TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~

『残酷な時代の中で~笠松競馬の場合』

 ナリタホマレが深く関わった地方競馬の中で、最も早く深刻な存廃議論に直面したのは、彼が勝ったふたつの統一重賞のひとつであるオグリキャップ記念を開催していた笠松競馬場である。

 笠松競馬場の運営元である岐阜県競馬組合は、それ以前から累積赤字に悩んでいたが、岐阜県が設置した第三者委員会が2004年秋に

「経営は危機的状況で自律的経営は困難。速やかに廃止すべき」

という中間報告を公表したことで、笠松競馬の存廃問題が表面化し、翌05年には岐阜県議会に「黒字が見込めない場合は岐阜県競馬の廃止を検討する」という議案が上程されるに至った。  この危機を受けて、県競馬組合が打ち出したのは、ダートグレード競走からの撤退を含めた経費削減策だった。オグリキャップ記念は統一グレードを返上し、地域交流競走へ改編した上で、1着賞金も4000万円から450万円に大幅カットされた。全日本サラブレッドC(統一Glll)に至っては、レース自体が廃止されている。こうした対策により、同年度の県競馬組合は8000万円の黒字を確保し、「当面の」存続を勝ち取った。笠松競馬場は、その後も大幅な賞金カットによる労使紛争の激化、競馬場の地権者との裁判などの犠牲を払いながら、現在も継続されている。

『残酷な時代の中で~ホッカイドウ競馬の場合』

 ナリタホマレが最初に移籍したホッカイドウ競馬も、1992年以降は単年度赤字が続いており、運営元である北海道の財務基盤の弱さゆえに、各地の競馬場に先駆けての存廃問題がささやかれていた。そして、2005年11月、北海道知事が道議会での質問に対して「いますぐ廃止すれば生産者や地域社会への影響は大きく、 3年を限度に存続させることにする」 としつつ、その存続条件として「単年度の赤字額を半減させ、 単年度収支が均衡する見通しを得ること」を突きつけ、達成できない場合は3年以内でも廃止すると明言したことで、ホッカイドウ競馬の存廃問題が一気に表面した。

 北海道でも、それまで4つの競馬場で実施されていたばんえい競馬は帯広、平場も門別競馬場へ集約され、ここでも徹底した支出の削減や、馬券や販売方法の多様化による売上の増加が図られた。その結果、2001年度に約28億円以上に達した単年度赤字は、2006年度には約10億9000万円まで減少するなどの成果が上がった。  ホッカイドウ競馬には「馬産地競馬」、つまり日本の馬産かの大半が集中する北海道の馬産家が、庭先やセリでは売れなかった生産馬を、自らの所有馬として入厩させて走らせることで、馬主への販路を開拓する地場産業という独自の意義を持っている。こうした意義を担うホッカイドウ競馬も、多くの犠牲を払いつつ、今も存続している。

『残酷な時代の中で~岩手県競馬の場合』

 ナリタホマレの最大のハイライトとなった統一Glのダービーグランプリと、岩手県競馬組合も、彼の登頂から数年後には、廃止の危機を迎えた。

 ナリタホマレが勝った98年以降、ダービーグランプリの馬券の売上は伸び、統一グレードのもとでの岩手県競馬の未来に明るい兆しが見えた・・・かに見えた。しかし、現実は厳しく、その後も伸び続けることが期待されていたダービーグランプリの売得金は、3億円前後で頭打ちとなっていった。1着賞金6000万円という賞金水準を考えると、レース単体の収支でみれば、赤字だったことだろう。

 その一方で、96年のJRAへの開放以降、ダービーグランプリを制したのはすべてJRA勢だった。そのため、競馬に特別な愛着を持たない議員や市民から、「このレースを開催する意義はどこにあるのか?」という批判にさらされ続けた。

