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“サイレンススズカ” の検索結果 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Tue, 15 Oct 2024 02:44:59 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~ https://retsuden.com/horse_information/2024/08/1167/ https://retsuden.com/horse_information/2024/08/1167/#respond Sat, 08 Jun 2024 14:50:00 +0000 https://retsuden.com/?p=1167 1995年4月13日生 2018年ころ死亡?牡 黒鹿 谷潔厩舎(栗東)→若松平厩舎(北海道)→幣旗吉昭(荒尾)
父オースミシャダイ、母ヒカリホマレ(母の父ラディガ) ヒカル牧場(新冠)
旧3~新7歳時 69戦6勝。ダービーグランプリ(統一GⅠ)、オグリキャップ記念(統一GⅡ)優勝。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『小さな砂のステイヤー』

 日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。

 しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。

 これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。

 地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。

 そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。

 そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。

『砂の一族』

 1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。

 マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。

 もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。

 ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。

 もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、

「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」

という思いを持っていた。

『ありえなかった配合』

 ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。

 迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。

 オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。

 オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。

 オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。

 そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、

「最初に親孝行してくれた馬」

という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。

 もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。

 種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。

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ライスシャワー列伝・編集後記 https://retsuden.com/editors_note/2024/28/1145/ https://retsuden.com/editors_note/2024/28/1145/#respond Sat, 27 Apr 2024 15:58:32 +0000 https://retsuden.com/?p=1145 リアルタイム連載時、競馬に一切知識も関心もないのに「人の筋肉を見る目で馬の筋肉を評価する」筋肉ヲタク「ニククレ」氏から、サイレンススズカ列伝、サクラスターオー列伝と並んで「お涙頂戴三部作」と呼ばれたライスシャワー列伝ですが、オリジナル版とほとんど変更がないのは別に手抜きではなく、馬自身の最期が最期だけに、物語がオリジナル段階でほぼ完結・完成していたからです。その後明らかになったエピソードをいくつか入れようとも思ったのですが、どうも全体のバランスを壊してしまう気がして。いわゆる蛇さんの脚ってやつです。。。

ただ、本文の中での疑問に対しては20年の時の中でツッコミどころもありまして、

「サンデーサイレンス血統によってステイヤーが淘汰された後に現れたサンデー系ステイヤーのフィエールマンをどう位置づけるのか?」

「ステイヤーの価値すら忘れ去られてしまったとしたら、ライスシャワーの価値だけを後世の人々に理解してもらうことは、果たしてできるのだろうか?⇒できます。それは、20年後、女の子として擬人化されたキャラのアニメとゲームによってです」

という点は本来修正するべきだったのかもしれませんが、そこを整合させようとすると改訂どころか全文書き換えになりそうなので、やめました。

あと、2度目の春天での章立てに「決意の直滑降」を採用しようとした・・・のですが、「みたび淀の坂を越えて」は菊の「淀の坂を越えて」、1度目の春天の「ふたたび淀の坂を越えて」と韻を踏んでいたことを思い出し、涙を呑んで思いとどまりました。

そんな凸凹の末の改訂ですが、時を越えてライスシャワーの物語をお楽しみいただければ幸いです。

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https://retsuden.com/editors_note/2024/28/1145/feed/ 0
「あいつ」がやってきた代償 https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1098/ https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1098/#respond Sat, 07 Oct 2023 08:11:25 +0000 https://retsuden.com/?p=1098 40過ぎたおっさんが深夜アニメをみながら

「ドゥラメンテ!?うおー!」

って声を漏らしてしまうのはなかなか珍奇な光景だったとは思いますが、それでもそうせざるを得なかったウマ娘第3期第1話。社台に続いてサンデーRもOKとなると、21世紀のウマが今後は多数実装されることになるのでしょう。

ただ、そうなると今後の新規ウマ娘は21世紀組が中心となり、20世紀組の新規実装は大幅に減少すると思うと、ほんの少しさびしさを感じたりもします。個人的にはゴールドシチーと勢力を二分する超絶美少女(映画主演経験あり)なのになぜかお笑い三枚目系イメージが定着しているメリーナイス、一心同体の正妻にしてパクパクホヤ令嬢の天敵ダイサンゲンユウサク、知略をもってサイレンススズカをレース前の段階で蹂躙破砕するサニーブライアンとか、現状無残なまでに無視されている1989年クラシック組(距離適性オールAの医師資格持ち、茨城生まれの白い奴、親に続くクラシックを目指す高校娘)とかも待望しているのですが…

あと、これまでドゥラメンテの代役を務めてきたブリュスクマンさんは、自身について書かれたウマ娘預言書のページが燃え尽きたかのように忽然と姿を消したりするのでしょうか。それは切なすぎるぞ…

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https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1098/feed/ 0
97年春のクラシックの思い出 ~2~ https://retsuden.com/horse_information/2023/21/1034/ https://retsuden.com/horse_information/2023/21/1034/#respond Tue, 21 Mar 2023 11:48:54 +0000 https://retsuden.com/?p=1034 私の記憶が正しければ、友人が教えを乞うてきた時期は、皐月賞のトライアルが終わり、皐月賞本番を待つ段階でした。

弥生賞(Gll)ランニングゲイル、オースミサンデー、サニーブライアン

スプリングS(Gll)ビッグサンデー、メジロブライト、シャコーテスコ

若葉S(OP) シルクライトニング、シャコーテスコ

前年の朝日杯王者マイネルマックスは故障で戦線を離脱していて、遅れてきた大器サイレンススズカは弥生賞で厩務員さんを追いかけてゲートをくぐって大暴走、惨敗したため出走不可。・・・一見さんの初予想に適しているとは思えない難解なレースです。

そんな私の心配をよそに、友人は興奮気味にこんなことを言ってきました。

「画期的な予想システムを考えたぞ!吾輩が考えた『追い込み指数』をみてくれ!」

「追い込み指数???なんだそれは???」

「過去3走の上がり3ハロンのタイムこそがその馬の潜在能力と考えて、それをもとに馬の絶対能力を計測したのだ!」

「・・・前半のペースや展開とかは考慮しないのかい?」

「・・・馬の絶対能力が重要なのだ!」

「・・・では、その指数は『強い逃げ先行馬』の実力をどう反映しているんだい?前半でリードを保っていれば、上がり3ハロンが遅くても、勝ったり上位に残ったりする馬は多いわけだが」

