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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

『あえて厳しい道を』

 ユニコーンSの結果は、4歳ダート戦線におけるウイングアローと他の馬たちの実力差を浮き彫りにするものだった。この日ウイングアローに騎乗していた南井克巳騎手は、道中明らかにスムーズさを欠いたウイングアローについて、

「ついていけなくて、本当にしんどかった」

と述懐している。騎乗した騎手ですらそんな感想を抱くような展開から、豪脚一閃、差し切ったウイングアローの実力は、明らかに頭ひとつ、いや、それ以上に抜けていた。

 いったん「勝った」と思ったロバノパンヤが差し切られる光景を目にした谷師は、大きな衝撃を受けた。これほどに強いウイングアローを、どうやったら倒すことができるというのか…?

 当時、まだ始まったばかりだった「4歳ダート三冠」は、JRA馬は芝のレース、地方馬は自身の競馬場のクラシックへの未練を捨てきれず、出走馬のレベルがそろわないこともあった。そのため、谷師は、ナリタホマレが茨城新聞杯を勝った後、4歳ダート三冠の第2弾となるスーパーダートダービー(統一Gll)への参戦により、あわよくばロバノパンヤとの2頭出しをも視野に入れていたという。しかし、実際の登録状況をみると、ユニコーンS2着で本賞金を追加したロバノパンヤならともかく、重賞出走歴すらない3勝馬のナリタホマレでは、JRAへの出走枠に入ることは難しい。かといって、自己条件の準オープンに出走した場合、たとえ勝ったとしても、「4歳ダート三冠」最後の一冠であるダービーグランプリには賞金が足りなくなる可能性が高かった。

 悩んだ末に、谷師がナリタホマレの次走として選んだのは、名古屋競馬場で行われる東海菊花賞(統一Gll)だった。

 東海菊花賞は、JRAの菊花賞とは異なり、60年に開催された第1回から古馬混合戦として実施されてきた東海地区伝統のレースである。「菊花賞」と言いながら、この年の12頭の出走馬のうち、旧4歳馬はナリタホマレだけだったが、「菊花賞」という名称の影響は、ダートとしてはかなり長い2500mという距離に表れている。97年まで2800mで開催されていた東京大賞典(統一Gl)が98年に2000mへと距離短縮された結果、当時の交流重賞のレース体系の中では、笠松のオグリキャップ記念(統一Gll)と並ぶ最長距離となっていた。

 東海菊花賞の1着賞金4000万円を狙って集まってきた出走馬には、前年にダイオライト記念(交流重賞)、武蔵野S(Glll)、ブリーダーズGC(統一Gll)を勝った後、約1年間のブランクを経たはずの前走ブリーダーズGCでも2着に入って復活を遂げ、当時のダート路線における実力ナンバーワンとも言われていたデュークグランプリや、前年の東京大賞典(統一Gl)と東海菊花賞の覇者で、連覇を目指すトーヨーシアトルといった強豪も含まれていた。…古馬ダート戦線の上級馬だった彼らにしてみれば、この時期には、目標となる他のレースは1600mの南部杯くらいしかなかった。そのため、

「デュークグランプリやトーヨーシアトルにはかなわない」

としり込みした他の上級馬たちも出て、わずか5頭しかなかったJRA枠に、3勝馬のナリタホマレは滑り込み出走できたのである。

『なんのために』

 ナリタホマレが東海菊花賞への出走を4日後に控えた1998年10月30日、大井競馬場では、ナリタホマレが出走を断念したスーパーダートダービーが行われた。もともと統一グレードに注目しており、発足から3ヶ月も経たない時期の佐賀記念(統一Glll)にグリーンサンダーを送り込んで優勝させている谷師は、ここにもロバノパンヤを送り込み、レースを見守っていた。

 この日のレースの口火を切ったのは、南関東馬スピードラッシュの逃げだった。地方競馬の最高峰である大井競馬場の誇りにもかかわらず、JRA勢、特にウイングアローとの実力差を直視した結果、

