★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
]]>そういえば、メリーナイスといえば、20年以上前に北海道に行ったときに乗ったタクシーの運転手さんが生産牧場の親戚だったらしく、物凄く楽しい会話で目的地に着くのが悔しかった思い出があります。「裏付けが取れない話は掲載しない」という縛りがあったために列伝には掲載できないまま細部は忘れてしまい、ただいろいろ凄い話だったという記憶だけが残っています。実に惜しいことでした。
そんな無念はさておき、ウマ娘メリーナイス嬢は、こんな属性てんこ盛りのキャラ設定が可能です。
・JRAでの実績がほぼないに等しい零細牧場生まれの朝日杯、日本ダービーウマ娘
・トレーナーはダービートレーナー歴ありのベテラン
・日本ダービーは史上最大の6バ身差圧勝
・シチーさの向こうを張れる超絶美少女で、URA全面協力の映画主演歴あり
・なのになぜか周囲からの評価はお笑い系(主として根も・・・以下ry)
・映画での自分の子役はマヤ顔の影武者
・内心でサクラロータリー、サクラスターオーへのコンプレックスがある
・菊花賞、有マ記念でやらかす
・なお、日本ダービー2着バは10年後に親戚?が雪辱を果たす
こんな属性まみれのおいしい馬を、なぜウマ娘してくれないのかと思うと、悔しくて夜しか眠れません。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。
フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、
「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」
という方が、よほど強かった。
そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。
だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。
第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。
競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。
1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。
実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。
もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。
そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。
日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、
「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」
と語っている。
勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。
閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。
フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。
ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。
その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。
]]>ただ、本文の中での疑問に対しては20年の時の中でツッコミどころもありまして、
「サンデーサイレンス血統によってステイヤーが淘汰された後に現れたサンデー系ステイヤーのフィエールマンをどう位置づけるのか?」
「ステイヤーの価値すら忘れ去られてしまったとしたら、ライスシャワーの価値だけを後世の人々に理解してもらうことは、果たしてできるのだろうか?⇒できます。それは、20年後、女の子として擬人化されたキャラのアニメとゲームによってです」
という点は本来修正するべきだったのかもしれませんが、そこを整合させようとすると改訂どころか全文書き換えになりそうなので、やめました。
あと、2度目の春天での章立てに「決意の直滑降」を採用しようとした・・・のですが、「みたび淀の坂を越えて」は菊の「淀の坂を越えて」、1度目の春天の「ふたたび淀の坂を越えて」と韻を踏んでいたことを思い出し、涙を呑んで思いとどまりました。