「・・・」

頭が痛くなってきました。

謎の「追い込み指数」が最終的に採用されたかどうかは定かではありませんが、結局彼は本命に「メジロブライト」を指名。

「ブライトは1番人気になってもおかしくないんだが、『固いレースは面白くない』とか言ってなかったか?」

と煽ってみたのですが、

「配当がついても、当たらないと意味がないだろう」

…そこは正解。何はともあれ、

「面白いものが見られそうだぞ」

と彼との共通の友人に声をかけたところ、競馬を全く知らない友人も含めた数名が皐月賞当日は彼の家に集まり、皐月賞というより彼の様子の観察を楽しむことになりました。

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https://retsuden.com/horse_information/2023/21/1034/feed/ 0
バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~ https://retsuden.com/horse_information/2023/25/473/ https://retsuden.com/horse_information/2023/25/473/#respond Fri, 24 Feb 2023 15:38:03 +0000 https://retsuden.com/?p=473  1993年4月11日生。2010年4月26日死亡。牡。鹿毛。 社台ファーム(千歳)産。
  父サンデーサイレンス、母バブルカンパニー(母父Lyphard)。藤澤和雄厩舎(美浦)
 通算成績は、13戦7勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、
 毎日王冠賞(Gll)、スプリングS(Gll)、鳴尾記念(Gll)、府中3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『未完の大器』

 競馬界ではよく「未完の大器」という言葉が使われる。しかし、実際に注意深く見てみると、そうした馬たちの中には、「未完の大器」というより、単なる見込み違いだったのではないか、という馬も少なくない。本当の意味で「未完の大器」という言葉にふさわしい馬は、そうそういるものではない。その点、バブルガムフェローは「未完の大器」という言葉がよく似合う、数少ないサラブレッドの1頭である。

 そう言うと、

「バブルガムフェローは、天皇賞・秋(Gl)と朝日杯3歳S(Gl)で、Glをふたつも勝っている。『未完』とは言えないのではないか」

という疑問が返ってくるかもしれない。しかし、バブルガムフェローが当時の人々から寄せられていた期待の大きさは、天皇賞・秋と朝日杯3歳Sを勝っただけで「完成した」と言い切れる程度のものではなかった。その卓越したレースセンスと底知れない大物感は、同じ時を共有した競馬関係者やファンに

「どこまで強くなるのだろう・・・」

と思わせ、そんな彼が積み上げていく実績はその期待をますます高めていった。彼に寄せられた期待は、やがて彼が1996年の天皇賞・秋(Gl)でサクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった当時の最強古馬たちをことごとく封じ込め、59年ぶりとなる4歳での天皇賞制覇を果たしたことで、ついに頂点へと達した。

 だが、天皇賞・秋の次走となったジャパンC(国際Gl)で謎の大敗を喫したバブルガムフェローは、その後まるで成長が止まってしまったように足踏みするようになった。彼が単なる早熟馬だったわけではない。バブルガムフェローは5歳時にも5戦走っているが、常に安定した結果を残し、馬券に絡まなかったことは一度もない。古馬になってからの彼に「衰えた」という評価は当てはまらないのである。

 それでも、彼に対して寄せられた期待の重さを思えば、Gl2勝という実績だけでは不完全燃焼だったのではないかという感が否めない。あるいは、大きすぎた期待が彼のくびきとなったのかもしれないが・・・。

 今回のサラブレッド列伝では、そんな「未完の大器」バブルガムフェローの軌跡を追うことによって、我々が彼に何を求めたのか、そして我々は競馬に何を求めるのかという疑問の答えを探ってみたい。

『バブルガムフェロー』

 バブルガムフェローは、千歳の社台ファームで生まれた。父はサンデーサイレンス、母はバブルカンパニーである。

 バブルカンパニーは、もともとフランス、アメリカで繁殖生活を送っていたところ、セリで社台ファームの吉田照哉氏に見出されて日本へ輸入された繁殖牝馬である。

 彼女が日本へ輸入された時、彼女は既に15歳(旧表記)になっていた。牧場が新たに繁殖牝馬を手に入れる場合、「今後何頭の産駒を取れるか」という問題に直結する牝馬の年齢は、極めて重要な意味を持つ。15歳という年齢は、新たに手に入れる繁殖牝馬としては、かなり高いリスクを負うものである。しかも、バブルカンパニーの価格は37万ドルと、年齢を考えるとかなり高額なものだった。

 それでも社台ファームがバブルカンパニーを手に入れる決断をした背景には、彼女の優れた血統的背景があった。バブルカンパニー自身の競走成績は12戦1勝にすぎないが、彼女の母Prodiceはサンタラリ賞(仏Gl)優勝、フランスオークス(仏Gl)2着などの実績を持つ名牝であり、その産駒でバブルカンパニーの全妹にあたるSangueも、米国のGlを3勝している。また、バブルカンパニーがフランスで生んだ産駒からは、仏2000ギニー(仏Gl)で2着となり、現役引退後はアルゼンチンに渡ってチャンピオンサイヤーとなったCandy Stripes、クリテリウム・ド・サンクルー(仏Gl)を勝ったIntimistが出ている。

 これほどの血統背景を持つ馬だけに、社台ファームがバブルカンパニーに寄せる期待は、非常に大きなものだった。しかも、年齢を考えると、そう多くの子は取れそうになく、悠長に構えている時間もない。

 バブルカンパニーは、1991年、92年とたて続けにサンデーサイレンスと交配された。サンデーサイレンスは、89年に米国三冠のうち二冠とブリーダーズCを制し、80年代の米国競馬の最強馬とも称される名馬である。そんなサンデーサイレンスは、吉田善哉氏が率いる社台ファームによって日本へ輸入され、91年春から種牡馬として日本で供用を開始したばかりの期待の種牡馬だった。

 93年4月11日にサンデーサイレンスの2年目産駒として生まれたのが、バブルガムフェローである。生まれたばかりのバブルガムフェローは、「ちょっと華奢にみえるくらい線の綺麗な馬」だった。バブルカンパニーの輸入後の産駒たちのうち91年生まれの持込の牡馬は故障で競走馬になれず、生まれた直後から「凄い馬になるかも・・・」と期待されていた92年生まれのサンデーサイレンス産駒も、デビュー前に病気で急逝している。それだけに、牧場の人々がバブルガムフェローに寄せる期待は大きなものだった。

