ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬
『前哨戦』
季節が秋となり、ワンダーパヒュームの復帰戦は、ローズS(Gll)とされた。当時は牝馬三冠の最終関門は秋華賞ではなくエリザベス女王杯であり、ローズSはそのトライアルレースのひとつである。
春にしのぎを削ったライバルたちのうち、ダンスパートナーは、欧州遠征から菊花賞に進むという異例のローテーションを採るとして、エリザベス女王杯は回避が濃厚となっていた。しかし、桜花賞、オークスとも1番人気のライデンリーダー、桜花賞2着のプライムステージ、オークス2着のユウキビバーチェ、そして桜花賞馬でオークス3着のワンダーパヒュームといった、エリザベス女王杯を目指す春の有力馬たちは、ことごとくがローズSに集まった。そうなれば、このレースこそがエリザベス女王杯へと直結する王道となる。
・・・ただ、その結果は意外なものだった。ワンダーパヒュームを含む春のクラシックの上位馬たちは、桜花賞、オークスには出走しなかった5番人気サイレントハピネスが直線で見せた豪脚の前に、一敗地にまみれたのである。春のクラシックと同じような顔触れが出走しながら、春のクラシックとは全く異なる光景となったローズSの結果は、同じ95年牝馬三冠戦線であっても、時勢は既に変わり始めたことを暗示していたのかもしれない。
もっとも、神ならぬワンダーパヒューム陣営には、この結果からそこまで読み取ることはできなかっただろう。無論、彼らにとっても、勝ち馬サイレントハピネスのみならず、春のライバルたちの多くに後れを取った4着という結果は、ワンダーパヒュームにとって、十分でもなければ満足できるものでもない。だが、ローズSはワンダーパヒュームにとっては休み明けだったことからすれば、失望するほどの結果でもないはずだった。・・・そう、ワンダーパヒュームの失墜の場は、ローズSではなかった。
『桜花賞馬の失墜』
11月12日、第20回エリザベス女王杯(Gl)で1番人気に支持されたのは、ローズS2着のプライムステージだった。名牝ダイナアクトレスの子で、デビュー直後に3連勝した後勝利からは見放されていたものの、オークス5着以外は着を外したことがない安定感を買われた形である。ただ、単勝490円というオッズでは、1番人気とはいっても「押し出された」感を否めない。
それに対し、もうひとつの前哨戦であるサファイヤS(Glll)では2着だったものの、武騎手が選んだ馬ということで人気を集めた2番人気のフェアダンス、激戦区のローズSを制した3番人気サイレントハピネスは、どちらも春のクラシックで未出走に終わった牝馬たちである。
オークス馬ダンスパートナーが菊花賞へと向かったことか、時勢の変化と夏を越したことの影響かはさておき、エリザベス女王杯での構図は、明らかに変わりつつあった。
そんな中でのワンダーパヒュームは、単勝760円の4番人気と、桜花賞、オークスを上回る人気を集めた。・・・だが、それは決してこの時の彼女の状態を反映したものではなかった。
この日も最後方から競馬を進めたワンダーパヒュームは、ユウキビバーチェとファッションショーが引っ張るスローペースの中、第3コーナー過ぎから進出を開始した。だが、京都名物の下り坂を駆って中団まで押し上げたところで、彼女の脚は止まった。そんな彼女を置き去りにして、次々と追い越していく後続馬たち…。
この日のレースを制したサクラキャンドルは10番人気の人気薄で、春のクラシックの季節には、500万下で勝ち切れない競馬を繰り返していた馬だった。2着のブライトサンディー、3着のフェアダンスとも、春のクラシックに出走すらしていない上がり馬たちで決まる一方、「交流元年」というキーワードとともに95年の牝馬三冠戦線を引っ張ったライデンリーダーは、13着に終わった。 その後も彼女は翌年JRAの重賞である平安S(Glll)、シルクロードS(Glll)へ出走したものの、かつてのような輝きを見せることはないまま終わった。・・・この日、ひとつの物語は、事実上終わりを迎えたのかもしれない。
