★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。
スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。
そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。
しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。
そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。
「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
と、これまた大真面目に答えたという。
ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。
インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。
しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。
こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。
強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。
その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。
もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。
しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。
ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。
そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。
ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。
そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。
ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から
「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」
とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。
このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。
そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、
「なにかいいことがあるかもしれん」
ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。
荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。
ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。
やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。
しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。
ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。
種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。
そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。
ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、
「忘れた」
と答えている。なんとも人を喰った話である。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。
日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。
だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。
日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、
「オグリキャップがいたら・・・」
という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。
時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。
そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。
サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。
サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。
サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。
もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は
「若い奴にはチャンスを与えないといかん」
ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。
すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。
谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。
現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。
だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。
マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。
朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、
「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」
そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。
こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。
現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。
]]>東京優駿・・・一般に「日本ダービー」と呼ばれることが多い日本競馬の世代別最強馬決定戦は、多くの物語を歴史に刻んでいる。
「ダービーに勝てたら、騎手をやめてもいい」という言葉が有名な1700勝騎手の柴田政人騎手は、騎手生活27年目を迎えた1993年にウイニングチケットとともに第60回東京優駿を制し、19回目の挑戦で悲願を成就させた。また、一時は「終わった」と言われた中野栄治騎手が90年のアイネスフウジンで見事な逃げ切りを果たした際には、府中のスタンドから「ナカノ・コール」が巻き起こった。その一方で、「モンキー乗り」の創始者の1人で「ミスター競馬」と称された野平祐二師は、騎手としては悲しいまでにダービーに縁がなく、騎手として25回挑戦しながら、ついに一度も勝つことができなかった。また、1958年から皐月賞3連覇を達成し、同レースの最多制覇記録を持つ渡辺正人騎手も、19度挑戦したダービーではことごとく敗れ続けている。
そんなさまざまな悲喜劇を生み出してきた日本ダービーの歴史だが、20世紀最後のダービー勝ち馬としてその名を刻んだアグネスフライトと河内洋騎手の物語は、その中でも異彩を放っている。
1974年に武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューし、「天才」と呼ばれた福永洋一騎手の落馬事故という悲劇の後を受けて関西騎手界に君臨するようになった河内騎手は、その後3度にわたって騎手全国リーディングを獲得し、さらにメジロラモーヌでの牝馬三冠達成や桜花賞4勝という実績により、「牝馬の河内」の異名をとるようになっていった。また、騎手としての技量のみならず、94年から日本騎手クラブ関西支部長をも長く務め(なお、会長は関東の柴田騎手、岡部騎手)、騎手、調教師、そしてファンから信頼され、親しまれ続けた。
そんな実力と信望を備えながらもダービーとは無縁だった河内騎手が、騎手生活27年目にして初めて夢を果たしたのが、第67回東京優駿である。前人未到のダービー3連覇を目指した弟弟子との壮絶な死闘の末に栄光を勝ち取った河内騎手だが、この時彼が騎乗したアグネスフライトは、かつて彼が祖母、そして母に騎乗したという因縁の血統で、さらに東京優駿の舞台である東京の芝2400mコースも、彼女たちが死闘を繰り広げた戦場でもあった。
アグネスフライト・・・河内騎手にダービーをもたらしたサラブレッドは、「騎手・河内洋」とともに歩んだ血統の末裔として、一族の夢を果たしたサラブレッドでもあった。祖母、母から受け継いだ血のもとに大輪の華を咲かせた彼の物語は、私たちに競馬のロマンの一端を教えてくれる。
アグネスフライトは、1997年3月2日、日本最大の生産牧場として知られる千歳の社台ファームで産声を上げた。彼の父は日本の馬産界に旋風を巻き起こした大種牡馬サンデーサイレンス、母は90年の桜花賞馬アグネスフローラとくれば、期待されない方がおかしい超良血馬だった。
