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ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

『1勝馬の挑戦』

 1995年4月9日。普段ならば開催がない桜の季節の京都競馬場が、第55回桜花賞の舞台である。

 この日1番人気に推されたのは、笠松所属のライデンリーダーだった。「地方所属のまま、JRAのクラシックへの出走が可能になった」という制度改革がなされた「交流元年」に現れ、トライアルレースで見事な勝利を収めた地方競馬のヒロインは、時代の申し子として注目を集め、馬券上の人気も、事前の想定を大きく上回る単勝170円の圧倒的な一本かぶりとなった。

 そんなライデンリーダーに続く人気を集めた馬たちは、2番人気プライムステージ580円、3番人気ダンスパートナー760円、4番人気ユウキビバーチェ1290円・・・というチューリップ賞上位入賞組である。それに4歳牝馬特別2着のエイユーギャル、同3着のタニノルションが続く。要は、チューリップ賞と4歳牝馬特別の上位3着が6番人気までを占めていた。

 もうひとつのトライアルレースであるアネモネSからの優先出走馬たちは・・・というと、ワンダーパヒュームの単勝が2430円の7番人気で、アネモネSの勝ち馬であるヤングエブロスに至っては、ワンダーパヒュームよりさらに低い12番人気だった。ワンダーパヒュームは、様々な要素の重なり合いの中で、人気の盲点に入り込んでいたのかもしれない。

 もっとも、ワンダーパヒュームが人気にならないのが不当かというと、そうとも言い切れない。過去の戦績は3戦1勝で、重賞は未勝利どころか、出走歴すらない。しかも3戦のうち2戦はダートなので、芝に限れば1戦未勝利でしかない。

 桜花賞がまだ「中山4歳牝馬特別」と呼ばれていた戦前から戦時中にかけてであれば、1939年のソールレディ、40年のタイレイ、44年のヤマイワイの3頭が、このレースで初勝利を挙げている。しかし、戦後は競馬のレース体系の整備が進んだことで、「初勝利が桜花賞」という例はなくなっていた。では、1勝馬による桜花賞制覇はどうかというと、戦前はそれなりにあったものの、戦後は48年のハマカゼ、54年のヤマイチ、80年のハギノトップレディの3例があったものの、ハギノトップレディの後の15年間「1勝馬が桜花賞を勝った」例はなかった。いつしか、競馬界では、

「Glでの1勝馬は消し」

というのが馬券の常識となっていた。

 しかも、この年の出走馬には、極めて有力な「1勝馬」がいた。それはワンダーパヒューム・・・ではなく、3番人気に推されたダンスパートナーである。あの大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒にあたるダンスパートナーは、戦績こそワンダーパヒュームと同じ3戦1勝ながら、新馬戦を勝ち上がった後、エルフィンS(OP)2着、チューリップ賞2着で桜花賞へ乗り込んでいた。牡馬は前年に無敗で朝日杯3歳Sを制したフジキセキ、そのフジキセキが故障した後も皐月賞に向けて有力視されるジェニュイン、タヤスツヨシを輩出する怪物種牡馬が送り出した牝馬の大物として、大きな注目を集めていた。

 もし従来の常識に忠実であれば、1勝馬は消される。あえて常識破りを承知の上で1勝馬を馬券の対象とするとしても、真っ先に対象となるのはダンスパートナーであろう。ダンスパートナーをあえて消しながらワンダーパヒュームを買う、あるいはダンスパートナーとワンダーパヒュームを両方買う…というのは、いかにも勇気が必要な買い目としか言いようがない。

『支配者の憂鬱』

 やがてファンファーレが鳴り響き、第55回桜花賞は発走の時を迎える。

 18頭が一斉に駆け出した・・・はずのスタートは、スターライトマリーが大きく出遅れたのをよそに、最初に先頭へと飛び出したウエスタンドリームに人気薄のムーブアップとダンツダンサーが競りかけていき、ペースは徐々に上がっていく。

 断然の1番人気に推されたライデンリーダーは中団につけ、2番人気のプライムステージは彼女をマークしながら競馬を進めていた。ワンダーパヒュームとユウキビバーチェは、ライデンリーダーを見ながら、いつでも上がっていけるように外へと陣取っている。スターライトマリーほどではないにしてもスタートでやや出遅れたダンスパートナーは、最後に末脚を生かす作戦へと割り切ったのか、後方待機策を採っていた。

 有力馬が積極的にレースを動かそうとしない展開では、1番人気の馬の動きとタイミングに注目が集まるのが競馬界の定石である。レースを動かす権利と使命は、自ずと断然の1番人気馬、笠松から来たライデンリーダーに託された。

 だが、この時のライデンリーダーは、周囲の馬たちの壁に閉じ込められ、身動きが取れずにいた。彼女を取り巻く他の馬たちのマークは非常に厳しく、道が空く気配は見えない。

『千載不決の議』

 ライデンリーダーに騎乗する安藤騎手は、この時点で既に笠松で2300勝以上を挙げた大騎手だった。彼が笠松で積み重ねてきた勝利数は、この日の桜花賞に騎乗するJRAの騎手たちの中で最も勝利数が多かった岡部幸雄騎手のそれを、大きく上回っている。・・・しかし、悲しいかな安藤騎手には、京都…というよりJRAの、そして芝コースの競馬場での騎乗経験自体が、決定的に欠けていた。コースの感覚をつかむことができないまま、位置取りのミスを重ねて後退していく。

 この時のJRA所属馬たちの動きについて、「JRAの騎手たちによるライデンリーダー包囲網が敷かれていた」という説がある。当時のマスコミ報道には、「交流元年」に地方所属の安藤騎手と地方所属のライデンリーダーが桜花賞を勝つドラマを待望する雰囲気は、確かにあった。JRA所属の17人の騎手たちにとって、それが面白いはずもない。むしろ、何としても阻止しなければならないという思いが共有された結果、彼らは「ライデンリーダーだけは勝たせない」という意図のもと、彼女を包囲して進路を封じ込めた・・・と信じる人は、今も多い。

 当時の競馬界に「JRA>地方」という意識は、間違いなく存在していた。騎手たちに「地方の騎手にJRAのGlを勝たれることをどう思うか」と聞けば、おそらく「悔しい」「勝たせたくない」という答えが並んだだろう。ただ、そうした個々の騎手たちの意識と、彼らが連携して地方馬をブロックした事実の有無とは、全く別の問題である。

 この時点で「八大競走」のうち7つを制し、残るは桜花賞だけとなっていた岡部騎手とプライムステージは、やはり馬群の内側で、ライデンリーダーとそう離れていない位置にいた。ライデンリーダーが馬群に封じ込められる展開になれば、プライムステージも巻き添えを食らうおそれは、非常に高い。また、この日の18人の騎手のうち、地方所属は安藤騎手ただ1人だったが、関東所属の騎手も、岡部騎手を含めて2人しかいなかった。もし多くの騎手の意思の集合体がレースの流れを変えることが可能なのであれば、その対象となるのは、安藤騎手に限られない。

 だが、岡部騎手とプライムステージは、勝負どころで馬群の隙をついて前方へ抜け出した。閉じ込められた者と抜け出した者の間にあった違いは、果たして何だったのか。その答えが一致を見る日は、おそらく決して来ないだろう。

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