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プレクラスニー列伝~勝者の屈辱~

 1987年6月10日誕生。1998年1月30日死亡。牡。芦毛。嶋田牧場(三石)産。
 父クリスタルパレス、母ミトモオー(母父ヴィミー)。矢野照正厩舎(美浦)。
 通算成績:15戦7勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍:天皇賞・秋(Gl)、毎日王冠(Gll)、エプソムC(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『プレクラスニー』

 「日本の馬産界には血統の多様性が根付きにくい」という点は、日本の馬産界の構造的な欠点として、古くから指摘され続けてきた。

 競走馬の血統にも栄枯盛衰がある以上、ある時代、ある地域に特定の系統が流行するという現象自体は、当然に起こりうる。新たに流行する系統があれば、廃れる系統があるのもまた道理である。だが、日本の馬産界は、ある系統が日本で流行し始めるとみるや、後先を考えずその系統の種牡馬ばかりを大量に輸入することを繰り返してきた。日本の馬産家たちがあまりに同じ系統の種牡馬を買い漁ったため、本場のアメリカやヨーロッパからほとんど姿を消してしまった系統すら、いくつもあったほどである。しかも、そこまでしてかき集めた系統でも、日本での流行が過ぎ去ったとみるやたちまち忘れ去ってしまい、1代か、せいぜい2代ほどで滅亡させてしまうことを繰り返してきたかつての日本は、海外から「種牡馬の墓場」として強く批判されてきたのである。

 もっとも、無数に日本へ輸入された系統の中には、ごく少数ながら日本競馬界への高い順応性を示し、日本競馬に深く根づいたものも存在する。古くアローエクスプレス、フォルティノらによって成功がもたらされたGray Sovereignの血を引く系統は、その代表格ということができよう。

 この系統のうち、現在にも父系を残している系統は、凱旋門賞馬トニービンの子孫たちがほとんどであるが、それ以外の系統からも、シービークロス・タマモクロスと続いた系統や、ビワハヤヒデ、アドマイヤコジーン、エイシンキャメロンといった、当時を知るファンであれら馴染みの深い名馬たちを少なからず生み出している。長い歴史の中で日本の馬場への適性が証明されてきたGray Sovereign系の血統は、牝系を含めればかなり広い範囲で日本競馬に影響を与え続けていると言えよう。

 しかし、数々の栄光を謳歌したGray Sovereign系の片隅で、1998年春に、1頭の内国産天皇賞馬が、活躍馬を残すこともなく、否、その機会すらほとんど与えられることすらないままに、寂しくこの世を去ったことは、あまり知られていない。

 その天皇賞馬とは、1991年の天皇賞・秋(Gl)を制したプレクラスニーである。

 プレクラスニーは、古馬の最高峰とされる大レースを制しながら、その生涯を通じて実績にふさわしい評価をほとんど得ることができなかった、不遇の天皇賞馬である。彼が低い評価しか受けられなかったことの背景には、彼の恵まれなかった競走生活が、様々な形で反映している。

 競馬界の歴史とは、あらゆる人々から賞賛と尊敬を受ける少数の名馬だけによって築かれるものではない。正当な評価を受けることなく埋没していく多数の馬たちによって築かれた部分も多い。そして、後者の中に、プレクラスニーのようなGl馬が含まれることも、決してまれではない。今後のサラブレッド列伝では、そうした馬たちも含め、様々なサラブレッドの生涯を叙述していく予定だが、その第1回として、まずは古馬最高の名誉を手にしながら、不遇のままに短い生涯を終えたプレクラスニーの生涯を追ってみたい。

『最強世代に生まれて』

 プレクラスニーは、1987年6月10日、北海道三石町にある嶋田牧場で生まれた。1987年の競馬界における主なできごとをたどってみると、牡馬クラシック戦線では悲運の二冠馬サクラスターオーがクラシックを戦い、また牝馬クラシック戦線では、マックスビューティが圧倒的な強さを見せた年である。

