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1980年代 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Mon, 21 Apr 2025 12:28:38 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 タマモクロス本紀~白の伝説~ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/#respond Mon, 21 Apr 2025 12:27:48 +0000 https://retsuden.com/?p=410 1984年5月23日生。2003年4月10日死亡。牡。芦毛。錦野牧場(新冠)産。
父シービークロス、母グリーンシャトー(母父シャトーゲイ)。小原伊佐美厩舎(栗東)。
通算成績は18戦9勝(旧4-5歳時)。1988年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1988年天皇賞春秋(Gl)制覇、1988年宝塚記念、1988年阪神大賞典(Gll)、1988年鳴尾記念(Gll)、1988年京都金杯(Glll)。

第1章:「白い十字架」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…

『昭和最後の名馬』

 西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。

 時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。

 だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。

 日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。

 名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。

『白い稲妻』

 タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。

 名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。

 もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。

「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」

 シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。

 もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。

 しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。

『魅せられて』

 現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。

「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」

 錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。

 錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。

『予感に賭けた男』

 もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。

 初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、

「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」

「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」

 そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。

 しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。

 グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、

「この馬の子供は走る!」

と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。

 1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。

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シリウスシンボリ列伝 ~漂泊の天狼星~ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/#respond Sat, 15 Apr 2023 14:03:23 +0000 https://retsuden.com/?p=306 『悲しき天狼星』

 冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。

 かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。

 シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。

 さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。

 ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。

 確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。

『不世出のホースマン』

 シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。

 シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。

 和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。

 しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。

 当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、

「和田に会いたい」

とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。

 和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。

 シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。

『シンボリの血』

 シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。

 モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。

 和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。

 もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。

 このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。

 しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。

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サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/#respond Sun, 02 Apr 2023 17:52:46 +0000 https://retsuden.com/?p=293  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『雨に泣いたサラブレッド』

 全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。

 そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。

 栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。

 その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。

 だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、

「フォアボールを出してしまうかもしれない」

と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは

「お前の好きな球を投げろ」

と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。

 試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、

「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」

と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で

「わたしは雨を愛した詩人だ
 だがわたしは江川投手を愛する故に
 この日から雨がきらいになった
 わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」

と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。

 野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。

 サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。

『星のふる里』

 サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。

 サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。

 サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が

「どんな馬だろう」

と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、

「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」

と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。

 そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。

 谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。

『桜の星の下で』

 谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。

 兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、

「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」

などと話し合っていたという。

 ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、

「サクラセダンの子が生まれた」

と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。

 サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。

 谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。

「この馬はきっと走る!」

 彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。

 全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。

 とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。

 だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。

「3000万円!」

 ・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。

 こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。

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https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/feed/ 0
スクラムダイナ列伝~夢の途中~ https://retsuden.com/horse_information/2023/05/338/ https://retsuden.com/horse_information/2023/05/338/#respond Sat, 04 Mar 2023 19:45:13 +0000 https://retsuden.com/?p=338  1982年3月21日生。牡。鹿毛。社台ファーム(白老)産。
 父ディクタス、母シャダイギャラント(母父ボールドアンドエイブル)。矢野進厩舎(美浦)。
 通算成績は、6戦3勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、朝日杯3歳S(Gl)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『ダービーを勝つということ』

 日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく

「ダービーを勝つことが夢だった」

というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。

 しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。

 もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。

 かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。

 彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。

『故郷と一族の源流』

 1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。

 スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。

 社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。

 種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。

 しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に

「牧場が潰れるんじゃないか」

と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。

 スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。

『血のルーツ』

 ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。

 だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。

 ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。

 ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。

 社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も

「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」

ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。

『社台の暴れん坊』

 ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。

 そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。

 スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。 

 もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、

「これ、くれよ」

と場長に申し出た。

 矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。

 スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。

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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~ https://retsuden.com/horse_information/2022/27/396/ https://retsuden.com/horse_information/2022/27/396/#respond Sat, 27 Aug 2022 14:39:35 +0000 https://retsuden.com/?p=396 1987年4月10日生。2008年12月12日死亡。牡。黒鹿毛。清水牧場(平取)産。
父ビゼンニシキ、母ネヴァーイチバン(母父ネヴァービート)。梅田康雄厩舎(栗東)。
通算成績は、35戦10勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、マイルCS(Gl)連覇、マイラーズC(Gll)連覇、毎日王冠(Gll)、高松宮杯(Gll)、クリスタルC(Glll)、葵S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『嵐』

