スーパークリーク列伝・編集後記
多数のGlを制した名馬中の名馬は「本紀」として別勘定となる当サイトにおいて、Gl3勝と最強クラスの列伝馬となるスーパークリーク列伝を、若干修正の上で更新しました。え?シングレに触発された?そうですが、何か?(もはや隠す気すらない)
この列伝は、形になっている列伝の中でもかなり初期に書かれたものなので、自分でもスタイルの違いに戸惑います。主人公にとっての大きな節目となるレースへの入り方が、私の中でまだ確立されていなかった結果、なんだか雑な印象です。「キン肉マン」昭和版の1巻あたりは、中盤以降と作画が別人・・・と言いましょうか。本当はこういう文章も一から書き直すべきなのでしょうが、そこは専業ならざる・・・というより副業ですらない余興ということで、ご容赦いただくよりほかにございません。
旧列伝の校正作業がしばらく止まっていたのは、多忙という要素もあるのですが、そろそろ列伝を貫く史観について、単なる表現の若干の見直しで済むものが少なくなってきたという点が挙げられます。20年という時の流れの大きさと残酷さです。
スーパークリークといえば、何と言っても「平成三強」なのですが、「長きに渡った」というイメージがあった「平成三強時代」は、実は89年秋の半年だけではなかったか・・・などと感じました。「平成三強」がそろい踏みしたレースとは、実は89年の天皇賞・秋、ジャパンC、有馬記念の3戦だけで、勝ち馬ないし日本馬最先着は「平成三強」が分け合う形になっています。これ以外に2頭が直接対決したのは、88年菊花賞と有馬記念(オグリキャップvsスーパークリーク)、89年毎日王冠(オグリキャップvsイナリワン)、90年天皇賞・春(スーパークリークvsイナリワン)、宝塚記念(オグリキャップvsイナリワン)とあるわけですが、「三強のうち二強の対決」と「三強直接対決」では、やはり位置づけが違います。3頭の直接対決がそこまで多くなかったからこそ、3頭の力関係がはっきりしすぎず、「平成三強時代」という形で美しい物語を紡ぐことができたという側面は、間違いなくありそうです。これも歴史の配材でしょう。
ちなみに、最後は社会現象と化した「オグリ人気」の中で、南関東とはいえ同じ地方出身のイナリワンをそう位置づけることはできなかったにしても、スーパークリークが「地方出身の雑草の前に立ちはだかる中央のエリート」というような位置づけをされていたのは、冷静に見直してみると、明らかに何かが間違っています。「父ノーアテンション、母父インターメゾで、セリ競落価格810万円のエリート」・・・。「雑草vsエリート」の構図は売りやすいという大人の事情は理解しますけど・・・。
まあ、この件に限らず、特に90年代前半以前の競馬界は、客観的に検証すると「???」という逸話が、結構定説化していることに気づきます。外部からの可視性が低い競馬サークルという閉じた世界から、一般社会の注目を集めるための情報には、どうしても意図的、あるいは意図せざる齟齬が生じてしまうのです。
校正の際、こうしたポイントに気づいてしまったらどうするのかということにも、悩んでいたりします。日本史で言えば、私が認識していたかつての「常識」も、
・一の谷と鵯越は8kmも離れたまったくの別物
・元寇は二度目だけでなく一度目も鎌倉幕府軍は決して連戦連敗していたわけではない
・建武の新政は結果的に崩壊しただけで、崩壊必至の単なる復古政策だった・・・とは言い切れない
・北条早雲は素浪人ではなく室町幕府でもそれなりの地位にいた名門の出自
・斉藤道三は父子二代の業績が合体して後世に語られていたらしい
・長篠の三段撃ちは嘘
・小早川秀秋は、関ヶ原で家康に鉄砲を撃ちかけられてあわてて裏切った・・・というのは単なる俗説
・大坂の陣は、少なくとも冬の段階では豊臣軍敗北が必然だったとは言えない
など、割と多数の変化があったようです。たった30~40年前の歴史がこうなのですから、むべなるかなというべきでしょう。