アグネスフライトの牝系の物語は、1967年に持込馬として生まれた曾祖母イコマエイカンに始まる。競走馬としては9戦1勝という凡庸な成績に終わったイコマエイカンだったが、三石の折手正義牧場で繁殖入りしてからの実績はめざましいもので、初子のグレイトファイターが小倉大賞典を勝ったのを手始めに、2番子クインリマンドは桜花賞2着の実績を残し、3番子タマモリマンドは京阪杯を制した。
そんな兄姉たちに続いて生まれた4番子が、アグネスレディーだった。活躍馬が相次ぐイコマエイカンの子として生まれたアグネスレディーは、その兄姉をも大きくしのぐ実績を残した。1979年オークスを1番人気で勝ち、同世代の牝馬の頂点に立ったのである。その後も京都記念、朝日チャレンジカップを勝ったアグネスレディーは、イコマエイカン一族の中でも押しも押されぬ「出世頭」となった。
ところで、アグネスフライトは社台ファームで生まれているが、この一族が最初から社台ファームと縁があったわけではない。彼らと縁が深かったのは、むしろ三石の折手正義牧場だった。イコマエイカンが折手牧場に繋養されたため、アグネスレディーはこの牧場で生まれ、さらに引退後も、折手牧場へと帰ってきた。
繁殖牝馬としてのアグネスレディーに寄せる関係者たちの期待は大きく、初めての種付けでは、馬主である渡辺隆男氏のたっての希望により、英国に渡って初代欧州三冠馬・Mill Reefと交配された。こうして生まれたミルグロリーは、デビュー前に故障して未出走のまま引退してしまい、その後の産駒もいまひとつの成績が続いたものの、彼らはアグネスレディーへの希望を捨てなかった。渡辺氏と折手氏は、相談の上で
「母が勝てなかった桜花賞を獲りたい・・・」
という願いを込め、産駒がマイルから中距離で実績を残していたロイヤルスキーと交配することにした。こうして生まれたのが、アグネスフローラだった。
母から11年後、90年の牝馬クラシック戦線へと挑んだアグネスフローラは、血に込められた願いを果たし、無敗の5連勝で桜花賞を制した。その後、母子制覇をかけたオークスで2着に敗れたのを最後に脚部不安を発症して引退したアグネスフローラだったが、通算成績は6戦5勝2着1回というほぼ完璧なもので、その華麗なる軌跡は、今なおファンの記憶に残っている。
アグネスフローラが引退を決めるまでの間、多くの人々は、アグネスフローラが折手牧場で繁殖入りするものと思っていた。アグネスレディー、アグネスフローラと母子2代にわたって折手牧場で生まれ、そしてクラシックを制した彼女の一族の系譜を見れば、現役を退いた後は、アグネスフローラも折手牧場で繁殖入りするのが、自然な流れであるはずだった。
しかし、アグネスフローラの馬主である渡辺氏の意向は違っていた。アグネスレディー同様、アグネスフローラについても引退後の所有権を手放す意思がなかった渡辺氏は、母子2代にわたってクラシックを勝った名牝の系譜に対し、特別な待遇を望んだ。そんな彼の頭からは、桜花賞を勝った直後に話しかけてきた男の申し出が離れなかった。
アグネスフローラが桜花賞を勝った直後に渡辺氏に話しかけてきたのは、日本最大のサラブレッド生産牧場・社台ファームの後継者とされていた吉田照哉氏(現社長)だった。
「いい馬ですね。万が一売る時があったら、ぜひうちで面倒を見させて下さい・・・」
渡辺氏は、日本最大の牧場の後継者からも高く評価されるに至ったアグネスフローラの現実を見て、考えた。折手牧場は、繁殖牝馬が10頭もいない、典型的な日高の中小牧場である。渡辺氏は、母子二代のクラシック馬を輩出し、名牝系と意識されるようになったこの系統を、折手牧場に預け続けることに不安を感じていた。施設、牧草、そして殺到するマスコミへの対応・・・あらゆる局面で「最高」を求めた先にたどりついた結論は、ある意味で非情なものだった。オークス(Gl)の後に社台ファームに放牧に出されたアグネスフローラは、ターフ、そして生まれ故郷の折手牧場に帰ることなく、社台ファームで繁殖入りすることになったのである。
一族の運命を変えたこの決断は、ひとつの悲劇の遠因ともなった。アグネスフローラの引退の3年後、アグネスレディーも折手牧場から社台ファームへと移動することになった。しかし、社台ファームの馬運車が迎えに来た時、折手牧場には二度と戻ってこれないことを察したかのように、アグネスレディーは馬運車に乗ることを嫌がり、大暴れして激しく抵抗した。折手氏は、やむなく社台ファームの馬運車を帰し、自分が運転する馬運車で、アグネスレディーを社台ファームに送り届けなければならなかった。ところが、断腸の思いでアグネスレディーを手放した折手氏を待っていたのは、アグネスレディーがそれから10日も経たないうちに亡くなったという悲報だった。