 サラブレッドや競馬を語る場合、よく「あの馬は血統がいいから走る」「あの馬は血統が悪いから勝てない」という言い方がされることがある。現存するサラブレッドの父系をたどるとすべて「三大始祖」のいずれかにたどりつく閉鎖的な血しか持たないサラブレッドの世界は、それゆえに血統をこの上なく重視し、その価値観を究極まで推し進めたところで発展してきた。

 本来ならば、サラブレッド自体が限られた血統しか持たない以上、「血統がいい」「血統が悪い」といっても、その違いはそう大きなものではないはずである。「良血」といわれる馬と「雑草」といわれる馬の血統表を見比べてみると、2~3代も遡れば同じ馬に行き着く・・・ということは、珍しいことではない。そうであるにもかかわらず、実際には「良血」といわれる馬は高値がついて大切にされる反面、「雑草」といわれる馬は、捨て値で売られてばかにされ、やがてその血統自体が滅び去っていくことが多いのは、非常に悲しいことである。

 だが、時にそうした運命に正面から戦いを挑む「雑草」が現れるのも競馬の面白さと魅力である。1991年、92年のマイルCS(Gl)を連覇した名マイラー・ダイタクヘリオスは、そんな競馬の面白さ、魅力を体現した1頭に数えることができる。

 ダイタクヘリオスという馬を語る場合、「雑草」とか「マイルCS連覇」とか「名マイラー」といった一般的な言葉を並べただけでは、そのすべてを表すことはできない。ダイタクヘリオスの特色を並べてみると、他の馬たちではとても真似できないヘンなものばかりである。1番人気で重賞を勝ったことがない。それどころか彼が古馬になってから出走した重賞では、彼以外の馬も含めて、一度も1番人気の馬が勝ったことがない。レース直前の併せ馬では、Gl2勝馬でありながら、平気で未勝利馬に大差をつけられる。パドックで暴れれば暴れるほどレースでは強く、静かにしているときは全然ダメ。負ける時は、直線で笑いながら沈んでいく・・・。ひとつだけでも十分面白いのに、これだけ重なればもはや奇跡である。そんな面白い馬が、いざレースになると素晴らしい先行力を見せ、さらに第4コーナーから凄まじいダッシュをかけて後続を突き放すとそのまま粘り切ってしまうのだから、そんな競馬を見せられるファンがしびれないはずがない。嵐のような激しさでターフを荒らし回ったダイタクヘリオスは、伝説の時代ならいざ知らず、日本の現代競馬においては、ほぼ間違いなく有数の個性派ということができるだろう。

 こうして圧倒的な個性をひっさげてマイル路線に乗り込む彼の前に立ちふさがったのが、華のような華麗さでマイル戦線に輝いた同年齢の名マイラー・ダイイルビーだった。ダイイチルビーは名牝マイリーの血を引く「華麗なる一族」の出身で、さらに母がハギノトップレディ、父がトウショウボーイという当時の日本ではこれ以上望みようがないという内国産の粋を集めた血統を持っていた。生まれながらに人々の注目という名の重圧を背負った彼女は、直線に入ってからの馬群を切り裂くような鋭い切れ味を持ち味としており、ダイタクヘリオスとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていったのである。

