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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

『旅立ちはひそやかに』

 このような出生時の経緯から、ナリタホマレの競走馬としての資質は、そう期待されていなかった。しかも、実際に生まれたナリタホマレは、母に似つかわしくない小柄な馬だった。おそらく母よりも、デビューから引退まで460kg前後の馬体のままだった父の遺伝子を引き継いだのだろう。

 ナリタホマレに期待がかかるとすれば、その要素のほとんどは母の血統によるものだった。それだけに、馬体が母より父似という事実は、ヒカル牧場の人々を落胆させるに十分だった。ナリタホマレの牧場時代について、一般に伝えられるエピソードはほとんどない。エピソードの少なさは、その幼駒に対する期待度の低さを物語っている。

 ただ、ナリタホマレの競走馬としての行き先は、あっさりと決まった。それまでヒカリホマレ産駒を所有したことはなかった山路氏が、ナリタホマレを買い取ったのである。山路氏は、ナリタホマレ以外にも毎年複数のオースミシャダイ産駒を馬主として走らせていたが、自身が種牡馬入りさせたオースミシャダイの目玉産駒となりうるナリタホマレは、特別な意味を持っていた。

 そんな山路氏がナリタホマレを託することにしたのは、95年に厩舎を開業したばかりの栗東の新進調教師である谷潔調教師だった。

 谷師は、1959年3月から98年2月までの間JRAの調教師を務めた谷八郎調教師の長男である。八郎師の管理馬として最も有名なのは71年の二冠馬ヒカルイマイだが、田島良保、田原成貴、幸英明といった騎手たちを弟子として送り出した功績も忘れてはならない。

 ただ、そんな八郎師を父に持った谷師は、「競馬村」のど真ん中に生まれたにもかかわらず、競馬には全く興味がなかったという。彼は、小学校卒業後は通学に1時間かかる私立大学附属中学校に入学し、そのままエスカレーター式に高校、大学へと進学して卒業している。谷師が、その後に父の厩舎へ「就職」し、やがて調教師となっていくという未来を10代だった頃の彼にぶつけたとしても、それは一番信じられない選択だったかもしれない。

 そんな谷師だから、この時点では、まだ実績といえる何かを残していなかった。年間勝利は10勝前後にとどまり、97年に外国産馬ヒコーキグモできさらぎ賞(Glll)を勝って重賞初制覇こそ果たしたものの、そのヒコーキグモもNHKマイルC(Gl)4着の後は完全に壁にぶち当たった状態で足踏みしていた時に出会ったのが、ナリタホマレだった。

『黄金世代の裏側で』

 ナリタホマレのデビュー戦は、京都芝1800mの新馬戦だった。「マックスフリートの弟」という血統面に目を留めるファンはいたかもしれないが、馬体重が大柄だったとはいいがたい父の生涯最低の出走馬体重をさらに12kgも下回る440kgとなると、母系のパワーを連想することは難しい。彼がデビュー戦で集めたのは、単勝8000円、13頭だての10番人気だった。・・・歴史をひもとけば、84年のエリザベス女王杯を制したサラ系最後のGl馬キョウワサンダーのデビュー戦が単勝34750円でデビュー戦16頭立て16番人気だったという例もあるにはあるが、デビュー戦で彼と同等の低い人気を背負ったGl馬を探すこと自体がかなり難しいレベルであることは、間違いない事実だった。

 それでも、結果で人気を覆して優勝・・・となれば、まださまにもなる。しかし、ほぼ人気通りの9着という結果では、評価が正当だったということにしかならない。デビュー戦でのナリタホマレから、後の姿を思い浮かべることはできるはずもなかった。

 ナリタホマレの初戦に意味を見出すとすれば、芝に対する適性に幻想や未練を持ちようはないものだったことかもしれない。ナリタホマレは、2戦目となる未勝利戦以降、ダートへと転じた。・・・それでも結果はなかなか出ない。

 結局、ナリタホマレが初勝利を挙げたのは通算5戦目で、3場開催となったタイミングで遠征した中京競馬場での未勝利戦だった。同じ日の中山競馬場では、同世代のトップクラスの馬たちが皐月賞(Gl)で激突し、セイウンスカイが鮮烈な逃げ切り勝ちを収めている。

 後に「黄金世代」と呼ばれる同期のトップクラスの馬たちが、クラシック戦線を舞台に高いレベルでしのぎを削る一方で、ナリタホマレは彼らとは全く無縁の道を歩んだ。500万下に昇級した後も、初勝利の勢いで挑んだ平場戦では11着に沈み、次走で再び中京の平場戦に遠征して、ようやく2勝目を挙げた。

 2勝馬となったナリタホマレは、ここで新馬戦以来の芝となるやまゆりS(900万下)に出走したものの、11着に敗れた。・・・新馬戦に続いてやまゆりSでも惨敗したことで、谷師はナリタホマレの芝適性に完全に見切りをつけたのか、ナリタホマレがその後、芝のレースに出走することはなかった。

『見上げる大敵』

 こうしてダートに狙いを絞ったナリタホマレは、1戦挟んで茨城新聞杯(900万下)を勝ち、3勝目を挙げた。ただ、この時点でのナリタホマレは、自己条件のみ走って通算10戦3勝、ダートに限っても8戦3勝だから、同世代の中でも抜きん出た存在とは言えない。

 ナリタホマレが勝った茨城新聞杯の前日、同じ中山競馬場では「4歳ダート三冠」の幕開けを告げるユニコーンS(Glll)が開催されていた。

 「4歳ダート三冠」とは、日本の競馬界におけるダートの地位向上を目指す動きの一環として、統一グレード導入を翌年に控えた96年に始まった試みである。中山のユニコーンS(Glll)、大井のスーパーダートダービー(統一Gll)、盛岡のダービーグランプリ(統一Gl)を「三冠」と位置づけ、JRAや各地の地方競馬を勝ち抜いた世代のチャンピオンホースたちを同じ舞台で競わせることで、JRAと地方競馬を問わない日本の世代別ダート王を決めるという理念は、間違いなく現代競馬の進むべき航路を先取りするものだった。

 そして、創設から3年目を迎えた99年の「4歳ダート三冠」のこけら落としとなったユニコーンSは、12頭の出走馬のうち上がり馬ニホンピロジュピタが右前踏創で出走を取り消したため、JRA9頭、地方2頭の計11頭で争われることになった。そして、谷師は、このレースに自厩舎からロバノパンヤを送り出していた。ロバノパンヤの実績は自己条件を3勝しただけだが、端午S(OP)では2着に入って3着のウイングアローに先着し、菖蒲S(OP)ではウイングアローと2馬身差の2着で、対戦成績は1勝1敗のため、単勝330円の2番人気となかなかの支持を集めていた。

 谷師の期待を背負ったロバノパンヤは、道中、思惑通りに競馬を進め、直線では満を持して先頭に立った。・・・しかし、局面が大きく変わったのは、その後のことだった。既に名古屋優駿(統一Glll)、グランシャリオC(統一Glll)を勝って単勝210円の1番人気に推されていたウイングアローが、異次元の末脚で伸びてきて、ロバノパンヤらをとらえ、瞬く間に2馬身半引き離していった。98年の「4歳ダート三冠」のひとつめは、こうしてウイングアローの手に落ちた。

 もっとも、この段階でウイングアローとナリタホマレには、まだなんの関わり合いもない。この2頭の運命が、やがて交差する未来を、この時点ではまだ誰も知る由もない。

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