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スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~

『菊を目指して』

 左前脚骨折による失意の時から4ヶ月、スーパークリークは神戸新聞杯(Gll)でようやく戦列復帰を果たした。皐月賞、日本ダービーへの出走はかなわなかったものの、クラシック最後の一冠である菊花賞(Gl)にはまだ間に合う。過ぎ去った過去を振り返るよりも、まだ見ぬ未来に向かって歩まなければならない。それに、スーパークリークの血統は、もともと「菊を勝てる配合」として考えられたものであり、菊花賞は彼のためのレースとなるはずだった。
 
 ところが、武騎手を鞍上に神戸新聞杯に臨んだスーパークリークは、直線ではよく伸びたものの、前をとらえきれずに3着に終わった。半年ぶりにしてはなかなかのレース内容だったが、当時の神戸新聞杯は菊花賞トライアルではなかったため、3着では菊花賞の優先出走権を得られない。本賞金を上積みできる2着以内に入れなかった以上、3着は最下位と同じことだった。
 
 ただ、伊藤師、武騎手ともこの日のレース内容自体には納得していた。どんなレース展開でもばてることなく、直線ではむしろ着実に伸びてくる。そんなスーパークリークのいいところは、骨折を経ても健在であることが分かったからである。純粋ステイヤーのこの馬がもっとよくなるのは、距離がもっと伸びてから。だからこそ、彼らはなんとしてもスーパークリークを菊花賞に出してみたかった。3000mの菊花賞であれば、出走することさえできれば、好勝負ができるに違いない。
 
 本賞金の獲得状況からいうと、スーパークリークの菊花賞出走は微妙なところにとどまっていた。しかし、当時は京都新聞杯(Gll)で5着に入れば、菊花賞への優先出走権をとることができた。2000mの神戸新聞杯ならともかく、すみれSと同じ距離である2200mの京都新聞杯で、それも5着以内でいいというのなら、今のスーパークリークにとって、そう高いハードルとは思えない。伊藤師らは、むしろ神戸新聞杯は「ひと叩き」というような感覚で、自信を持ってスーパークリークを京都新聞杯に送り込んだ。

『悲運ふたたび』

 ところが、京都新聞杯でスーパークリークを待っていたのは、予想もしない悲運だった。この日、後方待機策で菊への切符獲りを目指したスーパークリークだったが、直線では目の前が壁になってしまったのである。もっとも、武騎手は落ち着いてスーパークリークを外へと持ち出して追い始めた。不利と言っても、この程度であれば何ら問題はない・・・はずだった。事件が起こったのは、その時のことである。

 この時近くにいた騎手のステッキが、スーパークリークの顔面を直撃した。それも1発や2発ではなく、その馬と並んで上がっていこうとしたところを何発もぶつけられたのである。これでは、いくらスーパークリークの精神力が強くても、まっとうに走れるはずがない。
 
 結局、スーパークリークはこの時の不利がこたえて6着に終わった。菊花賞への優先出走権には、あと一歩届かなかったのである。
 
「何ですか、あの乗り役は!?」
 
 武騎手は、レース後、思わずそう声を荒げた。外に持ち出した時に、その動きに気づき遅れた騎手が1発か2発当ててしまったというのなら、まだ理解できる。しかし、この日のそれは、違っていた。直線に入ってまっすぐ追い始めた後に、同じ騎手のステッキが馬の顔面に何度もぶつかるなど、故意であるといわれても仕方がなかった。実力が及ばなかったのなら仕方がないが、明らかな人災で実力を発揮できなかったなど、到底納得できる話ではない。

 しかし、問題を起こした馬は、スーパークリークに先着することができなかったこともあったのか、失格となることもなかった。スーパークリークの着順も、そのまま確定してしまい、菊花賞の優先出走権獲得に失敗してしまった。
 
 そして、スーパークリークの関係者がかたずを呑んで見守った菊花賞の最終登録では、彼らが恐れたとおりの事態が起こってしまった。この年フルゲート18頭の菊花賞の前週に特別登録したのは36頭で、その中でのスーパークリークの出走順位は、19番目だったのである。本賞金上位、または優先出走権を持つ18頭の中から回避馬が出なければ、スーパークリークの菊花賞は、出走するどころか、抽選にさえ加われないまま終わってしまう。

『救いの手』

 窮地に陥ったスーパークリークに対して、救いの手は、思いがけないところから差しのべられた。春のきさらぎ賞を勝った際に上積みした本賞金によって、菊花賞への出走が確実だったマイネルフリッセが、直前になって出走を断念したのである。
 
 マイネルフリッセは共有馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の持ち馬であり、同クラブの代表を務めるのは、以前にスーパークリークの配合決定にも関わった岡田繁幸氏だった。
 
 岡田氏にとって、スーパークリークはもともと
 
「菊花賞を勝てる馬」
 
として自ら配合を考えたという因縁があった。岡田氏の助言どおりの配合で生まれ、いま充実期を迎えようとしているスーパークリークは、相馬眼という点では絶対的な自信を持っていた岡田氏の目からも、菊花賞に出ることさえできれば必ず勝ち負けできるように思われた。それが、あのようなトラブル…というよりは人災で、一生に一度のチャンスを戦わずして諦めなければならないということが、果たして許されるのだろうか。
 