『溢れる才気』

 血統と馬体の線の細さゆえに、生まれた直後から期待を集めていたバブルガムフェローは、実際の動きを見てみると、予想以上に素早く軽い動きを見せた。当時は産駒がまだデビューしていないが、サンデーサイレンス産駒の一流馬は、共通して高い身体能力を備えている。他の馬とは次元の違う身体的能力を生まれながらに備えた彼に対し、牧場の人々が

「どんな馬になるんだろう」

と希望に満ちた夢を抱いたのは、むしろ当然のことだった。

 もっとも、生まれた直後に分かる資質である肉体面では「サンデーサイレンス産駒らしい」長所を備えていたバブルガムフェローだったが、成長するにつれて初めて分かる資質・・・気性面では、他のサンデーサイレンス産駒とはまったく違った長所を持っていた。

 サンデーサイレンス産駒は、初年度産駒がそうであったように、2年目産駒もやはり癇性が強く、牧場のスタッフが馬の扱いに苦労することも珍しくなかった。まして、バブルガムフェローの場合は、父のサンデーサイレンスだけでなく、母の父であるLyphardも気性の激しい血統として知られている。バブルガムフェローの血統だけを聞いたスタッフたちは、

「けがをさせられないように、気をつけないと」

と身構えた。

 ところが、バブルガムフェローは、血統からのイメージとは正反対に、人間の言うことをよく聞く素直な馬だった。狂気と表裏一体の闘争心を武器とするサンデーサイレンス産駒において、バブルガムフェローのような馬は珍しい。

「(同期の)ダンス(インザダーク)みたいにやんちゃな奴は、『この野郎』って覚えてるけど、『バブ』は手がかかった記憶がひとつもない」

 そんなバブルガムフェローの入厩先は、当歳のうちに関東のトップトレーナー・藤澤和雄厩舎に決まっている。その経緯について藤澤師は、

「当時からいい馬でしたね。照哉さん(社台ファームの社長)のお気に入りで、だいぶ期待していた子だったみたいですね。照哉さんから『いい馬だよ』と勧められて預かることになったんです」

と述懐している。バブルガムフェローは、社台ファームで93年に生まれたサラブレッドたちの中でも最高級の期待を受けていた。

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https://retsuden.com/horse_information/2023/25/473/feed/ 0
プリティーダービー第5章 https://retsuden.com/horse_information/2021/25/729/ https://retsuden.com/horse_information/2021/25/729/#respond Sat, 25 Dec 2021 14:02:03 +0000 https://retsuden.com/?p=729 しばらく更新をさぼってしまっていて、申し訳ありません。いちおう完成一歩手前の新規列伝が2つほどあるのですが、勇気の問題とかいろいろありまして。。。

ウマ娘については、アプリ版で大いに新展開がありました。メインストーリー第5章はサイレンススズカということで、毎日王冠をバッサリ切るという思い切った構成の先にあったのは史実と異なるif展開ということで、どうしてもファンの間ではオフサイドトラップの扱いが論争になっている模様。1998年天皇賞・秋をモチーフにする限り、サイレンススズカとオフサイドトラップの両方のファンを満足させる描き方は難しいのですが、ここではスズカに花を持たせた以上、オフサイドトラップに実装という形で償いをしてくれれば、誰も損をしないはずです。あと、ダービーを勝ったフロックではないウマ娘、1年前の天皇賞・秋の前年の覇者のウマ娘も。さあ、オフサイドトラップについては、サイゲよ働け。他のお馬さんたちについては、馬主さんたち、どうか一刻も早い許可を(以下略)

というわけで、私自身が注文を付けたかったのは、これまでにできていた所属チームの関係で仕方ないのかもしれませんが、自分の走りに開眼する前にお世話になっていたトレーナーのもとから移籍する際の描き方について、彼女を送り出した側は経験と貫禄十分な女性トレーナー(アニメのあの人と同一人物?)だったことです。ここはもっと初代主戦騎手寄りのキャラクターが、よりリアルではなかったかと。

弥生賞でゲートをくぐって自分も落馬、ボロボロになっているのに、

「ここで誰かに譲ってしまえば、自分はもう二度とスズカに乗れなくなる・・・」

と全身の痛みをこらえて立ち上がってレースに臨み、日本ダービーではフロックではないウマ娘の覚悟の陽動に思いっきり惑わされ、神戸新聞杯では思い通りのレースを進められた結果、ゴール前で故障や疲労を気にして追うのをやめたところでフクキタルの異次元の鬼脚に差され、その後サイレンススズカに騎乗することはなかった・・・と、ここだけ書けばアレです。しかし、サイレンススズカの能力を信じていることでは人一倍以上、自分も一生懸命やっている、なのに結果がついてこず、サイレンススズカの素質と器に自分がついていけていない自覚もある中で、ついにその彼女が自分のもとを自分の意思で離れようとしている・・・という状況ならば、あんなに淡々とは送り出せず、かといって自分ではスズカの素質と器に対応しきれていない自覚もあるだけに、引き止めることもできない・・・というシチュエーションこそ、私には泣けます。人生が長くなると、いろいろ思い当たる節も出てくるだけに。。。( TДT)主題でないところでウェットになりすぎるのはまずいのか。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/25/729/feed/ 0
メジロブライト列伝~羊蹄山に季節は巡り~ https://retsuden.com/horse_information/2021/19/522/ https://retsuden.com/horse_information/2021/19/522/#respond Thu, 18 Nov 2021 16:11:12 +0000 https://retsuden.com/?p=522 1994年4月19日生、2004年5月16日死亡。 牡 鹿毛 メジロ牧場(伊達)産。
父メジロライアン 母レールデュタン(母の父マルゼンスキー) 。浅見国一厩舎(栗東)→浅見秀一厩舎(栗東)。3~7歳時25戦8勝。天皇賞・春(Gl)制覇、阪神大賞典(Gll)、AJC杯(Gll)、日経新春杯(Gll)、ステイヤーズS(Gll)、共同通信杯4歳S(Glll)、ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『名馬の条件』

 名馬の条件とは、どのようなものだろうか。100人の競馬ファンがいれば、100の名馬像があるだろうから、その条件を即断することは難しい。ある時代に君臨し、どんな舞台でも、どんな挑戦者が相手でも、常に己の卓越した実力のみをもって叩き伏せた強豪は、おそらく誰からも名馬と呼ばれるだろう。しかし、実力においてその域に達していなくとも、別の魅力によって「名馬」と呼ばれる馬たちが多数存在することも、競馬界の厳然たる事実である。

