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ファストフレンド列伝・暁の最強牝馬

『最後の贈り物』

 ところで、1999年のダート戦線でファストフレンドが活躍したことは、春の種付けシーズンを前にした北海道の馬産地にちょっとした変化を引き起こした。ファストフレンドの父親であるアイネスフウジンに対し、種牡馬としての問い合わせが相次いだのである。

 以前に書いた通り、イサミサクラ以外の活躍馬が出せず、サイヤーランキングも先細りとなっていたアイネスフウジンは、既に北海道を去って宮城県の斉藤牧場へと移動していた。しかし、種牡馬としてのアイネスフウジンを求める声はかなり大きかったようで、この春には種牡馬として一時的に北海道に呼び戻されている。

 その後のアイネスフウジンは、北海道と宮城を行き来しながら余生を過ごし、最後は2004年に斉藤牧場で息を引き取った。ファストフレンドの活躍以降に種付けをした産駒から大物が出ることはなかったものの、ファストフレンドの活躍は、種牡馬としての父に最後の夢を贈ることになったのである。

『ドバイへの夢』

 閑話休題。2000年のファストフレンドは、TCK女王盃(Jpnlll)で牝馬限定交流重賞完全制覇を目指すのではなく、川崎記念(Jpnl)で始動することになった。99年に牝馬限定重賞で4勝を挙げ、牡馬も交えた東京大賞典(Gl)で2着に入ったファストフレンドは、もはや「牝馬」という枠を超えた一線級のダート馬であった。

 2000年の初戦として第49回川崎記念に出走したファストフレンドは、前年の東京大賞典を制したワールドクリーク、前々年のダービーグランプリの覇者ナリタホマレらを抑え、単勝150円という圧倒的な1番人気に支持された。特に東京大賞典で敗れたワールドクリークとのダイレクト・リターンマッチで着順と逆の評価を得たことは、ファストフレンドに対する当時の競馬界の評価を物語っている。

 ・・・ただ、この日のファストフレンドが評価にふさわしい競馬をできたかどうかは、また別の問題である。まず、この日はスタートで出負けして、競馬をスムーズに進めることができなかった。しかも、東京大賞典に続いて騎乗した横山騎手がワールドクリークを意識して競馬を進めたにもかかわらず、そのワールドクリークが直線で失速したことで、ファストフレンドも仕掛けどころを見失ってしまった。

 結局、この日のファストフレンドは、直線入口で先頭に立ってそのまま押し切った地元・川崎の雄インテリパワーから1馬身4分の1ほど遅れた3着に終わり、悔いの残る敗戦となった。

 すると、ファストフレンドは、川崎記念から11日後のフェブラリーS(Gl)にも出走することになった。川崎記念とフェブラリーSの両方に登録していた段階では

「どちらに出走するかを、ぎりぎりまで見極めたいのだろう・・・」

と見る向きもあったが、予想というより希望的な観測は、見事に裏切られることになる。

 実は、この時の高市師は、なんとしてもファストフレンドでドバイワールドCへの招待を受けたいと執念を燃やしていた。メイセイオペラは東京大賞典での惨敗で出走意欲を失ったものの、その東京大賞典で競り負けたワールドクリーク陣営が出走に積極的だと知った高市師は、逆転を目指して川崎記念、そして川崎記念で勝てないならばフェブラリーS・・・と、最後まで正体のための実績を積み増そうとしたのである。

 中10日でほぼ連闘という高市師の執念のローテーションにもかかわらず、ドバイワールドCの招待状は、フェブラリーS前の段階で、ファストフレンド陣営ではなくワールドクリーク陣営へと届いた。ファストフレンド陣営の野望と夢は、ドバイワールドCのゲートにすら届かなかった。

『果たされざる夢』

 高市師は、ドバイワールドCへの出走の夢が断たれた後も、フェブラリーSへの出走意思を翻すことはなかった。

 第17回フェブラリーSでの騎手を蛯名正義騎手に戻して臨んだファストフレンドだったが、ここではさすがにローテーションが不安視されたか、単勝1020円の7番人気にとどまった。もっとも、16頭の出走馬のうち15頭はJRAないし統一重賞勝ち馬で、唯一の例外である南関東馬アローセプテンバーも地元重賞勝ち馬という充実した顔ぶれで、しかも1番人気のキングヘイローが510円、以下ゴールドティアラ540円、メイセイオペラ610円、ウイングアロー710円、シンボリインディ830円、キョウエイマーチ900円という大混戦の中でのオッズだから、ファストフレンドも数字ほど人気がなかったわけではない。

 そんな群雄割拠のフェブラリーSは、東京大賞典での惨敗の雪辱を誓って早めに先頭に立ったメイセイオペラを、ファストフレンドを含む後続の馬たちが最後の直線で追い上げる展開となった。ファストフレンドは、メイセイオペラをかわしたものの、競り合いとなったウイングアロー、ゴールドティアラに半馬身+ハナ差及ばない3着に終わっている。