 プレクラスニーの父は、仏ダービー馬クリスタルパレスである。クリスタルパレスは、もともと芝の短距離に向くスピード血統と言われてきたGray Sovereign系種牡馬の中では、同時にスタミナも兼ね備えるバランスのとれた父系と評価されていた。種牡馬としての彼は、日本へ輸入される前にフランスでも供用され、仏リーディングサイアーに輝いた実績もあったため、そんな名馬が導入されるということで、馬産地から寄せられる期待は非常に熱いものがあった。

 プレクラスニーの母は、7歳まで現役馬として走って通算53戦8勝の戦績を残し、重賞の新潟記念を勝ったミトモオーである。このタフな牝馬は、その他にもビクトリアC(エリザベス女王杯の前身)、牝馬東京タイムス杯(府中牝馬Sの前身)、毎日王冠で2着、オークスで5着といった成績を残している。

 視点を変えてプレクラスニーと同じく1987年に生まれた牡馬たちを見てみると、高い水準でしのぎを削った実力馬たちが揃った世代として知られている。彼らの世代の中でも早くから頭角を現したエリートたちが激突した春のクラシックでは、疾風の逃げ馬アイネスフウジン、ハイセイコー最後の傑作ハクタイセイ、そして鮮烈な差しでファンに愛されたメジロライアンが「三強」を形成し、皐月賞はハクタイセイ、日本ダービーはアイネスフウジンが制した。やがて夏を越し、三強のうち春のクラシックを制した二強が去った後の菊花賞では、無冠の大器メジロライアンを押しのけ、夏以降に力をつけていったメジロマックイーンが主役を演じ、中長距離戦線は彼のもとに統一されることとなる。

 また、彼らの世代からは、王道を歩む主役たちばかりでなく、「1番人気だと勝てない」という謎のジンクスを背負いながらもマイル~中距離戦線を荒らしまわったダイタクヘリオスや、独特の逃げで宝塚記念、有馬記念の両グランプリを制したメジロパーマーなど、いわゆる「脇役」と呼ばれる存在も多数輩出する、非常に層が厚い世代であった。

 しかし、若かりし日のプレクラスニーは、そんな高い水準の同世代の中で、いずれ一流馬に数えられるようになるとは思われていなかった。ロシア語で「素晴らしい」「非常に美しい」という意味を持つプレクラスニーという名を与えられたサラブレッドの姿は、華やかりしクラシック戦線には、影も形もなかったのである。それどころか、6月生まれと生まれた時期がかなり遅いこともあって、デビュー自体が4歳の2月までずれ込んでいる。

 また、プレクラスニーは、デビューが遅かっただけではなく、4歳時に残した戦績も、条件戦ばかりに出走して6戦2勝というものにすぎなかった。この時点での彼の成績は、高いレベルといわれるこの世代でなくとも、人々の脚光を浴びるような代物ではない。

 ただ、プレクラスニーにまったく将来の「兆し」すらなかったかというと、そうではなかった。プレクラスニーの鞍上は、デビュー直後の2戦を除いては、いずれも2000勝騎手の増沢末夫騎手が手綱を取っていた。また、4歳時に挙げた2勝はいずれも芝1800mでのもので、後に中距離戦線で活躍することになる伏線は、この時既に用意されていたのである。

『予感に満ちた夏』

 そんなプレクラスニーが本領を発揮し始めたのは、5歳を迎えて古馬の仲間入りをした後のことだった。2勝目を挙げた後は放牧に出されて4歳秋を全休したプレクラスニーだったが、放牧から帰ってきた彼を見た管理調教師の矢野照正調教師は、たくましく成長している様子を認め、

「秋にはきっと大きな仕事をする馬」

と彼に熱い期待をかけていた。

 そして、プレクラスニーも、矢野師の期待に応えて芝1800mの条件戦を次々と勝ち上がっていった。

 1991年の4月になると、それまでプレクラスニーの主戦騎手を務めていた増沢騎手が騎手を引退することになり、新たに江田照男騎手とコンビを組むことになった。江田騎手は1990年に騎手としてデビューしたばかりだったが、いきなり27勝を挙げて新人賞を獲得したり、同年のうちに重賞初勝利を挙げたりするなど、その将来を嘱望される有望な若手騎手で、プレクラスニーとの新コンビでの緒戦となる晩秋S(1500万円下)でも、5馬身差の圧勝によって実力の違いを示した。