 競馬の歴史とは、必ずしも圧倒的な強さを持つ馬のみによって築かれるわけではない。圧倒的な強さ以外の何かでファンに感動を呼び起こす馬たちが築きあげるものも、もうひとつの競馬の歴史なのである。

 1997年牡馬クラシック世代とは、歴史が持つ様々な側面を私たちに示してくれた世代である。この世代に生まれて日本で走った馬たちの中で、最も圧倒的な強さを見せたのがタイキシャトルであるということについて、おそらく争いはないだろう。タイキシャトルは外国産馬だったため、日本競馬の花形であるクラシックへの出走権はなかったが、それゆえに早い時期から短距離戦線に照準を絞り、古馬たちに混じって走った大レースを勝ちまくった。やがてタイキシャトルは、国内のGlを4勝しただけでなく、欧州のベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞(国際Gl)まで制し、日本競馬の短距離界に、ひとつの歴史を築いたのである。

 そんな輝かしい栄光の主であるタイキシャトルに比べた場合、同じ世代に生まれた中長距離路線の主役たちの実績は、見劣りするものといわなければならない。春の二冠馬サニーブライアン、菊の上がり馬マチカネフクキタル、4歳(旧表記)で有馬記念を制したシルクジャスティス、希代の逃げ馬サイレンススズカ、黄金旅程ステイゴールド・・・。彼らはいずれも特徴的な馬たちではあったが、全盛期が短かったり、距離適性が限られていたり、とにかくジリ脚だったり、といった注文がつく馬ばかりだった。彼らの本質は、強さよりも個性が目立つ「個性派」ではあり、競馬ファンの誰もが「名馬」と認めるような存在ではなかった。そんな彼らは、やがて台頭してきた下の世代の馬たち、絶対的な名馬と呼ばれる存在を擁した新時代の担い手たちとの、時代の覇権を賭した戦いに敗れることによって、過去の馬となっていく宿命を背負っていた。

 だが、そんな彼らが残した戦いの記憶は、短距離戦線でタイキシャトルが築いた歴史にも劣ることなく、それどころかより強く、私たちに強く深く刻まれている。それは、彼らもまた、彼ら自身が残した記憶ゆえに「名馬」と呼ばれることがある存在だからである。おそらく彼らは、100人の競馬ファンのうち100人から「名馬」と呼ばれることはないだろう。しかし、彼らを名馬と呼ぶ100人のうち一部のファン1人1人の思い入れは、誰からも「名馬」と認められる馬と比較しても、決して見劣りするものではない。

 そんな彼らの世代の中長距離馬たちを代表する印象深いサラブレッドの1頭が、メジロブライトである。日本を代表する名門オーナーブリーダー・メジロ牧場に生まれたメジロブライトは、同じ世代の馬たちを代表する1頭として、クラシック戦線から古馬中長距離戦線へと続く日本競馬の王道を走り続けた。そして、ついには天皇賞・春(Gl)で日本のサラブレッドの頂点に立ち、生まれ故郷を見下ろす羊蹄山に、そして日本の競馬界に新たな春の到来を告げたのである。

 だが、メジロブライトをメジロブライトたらしめたのは、そうした輝かしい春の栄光ではない。それよりもむしろ、彼がその前と後に過ごした、長い苦しみと屈辱の季節だった。

 3歳戦、クラシック戦線で常に世代の先頭付近を走り続けながら、Glにはどうしても手が届かなかった若き日のメジロブライト。天皇賞・春を勝ったことで現役最強馬への道を期待され、若い世代との抗争に明け暮れる中で一線級の実力を保ち続けながらも、二度と古馬中長距離戦線の頂点に立つことはできなかった古馬メジロブライト・・・。そして彼は、現役生活を終えてみると、当時の競馬界を代表する強豪の1頭であったことは誰もが認めるものの、時代を代表するただ1頭の最強馬と認められることはなかった。

 しかし、メジロブライトは、そんな馬でありながら、常にファンから愛された。というよりも、そんな馬だったからこそ愛された。誰もが認める実力を持ちながら、その不器用さゆえに、実力にふさわしい名誉と栄光を手に入れることはできなかったメジロブライトだが、ファンはそんな彼の姿にこそ、競馬の原点と魅力を見出したのである。

 メジロブライトは、他の馬には代えがたい馬として、その競走生活を通して異彩を放ち、今なお輝き続けている。競走馬のピークが短くなった現代競馬において、約4年の長きにわたって現役生活を貫いた彼は、まさにその間の競馬界の季節を見つめ続けた生き証人であり、競馬そのものだった。今回のサラブレッド列伝では、現代競馬史に残る個性派として私たちに深い印象を残し、今なお根強い人気を誇るメジロブライトについてとりあげてみたい。

『新しき血』

 1997年クラシック世代を代表する強豪の1頭であるメジロブライトの生まれ故郷は、羊蹄山を見上げる日本有数の名門牧場・メジロ牧場である。

 メジロ牧場は、古くからの有力馬主だった北野豊吉氏が

「自分の生産馬でダービーや天皇賞を勝ちたい」

と志し、1967年に開設した生産牧場である。メジロ牧場は、生産だけを行って生産馬を馬主に売ることで生計を立てている通常の牧場とは異なり、その生産馬を他の馬主に売ることはしない。メジロ牧場は生産馬を売る代わりに、自らの名義で走らせることで賞金を稼ぎ、その賞金で経営を成り立たるオーナーブリーダーだった。

 また、メジロ牧場は、オーナーブリーダーとしての形態だけでなく、その血統についても強いこだわりを持ち、自家生産の種牡馬と繁殖牝馬を重視したことでも知られている。メジロ牧場の生産馬の血統表を見ると、父も母も「メジロ」の名を冠した馬名が並び、母系については3代母、4代母に至るまで「メジロ」ということが珍しくない。流行の血統に流されがちで、長い時間をかけて系統ごとを育てる馬産が忘れられがちな日本にあって、メジロ牧場の馬産は、多くのホースマンたちの敬意を集め、競馬ファンからメジロ牧場が広く親しまれるゆえんとなっていた。