 今回は、マイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたダイタクヘリオスの軌跡を語ってみたい。

『血の系譜』

 ダイタクヘリオスは、1987年4月10日、平取の清水牧場で産声を上げた。父がスプリングS(Gll)、NHK杯(Gll)などを勝ったビゼンニシキ、母が未出走のネヴァーイチバンという血統は、決して目立つものではない。後にダイタクヘリオスの血統は、ライバルのダイイチルビーと対比してたびたび「雑草」といわれるようになったが、それもあながち理由のないことではない。

 ただ、当時の日本競馬においては、ダイイチルビーの血統と比較すると、たいていの内国産血統が「雑草」になってしまうことも事実である。また、ダイタクヘリオスの牝系を見ると、華やかさにおいてはダイイチルビーの一族に遠く及ばないとはいえ、長い歴史と堅実な成績という意味では決して恥じるべきものでなかったことについては、注意しておく必要がある。

 ダイタクヘリオスの牝系は、1952年に競走馬として輸入された外国産馬スタイルパッチに遡る。スタイルパッチは短距離ハンデをはじめ競走馬として41戦9勝の戦績を残し、繁殖牝馬としても期待されていた。

 繁殖牝馬としてのスタイルパッチは明らかに「男腹」で、死産を除く11頭の産駒のうち、牝馬はわずかに3頭だけだった。ダイタクヘリオスは、この3姉妹の「長女」にあたるミスナンバイチバンの孫にあたる。ミスナンバイチバンは26戦4勝の戦績を残し、そこそこの期待とともに繁殖入りを果たした。ちなみにその2頭の妹を見ても、シギサンは4勝、リンエイは南関東競馬とはいえ10勝を挙げている。牡馬も8頭のうち6頭が勝ち星を挙げており、スタイルパッチの繁殖成績は、目立たぬながらもなかなかのものだったと言えよう。

 だが、スタイルパッチの血の真価が発揮されたのは、子の代ではなく孫、ひ孫の代に入ってからだった。まず1975年、ミスナンバイチバンの長女カブラヤの子であるカブラヤオーが、歴史上類を見ない逃げで皐月賞、日本ダービーの二冠を奪取した。カブラヤオーの名前は、通算13戦11勝の二冠馬という記録以上に、ついていった馬が次々と故障したという悪魔的な逃げの記憶が語り継がれている。

 カブラヤオーの鮮烈な登場によって再び脚光を浴びたスタイルパッチ系からは、その後79年にエリザベス女王杯を勝ったカブラヤオーの妹ミスカブラヤ、そして82年に7戦6勝でスプリングSに臨み、「82年クラシックの主役」と謳われながらもこのレースで故障し、そのままターフを去った悲運の大器サルノキング・・・と次々強豪が輩出した。ちなみに、このサルノキングが敗れたスプリングSは、それまで逃げで勝ってきたサルノキングがなぜか突然最後方待機策をとったこと、そしてそのスプリングSを勝ったのが「華麗なる一族」に属するやはり逃げ馬のハギノカムイオーだったこと、さらにハギノカムイオーの馬主がレース直前にサルノキングの権利を半分買い取っていたことから、一部では

「血統的に、勝てば高値で売れるハギノカムイオーを勝たせるための陰謀ではないか」

という説まで流れた。それはさておき、このレースの後皐月賞の本命としてクラシックへと進んだハギノカムイオーに対し、このレースを最後に故障によってターフを去ったサルノキングは、種牡馬入りこそしたものの、実績以前に最低限の人気すら集められず、最後は用途変更によって行方不明になるという運命をたどった。あまりにも対照的な明暗に分かれた2頭の物語は、ダイタクヘリオスの一族とダイイチルビーの一族の、最も古い因縁である。

『脚光の狭間で』

 閑話休題。こうして次々と活躍馬が出たことによって、スタイルパッチ系の牝馬への注目度は当然高まるはずだった。・・・だが、そうした一族の栄光への余光は、ダイタクヘリオスの母であるネヴァーイチバンのところまでは回ってこなかった。

