ファストフレンド列伝・暁の最強牝馬
『船橋での再出発』
ファストフレンドが大きな転機を迎えたのは、99年4月7日に船橋競馬場で行われたマリーンC(Jpnlll)だった。
マリーンCは、もともとは船橋競馬の牝馬限定準重賞だったが、統一グレード導入にあたって1700mから1600mへ条件が変更されるとともに、Jpnlllの格付けがなされていた。この時点では16戦4勝の準オープン馬に過ぎないファストフレンドだが、東京のダートコースに限れば、5戦3勝という高い勝率となる。これは単に「東京に強い」ということなのか、それとも「東京を含む左回り」に強いということなのか。東京と同じ左回りの船橋競馬場は、それを確かめるために最適の舞台だった。
もっとも、ファストフレンドがマリーンCに出走するためには、準オープンに過ぎない彼女のクラスが障壁となる。もともとフルゲートが14頭のコースに、さらに統一グレード制の枠の中でJRAに割り当てられた出走枠は、わずかに5頭にすぎない。普通に考えれば、オープン馬ですらないファストフレンドがゲートにたどり着ける可能性は低かった。
だが、運命は、ファストフレンドに微笑む。マリーンCの出走馬は、最終的には全部で9頭しか集まらず、JRAからの出走馬も、前年の牝馬三冠戦線の桜花賞(Gl)で3着、オークス(Gl)で2着、そして秋華賞(Gl)では1番人気で3着という実績を残したエアデジャヴー、牝馬三冠戦線こそ不振に陥ったものの、97年の阪神3歳牝馬S(Gl)を制したアインブライドというGl馬2頭と、準オープン馬のファストフレンドの3頭しかいなかったため、ファストフレンドは晴れてマリーンCに出走できることになった。
視点を変えて、地方所属の出走馬たちの顔ぶれを見ても、前年の覇者で連覇を狙うエフテーサッチ、前年のクイーン賞(Jpnlll)を勝ったイシゲヒカリという2頭の統一グレード勝ち馬をはじめ、前年の浦和桜花賞馬ダイアモンドコア、前年の東京プリンセス賞馬ホクトオーロラという2頭の南関東牝馬クラシック馬、そしてJRAでは900万下級にとどまったものの、笠松移籍後にブレイクして地元重賞の名古屋記念を勝ち、後には全日本サラブレッドC(Jpnlll)を制するマジックリボン・・・といった面々が並んでいる。頭数は少なかったものの、質も低かったとは言えない。
もともとマリーンCは、統一グレードの格付け議論の際に、
「ダートの牝馬限定レースなど、Glllにふさわしいレベルの出走馬が十分集まるのか?」
という観点から、Glllへの格付けへの異論すら出たという。そんなレースに、前年のJRAの牝馬クラシックで常に中心にいたエアデジャヴーをはじめとする知名度の高い強豪馬たちが出走してきたとなれば、何が起こるのか。・・・ただでさえ層が薄いと言われていた本来のターゲット層の牝馬たちがおそれをなし、次々と回避した結果が、この時の異例の少頭数だった。その後のマリーンCの歴史を見ても、2019年に7頭という少頭数を記録するまでの約20年間、出走頭数が1桁にとどまったことはない。・・・ファストフレンドの重賞初挑戦は、そんな舞台だった。
『快進撃は突然に』
マリーンC当日のファストフレンドは、実績こそ劣るものの、状態の良さとダートや左回りへの適性を見込まれて、単勝230円のエアデジャヴーに次ぐ単勝320円の2番人気に推された。しかも、スタートでは、そのエアデジャヴーが躓いて出遅れるという波乱付きである。
そんな幕開けとなったレースは、地方馬エフテーサッチが先頭でレースを引っ張った。ファストフレンドは好スタートを切り、折り合いもついて、中団で競馬を進める。
この日のファストフレンドは、蛯名正義騎手と初コンビを組んでいた。この日以前は調教で1回乗っただけだった蛯名騎手だが、手綱からは確かな手応えを感じていた。9頭立ての少頭数である以上、コース取りに気を遣いすぎる必要もない。蛯名騎手は、割り切って直線での末脚勝負を仕掛ける肚を決めた。・・・そして、蛯名騎手とファストフレンドは、第4コーナー付近になると、外を衝いて上がっていく。
ファストフレンドの前方では、エフテーサッチ、イシゲヒカリ、マジックリボンの3頭がしのぎを削っていたが、残り200m地点で抜け出したのは、笠松のマジックリボンだった。レース後に安藤勝己騎手が
「勝ったと思ったが・・・」
と漏らす会心のレース運びだったが、そこに襲いかかったのがファストフレンドだった。
確かな末脚で迫る刺客に対し、マジックリボンも懸命に抵抗した。しかし、それ以前に眼下の敵の2頭を競り落とし、鞍上の名手すら勝利を確信した直後に現れる新たな敵にまで対応する余力が、彼女にはもはや残っていなかった。
