(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
2011年5月15日、新潟競馬場第4レースの3歳未勝利戦は、競馬ファンから特別な感傷に満ちた注目を集める一戦となった。それは、かつて日本競馬を代表するオーナーブリーダーとして知られた「メジロ軍団」の所属馬が走る最後のレースだった。
日本競馬のオールドファンにとって、「メジロ」という響きは特別な意味を持つ。
「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」
という言葉があまりにも有名な北野豊吉氏によって率いられ、ごく初期の例外を除いて「メジロ」の名を馬名に冠したこの軍団は、約50年間の歴史の中で、天皇賞7勝をはじめとする輝かしい栄光をいくつも手にしたが、そんな歴史ある軍団も、豊吉氏やその妻であるミヤ氏の死による代替わりと時代の流れによって、その勢いはいつしか衰え、21世紀に入ってからは、Glはおろか、重賞を勝つ機会も少なくなっていた。そして、「メジロ軍団」の中核法人である「メジロ牧場」、そして軍団そのものの解散が発表され、その所有馬が走る最後のレースがこの日だった。
「メジロ軍団」最後のレースに出走したメジロコウミョウは、単勝980円の5番人気と、前評判こそ決して高くはなかったものの、レースではその評価を覆して優勝し、名門の有終の美を飾った。いつもの未勝利戦とは違う歓声と興奮に包まれたこのレースをもって、「メジロ軍団」の輝かしい歴史の幕は、静かに下ろされた。
「メジロ軍団」の最後の勝利は、前記の通り2011年5月15日の3歳未勝利戦だったが、最後のGl勝利は、2000年の朝日杯3歳S(Gl)でのメジロベイリーである。メジロ軍団最後の天皇賞馬メジロブライトの弟として生を享けたメジロベイリーは、兄の「晩成のステイヤー」というイメージに反して旧3歳Glを制したことで、翌年のクラシック戦線、そしてそれ以降の活躍が期待されていた。その期待は、結果としてはかなわなかったものの、メジロベイリーこそが栄光ある「メジロ軍団」のGlにおける最後の光芒となったのである。
1998年5月30日、北海道・羊蹄山のふもとにあるメジロ牧場で、1頭の黒鹿毛の牡馬が産声をあげた。やがて20世紀最後の朝日杯3歳Sの覇者、そして「メジロ軍団」最後のGl馬へと駆け上る、後のメジロベイリーである。
メジロベイリーの母であるレールデュタンが競走馬として残した22戦4勝という戦績は、平凡とは言えない。・・・ただ、重賞は京都牝馬特別(Glll)に1度出走しただけで着順も5着というと、特筆するべきとまででもないかもしれない。現役時代はメジロ軍団と特に関係がなく、それゆえに馬名にも「メジロ」の冠名を持たない彼女は、マルゼンスキーを父に持つ血統を買われてメジロ牧場へ迎えられ、繁殖牝馬となった。
しかし、繁殖牝馬となったレールデュタンは、まず第3仔のメジロモネ(父モガミ)がオープン級へ出世したことで注目を集め、さらに第6仔のメジロブライト(父メジロライアン)が97年クラシック戦線の主役へと躍り出たことで、その存在感を一気に高めた。個性派世代として名高い97年クラシック世代で常に中心的地位を張り続けたメジロブライトは、三冠レースでそれぞれ1番人気、1番人気、2番人気に推されながら、4着、3着、3着にとどまって無冠に終わったが、菊花賞が終わった後は中長距離Gllを3連勝し、その勢いで挑んだ天皇賞・春(Gl)では、「メジロ軍団」にとっては7回目の天皇賞制覇、そして自身にとっては悲願のGl制覇を果たした。いつも人気を背負っては不器用な追い込みで栄光に迫りながら、最後は惜しくも敗れることを繰り返してきたメジロブライトが日本競馬の頂点に立ったこのレースは、
「羊蹄山のふもとに春!」
という実況が生まれたことでも知られている。
レールデュタンの第9仔となるメジロベイリーが羊蹄山のふもとのメジロ牧場で生まれたのは、4歳上の半兄メジロブライトの戴冠から約1ヶ月後のことだった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。
フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、
「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」
という方が、よほど強かった。
そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。
だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。
第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。
競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。
1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。
実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。
もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。
そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。
日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、
「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」
と語っている。
勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。
閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。
フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。
ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。
その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。
しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。
これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。
地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。
そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。
そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。
1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。
マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。
もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。
ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。
もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、
「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」
という思いを持っていた。
ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。
迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。
オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。
オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。
オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。
そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、
「最初に親孝行してくれた馬」
という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。
もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。
種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
「日本ダービーとは何か」
―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。
しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」
とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、
「ダービーだけは特別だから・・・」
と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。
このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。
ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。
しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。
1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。
戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。
アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。
大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。
しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに
「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」
と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。
アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。
アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。
しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。
テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。
テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。
その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。
そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、
「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」
と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち
「うちに入れてくれないか」
という申し出があったという。
だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、
「手の施しようがありません」
と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、
「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」
と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。
すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。
結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。
そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も
「いい子が生まれた」
と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。
次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。
中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。
この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに
「こいつは走る・・・!」
という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。
大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。
アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。
加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。
ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。
中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。
ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。
「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」
と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は
「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」
と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。
しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。
もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。
実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。
調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって
「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」
では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。
「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」
こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。
しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。
しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。
馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。
中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。
加藤師は中野騎手に声をかけた。
「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」
中野騎手は、こう返したという。
「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」
中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。
「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」
次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。
「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」
中野騎手は、震えた。
中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から
「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」
と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。
中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に
「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」
と思ったという。
しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。
(こいつは走る!)
柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。
「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」
中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界ではよく「未完の大器」という言葉が使われる。しかし、実際に注意深く見てみると、そうした馬たちの中には、「未完の大器」というより、単なる見込み違いだったのではないか、という馬も少なくない。本当の意味で「未完の大器」という言葉にふさわしい馬は、そうそういるものではない。その点、バブルガムフェローは「未完の大器」という言葉がよく似合う、数少ないサラブレッドの1頭である。
そう言うと、