社台ファームへと移動したアグネスレディーは、牧場内を移動するために乗せられた馬運車の中で、再び暴れた。その暴れ方たるやすさまじく、なんと背骨を骨折してしまい、そのまま帰らぬ馬となったのである。そんな悲劇によってアグネスレディーを手放した折手牧場に、アグネスレディーの血を引く血統は残っていないという。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドを語る際によく使われるのが、生まれた年、すなわち「世代」による区別である。競馬では、完成した古馬と未完成の若駒を最初から一緒に走らせるのは不平等なことから、4歳(現表記3歳)の一定の時期までの間は同世代のみでその強弱を決し、その後に上の世代の馬たちとの世代混合戦に進むレース体系となっていることがほとんどである。そこで、日本競馬でサラブレッドを分類する場合、同じ年に生まれたサラブレッド全体をまとめて「○年クラシック世代」と呼ぶことが少なくない。
また、「世代」という概念は、単に同じ年に生まれた馬の総称にとどまらず、一定の方向付けを持った評価として使われることもある。
「○年クラシック世代は古馬になってからも活躍した名馬が多く、レベルが高い」
「×年クラシック世代は世代混合Glでほとんど勝てなかったから、弱い」
「△年クラシック世代は、実力は普通だったけれど、ファンに愛された個性派の世代だった」
等の評価は、「○年クラシック世代」という呼び方が、そこに属する馬たちを語るために不可欠なグループとしての意味をも持っていることを物語っている。
そうした数々の「世代」という概念の中で、ひときわ異彩を放っているのが、「1987年クラシック世代」である。
この世代を強弱という側面から語る場合、「強い世代」に属することは、おそらく多くの競馬ファンが同意することだろう。1987年クラシック世代からは、87年のサクラスターオー、88年のタマモクロス、89年のイナリワンという3頭の年度代表馬を輩出している。全世代の実力が均等だとすれば、1世代に1頭ずつとなるはずの年度代表馬を3頭出したという事実は、それだけでこの世代のトップクラスの馬たちが高い実力を持っていたことの証である。他に3頭の年度代表馬を輩出した世代といえば、G制度が導入された84年以降にクラシックを戦った世代に限ると、他にひとつもない。また、競馬の歴史全体に遡っても、「TTG世代」のように極めて限られた例しかない。
だが、この世代がファンに印象を残すのは、その強さより、むしろ儚さによってである。5歳(現表記4歳)になってから本格化したタマモクロス、6歳(現表記5歳)になってから中央へと転入したイナリワンは、クラシック戦線に出走していないが、この世代でクラシックに出走した有力馬たちは、その多くが悲劇と無縁ではいられなかった。皐月賞の1、2、3着馬が数年のうちにことごとくこの世を去ったことで、彼らは「悲劇のクラシック世代」とも呼ばれるようになるのである。
そんな世代の中で、世代の頂点というべき日本ダービーを制したメリーナイスは、不思議な存在感を醸し出している。彼は「強い世代」のダービー馬であり、また朝日杯馬であるはずだが、その彼を「強いダービー馬」と見る向きはほとんどない。メリーナイスといえば、日本ダービーを6馬身差で圧勝し、映画「優駿」のモデルになったことで知られているが、そんな彼につきまとうのは、属する世代のイメージとはあまりに対照的な「イロモノ」としてのイメージだった。
メリーナイスは、悲劇の世代に生まれ、悲劇のクラシックを戦いながら、その悲劇性とは無縁のままの競走生活を終えた。そして、かつて戦いをともにした戦友たちが生の歩みを止めた後も、流れ続ける時代とともに歩み続けた。今回のサラブレッド列伝は、そんな特異なダービー馬・メリーナイスの物語である。
メリーナイスの生まれ故郷は、静内の前田徹牧場である。当時の前田徹牧場は稲作と馬産の兼業で、繁殖牝馬はアラブとサラブレッドを合わせても、5頭程度しかいなかった。中央競馬には生産馬を送り込むことすら滅多にない地味で目立たない個人牧場で、1984年3月22日、未来のダービー馬は産声を上げた。
しかし、メリーナイスの血統は、小さな牧場なりの筋が通ったものだった。メリーナイスの母ツキメリーは、NHK杯勝ち馬マイネルグラウベンの姉であるとともに、自らも大井競馬で東京3歳優駿牝馬を制し、南関東の3歳女王に輝いた実績を持っていた。
ツキメリーは、前田徹牧場の生産馬ではない。これほどの実績馬である彼女が前田徹牧場程度の小さな牧場に繋養される理由はないように思われるが、実際には、ツキメリーの馬主は以前から前田徹牧場と付き合いがあり、その縁でツキメリーは前田徹牧場に預託されることになった。前田徹牧場にやってきた時、ツキメリーは以前にいた牧場で種付けされたコリムスキーの子を宿していた。無論、まだ生まれてもいないその子こそが未来のダービー馬となることなど、誰もが知る由もない。
メリーナイスの父・コリムスキーは、自分自身の成績は目立ったものではなかったものの、血統的にはノーザンダンサーの直仔であり、牝系も素晴らしいものだったことから、種牡馬としての供用開始当初は、それなりの人気を集めていた。
