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ファストフレンド列伝・暁の最強牝馬

1994年5月12日生。2025年1月11日死亡。牝。栗毛。中前義隆(門別)産。
父アイネスフウジン、母ザラストワード(母父ノーザンテースト)。高市圭二厩舎(美浦)。
通算成績38戦15勝(旧4-8歳時)。東京大賞典(Gl)、帝王賞(Jpnl)、エンプレス杯(Jpnll)2回、東海S(Gll)、東海菊花賞(Jpnll)、マリーンC(Jpnlll)、スパーキングレディー杯(Jpnlll)、クイーン賞(Jpnlll)、霜月S(OP)優勝。

『黎明期の女傑』

 人間には、「目立つ人」と「目立たない人」がいる。何をやっても周囲から注目を集めて高く評価されたり、過剰に貶められたりする人がいたりする一方で、同じようなことをやってもあまり注目されず、印象に残らない人もいる・・・そんな現実を、学校や職場などで実感したことがある方は、決して少なくないだろう。

 そして、競馬界には「記憶に残る名馬」・・・印象的な戦術、衝撃的な圧勝、他に類を見ないエピソード等によって、実際の数字や勝ち鞍以上に強くファンに記憶される名馬たちが、確かに存在する。そうであれば、そうした馬たちと対極にある「記憶に残らない」名馬もいるのではないだろうか。

 むろん、前提として「名馬」という条件がある以上、誰の記憶にも残らない・・・などということはない。ただ、残した数字や実績の割に、ファンの印象に残っていない名馬ということであれば、頭に浮かぶ馬も出てくるだろう。・・・あたかも、学校や職場の「目立たない人」のように。

 ファストフレンドというサラブレッドは、そんな名馬の1頭かもしれない。彼女はデビューした時期こそ旧4歳5月と相当遅かったものの、そこから約4年間にわたって走り、本格化した2000年には、帝王賞(Jpnl)と東京大賞典(Gl)を勝ち、生涯では通算38戦15勝、重賞も実に9勝を挙げた。そんな「ファストフレンド」という名馬の名前を知っているファンは、多いだろう。だが、彼女の名前を知っているからといって、彼女が「ダート史上最強牝馬」と呼ばれる資格を持つかもしれない存在として認識しているファンが、どれほどいるだろうか。

 ダートグレード競走が始まった90年代後半にデビューし、2000年のダート界で花開いたファストフレンドとは、どのようなサラブレッドだったのだろうか。

『栄光と悲劇の中で』

 ファストフレンドの父は、1989年の朝日杯3歳S(Gl)と90年の日本ダービー(Gl)を逃げ切った疾風の逃げ馬として知られるアイネスフウジンである。

 90年の日本ダービーといえば、中野騎手とアイネスフウジンが勝った際に、スタンドから「ナカノ・コール」が巻き起こったことが有名である。アイネスフウジンは、その勝利によって「競馬をギャンブルからスポーツへと変えた」とも言われる名馬だが、そんな栄光と表裏一体となる、彼の馬主だった小林正明氏のエピソードでも知られている。

 自動車部品会社の経営者だった小林氏は、馬主資格を取得して最初に所有したアイネスボンバーが88年の共同通信杯4歳S(Glll)で3着に入った際、「幸運な馬主」として、ささやかな話題となった。JRAでデビューした馬のうち、1勝を挙げられるのは3割前後と言われる中で、最初に所有した1頭が重賞に出走して上位に入ること自体、確かにかなりの幸運に恵まれたということができる。だが、その馬主の次の世代の所有馬から、日本ダービーを含むGl2勝を挙げたアイネスフウジンが出たとなると、もはや尋常ではない。

「ダービー馬の馬主になることは、一国の宰相となることよりも難しい」

とは、英国を第二次世界大戦での勝利に導いた首相ウィンストン・チャーチルの言葉であると伝えられている。小林氏の豪運は、自身も馬主だった大宰相の名言が白々しく聞こえるほどのレベルである。

 アイネスフウジンは、日本ダービーを最後に故障で引退し、総額9億円のシンジケートが組まれて馬産地へと迎えられた。アイネスフウジンが残した賞金に加え、シンジケートへの売却資金で懐をさらに潤した小林氏は、その資金を競馬に投入し、次なる成功を目指した。

 ・・・しかし、その後の小林氏の所有馬は、ことごとく走らなかった。ニューマーケットのセリで約2億3000万円の大枚をはたいて競り落としたアイネスブルームは1勝に終わり、他の馬たちも全く走らなかった。失地を挽回しようとして小林氏が四苦八苦するうちに、馬主業だけではなく、本業の経営まで傾いていった。小林氏が使い果たしたのは、果たして資金なのか、それとも運そのものだったのか。