 さらに、岩手県競馬全体の売上も下がり続け、やがて岩手県競馬組合の財政難が明らかになった。かつて「地方競馬の優等生」と言われた岩手県競馬の失墜の原因として、全国の地方競馬に共通する競馬人気の低下やそれに伴う売上の下落だけではなく、96年に完成したオーロパークの建設費250億円の償還と、地元馬に還元されない統一重賞の高額賞金という独自の要素がやり玉にあげられたことは、存廃議論をより深刻なものとした。そして、07年3月、組合の運営資金が底をつくことが判明し、救済と事業継続のための県からの融資案を県議会が否決した際には、ついに知事も一時、岩手県競馬廃止を表明するに至った。

 しかし、この危機的状況に直面して、関係各方面でなされた最終的な調整により、県議会は、最終的にはわずか1票差で、存続へと舵を切った。盛岡、水沢の両競馬場を擁する岩手県競馬自体は、かろうじて存続されることになったものの、その代償の経費節減策として、ダービーグランプリの統一グレードは06年を最後に返上され、レース自体も07年を最後に「休止」となった。10年には水沢に舞台を移し、地方全国交流競走として「復活」し、2020年以降は地方交流レースながら統一Gl時代に匹敵する売得金を記録するV字回復を果たしたものの、JRA所属馬への門戸の再開放や統一グレードの再取得はついになされることがないまま、2024年、不来方賞との統合によって、レース自体が消滅した。ナリタホマレの最大の栄冠だったダービーグランプリは、岩手県競馬組合の存続と引き換えに、レースそのものが姿を消したのである。

『残酷な時代の中で~荒尾競馬の場合』

 そして、ナリタホマレが最後に所属した荒尾競馬は、もともと統一グレードを開催したことがなく、賞金水準も低かった。とはいえ、敷地のほとんどが市有地だったことや、近隣の佐賀競馬との密接な協力関係による低コスト体質もあって、地方競馬が各地で廃止されていく中で、懸命に持ちこたえていた。

 しかし、地方競馬の長期的な低迷による累積赤字は荒尾でも確実に積み上がり、2008年ころから「廃止」の可能性が意識されるようになった。01年3月に突然廃止され、地方競馬の廃止ラッシュの嚆矢となった中津競馬から多くの騎手、調教師、厩務員らを受け入れていた荒尾競馬は、それだけに廃止への危機感も強く、様々な経費節減やファンサービスによって生き残りが図られたものの、2011年9月、市長から同年末をもって荒尾競馬を廃止する旨が表明された。

 「海が見える競馬場」として親しまれ、ナリタホマレが競走生活の最後を過ごした荒尾競馬場は、83年間の歴史の幕を閉じ、今は競馬関係者とファンの思い出の中にのみ生きている。

『時代の狭間を駆け抜けて』

 このように、ナリタホマレと関わった多くの地方競馬やレースの多くが厳しい時代を過ごし、その一部は時代の波の中へと消えていった。

 皮肉なことに、地方競馬の人気と売上の低迷は、2010年ころに底を打ったと言われる。地方競馬の馬券の売上は、2010年度には約2102億円まで落ち込んだものの、そのころから模索されていた、インターネットを通じた競馬中継や馬券の広域発売がようやく実を結び始めたのである。

 その結果、地方競馬の馬券の売上は大きく伸び、2022年度には1兆円を突破している。一時は例外なく存続の危機にさらされていた各地の地方競馬も、当時と比較すれば売上を大きく伸ばしており、廃止の危機は一段落している。ただ、競馬そのものは残っていても、名物レースが統廃合や休止の対象となり、いまだ復活に至っていないものが多いことも、まぎれもない事実である。

 厳しい時代の中、ダート馬らしからぬ小柄な馬体で、危機にさらされた多くの競馬場を走り、消えゆくダートの長距離レースを中心に実績を残したナリタホマレが各地で見てきた光景は、当時の地方競馬が歩まなければならなかった地獄のような歴史そのものでもあった。彼が駆け抜けた時代の「その後」を知る我々だからこそ、ダート界、地方競馬が変わりゆく時代の狭間と言える時期を駆け抜けたナリタホマレの馬生を振り返り、思いを致すべきなのかもしれない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
TOPへ