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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

『決戦のダービーGP』

 「4歳ダート三冠」最後の一冠となるダービーグランプリは、もともとは地方競馬の世代別王者決定戦として創設されたものの、やがJRAにも開放され、97年の統一グレード発足時、南部杯と並ぶ盛岡競馬場の統一Gl、そして旧4歳世代限定戦唯一の統一Glと位置づけられたレースである。ユニコーンS、スーパーダートダービーを制したウイングアローにとってのダービーグランプリは、文字通り、「4歳ダート三冠馬」となるための最後の関門となる。さらに言うならば、この年のウイングアローは、名古屋優駿(統一Glll)とマーキュリーC(統一Glll)も勝っているため、ダービーグランプリを勝てば、当時の旧4歳限定の統一グレードレースの完全制覇も達成できる。

 ウイングアローの偉業がかかった第13回ダービーグランプリでは、フルゲート12頭が埋まっていた。もっとも、JRA勢の実績は前記の通りウイングアローが独占しており、東海菊花賞で2着に入ったナリタホマレも、JRA出走枠に入ってはいたものの、この時点では特別な注目を集める存在とはなっていなかった。また、地方競馬の盟主を自認する南関東からの参戦はなく、地元勢も東北優駿、不来方賞を制したキタノタイトルは故障による戦線離脱で不出走・・・など、事前の構図は明らかに「ウイングアロー一強」とされていた。

 そして、そのウイングアロー陣営は、早くから「4歳ダート三冠」を意識したローテーションを組んでおり、ダービーグランプリを98年の最終にして最大の目標に据えていた。馬の体調は、すべてダービーグランプリから逆算して調整され、馬もそれに応えて最高の仕上がりを見せていたという。

 第13回ダービーグランプリが開催されるはずだった11月23日時点では、ウイングアローの4歳ダート三冠達成を脅かす要素は、何もないかのように思われていた。

『雪、降りやまず』

 11月23日、盛岡競馬場がある盛岡市内では、朝から雪が降りしきっていた。勤労感謝の日で午前から開催が予定されていたうえ、メインレースが統一Glのダービーグランプリなのだから、主催者は焦ったことだろう。当初、彼らは時とともに雪が弱まっていくことを見込んで開催を強行したものの、その目論見ははずれて雪はやむことなく、オーロパークのダートコースは、やがて真っ白に変わっていった。

 結局、この日の開催は、第10レースに予定されていたダービーグランプリまで決行することができず、第5レースで打ち切られた。本来であればダービーグランプリのゲートが開くはずだった時間帯の盛岡競馬場は、既に一面の銀世界となっていたという。

 史上初めてとなる「4歳ダート三冠馬」誕生を目前にした、まさかの降雪による開催中止は、競馬界に大きな衝撃をもたらした。代替が効くレースであればともかく、統一Glが「中止」とでもなれば、単なる1レースの問題ではなく、その年の4歳ダート路線のレース体系そのものが「未完」となり、鼎の軽重を問われかねない。

 異常事態の中で注目されたダービーグランプリの行方は、3週間後の12月14日に「順延」されることになった。この日の岩手県競馬に盛岡開催は組まれていない。この年のダービーグランプリは、盛岡競馬場ではなく、水沢競馬場で行われることになった。

『順延の余波』

 ダービーグランプリの歴史を振り返ると、ダービーグランプリが統一Glに格付けされる以前は、もともと水沢競馬場で開催されており、縁がないレースだったわけではない。しかし、統一Glの開催予定を3週間で変更する決断が、非常に大きなものだったことも事実だろう。水沢競馬場で統一グレードレースが開催されたのは、97年から99年までのマーキュリーC(統一Glll)と、07年から08年までのクラスターC(Glll)だけであり、それ以外ではこの年のダービーグランプリしかない。

 そして、ダービーグランプリの歴史に残る椿事となったこの順延は、このレースそのものに、深刻な影響を与えることになった。そもそもフルゲートの頭数が、盛岡は12頭で水沢は10頭のため、2頭減ってしまう。また、本番を目指して仕上げてきた調整過程も、大きく狂ってしまった。本来の開催日だった11月23日時点で「完璧に仕上がっていた」というウイングアローにとって、本番が3週間順延されたことは、大きなマイナスになったという。さらにJRA勢のうちナナヨーウォリアーが出走を辞退してマイターンが繰り上がり、地元のモリユウコバンと北海道のロンガーワンダーが出走回避するなど、各馬の動向に少なからざる影響をもたらした。