 スタイルパッチ系自体ミスナンバイチバンをはじめとして多産の系統だったが、これは希少価値の面からは見劣りするものだった。また、スタイルパッチ系の活躍馬であるサルノキングはいとこ、カブラヤオー、ミスカブラヤ兄妹は甥姪にあたり、同族とはいっても、ネヴァーイチバンからしてみれば、その血脈は、微妙にずれたところにあった。

 それらに加えて、ネヴァーイチバン自身も、生まれつき両前脚が曲がっている奇形があった。彼女が未出走に終わったのもその欠陥ゆえだったし、彼女の初期の産駒は、母の脚の形まで受け継いでしまい、ろくに走ることができなかったのである。

 ネヴァーイチバンの初期の産駒は、3番子までがすべて未出走か未勝利に終わり、4番子のエルギーイチバンが初めて勝ち星を挙げたと思ったら、それは北関東競馬での結果だった。繁殖牝馬としてこのような結果が出つつあった情勢の中では、いくら同族が活躍しても、彼女まで脚光が及ぶことはない。ネヴァーイチバンは、一族の活躍とはまったく無縁のままに、ある牧場でひっそりと繁殖生活を送っていた。

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スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~ https://retsuden.com/horse_information/2022/04/353/ https://retsuden.com/horse_information/2022/04/353/#respond Wed, 04 May 2022 12:15:11 +0000 https://retsuden.com/?p=353 1985年5月27日生。牡。鹿毛。柏台牧場(門別)産。
父ノーアテンション、母ナイスデイ(母父インターメゾ)。伊藤修司厩舎(栗東)。
通算成績は、16戦8勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞秋・春(Gl)、菊花賞(Gl)、京都大賞典(Gll)連覇、産経大阪杯(Gll)、すみれ賞(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『平成三強時代』

 日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
 
 しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
 
 しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
 
 そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。

『水源』

 スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
 
 スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。

 そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。

『菊を勝つために』

 しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。

 そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。

「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
 
 気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
 
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
 
と、これまた大真面目に答えたという。

 ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。

 インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。

『いきなりの危機』

 しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
 
 毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
 
 庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。

 こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。

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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~ https://retsuden.com/age/1980s/2022/19/529/ https://retsuden.com/age/1980s/2022/19/529/#respond Tue, 19 Apr 2022 14:39:19 +0000 https://retsuden.com/?p=529  1985年4月11日生。2014年3月28日死亡。牡。栗毛。宮村牧場(浦河)産。
 父ヤマニンスキー、母ツルミスター(母父イエローゴッド)。荻野光男厩舎(栗東)。
 通算成績は、23戦8勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、皐月賞(Gl)、
 産経大阪杯(Gll)、鳴尾記念(Gll)、京都新聞杯(Gll)、UHB杯(OP)。 

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『平成三強時代の中で』

 競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。

 強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。

 その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。

 もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。

 しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。

 ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。

 そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。

『明治男の意地』

 ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。

 そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。

 ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から

「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」

とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。

『セピア色の残照』

 このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。

 そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、

「なにかいいことがあるかもしれん」

ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。

『血統の深遠』

 荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。

 ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。

 やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。

 しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。

 ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。

 種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。

 そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。

 ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、

「忘れた」

と答えている。なんとも人を喰った話である。

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https://retsuden.com/age/1980s/2022/19/529/feed/ 0
ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/#respond Mon, 14 Feb 2022 16:54:30 +0000 https://retsuden.com/?p=237 1886年4月10日生。2016年8月27日死亡。牡。芦毛。栗山牧場(茨城)産。
父シーホーク、母クリノアイバー(母父グレートオンワード)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は、11戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『芦毛の時代』

 かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに、日本競馬においては、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬がほとんどいなかった時代もあった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣っているわけではないことは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。

 芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったから、というべきだろう。今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割弱と、それほど多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。

 かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給するという建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では、優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給に資するため、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、その必要性を説くことによって、軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。

 サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、遠目からでも目立つ馬体ゆえに、軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。

 芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。

 しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていったことも、少なくなかったことだろう。馬の才能は、それを見抜く人がいない限り、決して生かされることはない。

