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ハクタイセイ列伝 ~怪物二世の光と影~

1987年4月17日生。2013年10月28日死亡。牡。芦毛。土田農場(三石)産。
父ハイセイコー、母ダンサーライト(母父ダンサーズイメージ)。布施正厩舎(栗東)。
通算成績:11戦6勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍:皐月賞(Gl)、きさらぎ賞(Glll)、若駒S(OP)、シクラメンS(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

 『ハイセイコーの子』

 日本競馬の歴史の中で、競馬ファンに「最強馬」として称えられ、あるいは「名馬」として尊敬を集めたサラブレッドたちは少なくない。しかし、競馬ファンのみならず、一般大衆にいたるまでの誰もがその名を知り、彼らを競馬ファンへと引きずり込むほどのインパクトを残した馬となると、きわめて限られる。

 「ハイセイコー」は、そんな限られたサラブレッドの中の1頭である。この馬の知名度は、おそらく日本で走ったサラブレッドの中で屈指のものだろう。この馬と並ぶ知名度を誇る馬といえば、長い中央競馬の歴史の中でも、おそらくオグリキャップくらいしかいないに違いない。

 その一方で、「最強馬」を問う議論の中にハイセイコーの名前が挙がってくることは、稀である。ハイセイコーの主な勝ち鞍を見ると、八大競走の一角とされる皐月賞以外は、当時まだ現在のように高い位置づけとされていなかった宝塚記念、高松宮杯といったあたりである。日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念といった、「最強馬」と呼ばれるために決して避けて通れない大レースにおいて、ハイセイコーはことごとく敗れている。

 ハイセイコーが大衆的な人気を集めたのは、南関東競馬という地方競馬の出身である彼が、無敗のまま中央へと攻め上り、日本競馬の権威の象徴である日本ダービーを目指すという図式の中に、高度成長期という時代に、その時代に生きる国民が自らの夢を重ねることができたからにほかならない。日本ダービーでは史上最高の支持率を背負いながら3着に破れたハイセイコーだったが、ひとつの夢から覚めた大衆は、その後、ハイセイコーの強さとともに、その弱さをも愛するようになった。もしハイセイコーの生まれが5年ずれていたとしたら、あれほどの「ハイセイコー・フィーバー」は起こらなかっただろう。ハイセイコーこそ、時代が求めた英雄だった。彼によって競馬の魅力を知ったファンがあまりに多かったゆえに、ハイセイコーは

「競馬界に特別な貢献をもたらした」

と認められ、顕彰馬に名を連ねることになった。

 競走馬としてそれほどの人気を誇ったハイセイコーは、種牡馬になってからも、父が勝てなかったダービーと天皇賞を勝ったカツラノハイセイコ、単勝43060円の20頭立て20番人気でエリザベス女王杯を制した馬サンドピアリスなどを輩出し、父内国産種牡馬の評価が低かった当時としては極めて優秀な成績を残している。・・・だが、そんなハイセイコーのあまりの偉大さと特異さゆえに、その産駒たちは、彼ら自身の戦いにおいても、彼ら自身ではなく父親の姿を投影されることが珍しくなかった。

 ハイセイコーが晩年に輩出した傑作の1頭が、父とともに皐月賞父子制覇を成し遂げたハクタイセイである。彼はカツラノハイセイコと並ぶハイセイコー産駒のクラシックホースとなり、1990年クラシック世代を担う1頭として、ターフを沸かせた。父とは似ても似つかぬ芦毛にもかかわらず、「白いハイセイコー」と呼ばれたハクタイセイは、かつて父が泣いた血の限界とも戦わなければならない宿命を背負っていたのである。

『星に願いを』

 ハクタイセイは、当時繁殖牝馬11頭という家族経営の生産農家だった三石の土田農場で、父ハイセイコーと母ダンサーライトとの間に生まれた。

 父のハイセイコーは、前述のように日本競馬の歴史の中でも特異な地位を占める名馬である。彼はデビュー当初、南関東競馬で無敗のまま6連勝を飾って「南関東の怪物」とうたわれた。その後はさらにより強く、より大きな相手を求め、4歳クラシック戦線を前に中央競馬へと移籍し、弥生賞、スプリングS、そして皐月賞と勝ちまくった。無敗のまま連勝街道を驀進し、「南関東の怪物」から「地方から来た怪物」へと変わったハイセイコーに、大衆は

