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ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

『誕生』

 金鯱賞と北九州記念を連勝したものの、その後は重賞を勝つことができなかったラブリースターは、引退までに通算31戦6勝の戦績を残し、信岡牧場へと帰っていった。信岡氏が探し求めたグッドサファイアは、思わぬ早世によって産駒を1頭しか残せなかったものの、その1頭が牝馬で、しかもそのラブリースターがJRAの重賞を制し、金看板を持ち帰ってくれたことは、信岡牧場にとっては非常に幸運なことだった。

 信岡牧場に帰ってきたラブリースターを迎えた信岡氏らは、

「この馬の子で、大きなところをとってみたい・・・」

と願いながら、毎年その子どもたちを取り上げた。そして、ラブリースターの産駒たちは、母親がつないだ縁により、現役時代に彼女の馬主だった山本信行氏の所有馬として、領家厩舎に入厩する関係が続いた。

 ただ、初期の産駒たちの戦績は今ひとつで、第1仔のワンダーセラフィム(父ノーアテンション)、第2仔のワンダージュビリー(父ロイヤルスキー)は未勝利に終わった。

 そんな中、「気性の激しさをカバーする」という観点からフォティテンを父に選び、ワンダーパヒュームにとっては3歳上の全兄となったワンダーワイルは、JRAで4勝をあげ、最終的に約7000万円の賞金を稼ぎ出した。

 ワンダーパヒュームの父であるフォティテンは、血統水準が低かった当時の感覚でも、早熟な二流のスピード血統という程度の評価しかなされていなかった。というより、「フォティテン産駒」と言われてワンダーパヒューム以前の産駒であるアラシ、ゴールドマウンテンといった馬名が浮かぶ当時のファンは、及第点・・・というより、かなりの血統通と言えるだろう。一般的なファンならば、主な実績も代表産駒もなかなか思い浮かばない程度のマイナー種牡馬・・・それがフォティテンだった。そんな種牡馬が現実に結果を残すのだから、競馬とは、そして血統とは深遠なものである。

 中小規模の牧場や馬主にとって、種付け料の負担は決して小さくない。海のものとも山のものとも知れない運否天賦に頼るよりも、一度結果が出た組み合わせをもう一度試すというのは、合理的な選択である。92年3月7日、ラブリースターは、再度交配されたフォティテンとの間で、第5仔となる牝馬を出産した。それが後の桜花賞馬、ワンダーパヒュームである。

『気が強すぎる女』

 牧場時代のワンダーパヒュームについて、信岡氏は

「あの子は気が強いし、よく食うし、男馬のようだった。おまけに自分が嫌だと思ったことは、テコでもやらない。ただ、単に気性が悪かったのでは決してなく、ものに動じない。並の馬とは全く違う点だった」

と語っている。

 幼いころのワンダーパヒュームがラブリースターに母乳をねだりに行った際、虫の居所が悪かったのか、ラブリースターに顔面をけ飛ばされてしまったことがあった。普通、母親からこのような扱いを受けた子馬は逃げ出すところだが、激怒したワンダーパヒュームは、血を流しながら母親に反撃し、喧嘩になったという。彼女の右の頬に残った傷跡は、その時に残ったものである。幼いころから、自身の母馬に対しても喧嘩を挑む強い気性と闘争心は、彼女の競走馬としての資質と表裏一体でもあった。

 やがてワンダーパヒュームは、母、兄姉と同じ領家政蔵厩舎へ入厩することになった。兄姉を知る領家師からは、

「きょうだいの中では一番馬格が良かったんで、そこそこやるだろうな」

などと言われたものの、その領家師は、兄姉の体質が弱かったことから、ワンダーパヒュームの成長を慎重に見守る方針をとり、入厩を遅らせるよう助言した。

 そして、旧3歳11月になってようやく入厩を迎えたワンダーパヒュームが領家師に最初に見せつけたものは、兄姉を超える圧倒的な能力や走り・・・ではなかった。

『期待とともに』

 ワンダーパヒュームの入厩初日に領家師が直面したのは、担当となった女性厩務員を彼女がいきなり蹴飛ばしたという悲報だった。

 もっとも、入厩直後の騒動以外では、ワンダーパヒュームの調教は順調に進んだ。

「走る馬だとは最初から思っていたんです」

という領家師も手応えに満足し、調教に駆けつけた四位洋文騎手も、彼女の切れる末脚に感心したという。

 そんなワンダーパヒュームのデビュー戦は、年明け間もない1月8日、京都競馬場での新馬戦に決まった。

「本当は芝を使いたかった」

という領家師だったが、最初に登録した芝の新馬戦が抽選で発走除外となったため、デビュー戦の舞台はダート1200mとなった。

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