「今なら、重賞でも通用する・・・」

 矢野師の承認のもと、プレクラスニーはいよいよ重賞への初挑戦を許された。彼のために用意された舞台は、それまで2戦2勝と相性の良い東京競馬場で開催される重賞で、通算5戦4勝の芝1800mコースで行われるハンデ戦(当時)のエプソムC(Glll)だった。

 エプソムCに出走するころには、プレクラスニーは既に競馬関係者や一部のファンの間で「東の成長株」として注目を集めつつあり、この日の単勝オッズ280円は、堂々の1番人気である。そして、このレースで終始2番手につけ、直線できっちり抜け出したプレクラスニーは、あっさりと重賞ウィナーの仲間入りを果たし、「関東の秘密兵器」という一部での評価が決して的外れなものではないことを示した。

矢野師をはじめとする関係者たちは大いに喜び、プレクラスニーはご褒美として秋までの充電に入ることになった。もっとも、これがただの休養であるはずもない。プレクラスニーの東京芝コースでの戦績は、3戦3勝となった。このとき矢野師の視線の先には、おそらく東京の芝2000mで行われる古馬の最高峰・・・天皇賞・秋の盾があったに違いない。

『盾への片道切符』

 夏を越して秋競馬が始まると、プレクラスニーの復帰戦は、毎日王冠(Gll)と決まった。毎日王冠の舞台はエプソムCと同じ東京1800mであり、コース適性という意味では、プレクラスニーにとって申し分ない。だが、ハンデGlllで天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)といったGl戦線には足りない馬たちばかりが集まっていたエプソムCと異なり、毎日王冠は天皇賞・秋(Gl)の重要なステップレースと位置づけられている。このレースには、毎年天皇賞・秋を目指す強豪たちが集結しており、1991年もその例外ではなかった。

 この時の出走馬には、89年の安田記念(Gl)、90年のスプリンターズS(Gl)を制したGl2勝馬バンブーメモリー、90年の宝塚記念(Gl)でオグリキャップを破ったオサイチジョージがいた。また、この時点ではまだGlを勝っていないものの、後に91年、92年とマイルCS(Gl)を連覇する希代のクセ馬ダイタクヘリオスの姿もある。プレクラスニー自身を含めると、このレースに出走した13頭のうち、4頭が引退までにGlを計6勝したことになる。さらに、脇を固めるメンバーも淀巧者のオースミロッチ、無事是名馬のカリブソングという渋い個性派が揃い、それまで一線級との対決を経験していなかったプレクラスニーにとって、天皇賞・秋へ向けた見通し、そして彼自身の真価が問われるレースとなった。ちなみに、東京競馬場では、その週から初めて「馬番連勝」馬券が発売されている。

 この日のレースは、ダイタクヘリオスが力強く逃げる中、プレクラスニーは2番手を追走していった。力のある2頭に引っ張られ、ペースはつり上がっていったが、充実期を迎えつつあるこの2頭は、自ら作り出した厳しいペースに飲み込まれるような並みの馬とは次元が違う。直線に入ってからも彼らの脚色は衰えることなく、むしろ激しい叩き合いを続けたのである。そして、死闘の末に半馬身相手を競り落としたのは、ダイタクヘリオスではなくプレクラスニーの方だった。

 この日の勝ち時計は1分46秒1で、サクラユタカオーが持つコースレコードに僅か0秒1差という優秀なタイムだった。強い相手に強い勝ち方を収めたプレクラスニーは、見事に重賞2連勝を飾り、堂々と盾へと駒を進めることになった。

『第104回天皇賞』

 そして、運命の1991年天皇賞・秋、第104回天皇賞(Gl)当日がやって来た。単勝190円の圧倒的1番人気に支持されたのは、前年の菊花賞に続いて天皇賞・春(Gl)を制しているメジロマックイーンだった。