そんな凸凹の末の改訂ですが、時を越えてライスシャワーの物語をお楽しみいただければ幸いです。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本の中央競馬においては、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というそれぞれ条件の異なる3つの世代限定Glが「三冠レース」として位置づけられ、世代最強馬を決する戦いとして高い格式を誇るとともに、多くのファンの関心と注目を集めてきた。
ただ、これらのレースは建前としては「牡牝混合戦」とされているものの、事実上は牡馬しか出走しないのがほとんどである。これらのレースを牝馬が勝った例を探してみると、日本競馬の長い歴史の中でも5頭が6勝を挙げただけで、それも1947年にトキツカゼが皐月賞、ブラウニーが菊花賞を勝った後、2007年にウオッカが日本ダービーを勝つまでの約60年間にわたって、牝馬による三冠レースの制覇は途絶えている。
中長距離戦で牡馬と牝馬を同じレースで走らせた場合、牡馬が圧倒的に有利であるというのが、長らく競馬界の常識だった。そこで、牝馬たちのために用意された独自路線が、出走資格を牝馬に限定した、いわゆる「牝馬三冠」である。桜花賞、オークス、秋華賞からなる「牝馬三冠」は、牝馬による「三冠」挑戦があまりに難しいことから、一流牝馬たちのローテーションとしても承認されており、世代別牝馬チャンピオン決定戦として定着している。
ところで、「三冠」をすべて制した「三冠馬」は過去8頭が出現しているものの、「牝馬三冠」をすべて制した「牝馬三冠馬」は6頭にとどまっている。中央競馬が範をとった英国競馬では秋華賞にあたるレースが存在せず、日本で「牝馬三冠」が成立したのは1970年にビクトリアCが新設された(76年にエリザベス女王杯に改称、96年にはエリザベス女王杯の古馬開放に伴って秋華賞に改編)後であることを考慮に入れたとしても、皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬は16頭(三冠馬を除く。2021年まで)いるのに対し、桜花賞、オークスを制した牝馬二冠馬は9頭(牝馬三冠馬を除く。2021年まで)しかいないという差は、明らかに有意な差であるといわなければならないだろう。
牝馬が牡馬に比べて体調管理が難しく、消長も激しいことは、多くのホースマンたちが口を揃えるところである。その名を青史に刻む多くの牝馬たちが、あるレースでは圧倒的な強さを示しながら、やがて牝馬ならではの困難につきあたって敗れることで、そんな評価の正しさを心ならずも証明してきた。1987年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬マックスビューティも、そんな系譜に名を連ねる1頭である。
マックスビューティ・・・日本語で「究極美」という意味の名前を持つその牝馬は、日本史上初めてにして20世紀唯一の牝馬三冠馬・メジロラモーヌが牝馬三冠戦線を戦った次の年の牝馬三冠戦線に現れ、メジロラモーヌ以上の安定感と破壊力をもって戦い、そして勝ち続けた。桜花賞、オークス、そしてそれらのトライアルまで勝ちまくったマックスビューティが、秋に8連勝でエリザベス女王杯のトライアルレースであるローズS(Gll)を制した時には、誰もがマックスビューティの歴史的名馬たることを信じ、彼女が前年のメジロラモーヌに続く三冠牝馬となることを疑わなかった。それは、もはや歴史の必然ですらあった。
ところが、栄光とともに戴冠するはずだったエリザベス女王杯で、マックスビューティの連勝と伝説は終わりを告げた。その後の彼女は、それまでの栄光の日々とは対照的に長い不振にあえぎ、苦しみ続けた。競走生活が終わってみると、彼女が頂点に君臨した期間は1年にも満たず、さらにその範囲も、世代限定の牝馬三冠戦線のみにすぎなかった。そんな彼女の戦いの光景は、私たちに牝馬の消長の激しさを改めて思い知らせるものだった。
・・・それでいてなお、マックスビューティがその短い期間に放った輝きは、私たちを魅了するものだった。「究極美」というその名に恥じない美しさ、そして強さを兼ね備えた彼女の牝馬三冠戦線は、競馬界の歴史、そしてファンの記憶に残る。なればこそ、彼女の「その後」もまた、競馬の難しさを表すエピソードとして語り継がれる。
「名は体を現す」ということわざがある。今回のサラブレッド列伝では、その名によって自らを現し、そして自らの戦いによってその名を表現し尽くした名牝マックスビューティについて語ってみたい。
マックスビューティの生まれ故郷は、浦河の酒井牧場である。消長が激しいサラブレッドの生産牧場の中で、創業が1940年まで遡る酒井牧場は、浦河で指折りの名門牧場だった。先代の酒井幸一氏が指揮を取っていた1961年には、生産馬のハクショウが日本ダービー、チトセホープがオークスを勝ち、牡牝それぞれのクラシックで世代の頂点を独占するという栄光の歴史を持ち、後にも93年のエリザベス女王杯(Gl)を制し、さらに交流重賞の黎明期に交流重賞10連勝という金字塔を打ち立てた「砂の女王」ホクトベガを輩出している。