 1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏したことで解体の道をたどり、戦後の日本は平和憲法のもと生まれ変わり、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていった。…しかし、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見まで、一朝一夕で消滅することはなかった。

 競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けた。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。

 迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういう迷信を気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。20世紀の競馬界において

「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」

「ジャパンCも1番人気が勝てない」

という迷信がどれほど語られてきたか。そして、今日においても

「青葉賞に出走した馬は日本ダービーでは用なし」

「皐月賞を勝っていない日本ダービー馬は、菊花賞を勝てない」

・・・そんな理屈では説明がつかない迷信が、「ジンクス」という形ではあっても、単に公然と語られるばかりか、馬券の検討にも大きな影響を与えていることは、公知の事実なのだから。

 このように競馬界に確かに存在していた「芦毛馬は走らない」という迷信が、明確な形で打ち破られたのは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛の名馬が次々と現れて多くのGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、芦毛の強豪が定期的に現れるようになり、さらに近年は白毛の強豪まで現れるようになった。こうした時代の中で、芦毛馬の競走能力に対する偏見は、いまや完全になくなったと言っていい。

 このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。

 もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。これほどの名馬たちですら手が届かなかったことからすれば、そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。

 もしその馬が存在しなかったとすれば、2021年まで経ってなお、「芦毛馬は日本ダービーを勝てない」ままであり、「芦毛馬は走らない」という迷信の残滓がジンクスと名を変えて、生き残っていたことだろう。そのジンクスが生き残っていた場合、日本ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、日本ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見落とす理由となっていたかもしれない。

『ダービー馬の周辺』

 ウィナーズサークルの父であり、彼に芦毛という毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えた種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けて日本ダービー馬の父となっている。

 シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー血統でもあった。

 競走馬としては10戦1勝とさほどのものではなかったが、繁殖牝馬として栗山牧場に帰ってきて、なかなかの産駒を出していたクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。

 栗山牧場は茨城にあるため、周囲に良質な種牡馬がほとんどいない。そこで、交配の際には繁殖牝馬を日を決めて北海道へ連れていき、種付けしていたのだが、この年はもともと種付け予定だった種牡馬が急死したため、困って松山師に相談した。すると、松山師からは、かつて彼の父親である松山吉三郎師が管理したモンテプリンス・モンテファスト兄弟を輩出したシーホークを勧められた。そこで、栗山牧場の人々は、クリノアイバーを北海道へ連れていき、シーホークとの交配を実現させた。こうして生まれたのが、後のウィナーズサークルだった。

『神の馬』

 クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。

 普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、それまでは、年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは、なぜか生まれたときから真っ白だった。

 牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。

「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「いや、神の馬かもしれないぞ」

 皆でそう噂しあったという。

『いずれ立つべき場所』

 やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕を高く評価されていた。

 松山師は、ウィナーズサークルの1歳上の半兄にあたるクリノテイオーも管理し、若葉賞(OP)を含めて3勝を挙げ、日本ダービー(Gl)出走も果たしている(サクラチヨノオーの14着)。そんな半兄を超える馬に育ててほしい・・・そんな思いを込めて、栗山氏はウィナーズサークルを松山師に託し、さらには命名も任せてみたところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。

 ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所で、競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。

 ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに「評判の期待馬」として有名になっていった。血統的にも距離が延びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から

「ダービーを意識して育てよう」

と思ったという。

 松山師がウィナーズサークルのデビュー戦での北海道遠征を避け、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後は休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。

『謎の気性難』

 しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、突然騎手に反抗し始める。そして、騎手と喧嘩しているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬から2秒以上離された4着に惨敗してしまった。

 ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。

 郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。

 郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。

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タレンティドガール列伝 ~秋の淀に咲いた才媛~ https://retsuden.com/horse_information/2022/13/415/ https://retsuden.com/horse_information/2022/13/415/#respond Sun, 13 Feb 2022 11:30:19 +0000 https://retsuden.com/?p=415  1984年4月27日生。2008年11月13日死亡。牝。鹿毛。千代田牧場(静内)産。
 父リマンド、母チヨダマサコ(母父ラバージョン)。栗田博憲厩舎(美浦)
 通算成績は、11戦4勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍は、エリザベス女王杯(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『美女を撃った才媛』