ファストフレンドは、マジックリボンをきっちりかわすと、そのまま4分の3馬身差をつけてゴールした。重賞初挑戦、初勝利で手にしたのは、優勝賞金3000万円である。長きにわたった彼女の準オープン生活は、この時終焉を迎えた。
マリーンCの勝利によって文句なしのオープン馬となり、新たな世界に足を踏み入れたファストフレンドだったが、それはひとつの別れも意味していた。マリーンC以前のファストフレンドに最も多く騎乗した騎手は、10戦に騎乗して3勝を挙げていた柴田未崎騎手だった。柴田騎手は、96年に関西と比較して若手にチャンスが与えられにくい傾向があると言われる関東でデビューしたにもかかわらず、4年連続で2桁勝利を挙げてファストフレンドでも実績を残していた。しかし、オープン馬になって重賞への出走機会が増えるファストフレンドでは、減量騎手の特典を生かす機会も大幅に減る。・・・その後、ファストフレンドに柴田騎手が騎乗することはなかった。
・・・とはいえ、この時点でのファストフレンドは通算17戦5勝、さらにマリーンCでの勝利を加えたことで、繁殖牝馬としての実績は十分なうえ、既に現役の牝馬としては高齢と言っていい旧6歳となれば、大きな上がり目を期待するよりは、引退による繁殖入りの方がよほど現実的である。マリーンCの勝利が、ファストフレンドのゴールではなく、むしろ快進撃の始まりとなることを予測していた人は、この時点ではほとんどいなかった。
『牝馬限定交流重賞の鬼』
マリーンCを勝ったファストフレンドは、その後は岡部幸雄騎手とのコンビでオアシスS(OP)、武蔵野S(Glll)に出走し、いずれも3着と好走してみせた。
次いで、再び蛯名騎手とコンビを組んで臨んだ川崎の牝馬限定重賞スパーキングレディー杯(Jpnlll)では、またしても中団待機策から向こう正面で仕掛ける競馬で力強く進出すると、人気薄で逃げ粘るアブクマレディーを2馬身差し切った。初めてのナイター競馬にも適応して重賞2勝目を挙げたことで、ファストフレンドの進むべき道は、より明確なものとなった。
ファストフレンドは、以前にも書いた通り、高市厩舎開業時の事実上の第一世代だったが、同世代でファストフレンドよりも先に出世したビーマイナカヤマが、ダートの短距離重賞で活躍していた。騎手出身ながら華やかな実績はなく、特別な知名度や人脈もなかった高市師のような調教師は、他の厩舎が注目していない、あるいは様子見をしている路線を狙って実績をあげていくしかない。その意味で、統一グレード制導入によって光が当たり始めたものの、少なからぬ馬主や調教師が様子見にとどまっていたダート路線は、格好のターゲットだった。ビーマイナカヤマの距離適性は明らかに短距離にあり、ダート路線の中で重ならないことも、高市師とファストフレンドを後押しした。
ファストフレンドの次走は、川崎の牝馬限定重賞であるエンプレス杯(Jpnll)に決まった。鞍上は、当然のように蛯名騎手である。
エンプレスSといえば、統一グレード制度発足前夜の95年、96年にホクトベガが連覇したレースとして知られている。特に95年は、激しい雨の中、ホクトベガが2着馬に実に3秒6差をつけて圧勝し、「交流重賞10連勝」の幕を開けた伝説のレースとして、現代に至るまで語り継がれている。
エンプレス杯でのファストフレンドは、ホクトベガの再来…とまではいかないものの、2着アブクマレディーに5馬身差をつけて圧勝した。勝ち時計の2分14秒2は、エンプレス杯レコードである。もっとも、エンプレス杯の実施距離は98年に2000mから2100mへ延長されたばかりで、この年は条件変更後まだ2回目だったから、前年より速くゴールすればレコードとなるその時点での時計に、深い意味はない。・・・ファストフレンドが99年に樹立したこの時のレコードが更新されるのは実に15年後(2014年のワイルドフラッパー、2分12秒1)となることを知る人は、まだ誰もいない。
その後のファストフレンドは、船橋のクイーン賞(Jpnlll)でも、マリーンCに続いて笠松のマジックリボンとの叩き合いをアタマ差制し、重賞4勝目を挙げた。1999年度の交流重賞は38ある(NRAは年度制のため、1999年4月から2000年3月)が、そのうち5つの古馬牝馬限定重賞のうち4つまでが、ファストフレンドの手に帰したことになる。
現在のレース体系であれば、牝馬限定路線の頂点として、JBCレディスクラシックも存在するが、このレースが創設されたのは2011年で、当時はJBCレディスクラシックどころかJBC自体が存在しない(JBCの創設は2001年)。「牝馬限定の交流重賞では敵なし」と言われるようになったファストフレンドが、次はどのレースに向かうのか。牝馬限定とはいえ、交流重賞を勝ち続ける彼女の存在は、準オープン馬だった半年前とはまったく違った重いものとなりつつあった。