ただ、マックスビューティが出現する直前期は、酒井牧場にとって、そんな栄光の狭間となる「冬の時代」だった。75年に父の幸一氏から牧場の実験を譲り受けたのは酒井公平氏だったが、代が替わった途端、牧場の生産馬が走らなくなったのである。名門牧場の看板の重み、先代が残した輝かしい実績・・・それらとは対照的に、その後の酒井牧場の生産馬による重賞制覇は途絶えていた。
このままではいけない。なんとかしなければいけない。酒井氏は悩み苦しんだ末、様々な手を打った。繁殖牝馬はもちろんのこと、牧場の土をすべて入れ替えたりもした。・・・それでも結果は出なかった。酒井氏の耳に入ってくるのは、周囲の
「酒井牧場は、跡取りのせいでダメになった・・・」
という声ばかりだった。酒井氏は、やがて自分の馬産に自信を失っていった。そんな矢先に突然酒井牧場に降り立ったのがマックスビューティであり、自信を失いかけた酒井氏、そして衰えゆくかに見えた名門牧場を救う光明だった。
父、ブレイヴェストローマン。母、フジタカレディ。マックスビューティの血統自体は、決して目立ったものとはいえない。ブレイヴェストローマンは、後には種牡馬としての評価も定まって高く評価されるようになったとはいえ、当時は輸入初期の産駒が走り始めたばかりで、自らの競走成績から、奥行きの無いマイラーと思われていた。トウカイローマンがオークスを勝ったことでブレイヴェストローマン産駒の実力と距離適性が再評価され始めたのは、マックスビューティが生まれた84年のことである。
マックスビューティの母フジタカレディも、自らは未勝利馬だった。この牝系の血統表からアルファベットの馬名にたどりつくには、1918年生まれの9代母Silver Queenまで遡らなければならない。ちなみに、8代母のタイランツクヰーン産駒には「幻の馬」トキノミノルがいる。
だが、そんな一族も、トキノミノル以降は鳴かず飛ばずとなり、それ以降の彼女の一族の代表馬は、1972年のAJC杯をレコード勝ちし、ヒカルイマイが勝った71年の日本ダービーで5着に入った・・・というよりは、吉永正人騎手の騎乗とともに「後方ぽつん」の追い込み馬として知られたゼンマツ、80年から83年にかけて重賞を3勝したフジマドンナが出た程度だった。
これほど古くから日本にあった系統でありながら、ここまで活躍馬が出ないというのは、もはや運やめぐり合わせの問題とは言い難い。この血統は、活力が失われつつある一族と評価される・・・というよりは、評価される価値すら認められていなかった。
もともとは青森屈指の名門である浜中牧場で生まれたフジタカレディだったが、そんな彼女に目をつけ、彼女を管理していた松山吉三郎師に頼み込んで牧場に連れてきたのが酒井氏だった。上の2頭は期待外れで未勝利に終わったフジタカレディだったが、酒井氏は彼女への期待を捨てきれず、この年はマルゼンスキーと交配する予定にしていた。
ところが、フジタカレディがいざ発情した当日、マルゼンスキーは予約がいっぱいで種付けができない状態だった。そこで急きょ交配されることになったのが、ブレイヴェストローマンだった。
後になって、なぜこの時数いる種牡馬の中からブレイヴェストローマンを選んだのかを聞かれた酒井氏は、
「分かりません。あの時の僕は、何を考えていたんでしょうかねえ」
と首をひねっている。酒井氏は、本来フジタカレディにプレイヴェストローマンは体型的に合わないと考えており、最初に配合を考えた際には、真っ先にリストから外したほどだった。
マックスビューティをはじめとする活躍馬を輩出した後、馬産地では酒井氏が配合について独自の理論を持っていると評価されるようになり、浦河近辺の馬産農家で、配合に困って酒井氏に相談したことがあるという者は少なくないという。そんな酒井氏が選んだ、意味不明の交配から名馬が現れるのだから、競馬は深遠である。
]]>サクラスターオーのエピソードの数々は、非業の死を遂げた馬たちの中でも、特に心に染み入るものがあります。華やかな舞台に無縁なところにいた中で、サクラスターオーというクラシック=憧れの舞台で戦える馬に出会い、そして戦った平井師、東騎手の立場と戦いぶりに、私自身、感じるところがあるのかもしれません。
復刻列伝の編集後記は、見知らぬ方の「(未実装馬について)ウマ娘にこの馬を実装してくれと必ずぼやいてる」という書き込みを見て、なるほどと感動したのですが、サクラスターオーだけは、果たして実装を望むべきなのかどうか。
「天国に行ってまで走らなくていい・・・」
と棺にメンコも入れなかったというエピソードも納得せざるを得ない壮絶な馬生をたどったサクラスターオーだけに、果たして