 名門メジロ牧場の誇りともいうべき天皇賞父子制覇を達成したメジロアサマ-メジロティターンを父系に、やはりメジロ牧場によって長い時間とともに育てられた基礎牝系たるシェリル系を母系に持つメジロマックイーンは、両親から晩成の血を受け継ぎ、前年の秋以降、その血を無限の成長力へと変えつつあった。既にGlを2勝しながらさらに充実の一途をたどる王者メジロマックイーンは、秋の緒戦に選んだ京都大賞典(Gll)で、他の馬たちが彼を恐れて次々と回避する中、いともたやすく楽勝することで、疑う余地のない圧倒的な実力を見せつけていた。彼の鞍上にいるのは、前々年のイナリワン、前年のスーパークリーク、そしてこの年メジロマックイーンで天皇賞・春3連覇を達成し、天才の名をほしいままにする「平成の盾男」こと武豊騎手である。

 しかも、メジロマックイーンのライバルたりうるとしたらこの馬しかいない、といわれ、宝塚記念(Gl)では悲願のGl制覇を成し遂げた東の横綱メジロライアンは、この時屈腱炎に倒れ、既に戦線を離脱していた。最大のライバルなき今、メジロマックイーンが史上2頭目の天皇賞春秋連覇を達成することは、もう既成事実のように言われていた。穴党はなんとか荒れる要素を探し出そうと血眼になり、「距離不足」「外枠不利の府中2000mで13番枠は外すぎる」という主張をむりやり引っ張り出してはいたものの、そうした主張の頼りなさは、主張する人々が一番よく分かっていた。大部分のファンにとってこのレースは「軸不動」で、あとは連下に何が来るか、というのが予想の焦点であり、注目と関心の対象だった。

 この日の2番人気は、前年に日本ダービー3着、菊花賞2着、ジャパンC4着という戦績を残したホワイトストーンだったが、秋はオールカマー(Gll)で公営の雄ジョージモナークに後塵を拝していた。プレクラスニーは、ホワイトストーンに続く単勝870円の3番人気で、いちおう期待馬の端くれという評価といえようが、それ以上のものでもない。圧倒的支持を受けるメジロマックイーンの前で、プレクラスニーを含めた他の馬たちの影はかすみがちとなった。

 しかし、この時のファンには、「マックイーン神話」が浸透しすぎていた。また、この日の東京競馬場には雨が降り続いており、馬場状態が悪化の一途をたどっていたことも、湿って力のいる馬場を得意とするメジロマックイーンに有利な材料と思われた。一方、脚質こそメジロマックイーンと同じ先行タイプではあるものの、ダートでのデビュー戦を除くとそもそも重馬場以上で走ったことすらないプレクラスニーにとって、この気候と馬場状態は、明らかにマイナス材料だった。

『雨の日曜日』

 小雨降りしきる東京競馬場で、馬場状態は不良というコンディションの中、第104回天皇賞(Gl)のファンファーレが憂いを秘めて鳴り響き、ゲートが、そして戦いの幕が開けられた。

 すると、スタートとともに敢然と飛び出したのは、メジロマックイーンと武騎手だった。外枠が絶対不利とされる東京2000mコースで13番枠を引いたハンデを跳ね返そうとばかりに、先頭を行きながら、するすると内へ切り込んでいく。そんな現役最強馬に対し、挑戦者であるプレクラスニーも負けじと挑み、先頭をめぐって激しく対峙する。・・・そして第2コーナー過ぎで馬群を抜け出して先頭を奪ったのは、プレクラスニーの方だった。

 プレクラスニーがレースを引っ張り、メジロマックイーン、ホワイトストーンが続く展開・・・それは、かつて「走らない」という迷信があった芦毛の3頭が上位人気3頭を独占し、さらに前半はすべて好位で競い合うものだった。後続の馬たちは彼らについていくことができず、展開は変わらないまま第4コーナーを回り、いよいよ直線の攻防が始まる…かと思われた。

