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ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

『桜花賞男の焦燥』

 領家師から、桜花賞でのワンダーパヒュームへの騎乗依頼を受けた田原騎手は、二つ返事でそれを受けたという。ラブリースターと過ごした夏から、12年後の再会だった。

 実は、田原騎手自身、桜花賞での依頼を受ける以前から、ワンダーパヒュームの存在を認識していたという。まず新馬戦で田原騎手が1番人気のマヤノトップガンに騎乗した際、ライバルの馬柱の中にラブリースターの娘であるワンダーパヒュームがいることに、既に気づいていた。しかも、そのレースの中で見せたワンダーパヒュームの末脚は、さらに彼を感心させた。

 ここで彼女を油断ならない存在と見込んだ田原騎手は、寒梅賞で2番人気のダンツシュアーに騎乗した際、ワンダーパヒュームの追撃を封じ込めている。田原騎手の戦績は「1勝1敗」だったが、ワンダーパヒュームの末脚の迫力は身にしみていた。その末脚が、今度は自分に託される・・・。湧きあがるものがないはずがない。

 さらに、田原騎手にとっての桜花賞は、思い入れの強いレースでもあった。1978年に騎手としてデビューした田原騎手が、自身にとって初めてとなるクラシック制覇を飾ったのは、84年桜花賞のダイアナソロンである。さらに87年にマックスビューティで2勝めを挙げた田原騎手は、「桜花賞男」と呼ばれるようになった。

・・・しかし、マックスビューティで2勝目を挙げた後の田原騎手の桜花賞は、有力馬へ騎乗する機会はあっても、結果を出せない日々が続いた。前年の94年も、1番人気のローブモンタントに騎乗しながら3着に敗れているが、勝ったオグリローマンのためにチューリップ賞で優先出走権を確保したのは田原騎手だった・・・というエピソードまでついて回る。そうこうしているうちに、桜花賞の初勝利が彼より遅かったはずの河内洋騎手がメジロラモーヌ(86年)、アラホウトク(88年)、アグネスフローラ(90年)、ニシノフラワー(92年)と4勝をあげ、さらにマックスビューティの87年時点では桜花賞未勝利・・・というより騎手デビュー直後の減量騎手でしかなかった武豊騎手もシャダイカグラ(89年),ベガ(93年)、オグリローマン(94年)と3勝を挙げ、田原騎手を追い抜いていた。これでは、田原騎手の「桜花賞男」の称号は、色あせたものとならざるを得ない。

 もっとも、騎手というものは、

「このままでは終われない」

という思いがあったとしても、騎乗馬がいなければ、挽回の可能性すら出てこない。この年の桜花賞戦線では、トライアルが終わって出走できそうなお手馬すら見当たらなかった田原騎手にとって、ワンダーパヒュームへの騎乗依頼は、「渡りに船」以外の何物でもなかった。

『伝わらぬ思い』

 桜花賞での騎乗依頼を受けた田原騎手は、ワンダーパヒュームの調教に3度にわたって駆けつけた。ワンダーパヒュームは、母のラブリースターと比較すると、一瞬の切れ味では劣るものの、いい脚を長く使える長所があった。鞍上で彼女のスピードと力強さに手応えを感じ取った田原騎手は、

「ミスなく乗ったら、絶対に勝てる!」

と、勝利への確信すら湧いたという。

 ただ、そんな田原騎手にとって気がかりだったのは、これほどの素材であるワンダーパヒュームの凄さが、ファンにはまだほとんど知られていないことだった。そのことを意外に思い、また残念な気持ちになった田原騎手は、彼女への正当な評価を皆に知らしめるべく、記者たちに対して強気なコメントを出しまくった。

 ところが、そんな田原騎手の思いにも関わらず、「ワンダーパヒューム」という名前がスポーツ紙や競馬専門紙の桜花賞特集を大きく飾ることはなかった。競馬マスコミが注目していたのはワンダーパヒュームではなく、あくまでもチューリップ賞組とライデンリーダーだった。

 日本競馬にとっての95年春といえば、前年夏に初年度産駒がデビューしたことで巻き起こった「サンデーサイレンス旋風」の季節というと分かりやすい。米国三冠のうち二冠とブリーダーズCクラシック優勝馬という圧倒的な金看板を背負い、日本最愛の生産牧場である社台ファーム総帥である吉田善哉の大号令によって、鳴り物入りで日本へ導入されたサンデーサイレンスの初年度産駒は、牡馬、牝馬それぞれの三冠戦線で圧倒的な強さを見せていた。牡馬は無敗のまま朝日杯3歳S(Gl)を制し、さらに弥生賞(Gll)も危なげなく制したクラシックの大将格フジキセキが屈腱炎を発症して引退に追い込まれる悲運に見舞われながら、ジェニュイン、タヤスツヨシといった「第2グループ」が皐月賞に向けて順当に仕上がりつつある。そして、牝馬でもチューリップ賞上位組のプライムステージとダンスパートナーが桜花賞戦線の中心にいる。

 そのプライムステージとダンスパートナーを抑えてチューリップ賞を制したユウキビバーチェは、2年前の93年に初年度産駒から二冠牝馬ベガを輩出したトニービンの子であり、その血統はクラシック戦線での底力が既に証明されている。

 そして、笠松から来たライデンリーダーは、ハイセイコー、オグリキャップで人気を集めた「中央のエリートに挑む地方」というマスコミ好みの構図に加え、5年前の「オグリ・フィーバー」や前年のオグリローマンによる桜花賞制覇と続く時代の流れ、そして「交流元年」の話題性…とニュースになる要素が並んでいた。

 そんな構図の中に、田原騎手が伝えようとしたワンダーパヒュームの記事が入り込む余地はなかった。彼女が競馬マスコミやファンの視界に入ってくることはないまま、競馬界は桜花賞の季節を迎える。

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