「ウマ娘に転生してまで、走れ!」
なんて望んでいいんだろうか・・・?と迷いを感じてしまうのです。
「サクラ家」に「メジロ家」のような関係や交流があるのかどうかは知りませんが、どう考えても不幸体質で苦労性になりそうなサクラスターオー嬢(ウマ娘)(これだけだとライスシャワー(ウマ娘)とキャラがかぶるけど)と、
「バクシンバクシンバクシーン!」
な委員長のどう見てもかみ合わなそうな関係は、見てみたいのですが。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬の華ともいうべき牡馬クラシック三冠に関する有名な格言に、次のようなものがある。
「皐月賞は、最も速い馬が勝つ。ダービーは、最も幸運な馬が勝つ。菊花賞は、最も強い馬が勝つ」
この言葉は、牡馬クラシック三冠のそれぞれの特色を示すものである。この言葉によるならば、日本競馬において至高の存在とされる三冠馬とは、世代で最も速く、最も幸運で、最も強い馬ということになる。そんな馬はまさに「究極のサラブレッド」であり、日本競馬の黎明期から現在に至るまで、三冠馬が特別な存在として敬われていることは、むしろ当然ということができる。
そんな偉大な三冠馬にあと一歩届かなかった二冠馬たちの中で、1987年の皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーは、かなりの異彩を放つ存在である。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられたという特異な経歴を持つサクラスターオーは、まず皐月賞を圧倒的な強さで制して「最も速い馬」となった。しかし、その後脚部不安で長期休養を余儀なくされ、日本ダービーには出走することさえできないまま三冠の夢と可能性を断たれたサクラスターオーは、ダービーの後の調整も遅れに遅れ、ついには半年間の空白を経て、菊花賞本番で復帰するという前代未聞のローテーションを採らざるを得なかった。
「無謀だ」
「3000m持つはずがない」
そんな批判を浴びながら菊花賞に向かったサクラスターオーだったが、それからが彼の真骨頂で、クラシックの最後の戦場、そして半年ぶりの実戦となったここで、他の馬たちをなぎ倒して二冠目を奪取した彼は、「最も強い馬」となったのである。
サクラスターオーのことを、ファンは「奇跡の馬」「幻の三冠馬」と呼んだ。「最も速い馬」にして「最も強い馬」となったサクラスターオーが「三冠馬」と呼ばれるため足りなかった勲章はただひとつ、「最も幸運な馬」に与えられるべき日本ダービーだった。
しかし、そうした輝かしい栄光のすべてが儚くなるまでに、時間は必要なかった。サクラスターオーは、翌年の年頭、1987年の年度代表馬にも選出されたものの、年度代表馬選出が決まったその時も、彼の関係者たちの表情に喜びはなかった。前年の桜の季節に花咲き、さらに菊の季節にもう一度狂い咲いたサクラスターオーは、年末の祭典・有馬記念(Gl)で無残に倒れ、この時生死の境をさまよっていたのである。そして彼は、再び巡ってきた桜の季節の終わりとともに、華やかながらも哀しみに彩られた短い生涯を閉じた。
サクラスターオー自身、競馬場で戦った期間はわずか14ヶ月間にすぎない。そのうちの10ヶ月間は脚部不安による2度の長期休養にかかっており、ファンの前で姿を見せていた期間は、さらに短かい。彼が得意とした競馬の内容も中団からの差し切りであり、大逃げや追い込みのようにファンを魅了する強烈な戦法を得意としていたわけでもない。新馬戦で1番人気に支持された彼だが、その後は1番人気に支持されることさえなく、彼が次に1番人気に支持されたのは、最後のレースとなった有馬記念(Gl)のことだった。それでも私たちは、鮮烈な印象を残した彼の面影を忘れることはない。
昭和も末期を迎えた時代、「サクラスターオー」と呼ばれた1頭のサラブレッドがいた。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられた彼は、生まれながらの脚部不安を抱えながら、流れ星さながらにターフを駆け抜け、煌めいた。まるで、自分を育ててくれた人間の恩に報いようとするかのように。育ての親が彼の活躍を見ることなく逝ったことも知らず、ひたすらに走り、ひたすらに戦い続けた彼の姿は、流れ星のように美しく、そして儚く輝いた。そんな彼は、自らが背負った悲しい宿命に殉じるかのように、平成の世の到来を待たずして消えていったのである。
サクラスターオーが生まれたのは、静内の名門藤原牧場である。藤原牧場といえば、古くは皐月賞馬ハードバージや天皇賞馬サクラユタカオー、比較的最近ではダービー馬ウイニングチケットを生産した名門牧場として知られている。また、藤原牧場は「名牝スターロッチ系」の故郷としても有名であり、サクラスターオーもスターロッチ系の出身である。