「バブルガムフェローは、天皇賞・秋(Gl)と朝日杯3歳S(Gl)で、Glをふたつも勝っている。『未完』とは言えないのではないか」
という疑問が返ってくるかもしれない。しかし、バブルガムフェローが当時の人々から寄せられていた期待の大きさは、天皇賞・秋と朝日杯3歳Sを勝っただけで「完成した」と言い切れる程度のものではなかった。その卓越したレースセンスと底知れない大物感は、同じ時を共有した競馬関係者やファンに
「どこまで強くなるのだろう・・・」
と思わせ、そんな彼が積み上げていく実績はその期待をますます高めていった。彼に寄せられた期待は、やがて彼が1996年の天皇賞・秋(Gl)でサクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった当時の最強古馬たちをことごとく封じ込め、59年ぶりとなる4歳での天皇賞制覇を果たしたことで、ついに頂点へと達した。
だが、天皇賞・秋の次走となったジャパンC(国際Gl)で謎の大敗を喫したバブルガムフェローは、その後まるで成長が止まってしまったように足踏みするようになった。彼が単なる早熟馬だったわけではない。バブルガムフェローは5歳時にも5戦走っているが、常に安定した結果を残し、馬券に絡まなかったことは一度もない。古馬になってからの彼に「衰えた」という評価は当てはまらないのである。
それでも、彼に対して寄せられた期待の重さを思えば、Gl2勝という実績だけでは不完全燃焼だったのではないかという感が否めない。あるいは、大きすぎた期待が彼のくびきとなったのかもしれないが・・・。
今回のサラブレッド列伝では、そんな「未完の大器」バブルガムフェローの軌跡を追うことによって、我々が彼に何を求めたのか、そして我々は競馬に何を求めるのかという疑問の答えを探ってみたい。
バブルガムフェローは、千歳の社台ファームで生まれた。父はサンデーサイレンス、母はバブルカンパニーである。
バブルカンパニーは、もともとフランス、アメリカで繁殖生活を送っていたところ、セリで社台ファームの吉田照哉氏に見出されて日本へ輸入された繁殖牝馬である。
彼女が日本へ輸入された時、彼女は既に15歳(旧表記)になっていた。牧場が新たに繁殖牝馬を手に入れる場合、「今後何頭の産駒を取れるか」という問題に直結する牝馬の年齢は、極めて重要な意味を持つ。15歳という年齢は、新たに手に入れる繁殖牝馬としては、かなり高いリスクを負うものである。しかも、バブルカンパニーの価格は37万ドルと、年齢を考えるとかなり高額なものだった。
それでも社台ファームがバブルカンパニーを手に入れる決断をした背景には、彼女の優れた血統的背景があった。バブルカンパニー自身の競走成績は12戦1勝にすぎないが、彼女の母Prodiceはサンタラリ賞(仏Gl)優勝、フランスオークス(仏Gl)2着などの実績を持つ名牝であり、その産駒でバブルカンパニーの全妹にあたるSangueも、米国のGlを3勝している。また、バブルカンパニーがフランスで生んだ産駒からは、仏2000ギニー(仏Gl)で2着となり、現役引退後はアルゼンチンに渡ってチャンピオンサイヤーとなったCandy Stripes、クリテリウム・ド・サンクルー(仏Gl)を勝ったIntimistが出ている。
これほどの血統背景を持つ馬だけに、社台ファームがバブルカンパニーに寄せる期待は、非常に大きなものだった。しかも、年齢を考えると、そう多くの子は取れそうになく、悠長に構えている時間もない。
バブルカンパニーは、1991年、92年とたて続けにサンデーサイレンスと交配された。サンデーサイレンスは、89年に米国三冠のうち二冠とブリーダーズCを制し、80年代の米国競馬の最強馬とも称される名馬である。そんなサンデーサイレンスは、吉田善哉氏が率いる社台ファームによって日本へ輸入され、91年春から種牡馬として日本で供用を開始したばかりの期待の種牡馬だった。
93年4月11日にサンデーサイレンスの2年目産駒として生まれたのが、バブルガムフェローである。生まれたばかりのバブルガムフェローは、「ちょっと華奢にみえるくらい線の綺麗な馬」だった。バブルカンパニーの輸入後の産駒たちのうち91年生まれの持込の牡馬は故障で競走馬になれず、生まれた直後から「凄い馬になるかも・・・」と期待されていた92年生まれのサンデーサイレンス産駒も、デビュー前に病気で急逝している。それだけに、牧場の人々がバブルガムフェローに寄せる期待は大きなものだった。
血統と馬体の線の細さゆえに、生まれた直後から期待を集めていたバブルガムフェローは、実際の動きを見てみると、予想以上に素早く軽い動きを見せた。当時は産駒がまだデビューしていないが、サンデーサイレンス産駒の一流馬は、共通して高い身体能力を備えている。他の馬とは次元の違う身体的能力を生まれながらに備えた彼に対し、牧場の人々が
「どんな馬になるんだろう」
と希望に満ちた夢を抱いたのは、むしろ当然のことだった。
もっとも、生まれた直後に分かる資質である肉体面では「サンデーサイレンス産駒らしい」長所を備えていたバブルガムフェローだったが、成長するにつれて初めて分かる資質・・・気性面では、他のサンデーサイレンス産駒とはまったく違った長所を持っていた。
サンデーサイレンス産駒は、初年度産駒がそうであったように、2年目産駒もやはり癇性が強く、牧場のスタッフが馬の扱いに苦労することも珍しくなかった。まして、バブルガムフェローの場合は、父のサンデーサイレンスだけでなく、母の父であるLyphardも気性の激しい血統として知られている。バブルガムフェローの血統だけを聞いたスタッフたちは、
「けがをさせられないように、気をつけないと」
と身構えた。
ところが、バブルガムフェローは、血統からのイメージとは正反対に、人間の言うことをよく聞く素直な馬だった。狂気と表裏一体の闘争心を武器とするサンデーサイレンス産駒において、バブルガムフェローのような馬は珍しい。
「(同期の)ダンス(インザダーク)みたいにやんちゃな奴は、『この野郎』って覚えてるけど、『バブ』は手がかかった記憶がひとつもない」
そんなバブルガムフェローの入厩先は、当歳のうちに関東のトップトレーナー・藤澤和雄厩舎に決まっている。その経緯について藤澤師は、
「当時からいい馬でしたね。照哉さん(社台ファームの社長)のお気に入りで、だいぶ期待していた子だったみたいですね。照哉さんから『いい馬だよ』と勧められて預かることになったんです」