そして、何かの物語が終わったのは、ワンダーパヒュームにとっても同じだったかもしれない。桜花賞馬である彼女が挑んだ牝馬三冠最後のレースは、16着という無残な結果に終わった。ただ、彼女の苦しみに満ちた戦いの道は、まだもう少し続いていく。
『暗い道』
ワンダーパヒュームの次走となった阪神牝馬特別(Gll)では、菊花賞5着から参戦してきたオークス馬ダンスパートナー、エリザベス女王杯馬サクラキャンドル、砂の女王ホクトベガら、多くのGl馬たちが出走してきた。その中で12頭立ての8番人気という屈辱的な評価を受けたワンダーパヒュームは、その評価すら下回る10着に終わった。敗因を聞かれた田原騎手が答えに困るほどに、敗因が分からない惨敗だった。
ローズS、またはエリザベス女王杯以降のワンダーパヒュームは、明らかにリズムを崩していた。一説によれば、夏を過ごした鹿児島が例年より暑く、ワンダーパヒュームが夏負けしたまま帰厩してしまったからとも言われるが、春の激戦の疲労がひどく、回復が不十分だったと言われることもある。また、オークスの後に彼女を担当していた女性厩務員が産休に入り、厩務員が交代したことの影響を指摘する声もあったが、真相など誰にも分からない。
秋の状態を目の当たりにして、ワンダーパヒュームを引退させて繁殖入りさせるという案もあがった。しかし、「ピークを過ぎた」というにはあまりにも急激な状態の悪化は、彼女へのあきらめを、むしろ難しくした。春はあんなに強かったワンダーパヒュームが、突然これだけ走れなくなるのは、緩やかな衰えなどではなく、はっきりした原因があるのではないか。そうであるとすれば、その原因を突き止めさえできれば、春のように強いワンダーパヒュームが甦るのではないか・・・?
陣営が迷いから解き放たれることのないまま、ワンダーパヒュームの次走は、京都牝馬特別(Glll)に決まった。京都芝1600mで行われる京都牝馬特別は、かつて彼女が勝った桜花賞と全く同じ舞台である。それは、ワンダーパヒュームになんとか復活のきっかけをつかんでもらうための選択・・・のはずだった。
『消えゆく芳香』
1996年1月28日、ワンダーパヒュームは、16着に沈んだエリザベス女王杯以来、約2か月半ぶりに京都競馬場へと姿を現した。
前走の阪神牝馬特別では8番人気という低人気にとどまったワンダーパヒュームだが、この日の京都牝馬特別では、12頭の出走馬の中で唯一のGl馬であるだけでなく、重賞勝利がある出走馬も他に2頭しかいなかったこともあって、2番人気に推されていた。・・・だが、この日、競馬中継に出演していた「競馬の神様」こと大川慶次郎氏は、ワンダーパヒュームのパドックでの様子を見ただけで
「状態がよくない・・・」
と断じた。果たして神様の目は、この日のワンダーパヒュームの馬体から、何を感じ取ったのだろうか。
この日のゲートが開くと、ワンダーパヒュームは後方からレースを進め、大きな異常もないまま、レースは進んでいった。悲劇が起こったのは、第3コーナーを回って京都名物の坂下りにさしかかったところだった。・・・ワンダーパヒュームは、そこで体勢を大きく崩して減速し、そのまま競争を中止したのである。
もっとも、この時のワンダーパヒュームは、競走中に大きな故障を発生した馬たちの一部がそうであるように、激しく転倒したり、騎手が下馬した後に崩れ落ちたりといったことはなかった。そのため、この時点で悲劇的な結末まで思い描いたファンは、多くなかったかもしれない。しかし、その後、ワンダーパヒュームに下された診断は、「左第3中手骨複骨折、左第1指節種子骨複骨折、左第1指関節脱臼」で、予後不良とされた。・・・こうしてワンダーパヒュームは、この日を最後に、馬生そのものに幕を下ろす結果となったのである。