「地方馬出身初のダービー馬誕生か」

と熱狂したのである。彼こそは、「中央のエリートをなぎ倒し、実力で頂点を奪う地方馬」という高度成長期の夢を体現する存在だった。中央競馬の頂点・日本ダービーでの彼は、単勝120円で、同レースにおける単勝馬券の売上の66.7%を占める最高支持率を記録した。

 その日本ダービーで宿敵タケホープの後塵を拝して3着に敗れ、さらに菊花賞でもタケホープの2着に終わったハイセイコーには、明らかに距離の壁があるとみられるようになった。天皇賞は春だけでなく秋も3200mで行われ、八大競走に含まれない宝塚記念の位置づけは現代ほど高くないなど、明らかに長距離偏重の感があった当時のレース体系のもとで、彼は本来の実力を発揮しきれず不遇をかこつ現役生活を送らざるを得なかった。・・・だが、ファンがハイセイコーに向けた愛情は、彼が日本ダービーで敗れる前と変わることなく、引退まで続いたのである。彼こそは、高度成長期を支えた名もなき大衆たちの代表者だった。

 その一方、ダンサーライトは、レースには不出走ながら、土田農場では高い期待をかけられた繁殖牝馬だった。土田農場では、最初にダンサーライトを買いたいという申し出があった際、

「もしこの馬を第三者に売って競馬場に送り出した場合、万が一にも土田農場に戻ってこないかもしれない・・・」

と恐れて、その申し入れをあえて断った。その後、

「せっかく買いたいという申し入れを断った以上、他の馬主に競走馬として売ったら、最初に断った相手に申し訳ない」

ということで、ダンサーライトを競走馬として売ること自体をあきらめてそのまま繁殖入りさせ、牧場の基礎牝馬としたのである。

 こうして競走経験がないまま繁殖入りしたダンサーライトが初仔を出産したのは、旧5歳の時だった。

 ダンサーライトが初子を無事に出産した後、生産者の土田重実氏は、ダンサーライトの2度目の種付けにあたっては、もともと繁殖牝馬としては骨太で頑丈なタイプだった彼女のパワーを引き継ぐ馬を生産したい、と考えた。また、馬主に馬を買ってもらう工夫としては、なじみのある内国産種牡馬が望ましい。そこで、ダンサーライトには、さらなるパワー型の種牡馬であり、さらに現役時代には内国産馬としてカリスマ的な人気を誇ったハイセイコーを交配することにした。

 やがてハイセイコーの子を無事受胎したダンサーライトが出産を待つばかりとなると、土田氏はまだ見ぬその子馬に、

「ハイセイコーによく似た子になってほしい・・・」

という願いすら抱くようになっていた。

『裏切られた思い』

 ところが、実際に生まれたハクタイセイを見た時、土田氏は自分の期待が見事に裏切られたという失望を感じずにはいられなかった。生まれたばかりのハクタイセイはひ弱で、牝馬のように線が細い馬だったからである。

 そして、ハクタイセイの毛色は、ハイセイコーではなくダンサーライトの芦毛を受け継いでいた。無論、血統的には何の不思議もない現象ではあるが、ダンサーライトよりハイセイコーの再来を夢見た配合だった以上、生産者としては、父に似た仔が出ることを望んでいた。それなのに・・・。

 しかも、この年の土田農場では、もう一つの重大な問題が生じていた。土田農場ではこの年8頭の仔馬が生まれたが、その中の牡馬はハクタイセイ、ただ1頭だったのである。

 日本では、少し前まで「男女7歳にして席を同じくせず」という言葉があったが、馬の場合も、放牧においては当歳から牡牝で分けることが多かった。しかし、ハクタイセイを他の牝馬から隔離して1頭だけ放しておいたのでは、競争心が育たない。サラブレッドの競争心とは、世代の近い馬たちと互いに競いあうことなしには育ち得ない・・・。

 ハクタイセイは、当歳時に早々とセリに出された。ところが、700万円に設定されたハクタイセイに手を挙げる買い手は現れず、無情にも「主取り」となってしまった。・・・土田氏がハクタイセイに向けた思いは、裏切られてばかりだった。

『競馬場へ』

 セリでの結果は残念なものに終わったが、売れ残ったことに文句を言っても仕方がない。土田氏は、ハクタイセイの競争相手に近所の牧場から牡馬を1頭借りてきて、ハクタイセイと一緒に運動させることで、なんとか急場をしのいだ。ちなみに、このとき土田農場に牡馬を貸したのは、オグリキャップを生産した稲葉牧場だったという。