 ・・・だが、直線で始まったのは、「攻防」などと呼べる代物ではなかった。渋った馬場を味方につけ、泥をはね、馬場を切り裂き、翔ぶが如く1頭の芦毛が、残る2頭の芦毛の横をすり抜けてあっという間に置き去りにし、雨の中へと消えていった。遠ざかるメジロマックイーンの背中を懸命に追うプレクラスニーだったが、彼らの間の差は、たちまち絶望的なものへと変わっていった。

『ウイニング・ラン』

 メジロマックイーンは、後続に圧倒的な着差をつけて、ただ1頭ゴール板に飛び込んだ。その差、実に6馬身の圧勝だった。若き天才武豊は「ウイニング・ラン」を終えると、12万大観衆の歓声にガッツポーズで応え、ゴーグルをスタンドに投げ入れるほどの興奮ぶりである。その瞬間、誰もが天皇賞春秋連覇の偉業の達成を信じた。

 一方のプレクラスニーは、初めて経験する不良馬場に脚を取られ、最後はすっかり脚が上がっていた。しかし、彼はそれでも、追ってきたカリブソング以下を3/4馬身抑えて2着で入線した。

 メジロマックイーンと武騎手が大観衆の祝福と賞賛を一身に集めるその最中、歓声も雨の音に消される向こう正面で、江田照男騎手は、静かにプレクラスニーから下馬していた。彼の愛馬は、苦手な不良馬場の激闘ですべての力を出し尽くし、跛行を生じていたのである。「勝者」と「敗者」のコントラストがかくも鮮明に浮き彫りになった光景も、そう滅多にあるものではない。だが、一緒に前でメジロマックイーンと戦おうとしたホワイトストーンが掲示板にすら残れなかったことを考えると、プレクラスニーの不屈の精神は称えられるに値するものだった。ただ惜しむらくは、勝った馬が強すぎた・・・。江田騎手の胸に去来するのも、敗れた無念さではなく、力を出し切ったことに対する満足感だった。

 ・・・だが、この時の約12万人の観衆のほとんど、そして当事者である騎手たち自身さえ、着順掲示板に灯る「審」のランプの意味に気付いてはいなかった。それは、15分後に起こる天皇賞史上最大の逆転劇の予兆だったにも関わらず。その大逆転劇は、この時既に始まっていた。

『プレクラスニー逃切』

 ウイニング・ランを終えて検量室へと戻っていった武騎手を迎えたのは、他の騎手たちによる凄まじい抗議と叱責・・・否、罵声と怒号だった。メジロマックイーンと武騎手がスタート直後の第2コーナーで大きく外から内へと切れ込んだ際に、他の馬たちの進路を妨害したというのである。パトロールフィルムを目にした武騎手の表情からも、たちまち血の気が引いていった。この時既に、審議はきわめて深刻な段階に入っていた。

 天皇賞史上最大の大逆転劇は、ゴールから約15分後に完結した。メジロマックイーンは、第2コーナーでプレジデントシチーらの進路を妨害したとして、18着への降着処分を受けたのである。・・・勝者に与えられる盾と名誉はメジロマックイーンの手から奪われ、2着で入線したプレクラスニーへと与えられることになった。こうしてプレクラスニーは、突如勝者の地位へと転がり上がったのである。

 パトロールフィルムを確認すると、第2コーナーのメジロマックイーンが内へ切れ込んだところで、馬群が異常なまでに混乱しており、中でもプレジデントシチーは、落馬寸前になっているのが一見して分かる。メジロマックーンの18着降着はやむを得ないと思われる。降着制度は当時始まったばかりで、この古馬最高のレースが適用第1号となった。だが、過去の例を見ても、88年の天皇賞・春で2着入線のニシノライデンが失格となった例はあるものの、天皇賞の長い歴史の中で1着入線の馬が失格となった例はなく、繰り上がり優勝は初めてだった。