と述懐している。バブルガムフェローは、社台ファームで93年に生まれたサラブレッドたちの中でも最高級の期待を受けていた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界には、直線での迫力ある末脚のことを指す「鬼脚」(おにあし)という言葉がある。言葉の由来は読んで字のごとき「鬼のような脚」ということになろうが、この言葉は、逃げ馬や先行馬が直線でさらに脚を伸ばす場合に使用されることはほとんどなく、中団よりさらに後方からの差し、追い込みが決まった時に使用されることが多い。
一般的に、後方からの競馬は、自分でペースを作れない上、勝負どころで前が壁になって閉じ込められる可能性があるため、好位からの競馬に比べて不利であるとされている。個々のレースに限れば、強豪たちが単発の作戦、あるいは展開のアヤによって後方からの競馬をすることはあるし、彼らがそうしたレースで「鬼脚」を見せて勝つこともある。しかし、そんな勝ちっぷりが彼ら自身のイメージとなるまでには、そうしたレースをいくつも積み重ねて実績を残さなければならない。最も不利な作戦で、誰もが認める成績を残す・・・そんな馬は滅多にいないというのが現実である。「追い込みの名馬」の代表格としてまず名前が挙がるのは1983年の三冠馬ミスターシービーだが、その彼ですら、第4コーナーで10番手以下の位置にいて勝ったのは、皐月賞と天皇賞・秋の2度しかない。スタート直後は最後方にいても、第3コーナーかその手前から進出を開始するミスターシービーの競馬は、純然たる直線勝負の追い込みというよりは、いわゆる「まくり」に近いものである。
だが、1993年牡馬クラシック戦線において、それほどに厳しい直線での追い込みを武器としてライバルたちに挑み、ついには「平成新三強」と呼ばれるまでに成長した稀有な強豪が現れた。その馬・・・ナリタタイシンは、いつも馬群の後方につけながら直線での追い込みに賭け、「鬼脚」のなんたるかを常に証明し続けた。直線で、掛け値無しに最後方から飛んでくる追い込みこそが彼の唯一無二の武器であり、420kg前後の細身の身体から繰り出される瞬発力は、まさに「鬼脚」という形容がよく似合うものだった。
ナリタタイシン・・・閃光のような末脚でファンを魅了した第53代皐月賞馬は、果たしてどのようなサラブレッドだったのだろうか。
ナリタタイシンは、1990年6月10日、新冠の川上悦夫牧場で生まれた。彼の血統は、父が米国のGlを3勝したリヴリア、母が日本で走って25戦1勝の戦績を残したタイシンリリィというものだった。
リヴリアは、仏米で通算41戦9勝の戦績を残し、ハリウッド招待ハンデ(米Gl)、サンルイレイS(米Gl)、カールトン・F・ハンデ(米Gl)を勝っている。もっとも、リヴリアの最大の特徴は、これら彼自身の実績ではなく、その血統にあった。リヴリアの母は、キングジョージⅥ世&Q.エリザベスll世S連覇をはじめGl通算11勝という輝かしい戦績を残した歴史的名牝Dahliaだったのである。
リヴリアは、
「Dahliaの子が欲しかった」
という早田牧場新冠支場の早田光一郎氏によって、引退後すぐに日本へと輸入されることになった。・・・もっとも、早田氏がこの時狙っていたのは、Dahlia産駒はDahlia産駒でも、リヴリアの半兄にあたるダハールだったという。ダハールの輸入交渉は値段の折り合いがつかずに決裂したが、そんな時にちょうど競走生活の末期を迎え、凡走を続けていたのがリヴリアだった。早田氏は、リヴリアについて
「僕が行った時に大差のどん尻負けなんかしちゃって、それで予想より安く買えた」
と語っている。
だが、そんなリヴリアに対して独自の視点から注目を寄せていたのが、早田氏と親しく、また独自の血統論を持つ生産者として馬産地で定評がある川上悦夫氏だった。
「Ribotの癇性とRivermanのスピードがはまれば面白いかも・・・」
彼が目をつけたのは、自分の好きなRibot系の繁殖牝馬と、リヴリアが持つRivermanの血だった。
川上氏は、母系としてのRibotの血をもともと高く評価していた。彼は、親交があった千葉の東牧場から繁殖牝馬を譲ってもらえることになった際に、Ribotの直系の孫にあたるラディガの肌馬を、3頭も譲り受けたほどだった。ナリタタイシンの母であるタイシンリリィも、その時に川上氏が東牧場から譲り受けた繁殖牝馬の1頭であり、1980年のオークス馬ケイキロクとは従姉妹同士にあたる良血馬だった。
タイシンリリィは、競走成績こそ25戦1勝というものだったが、川上氏は、多くの活躍馬を輩出する牝系の活力、そして自らが信奉するRibotの血が持つ底力に、ひそかに期待をかけていた。やがて、タイシンリリィが東牧場に残してきた娘のユーセイフェアリーがデビューし、阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残すと、彼女にかかる期待はより大きなものとなっていった。
タイシンリリィは、川上悦夫牧場にやって来てからも走る産駒を出し続け、川上氏の相馬眼が間違っていなかったことを証明した。タイシンリリィの2番子ドーバーシチー、3番子リリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げている。日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも半分程度という現実の中では、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。
川上氏は、自分の牧場の中でも屈指の繁殖牝馬となりつつあったタイシンリリィを、供用初年度のリヴリアと交配することにした。最初はなかなか受胎せず、種付けに何度も通うはめになったタイシンリリィだったが、最終的には無事にリヴリアとの子を受胎した。それが、後の皐月賞馬ナリタタイシンである。
ちなみに、リヴリアのシンジケートの株を持っていた川上氏は、この春にタイシンリリィのほかにもう1頭の繁殖牝馬をリヴリアと交配した。そして翌年、同じ1993年に川上悦夫牧場で生まれた2頭のリヴリア産駒は、ナリタタイシンが皐月賞馬となっただけでなく、もう1頭のマイヨジョンヌも新潟大賞典(Glll)連覇をはじめとして重賞を3勝することになる。だが、神ならぬ川上氏は、リヴリアが種牡馬として収める成功、そしてその後に待っている運命を、まだ知る由もない。
