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2000年代 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Fri, 23 Feb 2024 04:23:31 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~ https://retsuden.com/horse_information/2024/23/419/ https://retsuden.com/horse_information/2024/23/419/#respond Fri, 23 Feb 2024 04:22:53 +0000 https://retsuden.com/?p=419  1998年4月19日生。2005年8月28日死亡。牡。鹿毛。信岡牧場(浦河)産。
 父ブライアンズタイム、母インターピレネー(母父サンキリコ)。山内研二厩舎(栗東)、
 宇都宮徳一(荒尾)、岡田一男(浦和)
 通算成績は、26戦6勝(新2-7歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、アーリントンC(Glll)、新潟大賞典(Glll)、ききょうS(OP)、野路菊(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『宿命の終着駅』

 現存するサラブレッドの父系をたどると、いわゆる「三大始祖」・・・ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの3頭に遡ることができることは、競馬ファンにとって長らく常識の範疇に属する基礎知識とされてきた。「サラブレッド」という種がこの世に存在しなかった古き時代から、「競馬」は存在していたようである。しかし、やがて天の与えたままの馬の姿だけでは満ち足りなくなった古人は、より速く走るために、より純粋に競走馬としての戦いに生きるために馬たちの品種改良を重ね、ついには「三大始祖」たちの血によって「サラブレッド」という究極の種を生み出した。

 サラブレッドとは、彼らの祖先とは異なり、競馬という目的のため、人の手でつくりだされた種である。そうであるがゆえに、彼らは自らの存在、そして生命そのものを、競馬という戦いに捧げる宿命にある。彼らに求められるものは、いつの時代も変わらない。レースに勝って、ウィナーズサークルに立つこと。その一点こそが、サラブレッドの存在する理由である。

 だが、彼らが自らの存在の理由を極めた時・・・競馬界の頂点に立った時、果たして彼ら自身は、何を思うのか。スタンドを埋めたファンの喝采を浴びながら、彼らは何に思いを馳せるのか。・・・おそらく、何も思いはしない。それらは、人ならぬ彼ら自身にとって、おそらく何の意味もないものである。彼らはなぜ戦うのか。それは、彼らがサラブレッドとして生まれたから。彼らは、ただ人のために走り、戦い、そして死んでゆく。それが彼らの現実であり、宿命である。

 2005年8月28日、1頭のサラブレッドが7年あまりの短い生涯を閉じた。ダンツフレーム・・・2002年の宝塚記念(Gl)を制し、同年の中央競馬における夏のグランプリホースとなった彼は、それ以外にも重賞を2勝し、また2001年の皐月賞(Gl)、東京優駿(Gl)、そして2002年の安田記念(Gl)で2着に入った強豪であった。彼の競走馬としての戦績は、人のために走り、戦うべきサラブレッドとして、なんら申し分のない戦績であった。

 そんな彼に罪があったとすれば、それは彼自身の血脈だった。彼を生み出した牝系・・・それは、急速に近代化する日本競馬の中では、もはや時代遅れとなりつつある異形の血脈だったのである。ダンツフレームは、誰もがうらやむ良血馬たち・・・アグネスタキオン、ジャングルポケットといった強豪たちと互角に戦い、やがて6度目の挑戦にして初めて悲願のGlを制した。だが、そんな彼を待っていたのは、生まれる時・・・否、それ以前から定まっていた血統ゆえの低い評価であり、過酷な運命だった。今回のサラブレッド列伝は、悲しい運命に翻弄され、やがて早すぎる終着駅を迎えてしまった1頭のサラブレッドに捧げる物語である。

『異形の血脈』

 ダンツフレームの生まれ故郷は、日本有数の馬産地である北海道・日高地方の中でも特に古くから馬産の中心となってきた浦河にある、信岡牧場である。この牧場の生産馬からは、かつて1981年の朝日杯3歳S勝ち馬ホクトフラッグ、95年の桜花賞馬ワンダーパヒュームなどが出ている。

 ダンツフレームの母インターピレネーが競走馬として残した戦績は、21戦3勝にすぎない。しかし、実際の彼女は数字の羅列から想像されるような一介の条件馬とは一線を画した存在であり、名牝ベガが輝いた93年の牝馬クラシック戦線に参戦し、4歳牝馬特別(Gll)で3着に入って桜花賞(Gl)にも出走している(9着)。