 この日の天皇賞・秋の記録に記されたのは、「プレクラスニー逃切」というものだった。メジロマックイーンという「勝者」の存在が抹消された以上、プレクラスニーの競馬は「逃げ切った」と評するよりほかにない。秋の天皇賞が2000mに短縮されて以来、逃げ切り勝ちを納めたのはわずかに2頭で、プレクラスニーの他にはニッポーテイオーがいるのみである。

『勝者の屈辱』

 しかし、この裁定は、第104回天皇賞に関わった人々の多く・・・特にメジロマックイーン陣営の人々と、プレクラスニー陣営の人々の運命を大きく変えるものだった。

 18着降着の裁定が、敗者とされた若き天才と王者に深い屈辱を与えたことは、想像に難くない。レース直後には、

「不当な降着だ!」

「提訴する!」

といったメジロマックイーン陣営の激しい反応も大きく報じられている。しかし、この裁定がメジロマックイーンの犯した進路妨害という罪の結果である以上、それは彼らにとって受け入れなければならない罰である。この裁定がもたらした真の悲劇とは、敗者とされた側ではなく、勝者とされた側にこそあった。

 「天皇賞馬」となったプレクラスニーを迎えるスタンドの雰囲気は、例年のそれとは明らかに異なるものだった。そこに古馬の頂点に立った者への賞賛と尊敬はなく、あるのは目の前で起こった現実に対する当惑と、当事者たちへの同情だった。

 当時19歳だった江田照男騎手は、この日、最年少天皇賞制覇の栄誉を手に入れたが、若くして大きな名誉を手に入れたはずの勝者の顔に、晴れやかさはまったくなかった。彼の表情から読み取れるものも、いかんともしがたいばつの悪さと戸惑いのみである。プレクラスニーがメジロマックイーンに完全に力負けしていたことは、彼が一番よく知っていた。ここに立つのは、本来自分であるはずがない。それなのに・・・。直後にJRA史上最年少天皇賞制覇の感想を聞かれたときも、

「本当にね、勝ったわけじゃないですからね。だから、そんなにうれしいということはないですね」

と、とても勝利騎手とは思えないコメントを述べている。

 つらい思いをしたのは、江田騎手だけではない。プレクラスニーの生産者である嶋田克昭氏も、レース後こんな感想を漏らしている。

「正直言って、表彰台に立っているのが辛かった・・・」

 嶋田氏は、周囲の人々から「ルールに則って勝ったのだから」と慰められ、祝勝会を開くことを勧められたが、嶋田氏本人は、そんな誘いに決して首を縦に振ることはなかったという。

『名誉を取り戻すことなく』

 天皇賞・秋のレース後、報道陣に囲まれた江田騎手は

「この次にマックイーンと闘うときは、先頭でゴールを駆け抜けてみせます」

というコメントを残した。繰り上がり優勝・・・この空虚な栄光は、確かな敗北を知る彼の心に、深い影を落としていた。

 プレクラスニー陣営は、次の目標を「憧れていた」と矢野調教師が語る有馬記念(Gl)一本に絞り、メジロマックイーンとの再戦に備えることになった。有馬記念の舞台は中山2500mであり、距離が伸びれば伸びるほど強さを発揮するマックイーンに比べ、中距離を得意とするプレクラスニーには明らかに分が悪い。しかし、あまりにも後味の悪い天皇賞・秋のイメージを払拭するために、プレクラスニーは勝たなければならなかった。

 有馬記念でのプレクラスニーは、今度も3番人気の単勝900円となった。1番人気がメジロマックイーンであることは当然として、2番人気は4歳馬ナイスネイチャだった。京都新聞杯(Gll)、そして有馬記念の直前に鳴尾記念(Gll)を勝っているとはいえ、菊花賞で4着だった4歳馬よりも低評価というのが、天皇賞馬の現実だった。

 年末のグランプリは、今は亡き狂気の逃げ馬ツインターボが玉砕的な逃げを打つ形で始まった。プレクラスニーは2番手に抑えたものの、2周目の第3コーナーでツインターボが急激に失速したのを見るや、敢然と先頭に立った。この失速は鼻出血の発症の影響だったことがレース後に明らかになったが、レース中の江田騎手にはそこまで知る由もない。それでも、ここを勝負どころと見定めて進出していくその様子は、まるで天皇賞・秋の悪夢を払おうとするかのようだった。

