タマモクロス本紀~白の伝説~
『故郷の危機』
生まれ落ちたタマモクロスの姿を見た錦野氏は、これまでに感じたことのない手応えに、身震いを抑えることができなかった。彼がそこに見出したのは、彼が抱いてきたサラブレッドの理想そのものだったからである。
「こいつは、オレの一世一代の傑作になる…!」
錦野氏は、この時はっきりと確信していた。誰もが認めるトップサイヤーであるノーザンテーストやパーソロンではなく、一時は種牡馬入りさえ危ぶまれたシービークロスの子で、こんなにいい子ができるとは。
「シービークロスの子はきっと走るんだ!」
シービークロスの種牡馬入りとシンジケート結成にあたっては、そう主張して多くの人々を説得して回った錦野氏だったが、実際に彼の期待に沿うような子馬が初年度から、それも自分の牧場で生まれたとなると、感慨深いものを感じずにはいられなかった。
錦野氏は、タマモクロスを見ながら、夢の部分だけでなく、現実の部分でも彼に期待を寄せていた。ひとつは、将来タマモクロスがターフに立ち、ダービーや天皇賞、有馬記念といった大レースを勝ちまくるという夢をかなえてくれること。そして、もうひとつの現実…。それは、夢に比べてはるかに切羽つまった形で、錦野氏を追い詰めていた。
『すべてを背負って』
当時の錦野牧場には、億を超える借金があった。もともとサラブレッドの生産には大きな資金が必要となり、借金、それもかなり大きな金額のものがあるのは珍しくないが、1975年に創業したばかりであり、規模も日高の一般的な中小牧場の域を出ない錦野牧場でこの金額の借金があるというのは、きわめて危険な領域だった。
錦野氏は、それまで強い馬を作りたい一心で繁殖牝馬の導入や設備の充実に努めてきたが、その資金の出処は、牧場を抵当に入れての借金に求めなければならなかった。しかし、馬産界の場合、カネをかけてもすぐに結果が出るとは限らない・・・というより、すぐには結果が出ない方が普通である。牧場の拡大や設備投資の際には、その費用を負担する体力に加え、その後結果が出るまでの期間を耐え抜くだけの体力も必要とされる。―そして、当時の錦野牧場は、まさにその後者が尽きようとしていた。借金をしなければ、牧場の通常の経費も捻出できない。しかし、かさむ借金によって、債権者からは厳しい視線を向けられ、新たな貸出はもう受けられない。
錦野氏は、タマモクロスに錦野牧場の救世主としての期待をかけた。この馬の良さが分かってくれる馬主に、少しでも高く買ってもらいたい。錦野氏には、決して損をさせない自信があった。タマモクロスのデビューまで持ちこたえれば、タマモクロスが稼いだ賞金の5%が生産者賞として錦野牧場に入ってくる。また、「活躍馬の故郷」として錦野牧場にも注目が集まり、生産馬をより高く買ってもらえるようになるはずだ―。
錦野氏は、「最強馬を作る」という夢を見るために、まずは現実を動かさなければならなかった。彼は、タマモクロスのデビューまで錦野牧場を存続させるため、タマモクロスを高く売らなければならなかったし、またそれができると信じていた。
『厳しい現実』
しかし、1頭の子馬に夢のみならず牧場の運命まで託さなければならなかった錦野氏は、調教師や馬主たちが日高を訪れる季節になると、現実の厳しさを思い知らされることになった。調教師や馬主たちがが提示する値段は、錦野氏が期待していた金額とは程遠いものでしかなかったのである。
調教師や馬主は、馬自身の良さは認めてくれても、最後には必ずタマモクロスの血統を問題視した。
「親父がシービークロスではね…」
シービークロス…。それは、血統水準が低い日本で生まれ育ち、その日本でもGl級を勝つことができず、種牡馬入りが危ぶまれた程度の馬でしかなかった。一流種牡馬とされる馬の子供の場合、最初は馬に目立ったものがなくても、競走年齢に達する頃には突然大きく化けることも珍しくない。逆に、三流種牡馬と呼ばれる馬の子供は、幼いころはどんなに完璧に見えても、大レースでは壁に突き当たるようにぴたりと止まってしまう。目には見えないものの厳然として存在するその違いこそが血の底力というものであり、馬産界では種牡馬の評価を分ける分水嶺となっている。
結局、タマモクロスに錦野氏が望むような買い手は現れなかった。タマモクロスの馬主となったのは、京都の美術商・三野道夫氏だったが、彼はタマモクロスを特に高く評価したわけではなく、売れ残っていた彼の2頭の兄姉と一緒に引き取ったに過ぎなかった。三野氏自身、タマモクロスについては
「3頭勝ってどれかが走れば元がとれるやろ」
という程度の認識だったという。ちなみに、三野氏が所有した2頭の兄姉は、それぞれ未出走、未勝利で終わっている。
そんな認識を反映して、タマモクロスの値段は、当時のサラブレッド全体の中でもかなりの安値に過ぎない400万円だった。錦野氏が夢見た金額と比べると、ゼロがひとつ足りない数字であり、錦野氏の落胆は深かった。
それでも、錦野氏はあきらめなかった。タマモクロスは血統がネックとなって、高く売れなかった。しかし、中央競馬には「生産者賞」というものがある。中央競馬で馬が稼いだ賞金の5%は、「生産者賞」としてその馬を生産した牧場に与えられる。錦野氏は、これに賭けた。
錦野牧場には、借金の返済を求めて債権者たちが直接足を運ぶようになっていた。こんな危機的状況にあって、錦野氏は債権者に対し、
「もう少し、待って下さい。こいつが競馬場で走るようになれば、借金は必ず返せるようになります」
と頼み込んだ。錦野氏は一生懸命だった。タマモクロスがデビューするまで牧場を維持したい。タマモクロスがデビューするまで牧場を維持すれば、牧場は救われるはずだ…。本来、そんな話は聞き飽きているはずの債権者たちだったが、錦野氏の熱情に打たれたのか圧されたのか、彼らは不満を見せながらもひとまずは引き下がっていった。
牧場が絶体絶命の危機を迎える中で、幼いタマモクロスは、そんな人間の事情など知らぬかのように、すくすくと育っていた。
『線が細い馬』
ただ、幼い頃のタマモクロスは、後の頼もしい成績から連想されるイメージとは正反対の、ひ弱な馬だった。タマモクロスを買い取って自分の勝負服で走らせることになった馬主の三野氏は、タマモクロスについて
「キュウリに割り箸を刺したような馬や」
と言っていた。また、タマモクロスを預かることになったのは栗東の小原伊佐美調教師だったが、小原師のタマモクロスに対する印象も、
「女馬のように線が細い馬やな」
というものだった。…そして、それらの評価はタマモクロスの単なるイメージではなく、確かな現実を物語っていた。入厩した直後のタマモクロスは、体質が弱くて小原厩舎の人々をやきもきさせた。さらに、精神面は非常に脆く、馬運車が大嫌いなばかりか、馬運車を見るだけですっかり怯えてしまい、ろくに飼い葉を食べなくなったという。そのあまりのひ弱さに、彼を見守る小原師は、
「こんな調子でほんまにデビューできるんかな・・・」
という不安を抱くほどだった。
そんなタマモクロスではあったが、彼に自分の夢と、牧場の命運を託した錦野氏の期待は、まったく色あせることがなかった。彼は、牧場の救世主となるはずのタマモクロスのデビューを、今か今かと待っていた…。