ところが、実際に産駒がデビューしてみると、コリムスキー産駒からはなかなか活躍馬が出なかった。メリーナイスが誕生する前後の時期、種牡馬としてのコリムスキーの人気は、むしろ低落傾向にあった。
コリムスキーとツキメリーという配合は、南関東の3歳女王を母に、産駒はダート馬の傾向を示す父をかけた配合であり、地方競馬に対して一定のアピール力を持つものだった。
やがて生まれたのは、鮮やかな四白流星を持つ栗毛の牡馬だった。前田徹牧場では彼の行き先としてむしろ地方競馬を想定していたが、実際にはこの美しい栗毛の子馬は、地方競馬ではなく中央競馬に入厩することになった。
彼を預かることになった橋本輝雄師は、美浦に厩舎を構えており、騎手時代にはカイソウでダービーを勝った経験もある人物だった。
当初、メリーナイスの最大の特徴は、四白流星の栗毛という外見であると思われていた。競馬歴の浅いファンでもひとめで区別できるこの美しい馬は、血統的にはそこまで期待を集める存在ではなかった。
しかし、このグッドルッキングホースが非凡なのが外見だけではないことに周囲が気づくまで、そう長い時間はかからなかった。牧場にいたころや入厩当初のメリーナイスの気性は、とても穏やかなものだった。だが、美しい馬体は、人間たちが追い始めると、その気配は一転して鋭い瞬発力と負けん気を発揮するようになった。馬体も成長するにつれて、充実したものとなっていった。
メリーナイスの仕上がりは順調で、夏の函館では早々にデビューを飾った。その時には、メリーナイスは美浦の評判馬の1頭に数えられるようになっていた。
函館で戦いの舞台に降りたったメリーナイスは、期待どおりにデビュー戦での勝ち上がりを果たした。ここで彼が破った相手には、後の名脇役ホクトヘリオスも含まれていた。
デビュー勝ちを果たした後も、メリーナイスは3歳戦線を戦っていった。後から考えれば、メリーナイスが戦った3歳戦線の相手関係は、非常に充実したものだった。スタートで出遅れて4着に敗れたコスモス賞(OP)の勝ち馬は、後の阪神3歳S(Gl)馬ゴールドシチーだった。また、東京へ戻っての初戦となったりんどう賞でアタマ差差された相手は、天馬トウショウボーイを父に、三冠馬シンザンを母の父に持つ内国産馬の傑作サクラロータリーだった。
こうした強敵たちとの戦いを通じ、メリーナイスは確実に強くなっていった。彼は続くいちょう特別を勝って2勝目を挙げると、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl)へと駒を進めたのである。
朝日杯3歳S(Gl)でのメリーナイスは、単勝200円のホクトヘリオスに続く単勝360円の2番人気に支持された。メリーナイスとホクトヘリオスといえば、新馬戦で一度対決しており、この時はメリーナイスが勝利を収めている。しかし、メリーナイスに敗れたホクトヘリオスは、その後折り返しの新馬戦、函館3歳S、京成杯3歳Sを3連勝し、一度は遅れをとった評価を取り戻しつつあった。
ただ、このレースの馬柱には、もし出走できていれば確実に1番人気となったであろうある馬の名前が欠けていた。それは、りんどう賞でメリーナイスに勝ったサクラロータリーである。
サクラロータリーは、りんどう賞の後に府中3歳Sに出走し、名門シンボリ牧場が送り込んだ大器マティリアルを破って、無傷の3連勝をレコードで飾った。
「今年の朝日杯はこの馬で決まった」
とも噂されたサクラロータリーだったが、その後骨折によって戦線を離脱し、朝日杯に駒を進めることはできなかったのである。
本命馬が消えた朝日杯は、メリーナイスとホクトヘリオスの一騎打ちムードとならざるを得なかった。メリーナイスの鞍上・根本康広騎手は、どうすればいかにホクトヘリオスに先着するかを考えた。そして、ホクトヘリオスが追い込み一手の不器用な馬であることを見越して、道中はとにかく中団、ホクトヘリオスより前でレースをする作戦を採ることにした。ホクトヘリオスが後ろにいる間に前方へと進出し、直線で早めに先頭に立つことで、直線に入る前にホクトヘリオスに可能な限り差をつけておき、瞬発力に優れたホクトヘリオスが届かない展開に持ち込むためだった。
そうすると、根本騎手の作戦は、見事に当たった。直線に入るとホクトヘリオスが猛然と追い込んできたものの、早目に進出していたメリーナイスには1馬身半届かなかったのである。メリーナイスは、同世代の馬たちに先駆けて、見事Gl馬となった。
こうしてGl馬となったメリーナイスだが、その一方で、この勝利は「サクラロータリーの故障で転がり込んだ」とみられることも避けられなかった。
「サクラロータリーが出走していれば、結果はどうなっていたか・・・」
「サクラロータリーこそ実力ナンバーワン」
そうした声もあがっていたが、メリーナイスにはそれらを払拭するすべはない。あるとすれば、それはサクラロータリーと再戦し、そして勝つよりほかに道はない。
しかし、実際にはメリーナイスにその機会が与えられることはなかった。サクラロータリーは、故障の回復が思わしくなく、ついに3戦3勝、不敗のまま引退してしまったのである。