 しかし、ツインターボによるハイペースを見越して中団で脚をためていたメジロマックイーンらも、大歓声に合わせるように上がって来た。脚色が違う。

 プレクラスニーは、毎日王冠に続いて直線での叩き合いとなったダイタクヘリオスの急襲をしのぎ、直線の半ば過ぎまで必死の抵抗を見せた。それまで2000mまでのレースしか走ったことのない中距離馬が、残り100mを切る2400m地点でも先頭を維持し、懸命に粘っている。・・・だが、それが彼の限界であった。

 力尽きたプレクラスニーの横を、何頭かのサラブレッドが突き抜けていく、そして、その中にはメジロマックイーンの姿もあった。・・・この時、プレクラスニーの戦いは終わった。

 レース自体は、一世一代の豪脚を見せたブービー人気のダイユウサクが、大本命メジロマックイーンを差し切るという大波乱で幕を閉じた。しかし、そのような狂騒劇はプレクラスニーには関係なかった。プレクラスニーにとって、メジロマックイーンに敗れたことがすべてだったのである。

 そして、この日の有馬記念は、結果としてプレクラスニーの最後のレースとなった。プレクラスニーは6歳になってすぐに脚部不安を発症したのである。こうして江田騎手のマックイーン打倒の誓いは、ついに果たされぬまま終わった。復帰への努力は1年に渡ったものの、その努力は空しく彼が再びターフに戻ってくる日はこなかった。

『果たされぬ使命』

 現役を引退し、7歳春から種牡馬入りしたプレクラスニーには、天皇賞馬としてその血を後世に伝えるという第二の使命が与えられていた・・・はずだった。古馬の最高峰・第104回天皇賞を制したのは、まぎれもなくプレクラスニーだったのだから。

 しかし、世間はそうは見てくれなかった。プレクラスニーにとって最大の栄光であるはずの天皇賞は、常に「メジロマックイーン降着」という形容詞のみによって語られ、決して「プレクラスニーが勝った」という形容詞で語られることはなかった。降着、繰り上がり優勝という強烈な残像は、プレクラスニーの粘り強い逃げは勿論のこと、前走までのレコードと僅差での連勝すら、吹き飛ばすには充分すぎるものだった。

 プレクラスニーの生涯戦績を見ると、芝の1800m戦は7戦6勝2着1回であり、東京の芝コースでも5戦5勝と無類の強さを示した。彼が芝で連を外したのは、有馬記念を含めてもたったの2回だけである。だが、彼の実力を証明してくれるはずのこれらの数字は、プレクラスニーに対する評価の材料としては、何の役にも立たなかった。常に最強馬を追い求める時代の流れの中で、「最強ならざる勝者」であるプレクラスニーの存在は、黙殺されることになったのである。

 1994年に生まれたプレクラスニーの初年度産駒は、わずか10頭だった。内国産の天皇賞馬としては、あまりに悲惨過ぎる数字である。しかし、その翌年には、その数字ですら彼にとって幸せなものだったことが明らかになる。翌95年生の産駒数はさらに落ち込んでわずかに4頭となり、98年生の1頭を最後に、ついにプレクラスニーの産駒自体が1頭もいなくなった。

 初年度産駒の中で中央デビューを果たした数少ない1頭であるストレラー(牡)は、江田騎手とのコンビで3戦目に勝ち上がり、府中3歳S(Glll)ではゴッドスピードの4着と健闘した。この馬はその後アクシデントに見舞われるなどの不運にもめげることなくその後2勝目を挙げている。・・・だが、そんな彼も、平地17戦2勝、障害3戦未勝利の戦績を残したまま、レース中の事故で世を去った。96年生まれでストレラーの全妹になるタンドレスも、17戦1勝の戦績を残したものの、繁殖入りすることなく乗馬となった。プレクラスニー産駒が中央競馬で挙げた勝ち鞍は、この2頭によるものがすべてである。

