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メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒

『生命の選択』

 こうしてサンデーサイレンスと交配されたレールデュタンは、無事に受胎に至った・・・が、そこには重大な困難があった。この時レールデュタンが受胎したのは、双子だったのである。

 競走馬の生産の際に双子と発覚した場合、なるべく早い時期に片方を中絶し、もう片方だけを残すのが定石である。母馬からの栄養を2頭で分け合って生まれた子馬が大成できるほど、サラブレッドの胎児の栄養状態は良くない。むしろ、双子の妊娠を継続しても、1頭しか残らないどころか、2頭とも流産してしまうことが多いようである。

 しかも、この時の双子の受精卵は、「めがねのように」くっついていた。このような受精卵は、中絶する際に誤って両方を潰してしまうリスクが高いという。牧場の悲願を賭け、無事に受胎した受精卵が1個も残らないことになれば、それこそ元も子もない。牧場に緊張感が走るのも、当然というべきであろう。

 幸い、中絶作業はうまくいき、大きい方の受精卵を残すことができた。そして、翌98年5月30日、この時生き延びた受精卵は黒鹿毛の牡馬として生を享けることになる。

『火を噴く山』

 こうして生まれたメジロベイリーは、生まれつき出ベソがひどく、放置すると病気を併発する危険があるとして、手術に踏み切るという問題が生じた。しかし、幸いにして手術が成功し、その後の競走能力にも影響がなさそうとなれば、そこに残るのは「サンデーサイレンス産駒」「メジロブライトの半弟」という血統的背景である。

 この年の「メジロ軍団」の牡馬の馬名は「アイルランドの地名」シリーズであり、メジロベイリーの場合はダブリン地方の「ベイリー灯台」から名付けられたという。入厩先は、栗東の武邦彦厩舎に決まった。メジロブライトを管理していた浅見国一厩舎が97年2月に引退した後のレールデュタン産駒は武邦厩舎への入厩が続いていたことからすれば、至極順当な決定といえた。

 ここまでのメジロベイリーの競走馬としての道のりは、非常に順調なものに見えた。・・・いや、順調だったと言ってよい。そんな彼、そしてメジロ牧場の前に立ちはだかるものを予測できた者など、この時点では、いようはずもなかった。

 メジロベイリー世代の馬たちがデビューを待っていた2000年3月下旬以降、北海道の中でもメジロ牧場の周辺で、群発地震が発生するようになった。この地域にある有珠山は、火山国と言われる日本でも有数の活火山とされ、記録に残る最初の噴火となった1663年以降だけで7度にわたる噴火の記録が残っていて、直近では1977年に噴火していた。

 そして、現地の人々は、この地域での群発地震が有珠山の噴火の前兆であることを、経験の中で知っていた。1967年に既存の牧場を譲り受けて開設されたメジロ牧場も、77年の噴火の際に大きな被害を受けており、その時の記憶は確かに受け継がれていた。

 とはいえ、噴火の時期がいつになるかまでは分からないし、どの程度のものとなるかは知る由もない。

 メジロ牧場の従業員たちは、同月30日に全員でバーベキューをした。そのバーベキューは、

「栄養をつければ、噴火も収まるよ」

という楽観的な願望と、

「万一の時は、苦労をかけるよ」

という経営陣の心遣いから提案されたものだったという。・・・まさかバーベキューで親睦を深めた翌31日に、大規模な噴火が始まることまでは、さすがに予想不能であった。

『旅立ち』

 有珠山の噴火という事態を受け、メジロ牧場の馬たちは、道内のいくつかの地域、牧場へと「疎開」していった。100頭近くいたという繁殖牝馬、幼駒等はもちろん、デビュー前の旧3歳馬も例外ではない。メジロ牧場の馬たちのほとんどが避難し、牧場から馬の姿が消えた。

 メジロ牧場は、1977年の噴火の際に、牧草地に数十cmの火山灰が積もったことで壊滅的な被害を受けたり、施設の屋根に積もった灰が雨で重くなった結果、厩舎を含む牧場設備の一部が倒壊したり・・・といった大きな被害を受けていた。それゆえに早く、かつ前回の被害を踏まえた対応をとったメジロ牧場だったが、先行きが見えない中での旅立ちは、大きな不安を伴うものとならざるを得ない。

 予定より大幅に早くメジロ牧場を後にしたメジロベイリーは、門別のファンタストクラブへ移動した。故郷に戻るめどが立たないこの世代は、例年と比べて早めの入厩を促す方針が採られ、メジロベイリーもやがて栗東の武邦厩舎へと旅立っていった。

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