タマモクロス本紀~白の伝説~
『見えざる敵』
鳴尾記念、金杯と重賞を2連勝したタマモクロスは、続いて阪神大賞典(Glll)へと向かった。もともとは長らく年末に行われていた阪神大賞典だが、この年はまだ時期が春に移行して天皇賞・春(Gl)への重要なステップレースに位置づけられてからは、2年目だった。小原師がこのレースを選んだ理由はただひとつ、
「天皇賞・春に向けて長距離を走らせる」
というものだった。かつてはいけたらいい、という程度でしかなかった天皇賞・春が、この時点では既に現実の目標になっていた。
この日の出走馬には、前年の有馬記念(Gl)の覇者メジロデュレンがいた。メジロデュレンは前々年の菊花賞も勝っており、Gl2勝を挙げた堂々の実績馬である。だが、タマモクロスへの支持は単勝170円に上り、単勝390円のメジロデュレンを大きく上回っての圧倒的1番人気に推された。南井騎手、小原師らは天皇賞・春へ向けてこのレースで確勝を期し、そうした雰囲気はファンにも十分に伝わっていたのである。
しかし、「タマモクロス、優勢」という報道が大勢を占める中で、ひそかに野望を燃やす陣営もあった。単勝1660円の5番人気、ダイナカーペンター陣営である。彼らの中でも増本豊調教師などは
「少頭数だから、入着はあるかも・・・」
などとのんきなことを言っていたが、手綱を取っていた加用正騎手は、調教での手応えから馬の仕上がりのよさを存分に感じ取り、ひそかに
「勝ち負けは半々」
と自負していた。・・・そして、加用騎手とダイナカーペンターは、半年間負けなしのまま突っ走るタマモクロスの王道に、大きく立ちはだかることになる。
『窮地』
スタート直後から先手を取ったのは、ダイナカーペンターだった。最初中団からの競馬となったタマモクロスは、やがて3、4番手の好位につける。南井騎手は、レースの流れを見極めようと、そのあたりから馬を落ち着かせにかかった。
・・・だが、この時の南井騎手には大きな誤算があった。ダイナカーペンターが形成するレースは、南井騎手が想定したよりもさらに遅く、あまりに緩やかな流れになっていたのである。
この日のレースのラップは1000m地点通過が1分6秒6、2000m通過が2分11秒0というもので、特に最初の5ハロンは、1ハロン12秒台すら1度だけ、あとはすべて13秒台というものだった。しかも、それほどの遅い流れでありながら、他の馬たちは圧倒的1番人気を集めるタマモクロスに意識を奪われ、積極的に動こうとしない。
彼らの動きの中心にいたタマモクロス自身は、あまりに遅い流れに苛立っていた。馬の苛立ちを感じ取った南井騎手は、
「外に持ち出すとかかってしまう・・・」
と思い、内に入れることでなんとか馬の行く気を抑える状態だった。
ダイナカーペンターは、この年初頭に3000mの万葉Sを勝っていた。タマモクロスが持たない長距離の経験は、ダイナカーペンターに大きなアドバンテージを与えていた。出走馬の顔ぶれを見て、ある程度自分の思いのままにレースを進めることができる、と踏んでいた加用騎手だが、実際の展開は彼が期待した以上に都合のいいものであり、この日はレース中でありながら身震いをするほどだった。
『苦い勝利』
そんな超スローペースの中で直線を迎えたこの日の戦いは、やはりそのペースゆえに先行馬に有利なものとなった。直線に入ってなお十分な余力を残していたダイナカーペンターは、馬群に飲み込まれるのではなく、むしろ鋭い末脚を繰り出した。道中ずっと2番手で競馬を進めていたマルブツファーストも負けじと追撃を開始する。
だが、5番人気と4番人気が動く一方、1番人気タマモクロスは、思わぬ窮地に追い込まれた。内を衝いたタマモクロスは、前のダイナカーペンター、そしてすぐ外のマルブツファーストに進路を阻まれ、身動きが取れなくなったのである。その後、2頭の間に割り込むように馬体をねじ込んだタマモクロスだったが、余力を残したダイナカーペンター、マルブツファーストとも脚色に衰えはなく、タマモクロスに一歩も譲らない。さらに、内外を馬に挟まれたところに馬体をねじ込んだはいいものの、おかげで南井騎手がステッキを振るう空間さえなかった。これまで直線ではあっという間に後続を置き去りにし、突き放し、大差をつけてきたタマモクロスにとっては、それまで一度も経験したことがない厳しい戦いとなった。
3頭の激しい叩き合いは、どの馬も脱落することのないまま、3頭が並んだ形でゴールした。内からダイナカーペンター、タマモクロス、そしてマルブツファーストと並んでのゴールは、死闘を見守ったファンをして
「3頭同着ではないのか・・・」
と思わせるほどだった。中央競馬の歴史の中で、3頭が1着同着となった例はない。
・・・だが、写真判定の結果、「3頭1着同着」は幻に終わった。掲示板に表示されたのは、タマモクロス、ダイナカーペンターの1着同着、そしてマルブツファーストのハナ差3着という内容だったのである。もっとも、重賞での1着同着自体、当時はわずか5例目、グレード制導入以降は初めての椿事であった(2025年4月21日までの間には7例増えて12例)。3000mの長丁場を走りぬいた末にその先頭で同着が生じる確率は、天文学的な数字であった。
『課題と収穫』
レースの後、南井騎手は
「あまりにペースが遅いので、終始かかりどおしでした・・・」
と言い訳めいたコメントを発している。
「タマモクロスは鼻が白い分、写真で損をしたんじゃないかな」
などと慰められたりもしたという。そんな南井騎手の騎乗に対しては、ファンからも不満の声もなかったわけではなく、この日のレースに対する一般的な評価は、
「タマモクロスが意外に手間取った」
というものだった。ダイナカーペンター、マルブツファーストに手こずった挙句、ダイナカーペンターに同着に持ち込まれてしまったという結果は、それまでの圧倒的な勝ちっぷりからいえば、不満の声があがっても不思議ではない。
しかし、ダイナカーペンターと加用騎手の騎乗が完璧に「はまった」この日の展開は、タマモクロスにとっては最悪に近いものだった。タマモクロスは、そんな流れの中でも実力を発揮し、同着に持ち込んだ、ということもできる。タマモクロスに次ぐ人気を集めていたメジロデュレンは、実力を発揮できないまま4着に敗れている。それに対し、それまで後方一気の競馬で結果を残してきたタマモクロスが、かかりながらも好位からの競馬もできること、様々な展開に自在に対応できることを証明したという意味では、この日のレースには彼らなりの意義と収穫もあったというべきだろう。
こうしてタマモクロスは、将来への課題を残しながらも、前哨戦を終えた。この年の天皇賞・春に向けた他の前哨戦をみると、日経賞(Gll)は牝馬のメジロフルマー、産経大阪杯(Gll)では距離適性に限界があり、天皇賞・春は回避するといわれていたフレッシュボイスが勝っている。これといった有力馬がなかなか現れない中で、小原師はタマモクロスに厳しい調教をかけ続け、阪神大賞典を上回る仕上がりを求めた。それが、彼が阪神大賞典から見出した課題を解消し、収穫を「次」に生かすための布石だったのだろうか。関係者、ファンの期待と不安に見守られ、タマモクロスが迎える大舞台は、いよいよ目前に迫っていた・・・。