 そんな苦労もあって、ハクタイセイは、旧2歳のセリではむしろ値段が上がり、1020万円となかなかの値で売れ、中央競馬への入厩も決まった。父とは似ても似つかぬ芦毛の仔馬は、「白」+「大成」という意味でハクタイセイと名付けられ、競馬場にと向かうことになった。

 栗東の布施正厩舎に入厩したハクタイセイは、仕上がりが非常に早かったことから、3歳戦の小倉・芝1200mの新馬戦でデビューした。デビュー戦では3番人気の2着だったものの、レース内容に将来性を感じさせるものを見せたハクタイセイは、その後、軽いアクシデントもあって次走との間隔が空いたものの、勝ち上がりは時間の問題とみられていた。

『塞翁が馬』

 ところが、その後のハクタイセイは、期待に反してなかなか勝つことができない。人気は集めるものの、4着、6着という着順が続いた。未勝利戦の場合、強い馬は次々勝ち上がっていくから、出走馬は時とともに弱くなっていくはずである。それなのにハクタイセイは、走れば走るほど着順が落ちていく。

 ハクタイセイを管理する布施師は、考えた。芝の良馬場だと頭打ちである。ハクタイセイは血統的にはダート向きの力馬でもあるから、今度はダート戦を使ってみようか・・・。

 すると、ハクタイセイは生まれ変わったかのように躍進を遂げた。やはり南関東競馬で圧倒的な強さを誇ったハイセイコーの血は生きていたのである。ダート初戦こそ2着に敗れたものの、次走では逃げて4馬身差の圧勝を飾り、5戦目にしてようやく勝ち上がりを果たした。もう1戦、400万円下でもダートを使ってみたところ、今度もやはり3馬身差の快勝で、悠々のオープン入りである。

 早い時期にオープン入りすると、別の欲が出てくるのは、ホースマンの常である。旧3歳のうちに2勝を挙げたハクタイセイであれば、重賞のシンザン記念(Glll)に進むことは自然なローテーションだったし、無理をすれば中1週で当時は牡牝を問わない「西の旧3歳王者決定戦」だった阪神3歳S(Gl)に進む選択肢もあった。

 しかし、布施師はあえてこれらのローテーションは選ぶことなく、オープン特別のシクラメンS(OP。当時は芝で開催)から若駒S(OP)へと歩みを進めることとした。

 非情に慎重なローテーションの背景に、ハクタイセイの実力への疑念があったことは、事実だった。芝の未勝利戦でもたつき、持ち時計も平凡。力のいる馬場ならともかく、スピードでは一線級に及ばない、というのがハクタイセイに対する評価であり、強い相手と無理にぶつけるよりは、自分のペースで走らせようというのが、布施師の本音だった。

 ところが、布施師の慎重な選択は、ハクタイセイのために「吉」と出た。同世代の有力馬たちが次々と重賞戦線に挑んでいく中で、「裏街道」ともいうべき地味なレースを選んで出走したハクタイセイは、さしたる強敵と戦う必要もないまま、シクラメンS、若駒Sを勝って4連勝を達成したのである。そうなれば、皐月賞、そして日本ダービーと続く春のクラシックも、現実のものとなってくる・・・。

『関東の新星』

 もっとも、4連勝したからといって、それでただちにハクタイセイの評価がうなぎのぼりになったわけではなかった。勝ち続けたとはいっても、それは強い相手との厳しい競馬を避けてのことである。クラシックを勝ち抜くためには、彼がまだ経験していない本当に厳しい競馬を制することが、必ず必要になる。そうすると、ハクタイセイの厳しい競馬への経験の薄さは、マイナス材料となる可能性も高い。

 ハクタイセイがこれから戦うべきこの年の4歳世代には、未対戦の強豪が2頭いた。疾風の逃げ馬アイネスフウジンと、雷光の末脚を持つメジロライアンである。

 ハクタイセイが地道に勝ちを稼いでいたころ、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューティリティS)では、アイネスフウジンがあのマルゼンスキーに並ぶ1分34秒4というレコードタイ記録を叩き出し、圧勝していた。またメジロライアンはひいらぎ賞(400万円下)とジュニアC(OP)を鮮烈な差し切りで制し、大器の片鱗を明らかにしつつあった。当時の予想では、クラシック戦線はこの2頭の関東馬を中心に回っていくものとみられ、関西のハクタイセイにはあまり注目が集まっていなかった。

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