 インターピレネーの血統をみると、93年の中央競馬の血統水準の中ですら、一流とは言いがたいものだったことを否定できない。彼女の父であるサンキリコは、競走馬としても2歳時に英国のGll、Glllを合計3勝したという程度の実績しかなく、また種牡馬としても、関東オークスをはじめ南関東の牝馬限定重賞を中心に活躍したケーエフネプチューン、新潟3歳S(Glll)3着のワンダーピアリス、ガーネットS(OP)2着のユーフォリアなどを出した程度の存在に過ぎない。インターピレネーは、父の種牡馬成績を紹介する時には、重賞での入着という「実績」を持つという一点をもって、「代表産駒」に名を連ねられる資格を持っていた。

 それでも、引退後は信岡牧場で繁殖入りして1996年に初子を産んだインターピレネーは、その後も繁殖牝馬としての使命を順調にこなしていた。

 インターピレネーが97年春にマイニング産駒のマイニンハットを出産すると、信岡牧場の人々は、彼女をブライアンズタイムと交配することに決めた。種牡馬ブライアンズタイムといえば、既にナリタブライアン、マヤノトップガンという超大物を輩出し、同年のクラシック戦線にもサニーブライアン、ヒダカブライアン、エリモダンディー、シルクライトニングといった有力馬たちを大量に送り込み、種牡馬界にサンデーサイレンスの対抗勢力としての地位を確立しようとしていた。

 インターピレネーとの関係でいうならば、ブライアンズタイムとの交配は「不釣合い」にも見える。だが、信岡牧場はブライアンズタイムのシンジケート株を持っており、また自分の牧場の基礎牝系に属するインターピレネーに大きな期待をかけていた。彼女自身、繁殖入り直後に既に一度ブライアンズタイムと交配され、初子ゼンノペッパーを産んでいた。競走馬としては大成できなかったゼンノペッパーだが、馬っぷりは生まれながらにすばらしい馬だった。同じ父、同じ母を持つ全兄弟として、ぜひ兄を超える存在になってほしい。それが、信岡牧場の人々の切実な願いだった。

『インターピレネーの10』

 「インターピレネーの10」・・・後のダンツフレームが生まれたのは、翌98年4月19日のことである。「ブライアンズタイム最高の当たり年」と評された97年クラシック戦線の季節に、その活躍によって集まった牝馬たちから生まれたブライアンズタイム産駒たちの1頭・・・それが「インターピレネーの10」である。

 ところが、実際に生まれた「インターピレネーの10」は、信岡牧場の人々がひいき目に見ても、おせじにも走りそうな馬には見えなかった。

「決して見てくれのいい馬ではなかった。見た感じは、むしろボテッとした感じで・・・」

 「インターピレネーの10」の牧場での担当者は、当時の思い出をそう語っている。体型は美しくないし、日ごろの行いを見ても、

「いつもおとなしいというか、放牧地でみんなが走り回っていても、黙々と草ばかり食っているような子供だった」

というもので、とても競走馬としての未来を感じさせるような存在ではなく、むしろ

「食ってばかりでぶくぶく太っていた」
「牛みたいな馬だった」

などという評すら伝えられていた。「インターピレネーの10」、幼い日のダンツフレームは、一部の生まれながらの良血馬がそうであるような輝き・・・スター性とは、あまりにかけ離れた存在だった。

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ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~ https://retsuden.com/age/2000s/2024/23/469/ https://retsuden.com/age/2000s/2024/23/469/#respond Fri, 23 Feb 2024 02:54:42 +0000 https://retsuden.com/?p=469  1999年6月4日生。牡。鹿毛。ノースヒルズマネジメント(新冠)産。
 父ブライアンズタイム、母アンブロジン(母Mr.Prospector)。池江泰郎厩舎(栗東)所属。
 通算成績は12戦3勝(新3-5歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、新年齢(満年齢)を採用します)