血統的にいうならば、トウショウボーイ×シンザンの血を持つ内国産馬の星が「ただの早熟馬でした」とはなかなか思われない。素晴らしい血統を持つスター候補生の引退は、多くのファンを残念がらせ、彼を惜しむ声は彼のことを「幻の朝日杯馬」と呼ぶという形で表れた。「幻の朝日杯馬」の前では、「現実の朝日杯馬」の影はその分薄くならざるを得なかった。
メリーナイスがサクラロータリーの故障によって、朝日杯をより楽に勝てたことは否定できないが、その引退によって後々まで、朝日杯3歳Sの栄光をサクラロータリーの幻に支配されることになってしまったことも事実である。果たしてサクラロータリーの故障と引退は、メリーナイスにとって幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
有馬記念と言えば、ファン投票によって選ばれたサラブレッドたちによる「ドリームレース」であり、また日本競馬の1年間を締めくくる年末の風物詩として、ファンから日本ダービーとは違った意味で親しまれている大レースである。20世紀終わりころから短距離戦線やダート戦線も以前よりは確実に注目を集めるようになり、それ以前とは大きく様変わりした日本競馬だが、それでも天皇賞・秋、ジャパンCから有馬記念と続く秋の中長距離Gl戦線は今なお日本競馬の華であり、その最後を飾る有馬記念を勝つことは、それだけでも名馬の証となる。
そんな有馬記念の勝ち馬の中でも、ひときわ異彩を放っているのが、1991年に従来のレコードを1秒1縮める2分30秒6という脅威のレコードで駆け抜けて圧勝したダイユウサクである。彼が記録した有馬記念のレコードは、2003年にシンボリクリスエスが2分30秒5を記録するまでの12年間にわたって破られることなく、有馬記念のレースレコードとして輝き続けた。
ダイユウサクというサラブレッドには、「有馬記念を勝った」という輝かしい実績だけでは決して語りつくせない特異さがある。彼が生涯最大・・・というより、おそらく唯一といっていい栄光の舞台となる中山競馬場に姿を現した時の大多数のファンの反応は、
「何しに出てきたんだ」
という程度のものだった。当時の有馬記念は、日本競馬の華ともいうべき中長距離の中でも最も高い格式を誇るレースのひとつとされるだけでなく、Glの中でも番狂わせが少ないレースとして知られていた。そんなレースに紛れ込んだ彼は、間違いなく異質な存在であり、本気で勝ち負けできると信じていた者など、おそらくほとんどいなかった。まして、その年の有馬記念の出走馬には、当時絶対的な王者といわれていた名馬メジロマックイーンまでいた。単勝オッズ13790円で15頭だての14番人気にすぎなかったダイユウサクは、笑われながら出走したそのレースで、メジロマックイーンをはじめ並み居る強豪たちをまとめて切って捨てた。その大番狂わせの衝撃は、翌日のレース評論で
「世紀末を理不尽馬が駆け抜けた」
と評されるほどだったのである。
ダイユウサクの有馬記念は、ただのフロックというにはあまりに鮮烈な印象を私たちに残した。脈々と続く有馬記念の歴史の中に、燦然と輝く栄光とともにはっきりと刻まれている彼が歩んだ道とは、いったいどのようなものだったのだろうか。
『ダイユウサク』
ダイユウサクは、1985年6月12日、門別の優駿牧場(現・待兼牧場)に生まれた。
父のノノアルコは、世界的な種牡馬であるNearcticの子にあたる。Nearctic産駒としてはNorthern Dancerが圧倒的な知名度を誇っているが、ノノアルコも英2000ギニーなどGl4勝を含め10戦7勝という実績を残し、一流馬といっても遜色のない成績を残している。日本への輸入前には欧州でも供用されていたノノアルコは、仏2000ギニー馬メリーノ、愛1000ギニー馬ケイティーズ(ヒシアマゾンの母)を出しており、日本に輸入されてからもGllを3勝したカシマウイングなど多くの重賞馬を出し、なかなかの成功を収めたと評価されている。
ダイユウサクの母は、1勝馬のクニノキヨコである。彼女の産駒のうちダイユウサク以外に特に活躍した馬を挙げるとすれば、名古屋競馬で15勝を挙げたダイソニック(父カネミノブ)が挙がる程度である。ただ、彼女の母クニノハナは、ビクトリアC(現エリザベス女王杯)や京都牝馬特別など6勝を挙げており、血統的には悪くないものを持っていた。当時の優駿牧場は、牧場の方針として、廉価な種牡馬を種付けして零細馬主でも気軽に買ってもらえる馬の生産を中心的に行っており、その中でのノノアルコは、種付け料がかなり高い部類に属していた。
クニノキヨコにノノアルコを交配したのは、優駿牧場の人々がクニノキヨコに対して期待していた証明である。ノノアルコを父として生まれたダイユウサクは、生まれた時には当然のことながら牧場の人々の期待を集めていた。
生まれたばかりのダイユウサクは、牧場の人々に将来への期待を抱かせるに足りる存在だった。彼の馬体はバランスが取れており、たまたま馬を探すために優駿牧場に来ていた中央競馬の内藤繁春調教師が目をつけ、すぐに自分の厩舎で引き取るよう決めてくれたほどだった。内藤師は、ダイユウサクについて