 一方、マイネルフリッセは、この年の初頭には武騎手を鞍上に福寿草特別、きさらぎ賞でスーパークリークを破っている。しかし、マイネルフリッセが本賞金を稼いだのは他の馬が完成していないこの時期だけで、晩成馬の成長が追いついてきた秋の戦績はさんざんなものだった。この馬が菊花賞へ進んでも、おそらく勝ち負けする事は難しい。そこで岡田氏が思いついたのが、スーパークリークにせめて抽選の機会を与えるために、マイネルフリッセの出走を見合わせるということだった。

『企業人として、ホースマンとして』

 「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表という岡田氏の企業人としての立場からすれば、「マイネル」の冠名が付いた馬が大レースに出るメリットは大きい。

 マイネルフリッセは、クラブが募集した第1期の馬であるとともに、初めての重賞勝ち馬だった。この馬が菊花賞に出走すれば、「ラフィアンの馬は走る」ということの何よりの宣伝になる。それは、まだ立ち上がったばかりの「サラブレッドクラブ・ラフィアン」にとって、金銭には替えがたい巨大な宣伝効果を生むはずだった。そんな計り知れない宣伝効果を、何の見返りもないのにあっさりと捨ててしまうのか…。それは、単なるホースマンにとどまらない企業グループの総帥としての顔も持つ岡田氏ならではの苦悩だった。
 
 悩みに悩んだ岡田氏だったが、彼は最終的には企業人ではなく、ホースマンとしての選択をした。岡田氏は、マイネルフリッセを管理していた中村均師に出走を取りやめるよう要請したのである。岡田氏からの要請は、その悩みの深さを物語るかのように、菊花賞出馬投票日前日の夜のことだったという。

『悲しき決別』

 岡田氏の要請を聞いた中村師は、激怒した。確かにマイネルフリッセが出走しても、勝ち負けまで持ち込むことは難しいかもしれない。しかし、中村師や中村厩舎のスタッフは、管理馬を菊花賞へと送り込むことができることを誇りとし、少しでも上の着順に持っていけるように丹精を込めてマイネルフリッセの調整に臨んでいた。

 そもそもマイネルフリッセは、岡田氏個人の持ち馬ではなく、共有馬主たちの持ち馬である。中村師も、共有馬主という形態を広げたいという岡田氏の志を聞いて共鳴したからこそ、クラブの所有馬を預かっていた。マイネルフリッセの菊花賞への出走をこのような形で取りやめることは、菊花賞を楽しみにしている共有馬主たちの期待を裏切ることになるのではないか。
 
 それなのに、自分にもなんの相談もなく、出馬投票の前日になっていきなり「出走をやめろ」とはどういうことなのか。菊花賞の日のためにこれまで頑張ってきた自分の気持ちはどうなるのか。そして、スタッフに対してもどう説明すればいいのか…。
 
 それでも中村師は、最終的に岡田氏の要請を受け入れ、マイネルフリッセの菊花賞出走をとりやめた。岡田氏の選択は、マイネルフリッセの共有馬主たちの大部分からは、むしろ好意的に受け止められたという。
 
 しかし、管理馬を菊花賞へと送り込むはずだった厩舎の主として、そしてホースマンとして悔し涙を流した中村師の怒りと悲しみは、深かった。この事件が起こったのは1988年のことだが、同クラブの持ち馬のうち、この時既にデビューしている1985年生まれ、1986年生まれの産駒は、2世代で7頭が中村厩舎に入厩している。ところが、この事件の翌年にデビューする1987年生まれの馬はわずかに1頭と急減し、1988年、1989年生まれの2世代に至っては、クラブ全体の募集馬は増えてきたにもかかわらず、中村厩舎への入厩はない。1987年生まれの1頭が前からの約束ができていた馬だとすれば、両者の関係はこの間事実上絶縁していたに等しい。現在でこそ両氏の関係は復活しているが、一般に「美談」として語られがちな「マイネルフリッセ事件」の陰にはこんな犠牲があったことは、忘れてはならないだろう。

『天命』

 閑話休題。こうしてマイネルフリッセが出走を回避し、さらにもう1頭、菊花賞と同じ京都芝3000mの嵐山S(OP)を制して本賞金上位だったセンシュオーカンも突然の故障で出馬投票を行わなかったことにより、スーパークリークの道は大きく開けた。
 
 当初の見通しでは、スーパークリークは本賞金19番目ということで、抽選のチャンスさえないままに出走できずに終わるだろうと言われていた。また、1頭が回避しただけでは、同じ本賞金で並んでいたガクエンツービートとの2分の1の出走権を賭けた抽選になるにすぎない。しかし、ここで2頭が回避したことにより、スーパークリークは抽選すらないまま、菊花賞への切符を手にすることができた。
 
 武騎手のもとには、菊花賞への出走予定馬のうち、スーパークリークを含めた5頭から騎乗依頼が来ていたという。しかし、彼が最後までこだわり続けたのはスーパークリークだった。本人の決断によっていつでも菊花賞に騎乗馬を確保できる立場にいた武騎手だったが、彼の頭からは初騎乗のすみれ賞での衝撃、そして前走の京都新聞杯の無念が頭から離れなかった。
 
 さらに、武騎手が、菊花賞での騎乗馬候補たちの様子を見るために各厩舎を訪ね、一人で馬房へ様子を見に行って帰ろうとすると、突然スーパークリークが、彼を引き留めるように袖をくわえて引っ張ったという。その時彼は、出走できるかどうか分からないこの馬に賭けることを決めた。
 
「出られるかどうか分からないけれど、なんとかスーパークリークで菊に行きたい…」
 
 そんな彼の思いは、スーパークリークの出走決定によって、天に通じたのである。

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