ファストフレンド列伝・暁の最強牝馬
『友の輪の中心』
幸い、竹崎氏とブルーウェーブ一族の間の縁は、見た目が良くなかったからという程度で買ってもらえなくなる程度の浅いものではなかった。ファストフレンドは、竹崎氏の息子である竹崎大晃氏の所有馬として走ることになり、高市圭二厩舎に入厩することも決まった。ファストフレンドの馬名は、「fast friends」、すなわち「親友」に由来する。
ファストフレンドの馬主については、「信長の野望」「三国志」等で知られるゲーム制作会社「光栄」のシブサワコウこと襟川陽一氏が、共同馬主の1人だったと語られてもいる。JRAの馬主が共同で馬を所有することは当時から認められていて、竹崎氏を代表所有者とするファストフレンドの共有馬主の1人が襟川氏だったようである。襟川氏の馬主としての経験が、光栄の看板シリーズのひとつである競馬ゲーム「ウイニングポスト」シリーズに反映されていることは、襟川氏自身が明言している。「人脈」という要素が世界観に反映された「ウイニングポスト」シリーズも、竹崎氏なくして成り立たなかったと言ってよい。
さらに、竹崎氏は、後にディープインパクトをはじめとする数々の歴史的名馬を所有する金子真人氏を馬主界に引き込んだとも伝えられている。その際の言葉は
「馬を持つと、子どもの運動会を応援しているようでたのしいよ」
というもので、金子氏が馬主として初めて所有した5頭のうち1頭は中前牧場の生産馬で、その後も数頭を購入している。竹崎氏は、所有馬よりもその人脈で語られることが多い人物だった。
『新人調教師の再出発』
そんな竹崎氏からファストフレンドを預かった高市圭二調教師は、96年に調教師免許を取得し、同年12月に厩舎を開業したばかりの新進調教師だった。
実は、当初、ファストフレンドは別の厩舎に入る予定だったが、育成牧場に馬を見に来たその調教師は、馬の様子やアイネスフウジン産駒の成績の伸び悩みを見て、
「この馬は預かれない」
とキャンセルしていた。馬主の竹崎氏は、ファストフレンドのJRA入りをほぼあきらめつつあったが、それを知った高市師が、
「自分のところでやってみたい」
と自ら手を挙げたという。
高市師が競馬界でデビューしたのは1978年で、騎手としてのデビューだった。初騎乗で初勝利を挙げた高市騎手だったが、その後の騎手生活も順調・・・とはいかず、90年2月に騎手を引退するまでの12年間で残した実績は702戦25勝にとどまった。
高市騎手と同期でデビューした騎手の中には、田原成貴騎手がいる。騎手として通算8649戦1112勝の実績を残した田原騎手は、デビューした78年に250戦28勝の成績を残した。つまり、高市「騎手」は、同期の出世頭だった田原騎手のデビュー年の勝利数に、12年かけてもついに並ぶことができなかったのである。
ただ、その事実は、高市「騎手」の騎乗技術が低かったことを意味するものではない。高市師の騎手生活の末期に、管理馬の調教での仕上げをよく依頼していた調教師には、当時厩舎を開業したばかりだった藤澤和雄師がいた。
藤澤師は、調教師としては新人だったものの、それ以前の調教助手時代には、調教師が病気で不在となった菊池一雄厩舎で二冠馬カツトップエースの競走生活を事実上差配したり、その後に移籍した野平祐二厩舎で皇帝シンボリルドルフに身近に接したりと、既に競馬界有数のキャリアを積んでいた。そんな藤澤師が、
「こちらの思いを理解して、正確に乗ってきてくれる」
と評価していたのが高市騎手だった。騎手の「華」はレースであり、多くのレースに騎乗して勝利や入着を競うことが注目されがちだが、彼らに求められる技量は、必ずしもそれだけではない。・・・ただ、レースの勝ち負け以外の局面で、騎手の技量にはなかなか注目されないし、そうした技量があっても必ずしも騎手としての成功につながらないのは、競馬の世界の残酷さである。
閑話休題。12年間の騎手生活を終えて調教助手、その後調教師へと転身して再出発を切った高市師は、今度こそ競馬人として名をあげようという野心に燃えていた。94年生まれのファストフレンドは、他厩舎でのデビュー後に転厩してきた馬たちを除けば、高市厩舎の「第1期生」にあたる。目立つ実績や人脈がないために、馬集めにも苦労した高市師にとって、他の調教師にキャンセルされたファストフレンドとの出会いは、渡りに船だった。
『遅れてきた牝馬』
こうして高市厩舎に入厩したファストフレンドだったが、最初に直面したのは、強い競走馬になる以前に、レースに出走できる状態に仕上がらないという問題だった。とにかく飼い葉食いが非常に悪い。飼い葉を食べてくれなければ、強い調教もできないし、筋肉もついてこない。
高市師は知恵を絞り、飼い葉を種類ごとに分けて与えたり、厩務員とともに馬の反応を見ながら手で直接与えたりしながら、ファストフレンドがよく食べる飼い葉の種類を探った。また、飼い葉をミキサーにかけて粉末にして食べやすくしてみたりもした。
そんな紆余曲折の末、ようやく競走馬として仕上がったファストフレンドのデビュー戦は、97年5月24日の東京競馬場、芝1600mの未勝利戦だった。その日は、くしくも同世代のトップクラスの牝馬たちが同世代の頂点を決するオークス(Gl)の前日だった。
デビュー戦に中舘英二騎手とのコンビで臨んだファストフレンドだったが、ファンからの支持は、単勝1650円の5番人気にとどまり、結果も上位とはいえない人気を下回る9着に終わった。その翌日に開催されたオークスでは、かつて90年の日本ダービー(Gl)で1番人気に推されながら、アイネスフウジンの逃げ切りを許して名を成さしめたメジロライアンの娘メジロドーベルが直線で馬群を突き抜け、栄光を手にした。・・・この時点でのファストフレンドを見て、後の活躍を想像することは、誰にも不可能だったことだろう。
『条件馬時代』
ファストフレンドが大敗したデビュー戦は、彼女にとって生涯唯一の芝でのレースとなった。ここでの大敗で芝に見切りをつけたのか、その後に彼女が走ったレースは、すべてダートである。
すると、その後ダートに転じたファストフレンドは、予想以上に高い適性を見せつけた。未勝利戦2着、未勝利戦1着、500万下2着、500万下1着、900万下1着…と、ファストフレンドは自己条件戦を着実に勝ち上がっていった。
とはいえ、ファストフレンドの出世は、そこでいったん頭打ちとなった。準オープンに昇格した後は、掲示板に載るかどうかの着順でうろうろするようになり、98年5月に欅S(1600万下)で勝ち上がったものの、その後はレースに出走することのないまま降級となった。99年1月にはアレキサンドライトS(1600万下)を勝ったものの、収得賞金の関係でオープン昇級に届かず、その後も準オープンのレースで走り続けている。
ファストフレンドの準オープン級での一進一退は約1年半に及び、気がつくと、年齢はもう旧6歳を迎えていた。一般的な牝馬であれば能力のピークを越えていて、引退しても別におかしくない年齢である。定期的に賞金をくわえて帰ってくるから現役を継続させてもらってはいるが、能力が落ちてきたらいつ引退となっても不思議はない。重賞への出走歴すらない準オープン級の牝馬がここから大きく飛躍するなど、通常であればなかなか想定できない。