『謎多き戦譜』

 2002年の皐月賞のことを聞かれて多くのファンが思い浮かべるのは、おそらく下馬評を徹底的に破壊し尽くした波乱の結末であろう。重賞3連勝中でクラシックの大本命と言われたタニノギムレットらを退けて三冠の一冠目を制したのは、抽選で出走権を手にした2勝馬ノーリーズンだった。だが、重賞初挑戦の身で、しかも前走の若葉S(OP)では惨敗して人気を大きく落としていたノーリーズンは、ほとんどのファンから忘れられた存在で、前評判の低さを物語るように、この日の配当は単勝15番人気の11590円、馬連に至っては53090円だった。こんな人気薄の馬が、しかも94年にナリタブライアンが記録して以来更新されていなかった皐月賞レコードを8年ぶりに更新する圧倒的なレース内容で勝利を手にするなど、レース前の段階で誰が予想できようか。

 こうして初めての檜舞台でファンにとてつもない衝撃をもたらしたノーリーズンだが、彼はその後も戸惑うファンを翻弄し続けた。皐月賞のレース内容に加えてもともとは良血馬と言われる存在だったことから、それ以降は同世代の有力馬の1頭として扱われるようになり、日本ダービーでは2番人気、菊花賞では1番人気と皐月賞馬にふさわしい人気を集めるようになったノーリーズンだったが、その後の彼は人気に見合う走りを見せることなく、それどころか菊花賞では「走る」ことすらないまま舞台から退場してしまった。

「ノーリーズンとは、どんなサラブレッドだったのか?」

 この答えに、当意即妙に答えうるファンは、おそらく少数であろう。皐月賞で溢れるほどの才能の煌きを見せながら、荒ぶる才能を制御することができないまま、そのすべてを見せることなく競走生活を終えたノーリーズンというサラブレッドに、ファンは一方では魅せられ、また他方では反発せざるを得なかった。そんな相反するふたつの評価の間で、彼はついにワンフレーズでは表現し得ない混沌とした存在として、人々の記憶に刻まれることになったのである。今回のサラブレッド列伝では、そんなノーリーズンの波乱に満ちた競走馬としての戦いの系譜を追ってみたい。

『悲運の姉、か弱き弟』

 ノーリーズンは、1999年6月4日、新冠のノースヒルズマネジメントで生まれた。時は折しも第66回日本ダービーの2日前、アドマイヤベガ、ナリタトップロード、テイエムオペラオーが激突した「三強決戦」の直前のことだった。

 ノーリーズンの血統は、父が日本を代表する種牡馬であるブライアンズタイム、母が米国の1勝馬アンブロジンというものである。もっとも、繁殖牝馬としてのアンブロジンへの期待は、彼女の競走馬としての戦績とはあまり関係がないところから生じていた。

 96年に日本へ輸入された段階から名種牡馬Green Desertや後に日本へ輸入されたウィザーズS(米Gll)勝ち馬トワイニング、阪神3歳牝馬S勝ち馬ヤマニンパラダイスといった名馬たちに連なる牝系、また彼女自身も世界的種牡馬Mr.Prospectorの直子であること、そしてノースヒルズマネジメントに輸入される前にはゴドルフィンを率いるシェイク・モハメド殿下の所有馬だったという事実等が重なって期待を集めていたアンブロジンだったが、彼女がノースヒルズマネジメントで出産したノーリーズンの2歳年上の半姉・ロスマリヌス(父サンデーサイレンス)は、期待を大きく上回る美しい仔馬だった。

「牧場の評価でいうならば、(3年後に生まれた後の牝馬三冠馬)スティルインラブ以上でした」

と評され、ノースヒルズマネジメントの歴史の中でも最上級の期待を寄せられていたロスマリヌスは、順調にデビューして勝利を重ね、特に白菊賞(500万下特別)では、後の重賞5勝馬ダイタクリーヴァに完勝して阪神3歳牝馬Sの有力候補に躍り出た。しかし、その後に故障を発症したロスマリヌスは、ついに復帰を果たすことができず、無敗のまま短い競走生活を終えている。

 そんな「未完の大器」の半弟として生まれたノーリーズンは、牧場にいるころは否応なく「アンブロジンの子」「ロスマリヌスの半弟」という形で期待を集めていた。・・・もっとも、その評価は読んで字のごとく、母や姉に依存したものにすぎない。彼自身の評判はというと、遅生まれのうえに骨瘤に悩まされていたこともあって体が弱く、調教を休むことも多かったという。

