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メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒

『メジロとSS』

 しかも、メジロベイリーの父親は、メジロブライトの父となったメジロライアンからサンデーサイレンスに代わったことで、当時の競馬ファンの注目をさらに集めることになった。

 サンデーサイレンスとは、競走馬として1989年にケンタッキーダービー、プリークネスSのクラシック二冠とブリーダーズCクラシックを制して米国年度代表馬に輝き、日本で種牡馬入りした後には日本競馬の血統地図を大きく塗り替えた大種牡馬である。

 サンデーサイレンスの日本への輸入は、日本最大の生産牧場である社台ファームを事実上一代で築き上げた吉田善哉氏が、その生涯最後の執念によって成し遂げたものだった。ただ、「種牡馬の当たりはずれは分からない」というのも馬産地の常識であり、サンデーサイレンスに過去最高額となる総額24億9000万円のシンジケートが組まれた際には、

「本当にモトがとれるのか?」

という懐疑的な見方も少なくなかった。

 そんな中で、メジロ牧場は当初からサンデーサイレンスのシンジケートに参加していた。「メジロ軍団」は、過去に生産してきた名馬たちの多くが代々「メジロ」の冠名を継ぐ馬たちだったため、自前の血統を重視するという印象が強いが、実際には、大物競走馬の引退や輸入に伴うシンジケート組成の際、非常に高い確率で参加してくれる存在だった。さらに言えば、牧場の幹部と善哉氏の次男である勝己氏が学生時代からの馬術仲間だったという事情もあって、社台ファームが中心となる種牡馬のシンジケートには、ニチドウアラシの頃からずっと参加していた。そのため、サンデーサイレンスが輸入された時期には

「募集を始める段階で、(メジロ牧場が応募の意思を伝える前から)リストにメジロ牧場の名前がちゃんと載っていた」

とも言われている。

 閑話休題。こうしてサンデーサイレンスのシンジケートの一員でもあったメジロ牧場では、メジロベイリーの誕生以前も毎年のようにサンデーサイレンス産駒が生まれている。

 しかし、その期間のサンデーサイレンス産駒が残した輝かしい実績とは対照的に、メジロ軍団におけるサンデーサイレンス産駒の成績は目立たないものだった。初年度産駒の92年生まれのメジロテンウン(母メジロカピュサン)は不出走、94年生まれのメジロディザイヤー(母メジロリベーラ)は平地1勝、障害1勝にとどまり、95年生まれのメジロダーウィン(母メジロオーロラ)が4勝を挙げてようやく面目を施したかと思いきや、96年に生まれたメジロウインク(母メジロエニフ)は、またも未勝利に終わっている。そのため、社長が

「しばらくサンデーつけるの、やめるぞ」

などと言い出すというひとコマもあった。

 しかし、その時は、スタッフが

「でも社長、本当に素晴らしい馬ができるんです」

と継続を懇願し、メジロ牧場がサンデーサイレンスの種付けをやめることはなかった。メジロ牧場でのサンデーサイレンス産駒たちは、「走らない」のではなく、素晴らしい出来で生まれた子が「走る前に(故障等で)ダメになる」ことが多かった。また、種牡馬として破格の実績を残したサンデーサイレンスだが、その顕著な特徴として、輸入牝馬との間で多くの活躍馬を出す一方で、内国産血統の牝馬との間では、活躍馬をあまり出さなかったことが、後に知られるようになる。サンデーサイレンス産駒でGl級レースを勝った42頭の血統を見ると、母父となった馬たちのうち日本で競走馬として走ったのは、持込馬であるがゆえにほぼ海外血統と言って差し支えないマルゼンスキーしかいない。長い時間をかけて育てた自前の国内血統の馬が多かったメジロ牧場の繁殖牝馬とサンデーサイレンスの間には、そんな相性と間の悪さが横たわっていた。

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