 そして、日本ダービーの栄光からわずか約7年半後の98年2月25日、小林氏は多額の負債を抱え、債務を相保証していた別の経営者とともに自殺するという結末を迎えた。

 「ダービー馬の馬主の自殺」というニュースは、競馬界のみならず、一般にも衝撃とともに広く報じられた。・・・そして、アイネスフウジンと小林氏の名前は、悲劇のイメージとともに競馬ファンの脳裏に刻まれるに至った。

『日本ダービー馬の娘』

 現役時代の馬主が不吉な翳に吞み込まれていく中で、種牡馬となったアイネスフウジンの成績も、期待通りにはいかなかった。・・・いや、それはアイネスフウジンにとって酷な言い方だろう。アイネスフウジンの初年度産駒がデビューした94年といえば、日本競馬の歴史を切り拓いて「平成三強」と呼ばれたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの初年度産駒も一斉にデビューしている。

 そんな空前の激戦の年にもかかわらず、アイネスフウジンのフレッシュサイヤーランキングは、内国産種牡馬としてはオグリキャップに次ぐ2位という成績を残している。また、アイネスフウジンは、91年から6年連続で50頭以上との交配を行い、初年度産駒からは、重賞こそ手が届かなかったものの、短距離OP2勝を含む6勝を挙げ、約1億5000万円以上の賞金を稼いだイサミサクラも出ている。彼の産駒が残した通算548勝(地方を含む)、収得賞金29億円(いずれもJRA,地方を含む)という種牡馬成績は、平成三強を大きく上回った。

 だが、種牡馬アイネスフウジンにとっての最も深刻な問題は、平成三強と同じ年に種牡馬となったことではなく、やはり同じ年に種牡馬となった、平成三強をはるかに上回る異次元の怪物の存在だった。・・・80年代米国最強馬の呼び声高きサンデーサイレンスである。

 アイネスフウジンが残した前記の種牡馬成績は、初年度産駒のうち5頭がいきなりGlを7勝、それもいわゆるクラシック3勝を含む怪物種牡馬が相手では、ほんのささやかなものでしかなかった。

 ・・・そんなアイネスフウジンが供用3年目の93年に交配された相手の中に、ザラストワードという牝馬がいた。94年5月12日、門別の中前義隆氏の牧場にて、アイネスフウジンとザラストワードの子、後にファストフレンドと呼ばれる栗毛の牝馬は、産声をあげた。

『故郷と一族』

 中前牧場は、もともとは農耕馬を生産する牧場だったが、時代の移ろいとともに軍馬、アラブ馬の生産へと軸足を移し、70年代ころには本格的にサラブレッド生産に取り組み始めたという。

 ファストフレンドの牝系と中前牧場の縁は、曾祖母ブルーウェーブの代に遡る。親戚がニュージーランドから仕入れてきた約10頭の繁殖牝馬の中の1頭を任せられることになった中前氏は、一番体格が大きく、馬体も良く見えたブルーウェーブを選んだ。

 すると、ブルーウェーブの子を見に来た馬主が、その子を見て

「俺に買ってくれと言っているみたいだ」

と言い出し、その子馬だけでなく、今後ブルーウェーブが産むであろう将来の産駒や、子馬が牝馬の場合はその牝馬の子馬も買うと約束してくれた。

 その馬主である竹崎満氏は、もともと中前牧場との付き合いがあったとはいえ、南関東を中心に年間数頭程度を所有する小規模な馬主で、JRAの重賞を勝ったこともなかった。それなのに、その後、ブルーウェーブの子や孫を大量に買ってくれるようになったのだが、その中から大物が出たわけでもない。それでも、竹崎氏はブルーウェーブの血統にこだわり、中前牧場で生まれた彼女の子孫たちを買っていった。浮き沈みが激しい馬産の世界で、中前牧場の経営が厳しくなった時期もあったが、竹崎氏とブルーウェーブの子孫たちのおかげで、中前牧場は馬産を続けることができた。

 ザラストワードは、そんなブルーウェーブのひ孫にあたる。父はリーディングサイヤーのノーザンテーストで、彼女自身も重賞での実績こそなかったものの、JRAで4勝をあげている。ブルーウェーブの牝系、そして中前牧場の生産馬の中で最上級の血統と実績を持つザラストワードの子には、大きな期待がかかっていた。

 ただ、実際に生まれてきたファストフレンドの馬体は、あまり見栄えがしなかった。牝馬だったこともあって、中前牧場の人々の期待は、

「1つ、2つ勝って無事に牧場へ戻ってきてくれれば…」 という程度にまでしぼんでしまったという。

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