メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒
『見えざる伝説』
入厩当初のメジロベイリーは、
「サンデーの子にしては、気性が素直」
などと言われる程度で、
「それほど目につく動きでもない」
などと評されていたが、調教が進んでいくと評価が急激に高まっていくのは良血馬や上級馬の常である。デビューを前にして調子を上げていったメジロベイリーは、2000年9月2日、札幌芝1800mの新馬戦でデビューすることになった。
新馬戦としては距離が長いこのレースは、「クラシックを狙う」器とされる新馬たちが集まってくる出世レースでもある。鞍上に迎えたのは、武邦師の息子である武幸四郎騎手だった。
ここに集まった8頭の出走馬たちの中で、単勝300円の1番人気に支持されたのは、デビュー前から「大器」と名高いタガノテイオーで、メジロベイリーは同330円と僅差の2番人気となった。この時点でメジロベイリーは既に「メジロブライトの半弟」という注目と期待を背負っていた。
ただ、この日の彼らが選んだ「スタート直後から先頭に立ち、そのまま逃げる」という競馬は、後方待機からの末脚勝負に賭けるメジロブライトの半弟というイメージとは似ても似つかぬものだった。そして、半兄と全く異なる作戦は、第4コーナーで早々に失速して後続に呑まれたことで終焉を迎え、期待を大きく裏切る5着に終わった。・・・この結果だけを見れば、単なる惨敗に過ぎない。
だが、このレースは、後になって「凄いメンバーだったのではないか」と注目を集めることになった。この日、5番人気ながらも抜群の勝負根性を見せて勝ち上がったジャングルポケットは、翌01年の日本ダービーで勝利の咆哮をあげ、さらにジャパンCでは、馬群を完全に抜け出した世紀末覇王テイエムオペラオーに一騎打ちを挑んで見事に差し切り、これを沈める名馬となる。この日の出走馬たちは、後に2頭がGl、1頭が重賞、1頭がOP勝ちを果たし、残る4頭も全馬が勝ち上がったのである。JRAでデビューした馬のうち、引退までに1勝をあげられるのは3割強とも言われる中で、8頭の出走馬のすべてが勝ち上がる新馬戦など、そうそうあるものではない。この日の新馬戦は、後日「伝説の新馬戦」と呼ばれるレースのひとつとなっていく。 もっとも、豪華すぎた新馬戦は、その後のメジロベイリーにも重くのしかかる結果となった。当時の新馬戦は、デビュー戦で敗れても、同一開催のうちは別の新馬戦に出走することができた。そのため、デビュー勝ちを果たしたジャングルポケットこそ勝ち抜けたものの、それ以外の出走馬である2着馬タガノテイオー、3着ダイイチダンヒルともう一度同じ新馬戦を走る羽目になったメジロベイリーは、9月16日に同条件で開催された折り返しの新馬戦でもこの2頭に次ぐ3着に敗れ、新馬勝ちを逸したのである。
『彼らの渇望』
このように、デビュー直後しばらくの間足踏みを強いられたメジロベイリーの初勝利は、同年11月11日、通算4戦目となる未勝利戦までずれ込んだ。3戦目は調教で放馬した影響もあって前走比12kg減で出走して3着に終わっていたが、馬体重が回復したこの日は、単勝180円という圧倒的な人気に応えての初勝利となった。
その翌週である18日には、新馬戦で2度戦い、勝ち抜けを許したタガノテイオーが、東京スポーツ杯3歳S(Glll)で重賞初制覇を飾っている。タガノテイオーが年末の朝日杯3歳S(Gl)どころか、翌年のクラシック三冠への出走にも大きなアドバンテージを得た一方で、メジロベイリーがまだ単なる1勝馬にとどまっている現実を見れば、彼らの立場の違い、そしてメジロベイリーが足踏みを余儀なくされた期間の重さがうかがわれる。