 だが、同系統の種牡馬、繁殖牝馬ばかりで馬産を続けていると、生産馬の血統構成が単調になってしまい、近親配合の弊害も出やすくなる。古今東西、この危険性を軽視したために強い馬が作れなくなり、やがて牧場自体が衰運に向かったオーナーブリーダーは多い。メジロ牧場も、オーナーブリーダーとしての伝統を維持しようとすればするほど、定期的に外部から新しい血を導入していく必要があった。

 メジロブライトの母レールデュタンは、元来メジロ牧場以外の生産馬だった。マルゼンスキーの直子であり、現役時代に22戦4勝の戦績を残していたレールデュタンには、繁殖牝馬としての引き合いがさまざまな牧場から来ていた。しかし、メジロ牧場は、レールデュタンが引退するかなり前の段階から目をつけて動いており、そのかいあって、レールデュタンは、引退後すぐにメジロ牧場へやってくることになった。

『血の系譜』

 現役を引退した後、すぐにメジロ牧場で繁殖生活を開始したレールデュタンの繁殖成績は、ある意味で非常に極端なものだった。メジロブライトの兄姉にあたる5頭のうち、3番子のメジロモネは5勝をあげてオープン馬に出世したものの、それ以外の4頭は勝ち星を挙げるどころかレースへの出走さえ果たせなかったのである。レールデュタンには特に期待をかけ、

「何かがかみ合えば、きっといい子を出してくれるに違いない」

と信じていたメジロ牧場の人々ではあったが、現実にはなかなか「何かがかみ合う」ことはなかった。

 そんなレールデュタンからメジロブライトが誕生するきっかけは、1993年春、メジロライアンが種牡馬として帰還したことだった。

 メジロライアンは、通算19戦7勝、宝塚記念(Gl)をはじめ、重賞を4勝した強豪である。また、メジロライアンは、メジロ牧場の歴史の中でも最も輝かしい成績を残した1990年クラシック世代の中心を担った1頭でもあった。

 そして、メジロ牧場にとってのメジロライアンは、単なるGl馬としての位置づけを超えた特別な存在だった。メジロ牧場の、それもメジロ牧場の主流血統から誕生したメジロライアンは、その現役生活を牧場の夢に捧げ、そして殉じた馬だった。

 メジロライアンを語る場合、勝利よりは敗北の歴史の方が分かりやすい。メジロ牧場の悲願である春のクラシック、そして日本ダービー(Gl)への夢を背負い、生まれながらに牧場の期待を集めて走ったこの馬は、期待どおりに早々と出世して春のクラシックに乗ったものの、その結果は皐月賞(Gl)3着、日本ダービー2着と惜敗に終わった。その後も菊花賞(Gl)3着、有馬記念(Gl)2着、天皇賞・春(Gl)4着・・・と惜敗の歴史を積み上げ続けたメジロライアンは、5歳時に宝塚記念(Gl)を制して悲願のGl制覇を果たしたものの、「八大競走」と呼ばれる日本で最も格式が高いとされるレースには、ついに手が届かなかった。

 そんなメジロライアンに対するメジロ牧場の人々の思い入れは深かった。競走馬としては超一流になれなかったメジロライアンを、せめて種牡馬としては成功させてやりたいと願った。

「ライアンの子でダービーを!」

 それは、人ならざる馬の身に、夢という名のエゴを背負わせたことへの、人間たちのせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。だが、その気持ちは間違いなくメジロ牧場全体の意思であり、望みでもあった。

『牧場の執念』

 しかし、種牡馬入りした当初、種牡馬メジロライアンの人気は、決して芳しいものではなかった。

 メジロライアンの父は有馬記念、天皇賞・春を勝ったアンバーシャダイであり、さらに祖父は11年連続リーディングサイヤーに君臨したノーザンテーストに行き着く。だが、こうした父系の血統的背景は、当時の日本では必ずしもプラスにはならなかった。内国産種牡馬軽視の風潮が根強かった当時の日本の馬産界では、内国産種牡馬ということは、その一点をもって人気を落とす材料とされていた。まして、それが2代続けばなおのことである。

 もともと成績的に一流馬ではあっても超一流馬とはいえなかったメジロライアンゆえに、種牡馬としての可能性は疑問視する向きが多かった。種牡馬としてのシンジケートも、総額2億4000万円と比較的安価だったにもかかわらず、公募期間が過ぎた後も50口の募集が満口にならなかったため、残口をメジロ牧場が埋める形で出資することで、ようやく発足にこぎつけたほどだった。このような状況のもとで、生まれ故郷のメジロ牧場が何もしなかった場合、メジロライアンが種牡馬として失敗に終わることは目に見えていた。

 メジロライアンを種牡馬として成功させるためには、メジロ牧場が率先して良質な牝馬を交配し、子供たちの活躍でメジロライアンへの評価を引き上げるしかなかった。メジロ牧場はシンジケートの穴埋めをしたことで種付け権を多く持っていた関係もあって、初年度から5頭の牝馬をメジロライアンと交配した。年間の馬産が20頭程度のメジロ牧場にとって、これは大きな、それもリスクの高い賭けだった。

 ただ、メジロ牧場の繁殖牝馬をメジロライアンと交配するためにあたっては、ひとつの問題があった。メジロライアンはメジロ牧場の主力牝系であるシェリル系の出身だったため、多くがシェリルの血を持つメジロ牧場の繁殖牝馬たちでは、交配できる馬が限られていた。そこで浮上した1頭が、もともと外部の血統でシェリルの血を持たないレールデュタンだった。

 メジロライアンと交配されたレールデュタンは、翌年の春、自身の6番子、そしてメジロライアンの初年度産駒として、メジロブライトを出産した。

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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/#respond Wed, 17 Nov 2021 15:03:53 +0000 https://retsuden.com/?p=125  ~スエヒロジョウオー~
 1990年4月16日生。2020年4月30日死亡。牝。鹿毛。小泉賢吾(新冠)産。
 父トウショウペガサス、母イセスズカ(母父マルゼンスキー)。吉永猛厩舎(栗東)
 通算成績は、11戦3勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳牝馬S(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『仁川早春物語』

 1990年秋、JRAは翌91年のレース番組編成にあたり、それまで「西の3歳王者決定戦」として親しまれてきた阪神3歳Sを牝馬限定戦の「阪神3歳牝馬S」に改め、東西統一の3歳女王決定戦としてGlに格付けすることを発表した。

