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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~

『前例なき戦い』

 だが、藤澤師がスティンガー陣営の秋の目標を発表すると、マスコミは三度騒然となった。彼が秋の目標に定めたのは、牝馬三冠の最後の一冠となる秋華賞(Gl)ではなく、天皇賞・秋(Gl)だったのである。

 もしスティンガーが牡馬であったとすれば、三冠路線の最終戦である菊花賞は3000mだから、「距離適性を考えて2000mの天皇賞・秋に向かう」という選択肢は、十分に理解されたであろう。…というより、朝日杯3歳S(Gl)を制しながらも96年春のクラシックを故障で棒に振ったバブルガムフェローがまさにそれを実践し、史上初めて4歳馬での天皇賞・秋制覇を成し遂げたのがその3年前であり、そのローテーションを実践した張本人は、藤澤師自身だった。

 だが、牝馬三冠路線の最終関門である秋華賞の距離は、天皇賞・秋と同じ2000mである。春の牝馬二冠でいずれも敗れて無冠に終わったスティンガーが、距離はそのままで、出走馬は一線級の古馬に強化される天皇賞・秋にあえて向かうことの意図を、競馬マスコミは測りかねていた。

 藤澤師は、桜花賞の出遅れについて、感性が繊細すぎるスティンガーに、さらに長距離輸送の負担を強いたことが原因ととらえていた。阪神3歳牝馬Sこそうまくいったものの、否、うまくいってしまったからこそ、長距離輸送を強いた結果、精神的に追い詰めてしまったのではないか。その点、4歳牝馬特別(Gll)優勝と優駿牝馬(Gl)4着は、距離の対応に課題を残したものの、力負けはしていない。末脚がよいスティンガーにとって、本来、東京競馬場こそが最も適しているコースなのではないか…。

 そうだとすれば、4歳秋のスティンガーは、遠征を控え、東京競馬場を主戦場とすることにより、直線での差し脚を最大限に生かしたいという戦略だった。

 とはいえ、藤澤師の戦略が理解されにくかった背景として、当時の古馬中長距離路線の顔ぶれも挙げておかないわけにはいかないだろう。目標を天皇賞・秋、主戦場を東京競馬場とする戦略から、前哨戦も関西や中山の秋華賞トライアル・クイーンS(Glll)ではなく、毎日王冠(Gll)とされた。その結果、スティンガーが対戦しなければならなくなった相手は、前年の有馬記念と99年の宝塚記念を勝ったグラスワンダー、この時点ではGl未勝利ながら、実力は折り紙付きのキングヘイロー、牝馬限定ばかりとはいえGlを4勝しているメジロドーベルなどの歴戦の古馬たちである。さらに、天皇賞・秋に駒を進めた場合、スペシャルウィーク、セイウンスカイ、メジロブライト、エアジハードなども加わってくるであろう。

「強い相手と戦うことで、スティンガーもより強くなれる」

と主張する藤澤師ではあったが、

「『相手が強い』にもほどがあるだろう…」

とツッコみたくなる気持ちもまた、正当なものであった。

『実らずの秋』

 周囲の喧騒をよそに、毎日王冠に出走したスティンガーは、10頭立ての8番人気にとどまったものの、直線ではそこそこの粘りを見せて、勝ったグラスワンダーから0秒2差での4着に残った。まずは「善戦」と評価するべき結果だろう。

 とはいえ、スティンガーが見送った形となる秋華賞は、この年の牝馬三冠でペースメーカーの役割を果たしたエイシンルーデンスを春の実績馬フサイチエアデールやトゥザヴィクトリー、女傑ヒシアマゾンの妹ヒシピナクル…といった有力馬たちが追走した結果、1000m通過が58秒4という4歳牝馬にとっては狂気のハイペースとなった結果、先行馬たちが総崩れになって、後方待機に賭けた12番人気のブゼンキャンドルが勝っている。もしスティンガーが競馬界の定石に従ってこのレースに出走していた場合、その作戦はブゼンキャンドルと似たものとなっていた可能性が高いだけに、その秋華賞を捨てて挑む天皇賞・秋では、結果を残さなければならないという重圧もより高まっていたに違いない。

 …その結果は、微妙なものだった。スティンガーが敢然と挑んだ天皇賞・秋には、案の定、毎日王冠よりさらに強化された古馬たちがなだれこんできた。そんな古馬の出走馬たちに対し、4歳牝馬…というより牝馬で唯一挑む彼女への評価は、8番人気と低いままだった。しかし、1000m通過58秒0という秋華賞以上のハイペースを中団で追走する競馬はそれなりにハマリ、直線でもある程度の見せ場を作るところまではできた。…あくまでも、ある程度は。

 レース自体は、前年のダービーを制し、この年の古馬中長距離路線でも中心を歩んできたスペシャルウィークが豪脚一閃、スティンガーを含めた馬たちを差し切って復活を遂げた。スティンガーは、勝ち馬から0秒3差の4着と、毎日王冠の結果をそのままなぞったような結果に終わった。「健闘」ではある。しかし、それ以上のものではない。

 その後のスティンガーは、東京芝2400mで行われるジャパンC(国際Gl)にも出走した。しかし、岡部騎手が肩を痛めて騎乗できなくなったことから横山騎手に乗り替わったものの、前走に次ぐスペシャルウィークの差し切り勝ちに対して、「史上最強」と言われた外国馬たちも加えた相手関係、そして距離も長かったのか、勝ち馬から4秒離されての14着、最下位に沈んだ。この時はさすがに藤澤師も

「馬の悪いところだけが出てしまった」

と落ち込み、この日を境に、スティンガーは2000m超のレースに使われることがなくなり、2000m以下のレースだけで使われることになっていった。

『諦めきれぬ野望』

 藤澤師は、古馬になったスティンガーの2000年春の目標を、マイル路線に定めた。もともとサイレントハピネスよりは短い距離が向いているという見立てがありながら、クラシックを見据えてローテーションを組んできただけに、古馬になった以上は馬にとっての適性を重視した路線を選ぶというのも、至極もっともな話である。

 年明けすぐに、マイル路線の試金石となる京都牝馬特別(Glll)に出走したスティンガーは、オリビエ・ペリエ騎手との新コンビで臨み、エイシンルーデンス以下を撃破した。桜花賞以来となる長距離輸送と右回りは、ここでは苦にならなかった。ペリエ騎手が

「Glllがかつかつの馬」

と評したのに対し、藤澤師は

「左回りだと、時計ひとつ、6馬身違う馬」

と言ってやったという。そんな藤澤師は、このレースの後にも、こんなコメントを残している。

「春は安田記念(Gl)が目標。その後は、オーナーと相談して、8月の米国の牝馬限定Glか、フランスへ行く予定です。だから、春は何度もレースを使えません」

 前年春のクラシックでつまずかなければ、もう行っていたはずの海外遠征の夢と野望は、まだ消えてはいなかった。「今度こそ…」という思いを込めて、スティンガーはしばらくの休養に入っていった。

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