サクラスターオーの母サクラスマイルは、スターロッチ系の中でも特に優れた繁殖成績を残した名牝アンジェリカの娘である。彼女の系統は、スターロッチ系の中でも本流というべき存在で、「日の丸特攻隊」として知られたサクラシンゲキはサクラスマイルの兄、天皇賞・秋(Gl)をレコードで制したサクラユタカオーはサクラスマイルの弟にあたる。また、サクラスマイル自身、重賞勝ちこそないものの、中央競馬で29戦4勝という数字を残し、エリザベス女王杯(Gl)3着をはじめとするなかなかの実績を残している。
そんなサクラスマイルだから、競走生活を切り上げて藤原牧場に帰ってくるにあたっても、かなりの期待をかけられていた。そんなサクラスマイルの初年度の交配相手は、日本ダービー馬サクラショウリに決まった。サクラショウリといえば、ダービー以外にも宝塚記念を勝ち、皐月賞3着などの実績を残したパーソロン産駒の名馬の1頭である。その冠名から分かるとおり、この2頭はいずれも「サクラ軍団」の全演植氏の持ち馬であり、その配合も馬主の縁で行われた。
自らの勝負服で走った両親から生まれた血統の馬を走らせることは、「馬主冥利に尽きる」とよくいわれる。サクラスターオーも、名牝系の末裔にして「サクラ軍団」の粋を集めた血統として、生まれながらに人々の期待を集めていた。
しかし、そんなサクラスターオーを待っていたのは、早すぎる悲運だった。ある夏の日、サクラスターオーと一緒に放牧されていたサクラスマイルは、腸ねん転を起こして突然倒れた。牧場の人々が駆け寄ったとき、幼きサクラスターオーは、懸命に倒れた母を起こそうとしていたというが、サクラスマイルが息を吹き返すことはなかった。サクラスマイルがサクラスターオーを産み落としたわずか約2ヵ月後の悲劇だった。
サラブレッドの場合、出産の際に母馬が命を落とすことは、そう珍しいことではない。このような場合に最もよく使われるのは、遺された子馬に母親代わりの乳母をつけ、乳母の手で育てさせる方法である。しかし、この方法は、母馬が出産後間もなく死んだときしか使えない。一度母馬に育てられた子馬には母馬の匂いがついてしまうため、後から乳母をつけようとしても、乳母が他の馬の匂いがついた子馬を育てようとはしないのである。約2ヶ月間にわたってサクラスマイルに育てられたサクラスターオーにも、乳母をつけることは困難だった。
藤原牧場の場長である藤原祥三氏は、サクラスターオーをどうやって育てたらいいのか散々悩み、ついには自らの手で育てることを決意した。子馬は数時間に一度の割合でミルクを飲むが、藤原氏は、夜も4時間ごとに起きるとミルクを作り、サクラスターオーにミルクを与え続けた。しまいには、サクラスターオーの方でも藤原氏の足音を聞き分けるようになり、藤原氏の足音が聞こえるだけで、甘えて鳴き声をあげるようになったという。藤原氏は、サクラスターオーにとって、まさに親代わりの存在だった。
ただ、子馬はミルクを与えるだけでは強い馬には育たない。十分な食事とともに十分な運動があってこそ、サラブレッドは持って生まれた資質を花開かせることができる。同期の子馬たちがまだ離乳せず、母馬と一緒にいる中で、母馬のいないサクラスターオーを1頭だけ放していても、仲間にも入れてもらえないし、十分な運動もできない。
そこで藤原氏は、サクラスターオーの曾々祖母(祖母の祖母)で、繁殖牝馬を引退し、功労馬生活を送っていたスターロッチをサクラスターオーと一緒に放牧することにした。高齢のスターロッチは、若い母馬のように子馬と一緒に走り回ることはできないが、サクラスターオーの母親代わりとして飛び回る彼を常に見守っていたという。
母なきがゆえに藤原氏、スターロッチらに「育てられた」サクラスターオーは、まるで自分に母のないことが分かっているかのように、大人びた馬に育っていった。5月2日生まれのサクラスターオーは、同期の馬の中でも生まれは遅い方だったが、自分より早生まれの馬たちがまだ乳離れもできないうちから、1頭で牧草を食べ、他の馬がいなくても自由に牧場を走り回るようになっていった。
]]>「この馬って、ダービーエピソードのカタマリじゃね?」
ということ。父マルゼンスキーが出られなかったダービーを制したとか、「サクラ」の1歳上の先輩である二冠馬サクラスターオーが亡くなって間もなく、唯一勝てなかったダービーを制したとか、我々の世代にとっては馴染み深いサクラ=フトシのラインが、一度絶えながらもこの時のダービー制覇で復活のきっかけになるとか、スポ根ものでそんなシナリオを書いたら
「あざとすぎるわ!www」
と編集さんに突っ返されそうなレベルです。
