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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

1995年4月13日生 2018年ころ死亡?牡 黒鹿 谷潔厩舎(栗東)→若松平厩舎(北海道)→幣旗吉昭(荒尾)
父オースミシャダイ、母ヒカリホマレ(母の父ラディガ) ヒカル牧場(新冠)
旧3~新7歳時 69戦6勝。ダービーグランプリ(統一GⅠ)、オグリキャップ記念(統一GⅡ)優勝。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『小さな砂のステイヤー』

 日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。

 しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。

 これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。

 地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。

 そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。

 そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。

『砂の一族』

 1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。

 マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。

 もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。

 ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。

 もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、

「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」

という思いを持っていた。

『ありえなかった配合』

 ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。

 迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。

 オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。

 オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。

 オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。

 そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、

「最初に親孝行してくれた馬」

という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。

 もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。

 種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。

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