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ワンダーパヒューム列伝・たった2勝のクラシック馬

『歴史が動く時』

 ワンダーパヒュームと田原騎手の思惑をよそに、先頭のヤングエブロスは、ライデンリーダーなどに大きく差をつけて、快調に逃げていた。・・・だが、渾身の逃げは力尽きるのも早く、向こう正面あたりから後続に詰め寄られ、第3コーナーで馬群につかまると、彼女たちの時間はそこで終わった。

 スタンドの大観衆は、そのあたりで再びどよめきに包まれた。ライデンリーダーと安藤騎手が、ここでペースを上げてヤングエブロスをかわすと、そのまま先頭に立ったのである。だが、東京競馬場といえば、言うまでもなく日本最大の直線を誇る本格コースである。525.9mという日本最長の直線を持つこの舞台で、直線入口どころか第3コーナーからまくって先頭に立つのは、あまりに無謀なのではないだろうか・・・?

 結論を言うと、それは確かに早すぎた。ライデンリーダーの見せ場もここまでで、第4コーナーを回って直線に入るころには、彼女の余力も、もう残されてはいなかった。あとは馬群に飲まれて、ずるずると沈んでいくのみ。

 笠松では既に伝説の域に達する大騎手と言われていた安藤騎手だが、ライデンリーダーの桜花賞、オークスでの騎乗は、ファンからの批判の対象となった。安藤騎手も、かなり後になって、

「中央のレースも、芝でのレースも分かってなかった」

と振り返っている。

 ただ、地元の笠松では、あまりに勝ちすぎるために「勝つことに倦んでいた」状態となり、騎乗に熱も入らなくなって調教師転身を考えていたという安藤騎手は、この時の敗戦によって、

「自分は騎手を全く極められていなかった」

と思い知らされ、もう1度自分を騎手として鍛え直すと決意した。・・・その後の安藤騎手は、JRAにたびたび参戦するようになっただけでなく、2003年にはJRAに正式に移籍し、2013年に引退するまでの約10年間をJRAの騎手として過ごし、JRAのGlで22勝、地方のGlで7勝を挙げている。

 騎手だけでなく馬についても、ライデンリーダーが果たせなかった地方馬によるJRAのGl制覇は、1999年フェブラリーS(Gl)のメイセイオペラで現実のものとなった。

 ・・・地方交流競走の改編によって「交流元年」と言われたのは95年だが、中央と地方の新時代が現実のものとなるまでには、もう少しの時が必要だった。

『激突』

 そんな競馬の歴史と関わる失墜と大観衆の悲鳴をよそに、内を衝いて上がってきたのが、ワンダーパヒュームだった。

 人気を集めたライデンリーダーが前の方でレースを動かしているのを見ながら、田原騎手は後方待機で肚を決めていた。距離に不安があるからこそ、前の馬たちの動きにも惑うことなく、ひたすら最内を通って最短距離を回り、最後の直線に賭ける。・・・それが田原騎手の答えだった。

 レースも最高潮を迎えた府中の直線に入ると、最後方にいたはずのワンダーパヒュームは、いつの間にか影のように横一線に広がる先頭集団の中に迫り、紛れ込み、そして牙を剥いた。残り200m標識のあたりでは、ついに先頭に立ったかのような勢いである。・・・その懸命の走りは、まるで田原騎手の正しさを証明しようとしているかのようでもあった。

 しかし、ワンダーパヒュームの時間も、長くは続かなかった。彼女たちの外からは、ダンスパートナーとユウキビバーチェが末脚を伸ばしてくる。特に、ダンスパートナーの脚色が良い。

 ダンスパートナーに騎乗する武騎手は、この日の彼女の仕上がりを確かめて

「勝てるのに、なぜ1番人気ではないんだろう」

と感じたという。そんな武騎手が認めた、自信の切れ味だった。

『敗れてもなお・・・』

 アンダーパヒュームダンスパートナー、ユウキビバーチェの3頭が激突した死闘は、最後の100mで決着した。一気に突き抜けたダンスパートナーに対し、他の2頭はもうついていくことができない。・・・ワンダーパヒュームの抵抗は、ここまでだった。

 桜花賞馬ワンダーパヒュームは、オークスでは勝ったダンスパートナーから約3馬身半遅れの3着に敗れた。勝ったダンスパートナーも、桜花賞の時のワンダーパヒュームと同じくオークスが2勝目で、2勝目をオークスで挙げたのは、1939年のホシホマレ以来56年ぶりとなる椿事だった。実施時期が遅い分、2勝目をオークスで挙げた馬の例は桜花賞より少なく、その後も2021年にユーバーレーベンが加わっただけである。

 ただ、ワンダーパヒュームが敗れたことは事実だが、この時のオークスの勝ちタイムである2分26秒7は、1週間後に開催された日本ダービーでのタヤスツヨシの勝ちタイム2分27秒3より速く、3着馬ワンダーパヒュームの走破タイムも、日本ダービーの勝ちタイムと同じだった。ちなみに、馬場状態が同じだった同年のオークスと日本ダービーで、オークスの方が勝ちタイムが速かったのは、77年のリニアクイン(2分28秒1) とラッキールーラ(2分28秒7)以来18年ぶりのことだった。このことからも、この日のオークスでの敗戦は、決してワンダーパヒュームの桜花賞馬としての栄誉を辱めるものでないことは明らかである。

 95年春のクラシック戦線は、皐月賞がジェニュイン、オークスがダンスパートナー、日本ダービーがタヤスツヨシと、サンデーサイレンスの初年度産駒が席巻したことでも知られており、サンデーサイレンス以外の産駒が勝った春のクラシックは、ワンダーパヒュームが勝った桜花賞だけとなった。大種牡馬サンデーサイレンスの歴史的な猛威の中で、彼女が唯一孤塁を守ったことの意義は、決して小さくない。

『それぞれの夏』

 人気薄での桜花賞制覇に続き、距離適性を不安視されたオークスでも3着に入ったことで、ワンダーパヒュームはようやく95年牝馬三冠戦線の主役の一角として認められるようになった。桜花賞、オークスとも7番人気の低評価だったものの、結果が1着、3着といえば、完全に一線級のそれである。1600mの桜花賞と2400mのオークスの両方で結果を残しながら、それが単なるフロックであるというのであれば、それはもはやレースの価値を否定していることにほかならない。

 オークスの後、ワンダーパヒュームは、激戦の疲労をいやすための「夏休み」に入ることになった。当時の日本競馬では、春のクラシックで実績を残した有力馬は、秋のさらなる激戦に備え、夏の間は放牧されるのが常だった。ワンダーパヒュームの実力に、待遇がようやく追いついた感がある。ただ通常と違った点は、有力馬の放牧先は北海道が多かったのに対し、ワンダーパヒュームについては領家師の故郷の鹿児島にある牧場に放牧されたことだった。

 ちなみに、春の有力馬たちの夏の過ごし方を見てみると、プライムステージやユウキビバーチェは北海道の牧場、ライデンリーダーは笠松競馬場で過ごした。最も目立つのはオークス馬ダンスパートナーで、彼女は欧州遠征を決行し、ヴェルメイユ賞(仏Gl)に出走している(6着)。・・・それぞれ思い思いの夏を過ごした牝馬たちの視線は、もう秋に向けられていた。

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