京都でデビューし、京都の桜花賞を勝ったワンダーパヒュームは、京都のエリザベス女王杯で失墜し、そして京都の京都牝馬特別で逝った。生まれ故郷の信岡牧場には、彼女の墓が建てられている(見学不可)。
領家師は、
「闘争心の強い馬だったからね。無様なレースが続いていたから悔しかったのかもしれない。繁殖にあげようかと考えていた・・・」
と、当時の彼女のことを振り返っている。
ワンダーパヒュームの担当厩務員は、前記の通り、彼女が秋に復帰する前には産休に入っていたが、桜花賞のちょうど1年後に娘を出産した。その際生まれた娘には、ワンダーパヒュームの名前にちなんで「香」という字を含む名前が付けられたという。
ワンダーパヒュームの悲劇から約3年が経った1999年3月、皐月賞トライアルのひとつであるスプリングS(Gll)の出走馬たちの中に、フォティテンを父、ラブリースターを母とする、「ワンダーファング」という名前があった。ワンダーパヒュームの4歳下の全弟である。
「桜花賞馬の弟」という血統を持ちながら、スプリングSでは16頭立てで単勝2220円の11番人気と全く人気がなかったワンダーファングだったが、この日は単騎逃げで不良馬場を生かし、後続に2馬身半差をつけて勝ったことで注目を集めた。皐月賞の優先出走権を獲得したワンダーファングにかかるのは、姉弟クラシック制覇の期待だったが、その皐月賞ではゲートで暴れて除外され、東京優駿では9着に敗れて菊花賞は不出走に終わり、姉弟クラシック制覇はならなかった。
その後のワンダーファングは、障害に転じて1勝を挙げたものの、2000年12月24日、三木ホースランドJS(OP)のレース中の事故で、姉と同じく戦場の土となった。ワンダーパヒュームのみならず、全弟のワンダーファングも、その馬生は悲劇的な運命に彩られることになった。
『たった2勝のクラシック馬』
ワンダーパヒュームというサラブレッドを振り返った場合、桜花賞ながら9戦2勝で終わった通算成績だけを見れば、決して「強い」という印象を与える馬ではない。だが、彼女の馬生をしっかりと追った場合、その印象は大きく変わってくる。彼女が95年牝馬三冠戦線で果たした役割は、まぎれもなく本物だった。「交流元年」、そしてサンデーサイレンス旋風という時代の変わり目に現れたワンダーパヒュームは、笠松所属馬ライデンリーダーの戴冠、そしてサンデーサイレンス産駒による春のクラシックの独占を阻んだ。そして、時勢が大きく動く中で、秋に調子を崩した後も、同世代の中心に立ち続けようとした彼女は、戦場に消えゆく宿命に殉じることとなった。
そんなワンダーパヒュームの姿は、決して2勝馬・・・新馬戦と桜花賞しか勝てなかったという数字と事実のみで語り尽くせるものではない。
サラブレッドの戦績と生涯とは、奥が深いものである。ただ、そうでありながら、時の経過とともにそれらが忘れ去られてしまうことも珍しくない。ワンダーパヒュームのように、繁殖牝馬としてその血統を後世に残すことができなかった馬であれば、なおさらそうなりがちである。
「生涯2勝のクラシック馬」という彼女の特徴は、一見すると、彼女が弱い桜花賞馬であるという印象を与えかねないものである。しかし、その特徴をきっかけに彼女のことに関心を持ったファンが、そのことによって彼女の真実を知り、評価し、後世にそれを伝えたとすれば、その戦績も彼女にとっての十字架ではなくなる。
現代競馬においてワンダーパヒュームの名前を聞くことは、少なくなった。新たな名馬が次々と誕生する中で、古い時代の名馬たちが記憶から押し出されていくことも避けられないことなのかもしれないが、それでもなお、「たった2勝のクラシック馬」というひとつの事実が、その事実だけでは表せない彼女の本当の姿を振り返るきっかけとなれば幸いである。