「中央馬に一泡吹かせるには、行くしかないから」

という張田京騎手の悲壮な覚悟は、直線入口まで先頭を維持し、レースを先導していった。

 しかし、JRA勢は、そんな地方の矜持と覚悟を、無慈悲なまでの実力差で破砕し、蹂躙する。まずはダート6戦4勝のナナヨーウォリアーが第4コーナーでスピードラッシュをかわして先頭に立つ。その後方からは、ウイングアローとロバノパンヤが上がってくる。・・・そして、そこからはウイングアローの時間だった。

いったん馬群を抜け、後続を引き離そうとするナナヨーウォリアーだったが、それを異次元の末脚で追い上げてきたウイングアローは、ナナヨーウォリアーをとらえ、かわし、突き放していく。ナナヨーウォリアーも、ロバノパンヤもついていけない。スピードラッシュをはじめとする地方馬たちは、言うまでもない・・・。

 ウイングアローは、ナナヨーウォリアーに2馬身半差をつけてゴールした。これで二冠達成だが、この時の実況は、

「ウイングアロー、快勝!南井克巳、今度はダートでの三冠が見えてきました!」

というように、明らかにこの先にある「三冠」を意識したものである。史上初めての「4歳ダート三冠」に王手をかけたウイングアローに残された関門は、残るダービーグランプリだけとなった。

 その一方、レースの一部始終を見届けた谷師は、失意に沈まざるを得なかった。第3コーナーまではウイングアローと馬体を併せてレースを進めたロバノパンヤだったが、勝負どころの第4コーナーでは完全に置き去りにされた。ユニコーンSでは2馬身半差の2着だったウイングアローとの差は、スーパーダートダービーで7馬身半差の3着に広がった。

「ロバノパンヤでは、ウイングアローの牙城を崩すことはできない・・・!」

 谷師は、そんな厳しい現実を、目の前のレース結果によって深刻に突きつけられたのである。

『最後の滑り込み』

 スーパーダートダービーの4日後となる11月3日、名古屋競馬場のメインレースである東海菊花賞には、ナリタホマレの姿があった。12頭の出走馬のうちJRA勢は5頭で、5番人気以上を独占していたが、その中での4番人気とは、決して高い人気ではなかった。

 ただ、ナリタホマレ陣営がダービーグランプリへの出走の可能性を残すためには、ここで最低でも2着以内に入って本賞金を積み上げなければならない。当時のJRAダート最強馬という呼び声もあったデュークグランプリ、前年の東京大賞典(Gl)勝ち馬トーヨーシアトルのうち少なくとも1頭は負かさなければ、ダービーグランプリへの出走権、同世代の大きな壁であるウイングアローへの挑戦権への道は拓けない。それが、ナリタホマレの置かれた立場だった。

 東海菊花賞は、単勝230円を背負ったデュークグランプリが躓いて出遅れる波乱とともに幕を上げた。デュークグランプリに騎乗する武騎手は、2日前に東京競馬場で行われた天皇賞・秋(Gl)でサイレンススズカに騎乗し、予後不良という悲劇に見舞われたばかりだった。

 しかし、既に重賞3勝を挙げている歴戦の古豪デュークグランプリは、それで終わってしまうほど脆い馬ではなかった。後方からの不利にもかかわらず、2周目の向こう正面で中団から進出を開始すると、ぐいぐいと位置を上げていく。・・・圧倒的な強さで他馬をなぎ倒してゴールに突き進むデュークグランプリに対し、最後の最後で外から飛んで来たのが、ナリタホマレだった。

 他の馬はすべて差し切ったナリタホマレだが、デュークグランプリにはわずかにクビ差及ばず、2着にとどまった。とはいえ、統一Gllの東海菊花賞で2着に入ったことで本賞金と実績を積み上げたナリタホマレは、ダート三冠最後の一冠であるダービーグランプリに滑り込んだ。また、当時の古馬ダート戦線におけるJRA最強馬という呼び声すらあったデュークグランプリにクビ差と迫ったことも、ナリタホマレにとって大きな自信となった。

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