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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~ https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1069/ https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1069/#respond Mon, 07 Aug 2023 13:35:15 +0000 https://retsuden.com/?p=1069 1997年3月14日。牡。鹿毛。稲葉隆一(美浦)厩舎。高松牧場(浦河)。
父コマンダーインチーフ 母プリンセススマイル(母父ノーザンテースト)
29戦4勝(旧3-新5歳時)。ジャパンダートダービー(統一Gl)制覇。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『消えゆくダービー』

 2022年6月に発表されたダート路線の改革案は、日本競馬のダート界に1998年の統一グレード導入以降最大級の衝撃をもたらした。その改革案によれば、2024年以降、地方競馬の盟主・南関東競馬のクラシックレースである羽田盃、東京ダービーをJRAや他地域に開放したうえでダートグレード競走のJpnlに位置づけるとともに、現在は夏に行われているジャパンダートダービーの名称を「ジャパンダートクラシック」と変更したうえで実施時期を秋に移行し、この3つのレースをもって「3歳ダート三冠競走」として位置づけるというのである。

 日本の競馬界における「ダービー」という名称は、世代王者決定戦であるクラシック・レースの中において最高の格式あるレースというイメージが定着している。そのイメージを前提とすると、「3歳ダート三冠」の中に「ダービー」が2つあるのは、不都合とも言えるかもしれない。

 ただ、統一グレード導入前後、まだ競走馬の年齢表記が数え年表記だったころに存在した「4歳ダート三冠」では、三冠レースのうち2つは「ダービー」の名を冠していたが、特に不都合はなかった。しかし、今回は東京ダービーだけに「ダービー」の名を残し、ジャパンダートダービーから「ダービー」の名を消すという選択が、これらのレースの格式にどのような影響をもたらすのか、興味は尽きない。

 今回の改革によって大きな影響を受けるジャパンダートダービーは、1999年の創設以降、多くの名馬たちが名勝負を繰り広げてきたレースである。創設当初は2つ、そして06年以降は唯一の旧4歳(現3歳)世代限定の統一GlないしJpnlとして、25年間にわたって世代別ダート王決定戦の役割を果たしてきたこのレースが、「3歳ダート三冠」のためにジャパンダートクラシックへ改編され、その歴史をいったん閉じることについては、感慨深いものを感じるファンも少なくないだろう。

 2000年の第2回ジャパンダートダービーを制したマイネルコンバットは、JRA所属馬として初めてこのレースを制した馬である。「4歳ダート三冠」が幕を開け、まだ短い歴史を閉じていなかった20世紀最後の年、ダート戦線の黎明期に足跡を残した彼の歩みを振り返ってみたい。

『誕生』

 1997年3月14日、マイネルコンバットは、浦河の高松牧場で産声をあげた。父はデビューからわずか2ヶ月の間に英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、母はJRAで8戦1勝の戦績を残したプリンセススマイルである。

 マイネルコンバットは、プリンセススマイルの第4子にあたる。プリンセススマイルはもともと社台ファームで生産されたが、繁殖牝馬セールに出された際に、高松牧場によって購入された。そして、高松牧場で彼女が産んだ3頭の兄のうち、アガペーとサンキューホーラーは、最終的にはJRAの準オープン級まで出世する。当時はまだ兄たちがどこまでの戦績を残すのかを知るべくもないが、それでも長兄のアガペーは、もう条件戦をちょくちょく勝っていた。

 マイネルコンバットの血統は、アガペーと同じくNorthern Dancer系の同系配合で、それもNorthern Dancerの4×3といういわゆる「奇跡の血量」を持つ(厳密には、兄は4×4×3)。アガペーが勝つたびに、マイネルコンバットに対する牧場の人々の期待も高まっていくことは、むしろ自然な流れだった。