翌春、タイシンリリィは出産予定日を過ぎたにも関わらず、いっこうに出産の気配はないままだった。3月から5月にかけて出産シーズンを迎える生産牧場では、この時期はぴりぴりした緊張感に包まれる。しかし、6月に入っても生まれる気配すらないというなら、話は変わってくる。緊張があまり長く続くとどうしても気が抜けてしまうし、そもそも出産の気配すらないのだから、何か手を打つこともできない。
タイシンリリィには、1993年6月10日の朝も、何の異常も見られなかった。そこで彼女は、この日もいつもどおりに牧場の牧草地に放牧されていた。そして、昼過ぎのこと・・・
「できちゃってるよー!」
牧場の従業員が思わずあげた大声に、川上氏たちは放牧地へと集まってきた。・・・朝は1頭だったはずのタイシンリリィのそばに、1頭の見慣れない子馬がいた。タイシンリリィは、人間の手を借りないままに、放牧地で子馬を生んでしまったのである。・・・それが、ナリタタイシンの誕生だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。
古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。
とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。
このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。
その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。
「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。
だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。
そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。
ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。
ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。
当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。
ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。
ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。
「このままでは、子供が産まれてしまう!」
もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。
閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。
マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。
こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。
しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。
こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。
重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。
このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。
]]>世界の競馬の中における日本競馬の特色として、芝とダートという異なる馬場でのレースが、並立して行われている点が挙げられる。世界競馬の二大潮流をなすふたつの競馬だが、同じ国でその両方が盛んに行われている地域は、決して多くない。
もっとも、日本競馬の場合、長らく芝中心のレース体系を堅持してきた中央競馬の人気が先行していたことから、ファンの関心は、明らかにダートより芝へ集中する傾向があったことも、厳然たる事実である。ただ、世界の競馬の潮流を見ていくと、国際的な競馬界の主導権は、芝競馬の総本山である欧州から、ダート競馬の中心地アメリカへと移っていった。1996年に創設されたドバイワールドCも、世界最強馬決定戦たることを目指して創設されたレースだが、欧州で最も価値があるとされてきた芝2400mではなく、ダート2000mのレースとして設定されたことは、象徴的である。
そんな海外の潮流の変化と並行する形で、1990年代の日本でも、それまで傍流と見られていたダート戦線の再編、再整備が始まった。JRAでの注目度こそ低かったものの、競馬のすそ野を支える地方競馬の大多数がダートコースを採用していたという土壌もあり、その改革は、JRAと地方競馬の交流競走の大幅増加という形で進められることになった。
JRAにおける伝統のダート重賞として行われてきたフェブラリーSが初めてGlに昇格することで、JRAにおける初めてのダートのGlレースが誕生したのは、1997年のことである。このレースが先陣を切る形で始まった新時代のダート戦線は、同年4月に正式に発足したJRAと地方競馬の統一グレード制の発足へと続き、日本におけるダート競馬が「芝の二軍」を脱し、「芝と並ぶもうひとつの競馬体系」へとその性質を大きく変える契機となった。現在におけるダート競馬は、芝と完全に対等・・・とまでは言えないまでも、「芝の二軍」と言われた時代と比較すると、その地位を大幅に向上させて現在に至っている。
そんな大きな位置づけを持つ1997年のフェブラリーS、すなわちJRA初のダートGlレースを制したのは、シンコウウインディである。JRAで初めてのダートGlの勝ち馬として歴史に名前を刻んだこの馬こそが、日本の「初代キング・オブ・ダート」ということができよう。
シンコウウインディは、浦河で、繁殖牝馬が5、6頭という規模ながら馬産に携わってきた酒井源市氏の生産馬として生まれた。
シンコウウインディの母ローズコマンダーは、「バラの司令官」という牡馬のような名前で、現役時代には平地で2勝、障害で3勝をあげた実績馬である。
しかし、ローズコマンダーが繁殖入りしてからの産駒成績は、まったく振るわなかった。シンコウウインディはローズコマンダーの11番子にあたるが、上の10頭をみると、中央競馬で勝ち星をあげたのは1頭、1勝だけにとどまっている。