ただ、メジロベイリー陣営の関係者によれば、デビュー直後は「まだ体質が弱くビシビシと鍛えられなかった」というメジロベイリーだったが、この時期になってようやく強い調教をかけられるようになってきたという。
メジロベイリーの成長に手応えを感じ始めた武邦師は、次走について考えた。
「朝日杯に出してみたいな…」
勝算が高い・・・わけではない。この時点でのメジロベイリーは4戦1勝で、重賞には勝ち負けどころか出走したことすらない。そもそも未勝利戦で1勝しただけでは、出走すらできない可能性も高い。
しかし、この時期の武邦厩舎は不振が続いていて、武邦師自身にGlへの強い渇望があった。騎手時代は「ターフの魔術師」と呼ばれて72年のロングエースでの日本ダービー制覇をはじめとする輝かしい実績を残し、87年の調教師転身後も、厩舎開業からわずか2年後にバンブーメモリーで安田記念(Gl)を制するなど順風満帆に見えた武邦師だが、97年にオースミタイクーンがセントウル(Glll)を勝った後は重賞から遠ざかっていて、98年の有馬記念(Gl)にそのオースミタイクーンを送り出した(16着)後は、ほぼ2年間にわたり、Glを勝つどころか、Glへ管理馬を送り込むことさえできていなかった。出走馬を送り込めないならば、絶対に勝つことはできない。
そして、メジロ牧場にとっても、メジロベイリーを朝日杯3歳Sに出走させる理由はあった。長らく「メジロ軍団」を牽引してきたメジロブライトは、京都大賞典(Gll)で敗れた後に屈腱炎を発症し、秋のGlシリーズには出走せずに引退することが決まった。また、春に起こった有珠山の噴火は、この時まだ終息に至ってはおらず、牧場も現在進行形で大きなダメージを受けていた。先が見えない不安の中で頑張っている牧場のスタッフたちにとって、メジロベイリーの朝日杯3歳Sへの出走は来春のクラシック、そして牧場再建への希望となるかもしれない・・・。
こうしてメジロベイリーは、1勝馬の身ながら朝日杯3歳Sに登録することになった。
『1勝馬の挑戦』
朝日杯3歳Sは、現在こそ朝日杯フューチュリティSと名を改め、2013年以降は阪神競馬場で行われているが、2000年当時は中山競馬場の芝1600mコースで12月に行われてきた。この時期に朝日杯3歳Sを勝った場合は、ほぼ例外なく最優秀3歳牡馬として表彰される、旧3歳牡馬の王者決定戦である。
もっとも、翌年のクラシックとの関係でいえば、阪神2000mで行われるラジオたんぱ杯3歳S(Glll)が着実に存在感を強めており、世代の有力馬の中でもジャングルポケット、クロフネ、アグネスタキオンといった面々は、そちらに回るとされていた。
それでも、メジロベイリーが登録した第52回朝日杯3歳Sは、フルゲート16頭に対し、出走意思を有する最終登録馬25頭のうち12頭が賞金上位で出走枠を確定させ、残る4枠を争い13頭が自己条件1勝で横並びとなった。メジロベイリーが朝日杯3歳Sのゲートにたどり着く確率の4/13とは、決して高い確率ではない。
しかし、抽選の結果、メジロベイリーはその枠に滑り込んだ。抽選結果を聞いたメジロ牧場の人々は、飛び上がって喜んだという。
「ベイリーが入ったぞ!」
「よし、運が向いてきた」
「出走さえできれば勝てる」などという状況ではない。それでも、手塩にかけた馬がGlに出走できるということは、馬に関わる人々にとってそれだけ大きな意味を持っていた。
また、武邦師は、出走できたということはもちろんだが、3番枠を引いたことにも幸運さを感じていたという。
「中山の芝1600mコースであれば、絶対に内枠の方がいい」
というのが彼の経験に基づく思いであり、3番枠という結果は、その思いに完全に叶うものだった。