 マイネルコンバットが生まれたころ、高松牧場の経営者夫婦はある理由で夫婦喧嘩になっており、夫人が

「別れる!」

と言っていた。しかし、生まれたマイネルコンバットは、馬体の柔らかさが目立つ子馬で、

「あの子が競馬場で走るところを見てみたい」

と思って離婚を思いとどまることにしたという。マイネルコンバットは、競馬場で走る前から高松牧場の家族を守っていた。

 そんな期待の子馬への買い付けの申し込みは、高松牧場の人々を歓喜させた。その申し込みの主は、「マイネル」「マイネ」の冠名で知られる一口馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表である岡田繁幸氏だった。

『相馬の天才~「総帥」の原点~』

 岡田氏は、1973年の朝日杯3歳Sを制したミホランザンなどを輩出した岡田蔚男牧場の長男として生まれた。大学中退後、本場の馬産を学ぶという名目で、実際には今後の人生の道標を探すために渡米し、米国の牧場に滞在していた際、世話を頼まれた牝馬を見出したところ、それが後に無敗の10連勝でニューヨーク牝馬三冠を制しながら悲劇的な最期を遂げるラフィアンだったことで知られており、後に彼が設立した牧場やクラブの名前も、彼女にあやかっている。

その後、日本へ帰国した岡田氏は、馬産に本格的に携わっていくことは決意したものの、「父の牧場を引き継いだのでは、本当の意味での自分の馬産ができないから」という理由で、父の牧場の継承権は弟に譲り、自分は自前で一から牧場を立ち上げることにした。

また、彼は自前の牧場の生産馬からだけではなく、「ラフィアンを最初に見出した男」という肩書で馬産地を直接訪ね、自ら見て回った子馬の中から眼鏡にかなった子馬を買い付けて馬をそろえるという手法をとった。・・・というよりも、主力はどちらかというと後者だった。

とはいっても、当時の馬産地では、目立った実績や血統を持つ馬になればなるほど、母馬やなじみの調教師との人間関係で、「生まれた時には馬主が決まっている」というパターンが多かった。そこで、岡田氏が馬を求めて回るのは、大馬主や調教師とのパイプを持たない中小牧場が多かった。

岡田氏の名前が一般のファンの間でも知られるようになったのは、1986年の日本ダービーである。彼が自らの所有馬として送り込んだグランパズドリームは、父が内国産馬カブラヤオー、母に至ってはサラ系のサラキネンという、当時の血統水準からしても目立たない…というよりは、逆の意味で目立つと言っても過言ではない血統のサラ系だった。しかし、それまでどんな馬を買っても認めてくれなかった父親の蔚男氏に

「本当にいい馬を見つけた。これだけは見に来てほしい」

と伝えたところ、蔚男氏も見に来て、

「本当にいい馬だな…」

と、初めてほめてくれたのだという。

『相馬の天才~おじいちゃんの夢~』

 蔚男氏は、その馬のデビューを見ることなく、亡くなってしまった。岡田氏は、自身の長男を可愛がってくれた父が最後に認めてくれた馬に「グランパズドリーム」と名付けて自身の名義で走らせ、青葉賞(OP)2着で日本ダービー(Gl)に出走を果たした。

 日本ダービーではテン乗りの田原成貴騎手が騎乗したが、皐月賞で2着だったフレッシュボイスが故障で回避してがっかりしていたところに騎乗依頼を受けたという田原騎手は、

「馬主も調教師もあまりに威勢がいいから(依頼を)受けた」

という。

 とはいっても、9戦2勝で勝ったのは条件戦のみ、重賞実績もないに等しいグランパズドリームは、23頭立てで単勝4370円の14番人気と、まったく人気がなかった。しかし、レースになると、大混戦の中でグランパズドリームは経済コースを通って先に抜け出し、一時は2,3馬身差をつけた。

 そこからダイナガリバーが飛んできて、激しい一騎打ちとなったが、最後は差し切られて、半馬身屈した。

 この日、馬主席に応援に来ていた岡田氏は、ダイナガリバーの生産者である社台ファームの吉田善哉氏が、65歳で初めてのダービー制覇を果たし、人目もはばからずに泣く姿を見ながら、

「初めてダービーの重みを知った」

と言い、善哉氏自身から

「君はまだ早い」

と言われたとも語っている。この時、「ダービーは近いうちに必ず獲れる」と思っていたという岡田氏にとって、この時の半馬身が生涯にわたって決定的なものになることなど、知る由もない。

