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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

『北の大地』

 ナリタホマレがホッカイドウ競馬所属馬として旭川競馬場へと姿を現したのは、JRA所属馬として最後のレースとなった春待月Sから半年以上が経過した2003年7月10日、十勝軽種馬農業協同組合特別(OP)でのことだった。旭川競馬場といえば、ナリタホマレはそれまでにも2度、ブリーダーズゴールドC(統一Gll)に出走した際に走ったことがある競馬場である。

 ホッカイドウ競馬でのナリタホマレは、若松平厩舎に所属した。若松師は、JRAや南関東などで通用しなくなった高齢馬を引き受けて多くの実績を残しており、2000年にはナリタホマレと同じ山路秀則氏の所有馬だった旧13歳のオースミダイナーで北海道スプリントカップ(統一Glll)を勝ち、翌01年には同じオースミダイナーでエトワール賞(重賞)を勝って、国内重賞最高齢優勝の記録を旧14歳まで伸ばしている。

 しかし、ホッカイドウ競馬の水が合わなかったのか、ナリタホマレはオースミダイナーのような実績を残すことができなかった。再デビュー戦の十勝軽種馬農業協同組合特別では3着に終わり、その後も約1年4ヶ月の在籍時、ホッカイドウ競馬所属馬として重賞やOPで17戦を走ったナリタホマレだったが、結局OP級で2着2回、3着1回に入るのが精いっぱいで、勝つことはなかった。03年、04年ともブリーダーズゴールドC(統一Gll)にホッカイドウ競馬代表として参戦したものの、いずれも掲示板にすら残ることなく敗れている。

 04年11月の道営記念に出走予定とされながら、やがて出走登録を取り消されたナリタホマレは、そのままホッカイドウ競馬を去り、今度は荒尾競馬場へと移籍することになった。

『荒尾にて』

 荒尾競馬場の幣旗吉昭厩舎に転籍したナリタホマレは、2005年3月22日、はなみづき特別で再々デビューを果たした。

 ここでは単勝640円で9頭立ての4番人気と、もはや元・統一Gl馬とは扱われなくなっていたナリタホマレだったが、まだ完全に燃え尽きてはいなかった。不良馬場の中で後方2番手から競馬を進めたものの、第3コーナーで進出を開始すると、直線では末脚を伸ばして先頭に立ち、そのまま後続を3馬身突き放してゴールした。最後に勝ったオグリキャップ記念から実に5年11ヶ月が経過し、その間38戦にわたって負け続けたナリタホマレだったが、この日ばかりはかつての勝ちパターンがよみがえったかのようだった。はなみづき特別の1着賞金はたった40万円で、彼がダービーグランプリで手にした1着賞金6000万円の150分の1にすぎなかったけれど、荒尾に流れてなお求め続けた勝利の美酒を、ナリタホマレは再び味わうことができたのである。

 そして、はなみづき特別に続く大阿蘇賞で、ナリタホマレは生涯初めての経験をすることになる。生涯初めての1番人気に支持されたのである。大阿蘇賞が通算55戦目となるナリタホマレだったが、JRA、ホッカイドウを通し、2番人気は5回、3番人気は11回を数えたものの、1番人気は一度もなかった。

「生涯1度も1番人気になったことがないG1馬」は、数えてみると結構いるが、せいぜい20~30戦程度の戦績の中での話である。Glを勝つ前も、勝った後も1番人気になることのないまま、54戦にわたって戦い抜いたナリタホマレにとって、それはあまりにもひねくれた勲章であった。

 この大阿蘇賞で、1番人気に応えることができず、ブービーとも大差の8着に敗れたナリタホマレは、その後も約1年間で15戦を走ったものの、勝ちを重ねることはできず、2006年3月14日の大阿蘇大賞で12頭中10着に終わったのを最後に、今度こそターフを去ることになった。ナリタホマレが荒尾で残した戦績は、15戦1勝、2着2回、3着2回で、荒尾では設定されていなかった統一グレードに出走することもなかった。

『彼らが見た地獄』

 1997年11月に競走馬としてデビューし、2006年3月までの約8年5ヶ月間にわたって競走生活を送り、JRA、ホッカイドウ、荒尾で通算69戦6勝という戦績を残したナリタホマレは、引退後は乗馬としての第2の馬生を送ったとされる。未確認情報では、2018年ころに調教中の骨折をきっかけとして、安楽死になったという。日本のグレード制導入以降のGl馬としてはかなり波乱万丈な生活を送ったといえるナリタホマレだが、それは決して彼に限られた話ではない。

 現時点(2024年6月)では歴史上唯一水沢で統一Gl馬となったナリタホマレは、その生涯で多くの競馬場のレースに出走しており、出走した競馬場は実に18場(京都、阪神、中京、中山、名古屋、水沢、川崎、笠松、大井、盛岡、札幌、小倉、船橋、旭川、東京、門別、荒尾、佐賀)にのぼる。これは、生涯で20場でのレースに出走したスノーエンデバーには及ばないものの、Gl級勝ち馬としては最多記録と思われる。

 しかし、ナリタホマレが現役馬として各地の競馬場を走った時期を見ると、地方競馬の苦難の時代の始まりでもあった。地方出身の歴史的名馬オグリキャップ引退の翌年である91年には約9862億円を記録した地方競馬の売上だが、その後は長期的な低迷期に入っていった。地方競馬にとっての2000年代とは、年間売上が年々下がっていくだけでなく、01年3月の中津競馬場廃止に端を発する各地の地方競馬の廃止ラッシュという「失われた10年」にほかならず、2010年には全盛期の2割強の約2102億円まで落ち込んだ。そして、この地獄のような時代に、ナリタホマレが走った競馬場やレースの多くも、そんな時代の中で激動にさらされた。

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