 実質的に91年から始まった阪神3歳牝馬Sは、20世紀最後の年である2000年まで続き、馬齢表記が数え年から満年齢に改められた2001年以降、「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めている。20世紀の終焉とともに姿を消した「阪神3歳牝馬S」の勝ち馬は、全部で10頭ということになる。

 ところで、日本のホースマンたちの意識の中では、3歳戦(現表記では2歳戦)を勝つために最も重要な仕上がりの早さは、単体での「名馬の条件」とされてこなかった。それゆえに3歳Glは、サラブレッドたちの最終目標としては位置づけられず、ホースマンたちの目標は、あくまでも翌年のクラシック戦線やその後の古馬戦線に向けられていた。彼らの中では、3歳戦はクラシック戦線の「予選」にすぎない、という意識が強く、その固定観念は、3歳牝馬にとって唯一のGlである阪神3歳牝馬Sについても例外ではなかった。

 前記のとおり、「阪神3歳牝馬S」として行われたレースは1991年から2000年までの10回で、その歴史には10頭のサラブレッドが勝ち馬として刻まれている。その阪神3歳牝馬Sの歴史を振り返ると、確かにこのレースが翌年以降のGlの「予選」としての役割を果たした年も珍しくない。91年ニシノフラワー、93年ヒシアマゾン、96年メジロドーベル、そして2000年テイエムオーシャン・・・。彼女たちは、いずれも阪神3歳牝馬Sの勝ち馬となっただけでなく、そこからさらに大きく羽ばたいて別のGlをも手にしている。彼女たちの名前だけを見れば、阪神3歳牝馬Sが翌年以降のGlの「予選」として機能していた、という見方は誤りではないように思われよう。

 だが、強さと仕上がりの早さを両方備えた名馬として3歳Glを制したのは、10頭の勝ち馬のうち4頭だけである。阪神3歳牝馬Sというレースの性質を考える上では、残る6頭のこともあわせて考えなければならないのは、むしろ当然のことであろう。この6頭の名前と戦績をみると、このレースの勝者たちを単純に色分けすることの難しさに気づく。もし阪神3歳牝馬Sが、翌年以降のGl戦線、例えば牝馬三冠路線の単なる「予選」であれば、彼女たちのその後の「馬生」も、「重要な予選を勝ちながら、本戦に勝つことができなかった、あるいは出走できなかった」といったある意味で画一的な物語の中に組み込むことが可能だろう。しかし、阪神3歳牝馬Sは、まぎれもないGlでもあった。彼女たちの馬生には、その時点でGl勝ちというキャリアが刻まれる。Glというすべての馬たちが目指す目標をすでに制しながら、それだけでは十分な評価につながらないという中途半端さは、彼女たちの物語を「同じ阪神3歳牝馬Sを勝った」という共通点だけでとりまとめることを難しくする。

 スエヒロジョウオー、ヤマニンパラダイス、ビワハイジ、アインブライド、スティンガー、ヤマカツスズラン。阪神3歳牝馬Sが唯一のGl勝ちとなった6頭も、同じ阪神3歳牝馬SというGlを勝ってはいても、その馬生における阪神3歳牝馬Sの位置づけはさまざまである。勝利がただちに栄光と幸福を約束するわけでもないまま、ただGl勝ちという色をつけられてしまった彼女たちの物語は、一様ではない。競走馬たちの早すぎる春・・・それが20世紀の3歳Glであった。歴代阪神3歳牝馬Sのうち、他のGlを勝っていない6頭の勝ち馬たちが、仁川を舞台に綴った早春物語は、果たしてどのようなストーリーだったのだろうか。今回のサラブレッド列伝では、そんな彼女たちにスポットライトを当ててみたい。

『フロックの女王』

 1992年の阪神3歳牝馬S勝ち馬スエヒロジョウオーのイメージを当時のファンに聞いてみた場合、たいてい返ってくるのは次のような答えだろう。

「ああ、あの12万馬券のスエヒロジョウオーか・・・」

 1991年の阪神3歳牝馬Sを9番人気で制し、さらに2着に13番人気の馬を連れてきたために、馬連120740円の配当を演出したこと。スエヒロジョウオーについてのファンの記憶は、その一点に集約されている。彼女の別の姿を思い出すというファンは、競馬ファン全体の中でも極めて少ないであろう。

 それもそのはずで、スエヒロジョウオーの通算成績は11戦3勝、阪神3歳牝馬S以外の勝利は未勝利戦、きんせんか賞(500万下特別)で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sひとつだけである。さらに、彼女が敗れた8戦を見ても、函館3歳S(Glll)で5着に入ったのを除くと、あとは掲示板にすら載っていない。人気でも生涯1番人気に支持されたことがなかったのはもちろんのこと、5番人気以内に入ったことすら、チューリップ賞(OP)での3番人気、一度きりというのだから念が入っている。

 そんなスエヒロジョウオーの勝利には、「フロック」という評価がつきまとう。・・・「フロック」という言葉は、本来Gl馬に対して使うのは非常に失礼な形容であるが、ことスエヒロジョウオーに関していうならば、それ以外の形容は見つからない。

 ただ、スエヒロジョウオーの場合、「フロック」を貶し言葉としてとらえることは間違いと言っていい。なぜなら、スエヒロジョウオーの名前は、その「フロック」のイメージの強烈さゆえに、並の阪神3歳牝馬S勝ち馬よりもはるかに深く競馬史、そしてファンの記憶に焼きついているからである。

『小さな雑草のように』

 スエヒロジョウオーの生まれ故郷は、小泉賢吾氏が個人で経営する小泉牧場だった。

 スエヒロジョウオーの血統は、母がイセスズカ、父がトウショウペガサスというものである。イセスズカは、スズカコバンやサイレンススズカの生産牧場として知られる稲原牧場の生まれで、マルゼンスキーの娘という血統的な魅力もあったが、なにぶん通算成績が13戦1勝では注目されるはずもなく、引退後も稲原牧場ではなく小泉牧場に引き取られていた。

 そんなイセスズカと交配されたトウショウペガサスも、重賞2勝でGl勝ちはなく、「トウショウボーイの半弟」という血統的背景がなければとうてい種牡馬入りできないクラスの種牡馬にすぎなかった。後に彼がスエヒロジョウオー、そしてフェブラリーS(Gl)勝ち馬グルメフロンティアを出して2頭のGl馬の父となることなど、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。