もっとも、グランパズドリームでいきなり日本ダービー2着という結果を残し、さらにサラブレッドクラブ・ラフィアンでも「マイネル」「マイネ」の冠を持つ馬が早い時期から実績を残したことで、岡田氏に関する噂は、

「ラフィアンの馬は、安い割によく走る」

「岡田氏が選んだ馬は、血統が悪くてもよく稼ぐ」

と変わっていった。「相馬の天才」と呼ばれる岡田氏の名前は馬産地に広く知れ渡り、中小牧場の牧場主の中には「岡田さんに買ってもらえるような馬を作る」ことを目標として掲げる者も少なくなかった。

 マイネルコンバットを認めた岡田氏とは、そんなホースマンだったのである。

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https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1069/feed/ 0
ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/#respond Thu, 23 Feb 2023 13:52:05 +0000 https://retsuden.com/?p=109  2000年5月21日生。2021年3月8日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
 父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス(母父Kris)。瀬戸口勉厩舎(栗東)
 通算成績は、13戦7勝(新2-4歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、皐月賞(Gl)、
 スプリングS(Gll)、産経大阪杯(Gll)、きさらぎ賞(Glll)。

『王道』

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。

 時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。

 彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。

「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」

 同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。

 大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。

『兄の幻影』

 2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。

 すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。

 そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。

 しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。

 ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、

「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」

と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、

「今年の一番馬は、この馬だ」

と噂しあった。

 だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。

「こんなはずではなかった・・・」

 生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。

 しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。

「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」

 それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。

『夢の跡から』

 こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に

「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」

と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。

 最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。

「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」

 それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。

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https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/feed/ 0
エアシャカール列伝~みんな夢でありました~ https://retsuden.com/age/2000s/2022/02/263/ https://retsuden.com/age/2000s/2022/02/263/#respond Sat, 01 Jan 2022 15:33:10 +0000 https://retsuden.com/?p=263 1997年2月26日生。2003年3月13日死亡。牡。黒鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
父サンデーサイレンス、母アイドリームドアドリーム(母父Well Decorated)。森秀行厩舎(栗東)。
通算成績は、20戦4勝(新2-5歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)、菊花賞(Gl)、ホープフルS(OPl)。

(本作では列伝馬が馬齢表記変更後も競走生活を続けていることから、新年齢(満年齢)を採用します)

『準三冠馬の悲劇』

 牡馬クラシック戦線が競馬の花形になっている日本競馬において、皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞をすべて制した「三冠馬」は、そのクラシック戦線の頂点に立つ者として、単に強い馬という意味を超えた称賛を受ける。「三冠馬」は、三冠達成の困難さゆえに、すべての競馬ファンにとっての夢であり、憧れであり、また畏敬の対象ですらある。

 クラシック中心主義の体系を創設当初から現在に至るまで貫く中央競馬の歴史は、多数の名馬たちと無数の無名馬たちによる、三冠への挑戦と挫折の歴史でもある。三冠達成の困難さを物語るように、中央競馬史上「三冠馬」は、全部で8頭しかいない(2021年末現在)。それ以外の多くの名馬たちが、三冠の夢に挑んでは敗れ、そして散っていった。そうした残酷な選別の過程を経るからこそ、勝ち残った三冠馬の栄光は、より強く、美しく輝く。三冠のロマンとは、わずか一握りの栄光と、それよりはるかに多くの挫折によって織り上げられた「物語」なのである。

 そんな歴史の影の部分を象徴するのが、歴史上最も「三冠馬に近かった」二冠馬である。皐月賞、菊花賞という二冠を制しながら、三冠の中で最も価値が高いとされる日本ダービーで、勝ち馬に遅れることハナ差、わずか7cmの違いによって栄光をつかみ得なかった彼のことを、人は当初「準三冠馬」と呼んだ。その称号は、わずかの差で「三冠馬」と呼ばれる機会を永遠に失った彼への敬意を込めたものだった。