 かつて、ある名馬を管理した調教師が、こんな発言をしたことがある。

「競馬に絶対はない、でも、この馬には絶対がある」

 実際には、彼が「絶対」と称えた名馬もまた、生涯のうちに予期せぬ敗北を幾度か喫している。競馬に「絶対」が存在しうるとすれば、その瞬間、競馬は存在意義を失う。だからこそ、ホースマンたちはその時代に「絶対」と思われる存在を見出した場合、「絶対」の存在を否定し、競馬の存在意義を証明するために死力を尽くす。そうした心ある人々の思いと戦いが、競馬の歴史と伝統を築いてきた。

 1987年牝馬三冠戦線は、ありうべからざる「絶対」の名牝を中心に回っていた。マックスビューティ・・・「究極美」という意味の名前を持つ彼女は、桜花賞を8馬身差、オークスを2馬身半差で制しただけでなく、その他のレースも含めて8連勝を飾り、ついに牝馬三冠の最終関門・エリザベス女王杯(Gl)へと駒を進めた。前年にメジロラモーヌが史上初の牝馬三冠を達成したばかりだったが、最後の戦いを見守る当時のファンのほとんどは、マックスビューティが2年連続の快挙を達成することを望み、また確信していた。

 ところが、そんな彼らの目の前で、「絶対」は崩れ去った。彼らが信じた未来を突き崩し、歴史を未知へと誘い込むその鋭い末脚は、スタンドを包む歓声を悲鳴に変えた。「絶対」と言われた究極美を牝馬三冠の最終章で打ち破り、その野望を阻止したのは、くしくも「才媛」の名を持つタレンティドガールだった。それは、多くの人々の思いを背負ったサラブレッドが、競馬に「絶対」がないことを証明し、自らの手で未来をつくりあげた瞬間だった。

『母は偉大なり』

 タレンティドガールは、1984年4月27日、静内の名門牧場・千代田牧場で生まれた。千代田牧場は、タレンティドガールの誕生以前にも、1975年の天皇賞馬イチフジイサミ、82年のエリザベス女王杯馬ビクトリアクラウンらを輩出した実績によって競馬界にその名を知られた名門牧場で、21世紀になってからも多数のGl馬を送り出している。

 タレンティドガールの父は、ダービー馬オペックホースや南関東三冠馬サンオーイを輩出した名種牡馬リマンド、母は1勝馬チヨダマサコという血統になる。チヨダマサコの牝系は、遡っていくと小岩井農場、そして日本競馬史の誇る名牝ビューチフルドリーマーに行き着く古い歴史を持っている。

 そんな彼女の系統が千代田牧場へやって来たのは、タレンティドガールの曾祖母にあたるワールドハヤブサの代からだった。

 しかし、千代田牧場の高い期待を集めたワールドハヤブサとその子孫たちからは、なかなか活躍馬が現れなかった。ワールドハヤブサの長女・ミスオーハヤブサは不出走のまま繁殖入りし、その弟妹たちからも、これといった馬は出なかった。

 千代田牧場は、オーナーブリーダー兼マーケットブリーダーという経営形態をとっている。日本の馬産の大多数を占める専業マーケットブリーダーの場合、馬を馬主に売却した代金に収入を依存せざるを得ないことから、馬主に高く買ってもらえる牡馬が生まれると喜び、逆に値段が安くなる牝馬は嫌う傾向がある。しかし、マーケットブリーダーだけでなくオーナーブリーダーも兼ねている千代田牧場の場合、将来牧場に残したい牝馬については、売却するのではなく自己名義で所有する方針をとっている。牝馬は大きな賞金を稼いでくれる可能性は低いものの、競走馬としてもたらす賞金よりも、引退後に繁殖牝馬としてもたらしてくれる高価値の産駒による売上増を望むのが、千代田牧場の伝統的な経営方針とされてきた。