 要するに、スエヒロジョウオーは、血統的な部分からは、どこをどう見ても注目されるはずがない馬だった。

 そんなスエヒロジョウオーだったが、小泉氏の自慢の土で育った牧草を食みながら、順調に育っていた。この土は、小泉氏が牧場を継ぐことになった時、腰が弱い馬しか育たないことに危機感を覚えた小泉氏が、

「土の悪さを何とかしなくては、とあせったね。でも、土を改良するにはカネがかかる」

ということで、自分の肉体で土に鍬を入れて掘り返し、生き返らせたものだった。やがて、手を入れた土地からミミズが大量に湧いて出るようになったことで

「これならいける!」

と自信をつけた小泉氏は、相変わらずの自分なりの方法で「土との戦い」を続け、他の牧場が自分の家や生活にお金をかけていた時期も、草と馬のためにお金をかけたという。そうした成果もあって、小泉氏の牧場で育った馬たちの体質は、最初に比べて目に見えてよくなり、スエヒロジョウオーもその成果の1頭だった。

 ただ、スエヒロジョウオーには、同期の馬たちと比べても馬格が小さいという問題点があった。小泉氏の自慢の牧草を食べても、不思議と馬体が大きくならない。もともと牝馬の馬格は牡馬より小さいものだが、スエヒロジョウオーの場合、同じ牝馬と並べても、明らかにひとまわり小さい。

 サラブレッドの馬格は、ただ大きければいいというものではない。しかし、競馬場に出れば、馬格が小さい馬も、大きい馬と対等に戦わなければならない。レース中に他の馬と激しく接触することもある。小さな馬体を跳ね飛ばされたり、馬群を割れずに閉じ込められることもある。それでも、負けは負けでしかない。馬格が大きな馬なら自力で切り抜けられることがあるが、馬格が小さい馬だとそれっきりである。そのため、スエヒロジョウオーが

「こんな小さな馬体で、レースになるのかな」

という懸念を持たれるのもやむをえないことで、幼いころのスエヒロジョウオーとは、その程度の存在だった。

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オフサイドトラップ列伝・編集後記 https://retsuden.com/editors_note/2021/05/691/ https://retsuden.com/editors_note/2021/05/691/#respond Fri, 05 Nov 2021 13:30:22 +0000 https://retsuden.com/?p=691 サラブレッド列伝の中で最も新しい完結列伝「ビッグウルフ列伝」の完結が2007年11月でした。・・・14年ぶりにしれっと完全新作投入していたりします。「オフサイドトラップ列伝・1998年11月1日の悲劇」です。

オフサイドトラップというと、列伝のコンセプト的に「まだ書いてなかったのか」というくらい列伝的なGl馬です。彼は、屈腱炎を克服し、旧8歳にして悲願の重賞、そしてGl制覇を果たすも、自分とは無関係な悲劇によってその栄光をかき消され、不当な扱いを受けてきました。ウマ娘ですら、同馬主のエルコンドルパサーは実装済だから許可が出ないはずはないのに、存在そのものを抹殺されたうえ、自身の天皇賞での役回りもエルコンドルパサーに奪われました。しかし、そんな彼を支えた厩舎関係者の苦労や、馬主の父子二代の思い入れと執念は、競馬を彩る物語として、軽んじられてはならないのです。

しかし、retsuden.comは個人サイトなので、そうしたところに直接取材するルートなどありません。従って、物語を構成する材料集めは、既存メディアの記事に頼らざるを得ないのですが、オフサイドトラップの場合、厩舎関係者はともかく、馬主の物語性に注目してネタを集めてくれる記事がなかなか見つかりません。馬主へのインタビュー記事はあるのですが、同時期に活躍したエルコンドルパサーに分散・・・というより、そちらがメインとなっているため、マスコミもオフサイドトラップについて深みのある材料を引き出し切れていないのです。嗚呼、どこまで列伝のコンセプトに忠実な馬なんだ・・・T△T

というわけで、父がプレストウコウで勝てなかった天皇賞を、息子がオフサイドトラップで勝ったという点に注目してストーリーを組んでいったわけですが、欲を言うなら、父親自身のオフサイドトラップ優勝を踏まえたコメントが欲しかったところです。

他にも、「前に出すぎた敵を嵌め殺す=オフサイドトラップ」という出来すぎたサインも材料候補としてはあったのですが、こちらは最終的に断念しました。そもそもサイレンススズカの大逃げは、オフサイドトラップ陣営にはめられた結果というわけではありません。何より、書き手に14年ものブランクがあるので、あまり手を広げすぎるとまとまらないおそれがあります。

そういうわけで14年ぶりに送り出した列伝新作です。不出来な部分もあろうかと思いますが、生温かく見守っていただけましたら幸いです。

ところで、オフサイドトラップの天皇賞でのウイニングライブはどんな感じだったんだろう・・・?

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オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~ https://retsuden.com/horse_information/2021/04/674/ https://retsuden.com/horse_information/2021/04/674/#respond Thu, 04 Nov 2021 14:54:42 +0000 https://retsuden.com/?p=674 1991年4月21日誕生。2011年8月29日死亡。牡。栗毛。加藤修甫厩舎(美浦)所属
父トニービン、母トウコウキャロル(母父ホスピタリティ)。村本牧場(新冠)。
旧3~8歳時28戦7勝。天皇賞・秋(Gl)制覇、七夕賞(Glll)、新潟記念(Glll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『1998年11月1日』

 1998年11月1日という日付は、日本競馬における悲劇の一日として、多くのファンに記憶されている。日付を聞くだけではピンとこないファンも、「沈黙の日曜日」と聞けば、その日に何があったのかを思い出すのではないだろうか。

 この日、東京競馬場で行われた古馬の最高峰である第118回天皇賞・秋(Gl)において、当時…否、おそらくは日本競馬史上でも最高クラスの圧倒的なスピードで大逃げを打ったある馬が、ゴールを待たずして、故障による非業の最期を遂げた。このレースが大詰めを迎えたはずの直線の攻防は、本来競馬場を覆うべき喚声と歓呼ではなく、悲鳴と怒号の中で繰り広げられたと言っても過言ではない。

 しかし、果たしてこの1日は、日本競馬にとって、単なる悲劇としてのみ語り継がれるべき1日だったのだろうか。

 この日の競馬場が、誰も予期しない大きな悲劇の舞台となったこと自体は、確かに間違いのない事実である。だが、悲劇に塗り潰された府中の直線を、それでも一生懸命駆け抜け、そして古馬最高のレースを先頭でゴールした1頭のサラブレッドの栄光は、果たしてどの程度正当に評価されただろうか。