 だが、そんな彼の栄光は、彼自身の凋落によってその価値を大きく傷つけられることになった。クラシック後の彼は、約2年間の競争生活の中で10戦しながら未勝利に終わった。しかも、彼と同世代でクラシック戦線を戦った馬たちも、古馬戦線で揃って大苦戦を強いられた。そのことによって、かつて「準三冠」という輝きに満ちた称号で呼ばれた彼の偉業に対する評価は地に堕ち、

「最弱世代に生まれたからこその快挙」
「生まれた時代に恵まれただけ」

と評されるようになり、ついには

「彼が三冠馬になっていたら、三冠馬の権威が崩れていた」

とまで侮られるようになっていった。クラシック戦線で「準三冠」を達成し、さらにはキングジョージ&Q.エリザベスS(国際Gl)にまで挑んだ輝きが色あせていくさまは、あまりに残酷なものだったと言わざるを得ない。そして彼は、そうした汚名を雪ぐいとまもないままに、まるでその栄光のすべてが、そして彼自身の馬生が夢だったかのように、短い馬生まで駆け抜けてしまったのである。

 彼を生み出した戦場・・・それは、20世紀最後の、そして外国産馬開放前の最後の年となった2000年牡馬クラシックロードである。あの時代は、なんだったのだろうか。あの輝きは、なんだったのだろうか。20世紀最後のクラシック戦線の覇者は、やがてその栄光のすべてが夢であったかのように、「最も三冠に近づいた馬」から、「最弱世代の代表格」へと貶められていった。そんな彼・・・エアシャカールの存在は、中央競馬の歴史の中でも特異な存在である。今回は、2000年牡馬クラシック戦線の二冠馬でありながら、運命の流転の激しさに翻弄された悲劇の馬でもあるエアシャカールを取り上げてみたい。

『カタログ506番』

 エアシャカールの生まれ故郷は、千歳の社台ファームである。社台ファームといえば、言わずと知れた日本最大の生産牧場であり、特にサンデーサイレンス導入以降の大レースでの実績は、他の牧場を完全に圧倒している。現在の社台ファームは、この牧場を一代で日本最大の牧場に育て上げた吉田善哉氏の死後、その息子たちによって3つに分割され、一族によるグループ牧場となっているが、先代からの名前をそのまま受け継ぐ社台ファームは、長男の吉田照哉氏が継いだものである。

 エアシャカールの牝系は、照哉氏と非常に深い因縁で結ばれていた。彼らの縁は、実に1972年まで遡る。社台ファームは、当時米国にフォンテンブローファームという牧場を所有していたが、その当時現地に赴いて場長を務めていたのが照哉氏だった。そして、エアシャカールの曾祖母にあたるタバコトレイルは、そのフォンテンブローファームの繁殖牝馬であり、祖母のヒドゥントレイルはフォンテンブローファームで生まれた生産馬だったのである。

 もっとも、照哉氏自身が配合を決めたというヒドゥントレイルは、脚が大きく曲がった「失敗作」だった。そのため照哉氏は、ヒドゥントレイルを「1万ドルか2万ドル」という捨て値でさっさと売り払ってしまった。そのうち社台ファームは、77年にフォンテンブローファームを手放し、照哉氏も日本へ呼び戻された。後に照哉氏が聞いたのは、案の定ヒドゥントレイルがレースに出走することもないまま繁殖入りしたという知らせだったが、照哉氏も数いる生産馬の1頭、それも「失敗作」のことをいつまでも気にしているわけにもいかず、そのうちにこの血統のことを忘れていった。

 ところが、照哉氏はその後、何度もヒドゥントレイルの名前を聞かされることになった。照哉氏が日本へ戻った後になって、ヒドゥントレイルの子供たちが次々と走り始めたのである。ヒドゥントレイル産駒が次々と重賞、準重賞を勝った反面、ヒドゥントレイル以外に繁殖入りしたタバコトレイル産駒は、そのほとんどが失敗に終わった。照哉氏は、「失敗作」の子供たちが結果を残したことに、馬づくりの難しさを痛感せずにはいられなかった。・・・そんな照哉氏が93年に出かけたアメリカの競り市に、ヒドゥントレイルの娘であるアイドリームドアドリームが上場されたのである。

