TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

『交流元年のヒロイン』

 日本競馬が大衆化する大きなきっかけとなったのが、73年クラシック世代のハイセイコーと88年クラシック世代のオグリキャップという地方出身の名馬だったことは、もはや日本競馬の歴史の常識である。だが、彼らを含め、当時の競馬界で「地方馬による挑戦」と呼ばれていたものは、基本的には地方所属馬がJRAへ転厩し、「マル地馬」として走ることとほぼ同義だった。「マル地馬」によるJRAのクラシックへの挑戦の歴史は、オグリキャップの妹であるオグリローマンによる94年の桜花賞制覇という形で結実する。

 ・・・だが、地方からJRAへ転厩した馬の功績は、転厩後の馬を管理したJRA関係者に帰せられる。転厩前の馬を管理していた地方競馬関係者は、その光景をどんな視線で見つめていたのであろうか。

 1994年以前の日本競馬では、JRAと地方競馬という異なる競馬の「交流」が極めて低調だった。それでも地方の「馬」には、JRAへの転厩によって、クラシックレースを含めたJRAの大レースに挑戦する機会がある。だが、地方の「人」は、どうなのか。JRAのレースに関わる機会は、ジャパンCなど、いくつかのレースのみに限られ、クラシックレースに関わることはできない。

 地方とJRAの間に、本当に隔絶した実力差があるのであれば、それも仕方がないかもしれない。だが、地方で見出され、育ったハイセイコーやオグリキャップがJRAで大活躍したということは、JRAと地方の間に、「馬」のみならず、「人」の間にも決定的な差などないのではないか・・・?という疑問は、競馬界に常にくすぶっていた。

 そんな疑問はあっても、地方が育てた「馬」の実力を証明するためには、その馬をJRAに転厩させて、手放すしかない。残酷としか言いようがない壁が、そこにあった。そんな理不尽がようやく理不尽と意識され、JRAと地方競馬の「交流」の一環として、JRAの大レースやそのステップレースを中心に、地方所属馬が地方所属馬のまま出走できる「指定交流競走」が設定されたのが、1995年のことだった。

 この時設定された「指定交流競走」で地方所属馬が上位に入った場合、その地方所属馬はJRAのGlへの出走権を獲得し、地方所属のままJRAのGlへと出走できる。それゆえに、その改革がなされた95年は、競馬界における「交流元年」とも呼ばれた。改革によって新たな舞台が整った以上、あとはそれに応えうる主役の登壇を待つのみ。

『雷電、降臨』

 時を遡ること約9ヶ月、94年6月に1頭の牝馬が笠松競馬場でデビューした。その名は、ライデンリーダーといった。

 デビュー当初のライデンリーダーは、笠松でも「抜けた存在」とみなされていなかった。しかし、笠松のトップジョッキーで、かつてオグリキャップやオグリローマンの主戦騎手でもあった安藤勝己騎手を背にしてデビュー戦から10連勝を飾り、「笠松に敵なし」として注目を集めるようになった。そして、彼女を管理する荒川友治調教師が

「たまたま(いい時期に)レースがあった。それなら使ってみようか」

と目をつたのが、最後の桜花賞トライアルで、「指定交流競走」でもあった4歳牝馬特別だった。

 もっとも、笠松所属のライデンリーダーが地元で挙げた10戦10勝という戦績は、すべてダートで挙げたもので、芝でのレースは未経験だった。その不安を物語るように、4歳牝馬特別でのライデンリーダーは、単勝350円と、エイユーギャルに次ぐ2番人気にとどまっていた。話題性はともかく、馬券上での彼女の人気は、そこまで抜けたものではなかった。

 そして、そんな挑戦の舞台のゲートが開いた瞬間、ライデンリーダーは大きく出遅れた。笠松では単騎逃げかそれに近い形に持ち込んできたライデンリーダーなのに、この日は安藤騎手が追っつけっぱなしで、ようやく中団にとりつく始末である。この段階で、

