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メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒

『おばあちゃんの夢』

 こうして、第52回朝日杯3歳Sはメジロベイリーの勝利に終わった。横山騎手は、朝日杯3歳Sの勝者として、次のようなコメントも出している。

「ライアンで悔しい思いもしましたし、オーナーにも迷惑をかけました。またGlを勝ててよかったです」

 これは明らかに、朝日杯3歳Sの勝利ではなく、90年クラシック戦線を振り返っている。その視線の先にあるものも、2001年・・・新世紀のクラシック戦線にほかならない。

 メジロ牧場といえば

「ダービーよりも天皇賞がほしい」

という創設者・北野豊吉氏の言葉があまりにも有名である。しかし、この言葉を文字通りにとらえるのは、おそらく素直に過ぎる解釈である。

 北野氏がメジロ牧場を創設するきっかけとなったレースは、1961年5月28日の第28回東京優駿であって、天皇賞ではない。北野氏は、32頭立てのこのレースに、前走の条件戦で2勝目を挙げたばかりのメジロオーを送り込み、23番人気の低人気ながら1番人気のハクショウとほぼ同時にゴールしたが、わずかにハナ差で栄光を逃した。その際、レースに負けた悔しさだけでなく、その4年前にも所有馬のハクチカラで日本ダービーを勝っていて、その後は日本競馬初と言われる海外遠征を決行したハクショウの馬主である西博氏と比較され、

「馬主の格の差が勝敗を分けた」

などと心無い論評を受けたことに発奮した北野氏が、自分自身の生産馬で雪辱を果たそうと決意して67年の創設にこぎつけたのが、「メジロ牧場」の始まりである。

 関連法人を含めた北野一族の所有馬は、天皇賞で7勝を挙げたものの、日本ダービーは一度も勝っていなかった。チャンスがなかったわけではなく、83年のメジロモンスニー(勝ち馬ミスターシービー)、88年のメジロアルダン(勝ち馬サクラチヨノオー)、90年のメジロライアン(勝ち馬アイネスフウジン)と3度にわたって2着に入っており、メジロオーも含めれば、4度にわたって2着に泣いている。ここまでくれば、巡り合わせの悪さとしか言いようがない。

「ダービーを勝ったらね、あたしゃ、いつ死んでもいいよ」

とは、豊吉氏の未亡人であり、この時期のメジロ牧場の象徴的存在となっていたミヤ氏の口癖である。

 97年の皐月賞と日本ダービーで1番人気に推されながら、それぞれ4着、3着と敗れたメジロブライトの弟であるメジロベイリーで、一族の悲願とも言える皐月賞、そして日本ダービーへ臨む。それは、いまだ有珠山の噴火のダメージから立ち直れていないメジロ牧場に関わる人々のすべてにとって、大きな心の支えとなる。・・・そのはずだった。

 だが、運命は時に残酷である。メジロベイリー、そしてメジロ牧場に寄せられた01年牡馬クラシック戦線は、ファンや彼ら自身が寄せた期待とは全く異なるものとなってしまった。

『夢幻の如く』

 有力馬たちの多くがラジオたんぱ杯3歳Sへと回った中、朝日杯3歳Sを10番人気の1勝馬の身で、しかも1番人気タガノテイオーの悲劇と重なる形で制したことは、メジロベイリーへの評価に深い翳を落とす結果となった。

 メジロベイリーは、例年の朝日杯3歳S勝ち馬がそうであったのと同じように、2000年最優秀3歳牡馬に選出された。ただ、記者投票296票のうち、彼が獲得したのは半分に満たない147票であり、119票を集めたアグネスタキオンに肉薄された。また、馬の実力を重量に換算して評価する2000年JPNクラシフィケーション3歳部門でメジロベイリーに与えられた111ポンドは、113ポンドに評定されたアグネスタキオンより低い評価でしかなかった。

 アグネスタキオンは、朝日杯3歳Sの2週間後に阪神競馬場で行われたラジオたんぱ杯3歳S(Glll)で、ジャングルポケット、クロフネなどといった世代の有力馬たちを相手に、無敗のまま圧倒的な強さで制したことが評価された形である。とはいえ、メジロベイリーに対する例年の朝日杯3歳S勝ち馬たちより一段低い扱いが、徐々に可視化されていった。

 そして、当初は共同通信杯4歳S(Glll)を目指すとされていたメジロベイリーだったが、トウ骨の骨膜炎を発症したことで調整過程に狂いが生じた。骨膜炎が治まったかと思えば、今度はじんましんを発症した。思い通りの調教ができず、仕上がりのめどが立たない中で、メジロベイリーのローテーションの予定も

「皐月賞の前にスプリングS(Gll)を使う」

という見通しが

「皐月賞を日本ダービーの前に叩き台として使いたい」

に変わっていき、最終的には春を全休することになってしまった。

 メジロベイリーが目指し、そして出走までたどり着くことができなかった皐月賞はアグネスタキオンが無敗の4連勝で制覇し、日本ダービーはジャングルポケットが登頂を果たした。そのレースの舞台にメジロベイリー、そして関係者の姿はなく、「メジロ軍団」による春のクラシック制覇の夢も幻に終わったのである。

 春のクラシックを断念したメジロベイリーのその後のローテーションは、秋の菊花賞、あるいは天皇賞・秋を目指すというのが一般的と思われる。しかし、夏を越してこれらのレースに向けた報道が本格化する季節になっても、メジロベイリーの名前が出る機会は極端に少ないままだった。そして、日本ダービー時点で500万下クラスをうろうろしていたマンハッタンカフェが菊花賞(Gl)を勝ったころ、メジロベイリーはほとんど「忘れられた存在」となっていた。

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