もともとローズコマンダーの子供たちに期待をかけていた酒井氏だったが、この結果は不本意と言わざるを得ず、
「(ローズコマンダー産駒は)格好はいいんだが、とにかくサッパリ走らない」
と、いつも嘆いていた。
そんなローズコマンダーが交配されたシンコウウインディの父となるデュラブは、
「芝、ダートを問わず広く活躍馬を出すトップサイダーの直子」
「主な勝ち鞍はジムクラックS(英Gll)、コーンウォーリスS(英Glll)であり、さらにミドルパークS(英Gl)で2着の実績がある」
という能書きの種牡馬だが、これらを並べられただけでデュラブの実像を正しく理解できるファンは、決して多くないだろう。デュラブの実績は、旧3歳限定の短距離戦に集中しており、「奥行きのない早熟な短距離馬」という評価が関の山だったが、一般のファンの知識・情報レベルだと、そもそもそこまでたどり着けない・・・という程度の存在でしかなかった。
1986年からアイルランドで種牡馬入りしたデュラブは、アイルランドでは重賞馬すら出すことができないまま、92年に日本へと輸入された。その実態は、アイルランドから見切りをつけられての放出であり、日本にとっても、「当たってくれればもうけもの」という程度だった。
酒井氏がローズコマンダーとデュラブを交配したのも、「たまたまデュラブのシンジケート株を持っていたから」という消極的な理由からにすぎない。名馬の誕生には、ニックスやらインブリードやら馬体の相性やら、生産者の深遠なる配合理論や読みがつきものであり、むしろ後付けで実態より美化して語られることが多い中で、シンコウウインディの出生はそうした逸話とまったく無縁である。この配合からGl馬が誕生するなどとは、酒井氏自身もまったく予想していなかったに違いない。
1993年4月14日、シンコウウインディは、そんなデュラブとローズコマンダーとの間に生まれた。
血統的に華やかさや派手さとはまったく無縁な存在だったシンコウウインディだが、牧場での評判も、
「栗毛がとてもきれいな子馬だった」
「いたずら好きで、よく人間や他の子馬にかみつきに行っていた」
といった程度で、特に競走馬としての期待を感じさせるようなものではなかった。・・・後者の評価も、当時の人々からすれば、特に大きな意味があるエピソードではなかったことだろう。
そんな特徴の少ないシンコウウインディの無限の可能性を、生まれたばかりのこの段階で信じるには、酒井氏はあまりにも裏切られ続けていた。結局、シンコウウインディを出産した後の交配が不受胎に終わったローズコマンダーは、ついに繁殖牝馬としての未来に見切りをつけられて酒井牧場から出され、そのまま姿を消している。
]]>競馬を他の公営ギャンブルと最も大きく隔てる特徴は、その主人公であるサラブレッドたちが機械や道具ではない生物であり、それもランダムに生み出されるのではなく「血統」によってコントロールされた存在ということである。そうした特徴ゆえに、競馬は「ブラッド・スポーツ」とも呼ばれる。競馬の歴史は、馬産家たちが種牡馬と繁殖牝馬の短所を補い、長所を伸ばす次世代の産駒を送り出すために重ねてきた研究と実践、そして失敗と成功の繰り返しだったと言っても過言ではない。
ただ、実際には、生まれてきた産駒たちが、父や母とは全く異なる特徴や傾向を示すことも、決して稀ではない。それもまた競馬、そして生命の深遠さである。
1999年の南部杯マイルチャンピオンシップ(統一Gl)を制したニホンピロジュピタも、父は芝で実績を残し、母に至っては芝でしか走ったことがなかったことから、血統的に芝向きと思われており、デビュー後しばらくの間は芝のレースに使われ続けた。しかし、素質は示しながらも、満足するべき成果までは、どうしても残すことができない。
そんな彼が活路を見出したのは、両親、そして自身の血統とは全く異なるダートの世界だった。新天地で実績を残した彼の活躍は、彼と似た血統の馬たちを見る目を変えるほどのものだった。・・・だが、他の馬たちの馬生に新しい可能性をもたらした彼自身の馬生は、誰にも予期できない悲劇によって彩られることになったのである。
1995年5月3日、ニホンピロジュピタは、浦河の橋爪松夫氏が経営する牧場で生を享けた。血統は、父がオペラハウス、母がニホンピロクリアというものだった。
ニホンピロクリアの通算戦績はJRAで10戦3勝、主な勝ち鞍は中京3歳S(OP)で、重賞での実績は小倉3歳S(Glll)3着が最高・・・というものだが、繁殖牝馬としては、CBC賞(Gll)、マイラーズC(Gll)など38戦8勝の実績を残したニホンピロプリンス(父ニホンピロウイナー)、数字だけなら7戦1勝ながら、新馬戦を勝ち上がった後の函館3歳S(Glll)で3着に入ったニホンピロプレイズらを輩出している。
また、ニホンピロクリアが属する牝系は、小岩井農場が1907年に輸入した20頭の基礎牝馬の中でも特に著名な1頭であるアストニシメントに遡る。彼女の系統からは、メジロ牧場の主流血統となったアサマユリの系統から2頭でGl6勝を挙げたメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟が出ている。また、ニホンピロジュピタ以降も天皇賞・秋を制したオフサイドトラップや川崎記念馬インテリパワー、21世紀に入ってからはトロットスター、ショウナンカンプ、リージェントブラフなど多くのGl馬を輩出しており、現在まで一定の影響力を保持する名門牝系である。
そんな一族に属し、既に繁殖牝馬として実績を残していたニホンピロクリアだけに、彼女に寄せられた血統的な期待は大きかった。血統的な評価が微妙だったと言えば、むしろ母ではなく、父であるオペラハウスの方だったかもしれない。
現役時代に英国馬として走ったオペラハウスは、5歳時にコロネーションC、エクリプスS、キングジョージとGl3連勝を飾り、凱旋門賞でもアーバンシーの3着に入っている。この競走成績は、当時日本に輸入されていた欧州の種牡馬の中でも、十分に立派なものだった。問題は、彼の実績よりも血統である。
オペラハウスの父は、1981年生まれで愛2000ギニーなどを制したSadler’s Wellsである。Sadler’s Wellsといえば、1990年に初めて英愛リーディングサイヤーに輝くと、1年置いた92年から2004年まで13年連続でこの地位を保持し続けて欧州を席捲し、現代では「世界的大種牡馬」という評価が確立している。そんな血統の何が問題だというのか?