「地方で10連勝と言っても、この程度か・・・」

「やはり地方では通用しても、中央では通用しないんだ・・・」

と失望したファンは、多かったに違いない。

 ライデンリーダーが真価を示したのは、その後だった。中団で馬群の追走に苦労しているように見えたライデンリーダーは、終盤を迎えた直線で覚醒した。前にいる馬たちの全てを差し切り、さらに2着を3馬身半ちぎり捨てたのである。彼女が見せた末脚は、まさにその名の「雷電」そのものだった。

 こうしてライデンリーダーは、4歳牝馬特別で「初めての芝」をいともたやすく克服し、1着という最高の形で桜花賞への優先出走権を獲得した。しかも、彼女がこの日見せた瞬発力は、「芝でも大丈夫」ではなく、むしろ「芝でこそ生きる」ものにも見えた。

 この結果を受けた荒川師は、当然のようにライデンリーダーの桜花賞参戦を表明した。ライデンリーダーの父ワカオライデンは、現役時代にはJRAから地方へと転厩した経歴を持ち、JRAでは朝日CC(Glll)での1着入線馬の斜行失格による繰上優勝が最大の実績で、金沢と笠松へ転入した後は、それぞれで重賞を制しているが、笠松時代のワカオライデンを管理したのが荒川師でもあった。・・・そんな幾重もの因縁を背負った女傑が、「交流元年」にJRAのクラシックに挑む。ライデンリーダーの参戦により、桜花賞戦線は新しい局面を迎えた。

『別れと出会いと』

 何はともあれ、4歳牝馬特別の終了とともに、この年の桜花賞トライアルの結果は出揃った。この時点で多くのファンの視線に映る構図は、「チューリップ賞上位馬対ライデンリーダー」というもので、ワンダーパヒュームがそこに食い込んでくることはなかった。

 そんなファンの評価をよそに、新馬戦の勝利以降、ずっとワンダーパヒュームの桜花賞への出走を目指してきた領家師は、目標としてきた大舞台に立てるという思いに燃えていた。それまでソエを気にして、ローテーションも思い通りにならなかったワンダーパヒュームだったが、この頃ようやく馬体の成長が追いついてきたのか、強い調教にも耐えられるようになっていた。思うような調整ができない中でも桜花賞への切符を手にした彼女が、いよいよ本格的な調教が可能になったことで、どのように変わってくるのか・・・?それは、領家師にとって未知であるとともに、楽しみな想像だった。

 ただ、そんな領家師は、ライデンリーダーの優勝とはまた違った形での4歳牝馬特別の結果に直面することになった。ライデンリーダーから3馬身半遅れたものの、2着に入って桜花賞の優先出走権を手にしたエイユーギャルの鞍上は、四位騎手だったのである。そして、エイユーギャルの所属厩舎は、四位騎手の所属厩舎でもある古川平厩舎だった。

 エイユーギャルもまた、4歳牝馬特別で得た優先出走権に基づき、桜花賞への出走を決めた。自身の厩舎の所属馬で、これまでの9戦のうち7戦で手綱をとっていたエイユーギャルが桜花賞に出走するとなれば、当時の競馬界の暗黙のルールの下で、四位騎手が選ぶべき筋道は決まっている。

 デビュー以来3戦すべてで手綱をとった四位騎手の騎乗ができなくなったことにより、領家師は、彼に代わるワンダーパヒュームの騎手を確保しなければならなくなった。桜花賞の想定出走馬と想定騎手を並べていた領家師は、そこである事実に気がついた。

―田原が空いている?

 田原騎手は、桜花賞のトライアルレースのうちアネモネSではワンダーピアリスで13着、チューリップ賞はダンツフェアーで7着と凡走しており、4歳牝馬特別では騎乗馬がいなかった。別路線組を含めてみても、田原騎手が騎乗しそうな馬が見当たらない。領家師は、膝を打つ心境だったに違いない。

 思い返せば、田原騎手はワンダーパヒュームの母であるラブリースターを、2つの重賞で勝たせてくれた騎手である。調教師引退までに重賞22勝を挙げる領家師だが、95年3月時点での重賞勝ちは、ラブリースターの2勝だけだった。しかも、アネモネSでの騎乗馬が「ワンダー」ピアリスということからも分かる通り、ワンダーパヒュームと同馬主だから、馬主との縁という意味でも、まったく問題ない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
TOPへ