 このレースの勝ち馬は、競走馬にとって不治の病とされる屈腱炎を3度にわたって発症しながら、決してあきらめることなく復帰に向けて戦い続け、8歳にして本格化して初めて重賞を勝ち、Glll連勝を果たし、そしてついには天皇賞・秋(Gl)で栄冠を勝ち取った。また、彼の馬主にとっては、父子二代で制覇を夢見た特別なレースをついに勝ち得た…はずだった。

 そんな彼らの栄光の象徴となるはずだった「1998年11月1日」という日付は、20年以上が経過した現在もなお、日本競馬の大多数から、「悲劇の日」として記憶されている。彼らにとっては、それこそが「悲劇」でなくて何と呼ぶべきなのであろうか。

 今回のサラブレッド列伝では、「1998年11月1日」に行われた第118回天皇賞・秋を制しながら、彼自身とは本来関わりのない事故によって栄光に翳を投げかけられる結果となった「悲劇」の主人公であるオフサイドトラップの軌跡をとりあげてみたい。

『ある一族の物語』

 1991年4月21日、オフサイドトラップは、繁殖牝馬トウコウキャロルと凱旋門賞馬トニービンの子として、新冠の村本牧場で生まれた。

 村本牧場の名前が、それ以前の日本競馬に華々しく登場したことはなかった。それもそのはずで、1954年の開設以来、村本牧場の生産馬が中央競馬の重賞を制したことはなかった。もっとも、優勝はなくとも、2着は過去に4回もあり、その中でも91年の金鯱賞(Glll)は、生産馬のトーワルビーが勝ち馬ムービースターにわずかにハナ差届かなかったという惜敗で、牧場の人々にも「何かの巡り合わせさえかみ合えば・・・」という思いは強かった。

 トウコウキャロルの牝系も、非常に筋の通ったものだった。彼女の牝系は、1907年に小岩井農場によって輸入された20頭の基礎牝馬の1頭であるアストニシメントまで遡る。

 アストニシメントは、小岩井農場の基礎牝馬の中でも特に成功した1頭とされており、彼女の子孫たちからは、現代にいたるまで多くの活躍馬が輩出されている。その中のチトセホープは、61年クラシック戦線で桜花賞2着、オークス優勝の実績を残し、さらにはオークスからなんと連闘で臨んだ東京優駿でも、ハクショウとメジロオーによるハナ差決着から遅れることわずか1馬身での3着に健闘している。

 通算18戦6勝の戦績を残して引退し、繁殖牝馬となったチトセホープだが、直子の代から活躍馬を出すことはできなかった。彼女の娘で、後のオフサイドトラップに連なるミヨトウコウの戦績も、通算24戦4勝で、重賞での実績はない。しかし、彼女と馬主の渡邊喜八郎氏との出会いは、その後の一族の運命に、大きく深い影響をもたらした。

『宿命の邂逅』

 渡邊喜八郎氏は、「トウコウ」の冠名を持ち、1977年の菊花賞を制して「芦毛初のクラシックホース」となったことで知られるプレストウコウの馬主でもあった。そんな喜八郎氏は、「チトセホープの娘」と勧められて買ってきたミヨトウコウのことが大のお気に入りだった。喜八郎氏は、ミヨトウコウの子をすべて自分か、息子でやはり馬主資格を取得した渡邊隆氏の勝負服で走らせるようになった。

 さらに、喜八郎氏は、繁殖に上がったミヨトウコウを、自身の所有馬であるホスピタリティと繰り返し交配したりもした。ホスピタリティは、南関東で羽田盃を勝った後、中央に転入してセントライト記念などを勝った名馬である。競走生活を通じて脚部不安と故障に悩まされ、Gl級のレースは勝てなかったものの、通算成績は11戦10勝2着1回で、唯一先着を許したのが国際競走となるオープン戦での外国馬ということで、「生涯国内の馬に先着を許さなかった」という逸話を持っている。自分の所有する種牡馬と繁殖牝馬の間に生まれた子を走らせることは「馬主冥利に尽きる」と言われるが、喜八郎氏の愛情と執念によって生まれたのが、オフサイドトラップの母となるトウコウキャロルだった。

 トウコウキャロルが競走馬時代に残した成績は8戦1勝で、重賞での実績もなかった。しかし、喜八郎氏は、トウコウキャロルが大成できなかった理由を、ホスピタリティから受け継いでしまった脚部不安とみていた。

「脚部不安さえなければ、もっと走ったはずだ…」

という喜八郎氏の思い入れは、彼女もミヨトウコウと同様に、子どもたちがすべて自分か隆氏の所有馬として走るという形で表現されることになった。

 そんな理由で、オフサイドトラップも、生まれた時には既に渡邊一族の所有馬として走ることが運命づけられていた。

『オフサイドトラップ』

 生産者の村本氏によれば、生まれたばかりのオフサイドトラップは、「薄っぺらくて、小さな馬」「ひょろっとした馬」だったという。これらの表現からは、期待よりも落胆が読み取れる。

 しかし、かつてトウコウキャロルも管理していた加藤修甫調教師は、当歳のうちにオフサイドトラップを見に来て、

「大きくはないけど、バランスは良いし、品のあるいい馬だな…」

と評価し、その場で加藤厩舎入りが決まった。馬主こそ前記の事情でほぼ決まってはいたものの、調教師まで決まっていたわけではなく、現に、彼の1歳下の妹、2歳下の弟は別の厩舎に入厩しているから、これはオフサイドトラップへの期待の高さを表すエピソードととってよいだろう。

 さらに、2歳の時に、オフサイドトラップは、新冠地区の品評会で最優秀賞を獲得した。そんな周囲からの高い評価が重なり、ようやく村本氏からも

「少しはやれるかもしれない・・・」

と思われ始めたオフサイドトラップへの期待は、1世代上にあたるトニービンの初年度産駒が競馬場でデビューし始めたことで、さらに大きくなった。トニービンの初年度産駒から有力馬が次々と現れ、翌年のクラシックで日本ダービー馬ウイニングチケット、二冠牝馬ベガが大輪の華を咲かせた。そんな強豪たちと同じ父を持つオフサイドトラップが評価を上げるのは、競馬界では当然の習わしだった。

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