 ただ、そうは言っても、自己名義の持ち馬にした牝馬があまり走らないと、その牝馬が将来生む子馬の価値が上がってこない。それに、自分たちの意気、従業員たちの士気も、高まらない。

 当時の千代田牧場の当主・飯田正氏の妻である政子夫人は、持ち馬たちが走らないことを気にして、ミスオーハヤブサの初子が生まれた時、夫に

「この馬には、走りそうな名前をつけてくださいよ」

と頼んだ。

 すると、飯田氏は何を考えたのか、その子馬に「チヨダマサコ」と名づけてしまった。由来は読んで字の如く、「千代田・政子」・・・。政子夫人は怒ったというが、その名前は変更されることなく、チヨダマサコはそのまま競馬場でデビューすることになった。ちなみに、後になぜそんな名前をつけたのか聞かれた正氏は、

「お尻が大きいところが似ていたから」

と答えているが、本気なのか冗談なのかは判然としない。

『名前に込めた願い』

 さて、チヨダマサコは、デビュー戦を勝ったものの、その後2勝目をあげることができないままターフを去っていった。飯田氏は、やはり夫人に責められたのであろうか。

 しかし、チヨダマサコと入れ替わるようにデビューしたのが、彼女より1歳年下にあたるビクトリアクラウンだった。それまで期待に応える産駒を出せなかったワールドハヤブサの7番子、つまりチヨダマサコの叔母にあたるビクトリアクラウンは、デビュー戦こそ凡走したものの、その後怒涛の4連勝を飾り、「東の女傑」として春のクラシックの有力候補へとのし上がった。その後、脚部不安を発症してそれらのレースは棒に振った彼女だったが、8ヵ月後に復帰してクイーンS優勝、牝馬東京タイムズ杯2着を経て、エリザベス女王杯でついに同世代の牝馬の頂点に立ったのである。

 ビクトリアクラウンがエリザベス女王杯を制したことで、忘れられかけていたワールドハヤブサの一族は、再びその価値を注目されるようになった。そうなってくると、チヨダマサコに対する期待もいやおうなしに高まってくる。

 毎年サンプリンス、リィフォーといった種牡馬と交配されていたチヨダマサコが、3年目にリマンドと交配されて生まれたのがタレンティドガールである。彼女が生まれたのは、ビクトリアクラウンによるエリザベス女王杯制覇の1年半後のことだった。

 彼女に与えられた「タレンティドガール」という馬名には、千代田牧場の人々の特別な思いがこめられている。飯田夫妻の間に生まれた子供たちのうち三女は、若くして亡くなっていた。娘の夭折を深く惜しみ、悲しんでいた夫妻は、妻と同じ名を持つチヨダマサコの初子の牝馬に「スリードーター」と名付け、さらに1頭の牡馬を挟んで生まれた牝馬にも、彼女にちなんだ名前をつけることにした。

 タレンティドガールの馬名申請時は、最初、三女の愛称だった「ロコ」で申請したものの、なぜか申請が通らなかったという。そこで、才気煥発だった娘のために「タレンティドガール」で再申請したところ、今度は申請が通って馬名登録された。このように、千代田牧場の人々が彼女に寄せる思い入れは、ただごとではなかった。

『交差する出会い』

 千代田牧場の人々の期待を一身に受けて順調に成長したタレンティドガールは、やがて栗田博憲厩舎からデビューすることになった。

 菅原泰夫騎手を鞍上に迎えて臨んだタレンティドガールの新馬戦は、デビュー戦、折り返し戦とも2着に敗れるというほろ苦いものになった。彼女の初勝利は、通算3戦目となる未勝利戦でのことである。

 ちなみに、その時タレンティドガールの手綱を取ったのは、後にマックスビューティの主戦騎手となる田原成貴騎手だった。当時の田原騎手は、まだマックスビューティに騎乗しておらず、タレンティドガールの初勝利の翌週にマックスビューティ陣営から騎乗依頼を受け、バイオレットS(OP)・・・そして牝馬三冠戦線へと参戦していくことになる。