 東京大賞典以降、2か月足らずでGl、Jpnlに3回出走する連戦をこなしたファストフレンドの成績は2着、3着、3着と、実力は示したものの、Gl制覇にもドバイワールドCへの招待状にも手が届かなかった。

 ファストフレンドがたどり着けないまま開催された2000年の第5回ドバイワールドCでは、Dubai Millenniumが、その後25年以上にわたってレースレコードであり続ける1分59秒50という驚異のタイムで圧勝している。ファストフレンドを抑えて出走したワールドクリークがDubai Milleniumから約16馬身遅れの6着だったことを踏まえると、出走を逸した高市師らもあきらめがつく結果だったのではないだろうか。

『帝王への道』

 フェブラリーSの後、休養に入ったファストフレンドは、約3か月後の東海ステークス(Gll)で復帰した。ここでスマートボーイをクビ差抑えて優勝し、JRA重賞は初めて、統一重賞は5勝目を挙げた。ファストフレンドのダート実績で足りないものは、もはやGlのみと言っていい。Gl戴冠を目指すファストフレンドは、上半期のダートの総決算・第23回帝王賞(Jpnl)へ駒を進めることになった。

 帝王賞は、1978年に南関東の重賞として創設され、86年に現行と同じ大井2000mに変更されるとともにJRA所属馬と他地域所属馬に開放された。そして96年に施行時期が現在と同じ6月に変更され、97年の統一グレードの創設とともにJpnlに格付けされた、日本のダート競馬有数の伝統を誇る大レースである。

 2000年6月22日の第23回帝王賞当日、大井競馬場に集結した16頭の出走馬たちの中で単勝220円の1番人気に支持されたのは、前年の覇者で、史上初めての連覇を目指すメイセイオペラだった。前年の東京大賞典では無残に失墜したメイセイオペラだったが、先行馬が不利な流れとなったフェブラリーSの直線で「負けてなお強し」の4着に粘ったことで、評価を持ち直した形である。

 メイセイオペラに次ぐ2番人気には単勝340円のファストフレンドが支持され、3番人気以降には、年頭のフェブラリーSを制したJRAのウイングアロー、南関東の大井記念などを勝ったイナリコンコルド、川崎記念馬インテリパワーなどが続いた。

 ところで、この時点での帝王賞には、ファストフレンドにとって不吉なジンクスがあった。帝王賞を牝馬が勝ったのは、22回の歴史の中で、第5回のコーナンルビー、第19回のホクトベガの2頭しかいなかったのである。

 コーナンルビーは、1867年にナポレオン3世から徳川家茂へ贈られた芦毛の牝馬「高砂」の牝系に生まれ、帝王賞以外に羽田盃、浦和桜花賞、上山3歳優駿なども勝った女傑である。また、ホクトベガは、交流重賞10連勝の6勝目をこのレースで飾っている。このように、牝馬は歴史的名馬しか勝てていない帝王賞だが、単勝人気とオッズを見る限り、ファストフレンドが2頭の先達に並ぶことは、十分に現実的な可能性があるとみられていた。

『ハイペースの中で』

 第23回帝王賞のスタートとともに勢いよく飛び出したのは、前年の羽田盃、東京ダービー、ジャパンダートダービーを勝ったオリオンザサンクスだったが、そのオリオンザサンクスに対し、最近の約半年間でダート重賞を3勝したマイターンが競りかけていったことで、ペースは吊り上がっていった。

 この日の前半5ハロンのラップは、12秒2、10秒8、11秒5、13秒0、13秒1、計60秒6というハイペースかつ乱ペースで流れた。この日の1000m地点の通過タイムは、同じコースで行われた前年の東京大賞典より1秒2も速い。また、前半と同じペースでゴールまで走ったとすれば、推計勝ち時計は2分1秒2になるが、この時点での帝王賞レコードは、2年前の98年にアブクマポーロが記録した2分3秒5である。・・・この日のペースをゴールまで維持することは、もとより不可能だった。

 そんな地獄のような展開の中、向こう正面から第3コーナーにかけて動いたのは、1番人気で好位につけていたメイセイオペラと菅原勲騎手だった。仕掛けた菅原騎手は、レース後、

「人気になっているから、勝ちに行く競馬をしました」

と、早めに仕掛けて前の馬たちとの距離を詰めていった意図を語っている。

 ・・・ただ、これは、ペースを正しくつかんでいればいるほど、判断に迷う展開だっただろう。スローペースならともかく、この展開であえて仕掛けていくような競馬ではない、というのが常識的な感覚である。メイセイオペラの後方にいたファストフレンドの蛯名騎手も、その1人だった。

 それまでの蛯名騎手は、手綱を通してファストフレンドの抜群の手応えを感じながら、仕掛けどころを探っていた。しかし、目の前にいたメイセイオペラが上がっていったことに気づいた蛯名騎手は、意を決した。メイセイオペラと一緒に、ファストフレンドも動く・・・!ハイペースであることは気づいていた蛯名騎手だったが、ここでさらに積極策を採ったことには、直線でメイセイオペラとの併走に持ち込んで、ファストフレンドの闘志を引き出そうという意図があった。

