メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒
『斜陽』
メジロベイリーが競馬場へ帰って来たのは、朝日杯3歳Sから実に1年2ヶ月が経過した2002年2月2日の白富士S(OP)だった。
前走の中山金杯(Glll)で3着のゴーステディが単勝240円、後のマイルCS(Gl)を勝つトウカイポイントが同520円で、メジロベイリーはそれに続く単勝700円の3番人気に支持された。・・・とはいえ、長すぎるブランクを考えれば、人気は大健闘というべきだろう。
その結果は無残なもので、勝ったコイントスからは1秒8遅れ、最下位のヘッドシップからハナ差の13着というブービー負けに終わった。ただ、メジロベイリーがそれで「終わった」とみられたわけではなく、次走の大阪城S(OP)では単勝550円の2番人気と前走よりも支持を集め、しかも今度は勝ち馬サンライズペガサスから0秒3差の4着に入っている。このまま調子を上げていけば、天皇賞・春も見えてくるのではないか。そんな夢を見せてくれる光景だった。
ところが、メジロベイリーの運命は、またしても暗転した。今度は屈腱炎を発症したのである。
戦列を離れたメジロベイリーは、同年夏には準オープンへと降級している。グレード制導入後に、Gl勝ち馬でありながら準オープンへ降級したのは、1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキ、85年の同勝ち馬カツラギハイデンと、メジロベイリーの3頭だけである。
『新世紀の翳』
準オープン馬となってしまったメジロベイリーだが、その後の療養生活は長引いた。そして、その時期の時代の変化は、メジロベイリーというよりも「メジロ軍団」に大きな影響を与えるものだった。
メジロベイリーが朝日杯3歳Sを勝った翌年の2001年は、21世紀の始まりの年である。しかし、20世紀の日本競馬を牽引した「メジロ軍団」の勢いは、21世紀に入ると急速に色あせていった。
メジロベイリーは、2001年のクラシック戦線を完全に棒に振る形となったが、それはメジロベイリーだけではなく、「メジロ軍団」の馬たちが実績を残せなくなっていった。2001年以降に平場の重賞を制した「メジロ軍団」の馬は、2001年の函館SS(Glll)とアイビスサマーダッシュ(Glll)(メジロダーリング)、2002年のきさらぎ賞(Glll)(メジロマイヤー)、05年の鳴尾記念(Glll)(メジロマントル)、06年の小倉大賞典(Glll)(メジロマイヤー)と、3頭が5勝を挙げただけである。
そして、04年4月には、「メジロ軍団」に激震が走った。創始者である豊吉氏の死後は「メジロのおばあちゃん」として象徴的な存在となっていたミヤ氏が92歳で亡くなったのである。メジロベイリーの日本ダービーに期待を寄せていたというミヤ氏だが、夢を果たすことはできなかった。
メジロ牧場の成績が振るわなかった時期には
「今なら借金を残さずに牧場をたためるよ」
とスタッフを叱咤した逸話が有名なミヤ氏は、亡くなる前に「無借金のまま牧場をたたむこと」という事実上の遺言を残したと伝えられている。豊吉氏の存命中から牧場の独立採算にこだわってきた「メジロ牧場」にとって、競馬に情熱と執念を燃やした創設者夫婦の死は、大きな転機であった。
ミヤ氏の死から半年後の04年10月、メジロベイリーの現役引退がひっそりと発表された。準オープンに降格した後は、勝利どころか敗北する機会である出走すらできないまま現役から退いた彼が残した通算成績は7戦2勝、重賞勝ちは朝日杯3歳Sだけである。
『落日』
通算勝利は2勝のみで、唯一のGl勝ちとなった朝日杯3歳S以降は勝ち鞍がなく、しかも最後の勝ち鞍から引退まで4年も空いたメジロベイリーは、種牡馬としても苦戦するという見立てが多かった。
しかし、青森の個人牧場で供用されるメジロベイリーのために、メジロ牧場は毎年5頭前後の交配による支援を続けた。また、メジロベイリーには、内国産天皇賞馬として気を吐きながらも2004年5月に早世したメジロブライトの半弟であり、サンデーサイレンス×マルゼンスキーというスペシャルウィークと同配合という血統の後押しもあった。そして、実際に生まれた彼の産駒たちは、思いのほか評判が良かった。
09年に北海道のビッグレッドファームへ迎えられることになったメジロベイリーは、この年生涯最高となる84頭との交配機会を得た。