 もっとも、当時既にオープン入りを果たし、「大器」との呼び声も高かったマックスビューティと違って、タレンティドガールはまだ初勝利を挙げたばかりの1勝馬の身だった。クラシックすら視界に入ってきていない彼女に、83年、84年の2度にわたって全国リーディングに輝いた騎手を鞍上へ留めおくことができるはずもない。タレンティドガールとともに戦う騎手は、通算4戦目となる次走の桃花賞(400万下)では、またもや変わっていた。

 蛯沢誠治騎手・・・それが、この日タレンティドガールと初めてコンビを組んだ騎手の名前だった。彼こそが、その後タレンティドガールの主戦騎手として戦いをともにする男である。

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マックスビューティ列伝・編集後記 https://retsuden.com/editors_note/2022/11/803/ https://retsuden.com/editors_note/2022/11/803/#respond Thu, 10 Feb 2022 17:01:12 +0000 https://retsuden.com/?p=803 突然思い立ってのマックスビューティ列伝改稿。文中で、生涯一度も対決していない1年前の三冠牝馬メジロラモーヌの名前が何度も出てきますが、別に、メジロラモーヌが近日ウマ娘化されそうだから・・・というわけではありません。レトロ脳には「史上唯一の三冠牝馬・・・ではなくなってしまったメジロラモーヌ」というのは違和感が半端ないのですが、21世紀の現実はどうしようもないので、「20世紀唯一の三冠牝馬」とすることで、自分の中での折り合いをつけました。

副題「究極美伝説」には、たぶん元ネタは特になし。美女を称えるのに、美をもってしたがるのは、もはや私の本能、習性なのです。報われたことは、皆無ですが。擬人化イメージは、周りをバラが飛んでるペイオース。最後にやらかしたり、心が折れたらなかなか立ち直れないところも含めて。

・・・閑話休題。そんなマックスビューティの物語は、かなりシンプルな構成で、「誕生→牝馬三冠の栄光→最終関門での敗北→それから・・・(超ダイジェスト)」です。実際、彼女の物語は、他の構成が非常に思いつきにくい。「(略)長い低迷→オパールSでの復活!→それから・・・」に持っていくには、牝馬三冠での栄光が強烈すぎて、オパールS(OP)では不十分すぎるのです。

メジロラモーヌもそうなのですが、4歳(現3歳)有馬記念以降の戦績がアレなので、マックスビューティの強さを理解してもらえるのか・・・ひいては20世紀の競馬の常識が、今のファンにどれほど共有されているんだろうか・・・というのが、とても不安なものを感じていたりします。チューリップ賞が重賞でなかったという程度は調べればわかるとしても、中長距離で牡馬をなで斬りにするアーモンドアイとか、クロノジェネシスとか、あんな化け物、普通はいないんだよ???と涙目になってしまいそうな昨今の競馬情勢。80年代のメジロラモーヌ、マックスビューティとか、90年代のヒシアマゾン、エアグルーヴとか、あの時代の中長距離戦線における牝馬の位置づけは、感じていない人にはものすごく説明が難しいし、説明できても伝えようとしたことの100%は絶対に伝わっていないことでしょう。だからこそ、今の感覚と昔の人々の感覚のズレに気づき、それを楽しめる逸材を発掘するために、列伝はネットのどこかに(放置でも)維持しておくべきなのです。

そんな究極美人の偉大さを後世に残すためには、メジロラモーヌとあわせてウマ娘化してほしいし、「マヤノ」と同じ中の?人なので馬主的にはクリアできるはずなのですが、他のウマ娘化された馬との関係の薄さが大いなるネックです。もしや、やたら二冠牝馬と絡んでいる「ビューティー安心沢」の正体が彼女だなんてオチではあるまいな?あと、話題のタイテエムが、この列伝で出てきているとは思わなかった。。。

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