あと、サクラチヨノオーは「オグリキャップ世代」のダービー馬になるわけですが、日本の競馬にとって「オグリ以前」「オグリ以後」で質的な変化があったことは、割と定説です。ここでいう「オグリ以後」とは、オグリキャップの登場でたちまち競馬が大衆に愛されるものになったわけではなく、オグリキャップによって呼び込まれた大量の新規層、ライト層の多くを数年かけて定着させることに成功したということなので、この時のダービーは、「オグリ以前」の色彩を極めて色濃く残していました。
(以下、本文引用)
さらに当時の小島騎手と岡部騎手といえば、当時は競馬界に知らぬ人はないほどの「宿敵」同士であり、「ライバル」というよりは純粋に仲が悪かったとすら言われていた。何せこの2人は、後ろにいる馬が相手だったら、たとえ自分の馬に脚がまったくなくなっていても絶対に譲らないと公言していたほどである。・・・もし当時の人々に、この2人が15年後には調教師と騎手として和解すると教えたとしても、たぶん誰も信じなかったことだろう。
(本文引用、ここまで)
・・・これでも表現を微妙にマイルドにしたのですが、こんな騎手同士の人間関係(のドロドロ)が、ネットもないのに紙媒体で堂々と語られていた鉄火場、それが「オグリ以前」だったのです。これでも競馬界はハイセイコーによって雰囲気が大きく変わったらしいのですが、「ハイセイコー以前」はどんな世界だったんだろう・・・((((;゚Д゚))))
ただ、20年前の文章を復刻していてつらくなるのは、書いた時点では残されていた種牡馬としての希望が、現時点では木っ端みじんに打ち砕かれている馬がとても多いことです。サクラチヨノオーの場合、箸にも棒にもかからない大失敗ではなくて、皐月賞2着のサクラスーパーオーとか、複数の重賞勝ち馬とかを出しているだけに、それでも種牡馬として成功と言える水準に達しなかった競馬界の残酷さには震えるばかり。。。切なし。。。
というわけで、現実逃避も含めて、可愛いウマ娘たちに救いを求めてしまうのです。ミスターシービーさん、実装はよ!
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。
日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。
だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。
日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、
「オグリキャップがいたら・・・」
という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。
時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。
そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。
サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。
サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。
サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。
もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は
「若い奴にはチャンスを与えないといかん」
ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。
すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。
谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。
現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。
だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。
マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。
朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、
「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」
そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。
こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。
現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。
]]>