ただ、これだけの頭数を集め続けるためには、重賞級、あるいはそれ以上の活躍馬を多数出す必要が生じてくる。メジロブライトの代表産駒は中京記念(Glll)2着のアルマディヴァン、ブリーダーズゴールドC(地方重賞)を勝ったウィードパワーなどであり、そこまでの期待に応えることはできないまま、交配頭数は減少していった。
冒頭で触れた2011年のメジロ牧場解散は、そんな時期のことである。創設者夫妻の死去に加え、牧場施設の老朽化に有珠山の噴火が重なり、設備の更新費用の負担を迫られた状況で、メジロ牧場はミヤ氏による遺言、そして豊吉氏による牧場設立以降の理念である「独立採算」に忠実であろうとし、周囲に迷惑をかけない「無借金のままの解散」を選んだという。メジロ牧場と「メジロ軍団」の歴史は幕を下ろしたが、牧場の施設は、これを機に独立することになった幹部による「レイクヴィラファーム」に引き継がれ、従業員らにもメジロ牧場からの退職金が支払われたうえで、多くは同ファームに引き継がれた。日本競馬に一時代を築いたメジロ牧場の終焉は、「立つ鳥跡を濁さず」という言葉がよく似合うものだったと言えよう。
ただ、「メジロ軍団」の解散は、同時にメジロベイリーが「メジロ軍団」最後のGl馬となったことを意味する。そして、その出身牧場の終焉とともに、メジロ牧場からメジロベイリーに対する支援も途絶えた。2013年以降に再び青森に戻ったメジロベイリーは、17年を最後に種牡馬生活から引退し、その後は功労馬として遇されたようである。2019年には孫のカフジオクタゴンがレパードS(Glll)を勝つというニュースも流れたが、そんな彼は、2022年6月28日に老衰で死亡したと報じられている。
『時代に幕を引いた者』
メジロ牧場、「メジロ軍団」の歴史とメジロベイリーの生涯は、こうして終焉を迎えた。「メジロ軍団」がついに日本ダービーを勝つことなく終幕を迎えたことを思えば、最後のGl馬であるメジロベイリーが2001年クラシック戦線の舞台に立てなかったことは、実に残念なことだったと言わざるを得ない。
JRAの歴史とレース体系の中で、通算2勝のGl馬というものは、決して高く評価されない存在である。しかも、そのGlでの勝利が1番人気の不幸な事故と背中合わせで、その汚名をそそぐべきクラシック戦線には参戦することすら叶わなかったとなれば、なおさらである。輝かしい歴史を誇った「メジロ軍団」の最後のGl馬であるメジロベイリーがこのような存在にとどまったことを残念に思うファンは、少なくないだろう。
ただ、一方でこうも思うのである。北野豊吉氏に始まる「メジロ軍団」は、「昭和」や「20世紀」といった時代を非常に色濃く感じさせる存在でもあった。そうであるならば、時代が移ろい、変わっていく中で、「メジロ軍団」だけが隆盛を保ち続けるということはありえない。現に、数頭の上級馬の活躍に隠されて見えにくくなってはいたけれど、多くの下級条件馬によって支えられていた彼らの成績は、昭和末期ころから緩やかに、しかし確実に下降線をたどり、時代は彼らを確実に置き去りにしつつあったのである。
「メジロ軍団」で最後に日本ダービーに出走したのは、98年のメジロランバート(6着)である。「メジロ軍団」は、01年というよりも、21世紀の日本ダービーに出走馬を送り込むことができなかった。
朝日杯3歳S勝ち馬の金看板を手にしたメジロベイリーが、もし2001年という象徴的な年の日本ダービーに出走だけでも果たしていれば、歴史はどのように変わっただろうか。・・・「メジロ軍団」は21世紀にも日本ダービーに出走馬を送り込み、新しい時代に対応しつつある。関係者たちが、そのような思いを持ったとしても、不思議はない。その場合、史実のタイミングで「メジロ」の歴史に幕を引く決断ができただろうか。
彼らの心残りである未踏の栄光には、もう手が届かない。メジロベイリーの挫折によって、そんな決定的な現実を明確に突きつけられたからこそ、「メジロ軍団」は、美しく幕を引くことができたのかもしれない。朝日杯3歳S制覇という一瞬の栄光によって見えた最後の夢が、その後の挫折によって完膚なきまでに散ることで、関係者を現実に引き戻す。そのような役割を務めたメジロベイリーこそ、「メジロ軍団」という王朝の最後の光芒であり、メジロ軍団の歴史に幕を引く存在だったのではないのだろうか。