 序盤から先手を争ったオリオンザサンクスとマイターンが脚をなくして失速すると、それと入れ替わるように、1番人気メイセイオペラと2番人気ファストフレンドが連れて上がっていく。大井競馬場を埋めた大観衆は、沸き上がった。ハイペースの中であえて自ら主導権をとって上がっていく競馬は、まさにあるべき人気馬・・・否、名馬にふさわしい横綱の競馬である。

 第4コーナーでは、メイセイオペラが先頭に立ち、ファストフレンドもそれに続いた。これからゴールまでの間、直線で2頭のマッチレースが始まる。・・・誰もがそう予想し、期待した。

『迫り来る翳』

 だが、名勝負を期待して見守っていたファンは、メイセイオペラとファストフレンドの間の大きな違いに、すぐに気づくこととなった。溢れ出んばかりの手応えで進出していくファストフレンドと違って、第4コーナーを回って先頭に立った時には、メイセイオペラを操る菅原騎手の手は、既に激しく動いている。それなのに、メイセイオペラの反応はいまひとつに見える。メイセイオペラは、もう一杯なのではないか・・・?

 彼らが感じた疑問は、真実の的を射抜いていた。第4コーナーで先頭に立ったメイセイオペラだが、直線に入ると間もなく力尽き、観客の怒声と悲鳴交じりの喚声の中、ファストフレンドに突き放され、馬群の中へと呑み込まれていく。・・・それは、地方所属馬として初めてJRAのGlを制したみちのくの名馬の終焉でもあった。

 メイセイオペラの早すぎる脱落は、ファストフレンド陣営にとっても誤算だった。ハイペースの中で早めに動いたメイセイオペラに対してついていってまで、直線でメイセイオペラとの併走に持ち込むつもりだったのに、肝心の相手がこんなに早く脱落したのでは、全部台無しである。メイセイオペラが脱落した際、蛯名騎手が「ヒヤッとした」というのも、理由なきことではない。

 それでも、ファストフレンドは頑張った。メイセイオペラが脱落した後に他の馬たちとの差をさらに広げた彼女は、残り100m地点で、後続との差を数馬身に広げていた。

 だが、レースはまだ終わっていない。ファストフレンドだけを目指して伸びてくるふたつの翳が、置いていかれた後続の中から彼女にものすごい勢いで迫っていた。

『ダート界の頂点へ』

 ファストフレンドが先頭のまま残り100m地点を過ぎたところで、外から2頭がファストフレンドに詰め寄ってきた。それは13番人気のドラールアラビアンと15番人気ザフォリアで、それぞれ桑島孝春騎手、森下博騎手という南関東のベテラン騎手が騎乗する、人気薄の外国産馬だった。道中で最後方待機を決め込んで溜めに溜めた彼らの末脚は、ハイペースを追走した挙句、さらにまくり気味に進出して脚を使っていたファストフレンドのそれを、完全に凌駕していた。

 思えば、ファストフレンドは、半年前の東京大賞典でも、早めに先頭に立ってそのまま押し切ろうとしたところで、最後に伸びてきたワールドクリークに差し切られて2着に敗れている。この日も同じ轍を踏んでしまうのか。レースを見守る高市師らは、震えていたに違いない。

 だが、ファストフレンドは、最後の力を振り絞って抵抗し、彼女とドラールアラビアン、ザフォリアがほぼ重なった瞬間が、第23回帝王賞のゴールだった。

 ほぼ同時にゴールした3頭のうち、ザフォリアがわずかに遅れていたことは、肉眼でも確認できる。問題は、前の2頭・・・ファストフレンドとドラールアラビアンの優劣である。2頭の決着は、写真判定に持ち込まれた。

 そして、判定の結果、ファストフレンドがわずかハナ差で帝王賞を制した。ファストフレンドは、旧7歳(現表記6歳)にして初めてGlを手にしたのである。23回の歴史を重ねた帝王賞の歴史の中で、勝ち馬となった牝馬はファストフレンドが3頭めであり、その後回数を48回にまで増やした現在に至るまで、03年のネームヴァリューが1頭加わっただけである。

 この日のハイペースの要因となったオリオンザサンクスはブービーの15着、マイターンは最下位の16着に沈み、好位からレースを動かしたメイセイオペラも14着と惨敗するなど、この日の先行馬たちは、ほぼ総崩れとなっている。逆に好走した馬を見ると、2着ドラールアラビアン、3着ザフォリアはもちろん、6着以内に入った馬は、1頭の例外を除いて、ことごとく中団より後方にいた。・・・そんな明確な傾向の中で、レースを制したのがただ1頭の例外ファストフレンドだったのだから、勝った馬の実力が抜けていたと言わざるを得ない。

 レースの後、高市師は

「この大きいタイトルを取ってくれたので、ホクトベガの域までは分かりませんが、一歩でも近づければと思っています」

と語り、牝馬ながらダートで歴史的な活躍を見せた名牝の名前を挙げている。当時の現役馬としては「牝馬」の枠を超えた強さを見せるファストフレンドの目標となりうるのは、もはやホクトベガしかいなかったのかもしれない。

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