 カタログに「№506」と記されたアイドリームドアドリームは、自身の競走成績こそ22戦2勝とそう目立ったものではなかったものの、その兄弟からは多くの活躍馬が出ていた。ちなみに、「アイドリームドアドリーム」という馬名は、意訳すれば「夢破れて」というもので、歌劇「レ・ミゼラブル」内の歌曲に由来するといわれている。この歌は、夢破れ、仕事を失い、男にも逃げられた不幸な女性が、自らの境遇を悲しんで歌うその名のとおり、寂しい歌である。

 照哉氏は、ヒドゥントレイル、タバコトレイルの血統への思いもあって、彼女を買うことにした。彼女に対する注目度はそう高くなく、価格も大きくつり上がることもないまま、6万3000ドルで落札することができた。こうしてヒドゥントレイルの血統は、約20年の時を経て、再び照哉氏のもとへと戻ってきた。

『一番星』

 アイドリームドアドリームが社台ファームにやってきて最初に生んだ牝馬(父マジェスティックライト)は早世したものの、次に生まれたエアデジャヴー(父ノーザンテースト)は1998年の牝馬クラシック戦線を沸かせ、クイーンS(Glll)優勝、オークス(Gl)2着、桜花賞(Gl)、秋華賞 (Gl)3着といった戦績を残した。エアシャカールは、そのエアデジャヴーの2歳下の半弟にあたる。

 出生当時、エアシャカールの血統に対する評価は、決して他の馬たちより優れていたわけではなかった。生まれて3週間ほど後に森秀行調教師が社台ファームを訪れた際、エアシャカールのことが気に入って自分の厩舎に入れるよう懇願したが、姉のエアデジャヴーは伊藤正徳厩舎に所属することが決まっていたにもかかわらず、エアシャカールの森厩舎入りはあっさりと決まった。当時の競馬界では、初子を管理した調教師がその弟、妹も管理することが多く、アイドリームドアドリームの子どもたちについても、エアシャカールの1歳下、2歳下の弟たちは伊藤正厩舎に入厩している。そこのことからすれば、もしエアデジャヴーのデビューがあと1年早く、エアシャカールのデビュー時に彼女が実績を残していたとすれば、エアシャカールが森厩舎に入ることはなかったかもしれない。この事実は、デビュー前の彼に対する伊藤正厩舎の評価がそれほどのものではなかったことを物語っている。

 エアシャカールへの評価が高まり始めたのは、ある程度本格的に運動を始めた後のことだった。このころには、姉のエアデジャヴーもデビューして実績をあげたことから、「母アイドリームドアドリーム」の血統も注目されるようになっていた。社台ファームの生産馬における彼の同期にはアグネスフライト、フサイチゼノンらもいたが、運動の様子に対する牧場の評価では、エアシャカールが世代ナンバーワンだった。

『不良少年と呼ばれて』

 やがて森厩舎へと入厩したエアシャカールは、いったん「エアスクデット」という馬名で登録されながら、その後エアシャカールに馬名変更されるという珍しい経験も経ながら、いよいよ競走馬としての生活を始めた。

 入厩したばかりのころのエアシャカールは、確かに走らせてみると能力では桁外れのものを持っていた。めちゃくちゃなフォームで走っても、他の馬たちに平気でついていく。いったん加速がついた時のスピードも、並みのものではない。・・・だが、それよりもむしろ目立ったのは、あまりにも激しく、どうにも御しがたい気性の激しさだった。

 森厩舎でも、事前にエアシャカールがかなり気性の激しい馬であるということは聞いていた。だが、実際の彼の気性は、厩舎のスタッフの想像をはるかに超えるものだった。馬場でも厩舎の中でも、場所にかまわず暴れ回る。機嫌を損ねると、人を乗せているのに尻っぱねをして振り落とそうとする。また、走っている時には手綱で止まらせようとしても、ひたすらに走り続けるため、乗り役が下りることができない。挙句の果てには、彼は4本脚のままでジャンプするという馬らしからぬ技まで持っていた。

 そんなエアシャカールだから、実際に乗るとなると、危なくて仕方がなかった。森厩舎の調教助手たちは、エアシャカールの気性にほとほと手を焼き、毎朝くじ引きで誰が乗るかを決めるようにしたほどだった。

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