた。

 シェイディハイツ、メジロデュレンといった先行馬が沈んでいく中で、一歩早く馬群から抜け出したのは、人気では大きく劣るペイザバトラーだった。だが、この日のペイザバトラーとマッキャロン騎手は、人気こそなかったものの、勝利に向かって綿密な方程式を組み上げていた。

 マッキャロン騎手は、来日前から日本の競馬関係者に頼んで、東京競馬場のレースVTRを片っ端から送ってもらっていた。そして、東京コースを差し、追い込みタイプの馬でも勝てるコースとみたうえで、それではどんな相手にどんな競馬をすれば勝てるかを考えていた。

 彼は、レース前にある人に対してこう漏らしたという。

「敵は、日本の芦毛馬2頭だ・・・」

 彼は、事前に天皇賞・秋のレースVTRも当然のことながら入手し、タマモクロスとオグリキャップの2頭を十分研究していた。彼が最終的に最大の敵と見定めたのはタマモクロスの方だったが、彼はタマモクロスという馬についてこう見ていた。

「この馬は、瞬発力もさることながら、何よりもとてつもない勝負根性を持っている。馬体を並ばせないようにしなければならない・・・」

 そこで彼は、中団からの競馬をしつつも第3コーナーあたりから早めのスパートをかけ、タマモクロスに馬体を併せさせないままゴールになだれ込む作戦を考えていた。

 ペイザバトラーは、彼の作戦どおりに動いてくれ、早めに先頭に立った。だが、マッキャロン騎手の予想以上の速さで、外から1頭の芦毛が迫ってくる。・・・それは、彼が最も恐れた馬にほかならなかった。

「まずい!」

 そこで彼が採った作戦は、他のレースでは類を見ない壮絶なものだった。

『14ヶ月ぶりの敗北』

 マッキャロン騎手は、とっさに鞭を持ち替えると、右鞭を飛ばしてペイザバトラーを大きく内へ切れ込ませた。ペイザバトラーのすぐ後ろには、ちょうど他の馬がいなかった。それを見極めたうえで、進路妨害をとられないように計算されつくした確信犯的な斜行だった。

 ペイザバトラーより1歩遅れて上がってきたため、まずはペイザバトラーと馬体を併せて叩き合いに持ち込むはずだったタマモクロスは、思いがけない相手の動きに、一瞬目標を失う形となった。その隙を衝いて、ペイザバトラーはもう一度伸びた。後方からはオグリキャップが、マイビッグボーイが、トニービンが上がってくる。だが、彼らには差されない。差させない。タマモクロスには、それだけの実力がある。そんなタマモクロスが、ペイザバトラーだけは捕まえきれない。馬体を併せそこなった一瞬の遅れが、縮まらない差となってタマモクロスと南井騎手に重くのしかかる。

 結局、南井騎手の奮闘むなしく、タマモクロスはペイザバトラーに半馬身及ばなかった。彼の連勝は8で止まり、重賞7連勝は幻に終わった。タマモクロスは敗れ、彼の不敗神話は、世界の前に終わりを告げた。

 ペイザバトラーを大きく内に切れ込ませたマッキャロン騎手の騎乗には、後に戒告処分が下されたものの、他の馬の進路妨害はなかったため、降着や失格などは問題にされなかった。それはすべてマッキャロン騎手の計算に基づく騎乗であって、偶然ではない。タマモクロスは、世界の名手、海の向こうの勝負師の奇策によってついに打ち負かされたのである。それは、下級条件馬から日本の王者へとのし上がったタマモクロスが喫した、実に14ヶ月ぶりの敗北だった。

『夢、果てても』

 レースの後、南井騎手は

「悔しい。でも、ここまで戦ったんだ。タマモクロスはどえらい馬だとほめてやってほしい・・・」

とタマモクロスの健闘、そしてこれまでの連勝の労をねぎらった。

「ペイザバトラーの乗り役にやられてしまいましたね。タマモクロスは、マークされていたように思う。敵は、位置取りも追い出しのタイミングも申し分なかった・・・」

 これは、小原師のコメントである。敵の策の全貌が分かった時には、既にすべてが遅かった。なお、天皇賞・秋でタマモクロスとしのぎを削ったオグリキャップは、タマモクロスからさらに遅れること1馬身4分の1という3着となった。

 とはいえ、タマモクロスが世界からの挑戦を日本馬の大将格として迎え撃ち、敗れたといえども連対、そして国内最先着を果たしたことは、十分賞賛されるに値することだった。マッキャロン騎手は、後に

「日本のチャンピオンホースたちはとても強かった」

と語っているが、これは単なる外交辞令ではなかった。敗れはしたが、この日のタマモクロスは日本最強馬と呼ばれるにふさわしい競馬をすることで、世界にも認知されたのである。

 ちなみに、約1ヶ月前の天皇賞・秋のレース後、タマモクロスのある関係者が、

「ジャパンCには錦野さんを呼びたい」

と語っていた。当時の錦野氏は、錦野牧場の譲受人が巻き込まれた裁判も勝訴するめどがたっていた。彼が牧場主として最後に送り出した馬が、日本最強馬として世界に挑む姿を見せてやりたいという、せめてもの好意だったのだろう。だが、この日の府中競馬場を埋め尽くした約11万人の観衆の中に、ただ1人の男が含まれていたかどうか・・・そのことを歴史は伝えていない。

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