 一方、第104回天皇賞で敗者とされたメジロマックイーンは、勝者とされた者とはまったく違う経路を辿った。ターフからプレクラスニーの姿が消えた後も、メジロマックイーンは最強馬として競馬界に君臨し続けた。トウカイテイオーやライスシャワーといった数々の名馬たちと死闘を繰り広げ、回転の速いサラブレッドの世界で約3年に渡り王者の地位に君臨した彼は、天皇賞・春連覇をはじめとするGl4勝、天皇賞父子3代制覇を成し遂げた偉業を称えられ、顕彰馬にもなった。メジロマックイーンを語る場合、第104回天皇賞は常に伝説として語られる。2着に6馬身差をつける圧倒的なレースをしながら、不運にも優勝の栄誉をはく奪された悲劇―勝者の悲哀と対照的な、敗者の栄光として。

『滅ぶもの、生きるもの』

 種付け希望がなくなり、種牡馬生活を続けることができなくなったプレクラスニーは、1998年初冬、JRAに引き取られて余生を過ごすことになった。JRAによる余生の保障は、当時は旧八大競走勝ち馬のみに認められた特権であり、彼には着順も成績も問われない第三の馬生が待っているはずだった。しかし・・・新しい環境に移って1ヶ月も経たないうちに、彼は着順も成績もまったく問われない世界へと旅立ってしまった。環境の急激な変化に耐えられなかったのだろうか、それとも競争の機会すら与えられることなく競争世界から追い出されたことへの抗議だったのだろうか。

 プレクラスニーの父クリスタルパレスも、プレクラスニーの他には中央競馬の重賞勝ち馬を出すことができないまま、1995年に死亡した。クリスタルパレスは、自らは仏ダービーを勝ち、凱旋門賞でも3着に入ったほどの馬であり、種牡馬としても、日本に輸入される前にはフランスで多くの活躍馬を出し、1985年の仏リーディングサイアーに輝く能力を秘めていた。だが、日本での産駒成績を見ると、プレクラスニーは前記のとおりで、期待されていたプレクラスニーの全弟プレストールも1戦しただけで引退するなど、他の活躍馬は特に出すことができなかった。クリスタルパレスをブルードメアサイヤーとする馬からは、後に2002年の日本ダービー馬タニノギムレットが現れたものの、後継種牡馬はプレクラスニーしかいなかったため、そのプレクラスニーが死亡したことによって、父系は完全に断絶した。

 21世紀に入って、日本競馬界の情勢は急激に変わった。日本の有力馬は当たり前のように海外に遠征し、有望な子馬は海外のバイヤーによって買われていき、種牡馬の交流も、かつてのような一方的な入超ではなくなりつつある。しかし、日本が「名馬の墓場」という汚名を返上できたとしても、それ以前に消滅した血統が再び蘇ることはない。失われたクリスタルパレスの直系がそうであるように。

 確かに、競馬の世界では血統の栄枯盛衰はつきものであり、栄える血統もあれば、滅びゆく血統が出てくることもやむを得ないのかもしれない。だが、それを当然のことと冷たく突き放すだけでは、あまりにも悲しく、あまりにもむなしい。名馬の血が残らないのならば、せめて記憶に留めておくことが、私たちの責務ではないだろうか。フランスからやってきた名馬の仔に、天皇賞を勝った馬がいたこと。そして、その馬は運命に翻弄されるうちに、ひっそりと短い生涯を閉じたこと・・・。

 幸い、プレクラスニーの弟妹、産駒たちの多くは、彼に魅せられながらも彼の運命を止めることができなかったことを悲しんだあるファンに引き取られ、平和に暮らしたという。かつて府中を愛し、そして府中で不敗のまま逝った芦毛の天皇賞馬の血統は、競走馬、サラブレッドとしてはとうに絶えてしまったが、せめて単なる馬として、日本のどこかで生き長らえてはいないのだろうか―

記:1998年7月29日 補:1999年2月10日 2訂:2000年6月22日 3訂:2003年2月09日 4訂:2006年2月26日

復刻:2021年7月●日

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