答えは簡単で、話をこと日本に限るならば、Sadler’s Wellsの産駒は、とにかく走っていなかった。彼の子だけでなく、日本で種牡馬として供用された彼の産駒も実績をあげておらず、オペラハウスより2歳年長で仏愛ダービーを制したオールドヴィックも、2年間日本でリースされたものの、さしたる実績馬を残していない。
「Sadler’s Wellsの血は、日本の馬場とは合わない・・・」
いつしか、それが日本競馬界における定説となっていた。オペラハウスが後に「世紀末覇王」テイエムオペラオーや、Gl4勝を挙げたメイショウサムソンを産駒として輩出したことを知る後世の感覚からはズレが生じるが、当時そうした雰囲気が日本競馬を支配していたことは、厳然たる事実である。
オペラハウスとニホンピロクリアの間に生まれた鹿毛の牡馬は、やがて「ニホンピロジュピタ」と名付けられた。「ジュピタ」とは、太陽系の惑星である「木星」(Jupiter)のことだが、木星という惑星自体、「拡大と発展」という意味も持っているという。
そんな縁起の良い馬名を与えられたニホンピロジュピタは、「ニホンピロ軍団」を多く手掛ける目野哲也厩舎に入厩することになった。…というより、初子のニホンピロプリンス以降、ニホンピロクリアの子はすべて「ニホンピロ軍団」の一員として目野厩舎でデビューしている。ニホンピロジュピタにとっては、誕生の瞬間から既に、そこまでの道が運命づけられていた・・・という方が、正確であろう。
だからといって、ニホンピロジュピタがそこまで大きな期待を集めていたわけでもない。橋爪氏によれば、ニホンピロクリアの産駒たちは、ニホンピロプリンス、ニホンピロプレイズといった活躍馬も含めて、育成時代には目立った動きをしない馬ばかりだったという。そして、その点についてはニホンピロジュピタも同じだった。
彼が変わってきたのは、牧場から育成場へと移った後のことで、育成場のスタッフから
「いい動きをしている」
と連絡をくれるようになるまで、橋爪氏はニホンピロジュピタのことを期待馬として特に意識していなかったという。
だが、一族の特徴を熟知した目野師の管理下に入った後、ニホンピロジュピタの仕上がりは早かった。96年に半兄ニホンピロプリンスとのコンビで、自身にとって当時唯一の重賞制覇となるマイラーズC(Gll)を制した小林徹弥騎手を鞍上に、3歳8月の札幌新馬戦でデビューを果たしたのである。
]]>サブタイトルの「仁川早春物語」は、赤川次郎の「早春物語」より。・・・赤川次郎って、最近の若い世代にどの程度通じるのだろうか。
完結までとても長い時間がかかった阪神牝馬3歳S勝ち馬列伝ですが、アインブライド列伝までは、実は17年前の時点でほぼ完成していました。ただ…スティンガーとヤマカツスズランで苦戦したのは、他の馬とのセットでまとめるには少し強すぎたからのような気がします。・・・とはいえ、阪神3歳S勝ち馬列伝や牝馬三冠勝ち馬列伝の先例もあり、「阪神3歳牝馬S勝ち馬」もひとまとめにした時点で、このグループに入れるかどうかの基準は、「他のGlを勝ったか否か」というものにしかなりえません。そもそも「阪神3歳牝馬S勝ち馬」をひとまとめにしたのが、間違いだったかもしれません。
1991~2000年の阪神3歳牝馬S勝ち馬と牝馬三冠勝ち馬を並べてみました。( )内の数字は、G1勝ち、重賞勝ちです。
阪神3歳牝馬S ニシノフラワー(3,6)、スエヒロジョウオー(1,1)、ヒシアマゾン(2,9)、ヤマニンパラダイス(1,1)、ビワハイジ(1,3)、メジロドーベル(5,7)、アインブライド(1,1)、スティンガー(1,5)、ヤマカツスズラン(1,4)、テイエムオーシャン(3,5) G1 19勝 重賞42勝
桜花賞 シスタートウショウ(1,1)、ニシノフラワー(3,6)、ベガ(2,2)、オグリローマン(1,1)、ワンダーパヒューム(1,1)、ファイトガリバー(1,1)、キョウエイマーチ(1,5)、ファレノプシス(3,4)、プリモディーネ(1,2)、チアズグレイス(1,1) G1 19勝 重賞24勝
優駿牝馬 イソノルーブル(1,3)、アドラーブル(1,1)、ベガ(2,2)、チョウカイキャロル(1,2)、ダンスパートナー(2,3)、エアグルーヴ(2,7)、メジロドーベル(5,7)、エリモエクセル(1,4)、ウメノファイバー(1,3)、シルクプリマドンナ(1,1) G1 17勝 重賞33勝
エリ女(~95)、秋華賞(96~2000)リンデンリリー(1,2)、タケノベルベット(1,2)、ホクトベガ(1,13)、ヒシアマゾン(2,9)、サクラキャンドル(1,3)、ファビラスラフイン(1,2)、メジロドーベル(5,7)、ファレノプシス(3,4)、ブゼンキャンドル(1,1)、ティコティコタック(1,1) G1 17勝 重賞44勝
・・・G1勝ちでは桜花賞と並んでトップタイ、重賞勝ちではエリ女・秋華賞に負けていますが、ここはホクトベガの交流重賞での荒稼ぎが含まれていることを考えると、当時の阪神3歳牝馬Sは、相当レベルが高かったと思われます。
何はともあれ、長期未済案件がようやく一つ片付きました。
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