 ただ、この順延が逆にプラス材料となった馬もいた。その1頭がナリタホマレである。ナリタホマレにとっての順延期間の3週間は、2500mというダートでは最も長い距離でデュークグランプリに食い下がった前走の東海菊花賞で消耗した体力を回復し、さらに目標となるレースに向けて改めて仕上げていく余裕となった。

 そして、急な日程変更は、馬だけではなく、騎乗予定の騎手たちにも影響を与えた。ウイングアローに騎乗するはずだった南井騎手は、以前の負傷の際に入れていたボルトの摘出手術のため、入院予定を入れていたため、武豊騎手への乗り替わりとなった。また、ナリタホマレに騎乗予定だった蛯名正義騎手も、ダービーグランプリを前に騎乗停止処分を受けたため、マイケル・ロバーツ騎手への乗り替わりを余儀なくされた。

『2人の騎手』

 もっとも、1998年の騎手リーディングを見ると、南井騎手は46勝で20位なのに対し、武騎手は169勝と圧倒的1位である。単純に統計を見れば、南井騎手から武騎手への乗り替わりは、マイナス材料とは言えないようにも見える。

 ただ、武騎手はこの日がウイングアローへの初騎乗であり、また統一グレード黎明期の武騎手については、

「地方の競馬場では中央ほどの信頼性はない」

「統一グレードレースでの豊は消し」

などともささやかれていた。JRAで97年は718戦168勝、98年は747戦169勝だった武騎手だが、統一重賞では97年度15戦2勝、98年度のダービーグランプリまでの期間は14戦1勝だった。JRAで2割3分4厘、2割2分6厘だった勝率が、ほぼ同じ時期の統一重賞では1割3分3厘、0割7分1厘にとどまる。さらに、97年は勝利が少ないとはいっても2着6回3着3回と惜敗率が高いものの、98年は2着3回3着0回と、武騎手にしては明らかに馬券に絡めていなかった。

 一説によると、武騎手の強み(の中でも主要なひとつ)とは、栗東で

「(栗東の)所属馬ならほとんどの馬の能力、特徴、性格を把握しているのではないか・・・」

と噂される情報処理能力にあるのではないかと言われていた。曰く、レースで自分が乗ったことがある馬は当然として、調教で乗った馬、レースで戦った相手の馬、調教で併せた馬、移動時に見かけた馬といったすべての局面で馬を観察して特性を把握ないし推定し、レースでは高い精度で展開を予測して、最も勝利に近い策を取れるのが、武騎手なのではないか…。それが事実かどうかは分からないが、事実であると仮定すれば、接する機会がほとんどない地方馬、そして参戦する機会が圧倒的に限られる地方の競馬場での統一重賞では、確かにその強みは大きく減殺されていた・・・のかもしれない。

 これに対し、98年136勝、騎手ランキング2位の蛯名騎手から、短期免許のロバーツ騎手への乗り替わりは、これまた評価が難しい。蛯名騎手はこの年初めて関東リーディングを奪うなど大きくブレイクしたが、ロバーツ騎手の活躍はスケールが異なり、1968年に騎手としてデビューし、72-73年から11シーズン連続でリーディングジョッキーに輝き、86年に英国へ拠点を移した後も、92年には英国リーディングジョッキーとなった「世界の名手」であり、JRAが94年に創設した短期免許制度を利用して95年から00年まで毎年来日している。

 そんなロバーツ騎手は、95年にはランドでジャパンC(Gl)を勝っている。ただし、このときのジャパンCは短期免許による来日期間ではなく、国際競走として来日した際の勝利だったが、くしくも前日に朝日杯3歳S(Gl)にアドマイヤコジーンに騎乗して勝ったことで、正真正銘の「短期免許来日騎手によるGl制覇」を果たしたばかりである。

 彼が朝日杯3歳Sで騎乗したアドマイヤコジーンには、もともと南井騎手が騎乗しており、入院が決まった南井騎手が「まっすぐ走らせることができる騎手」として自らの後任に推薦したことが、コンビ結成のきっかけとなったという。そして、その朝日杯3歳Sでクビ差抑えた相手は、武騎手が騎乗するエイシンキャメロンである。ロバーツ騎手と武騎手の間には、そんな因縁めいた流れがあった。

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