「うまくすれば準オープンあたりまでいけるかもしれん」
と話していたという。安い馬の中からそこそこ走る素材を見つけるという点での相馬眼には定評があった内藤師の太鼓判は、中小馬主をターゲットとする馬産を目指していた優駿牧場にとっても、ありがたいものだった。
ところが、成長するにつれて、ダイユウサクは牧場の人々の期待を裏切るようになっていった。成長したダイユウサクの動きからは、競走馬としての成功を予感させる何かがいっこうに見えてこなかった。それどころか、生まれた時には良かったはずの馬体のバランスさえ、成長するとともにどんどん悪くなっていったのである。
当時のダイユウサクは、サラブレッドとしては相当の遅生まれといえる6月12日生まれということを差し引いても、かなり小柄な方で、同期の馬たちと比べると馬格も明らかに見劣りがしていた。体質が弱かった上、腰の甘さもひどく、さらに強く追うとすぐにばてて体調まで崩すため、かなり成長するまでの間、ろくに追うことさえできなかったという。
生まれる前からダイユウサクに期待していた当時の牧場長は、ダイユウサクのあまりの惨状にため息をつかずにはいられなかった。彼は、日ごろからダイユウサクを捕まえて
「おい、お前のおとっつあんは凄い馬だったんだぞ。お前のおばあさんも6つも勝ち鞍を挙げているんだ。お前にはヒンドスタンやダイコーター、ネヴァービートの血が流れているんだぞ」
と、とくとくと言い聞かせていたという。どんな馬にもとりえはあるもので、当時のダイユウサクは、そんなお説教も嫌な顔ひとつせずに聞くほどおとなしい馬だった。ただ、そのおとなしさが災いしたのか、ダイユウサクは同期の馬たちからはいつも仲間外れにされ、寂しそうに1頭だけぽつんといることが多かった。
このように、牧場時代のダイユウサクの評判は散々なものでしかない。仕上がりも遅く、牧場から栗東トレセンへと無事に送り出された時は、同期の馬たちの多くが競馬場でデビューを果たした3歳12月になってからのことだった。
こうしてみていくと、ダイユウサクが中央競馬でデビューできたこと自体、奇跡のように思えてくる。彼を預かることになっていた内藤師も、実際に成長した姿を見て
「早まった・・・」
と嘆かずにはいられなかった。入厩する頃のダイユウサクは、内藤師がかつて想像していた姿とはまったく違った方向に成長を遂げてしまっていた。自分が発掘してきたダイユウサクの成長を楽しみにしていた内藤師は、すっかり失望してしまった。
「俺の見込み違いだった」
と悔やんだ彼は、この馬を預かると決めてしまったことを、早くも後悔したという。だが、だからといっていまさら約束を一方的に破棄するわけにもいかない。
こんな感じだから、入厩したダイユウサクに、人々の期待が集まろうはずもない。しかも、ダイユウサクは体質が弱くて他の馬が食べている飼料が体質に合わない。内藤師は、そんな困ったダイユウサクに、入厩してから活躍し始めるまでのしばらくの間、厩舎の人々の残飯を食べさせていたという話である。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬史上「三強」と称された時代は多いが、それらが本当に「三強の時代」というに値したかどうかを検証していくと、必ずしもその呼び名がふさわしくない場合も少なくない。「三強の時代」というからには、傑出した3頭の名馬が互いにしのぎを削り、他の馬の追随を許さない状態で勝ったり負けたりを繰り返さなければ物足りない。しかし、同じ時代に、名馬と呼ぶにふさわしい馬たちが3頭も同じターフに立ち、実力の絶頂期が同じ時代に重なるなどという都合の良い事態は、なかなか起こるものではない。
その点、昭和末期から平成初期にかけて、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンという、いわゆる「平成三強」が繰り広げた戦いは、まさに「三強」と呼ぶにふさわしい時代だった。「平成三強」を形成した彼らは、それぞれがGlを4、3、3勝した超一流馬であり、彼らが勝ったGlレースを並べてみると、1988年菊花賞、有馬記念、89年天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、マイルCS、有馬記念、90年天皇賞・春、安田記念、有馬記念・・・である。これを見れば、この3頭がいかにこの時期の中央競馬の主要レースを総なめにしていたかは一目瞭然である。
しかも、この時代のおそろしいところは、三強以外の顔ぶれも決して貧しかったわけではないことである。89年春は、オグリキャップとスーパークリークが故障でレースに出走できなかったことから、「平成三強」が明確に意識されたのは同年秋に入ってからだが、後から見れば、この時代は、88年有馬記念でオグリキャップがスーパークリークを含めた出走馬たちを抑えて日本競馬の頂点に立った時に幕が上がっていたといっていい。その有馬記念でオグリキャップの前に立ちふさがったのは、1歳年上の世代で、同年に史上初めて天皇賞春秋連覇を果たした「白い稲妻」タマモクロスであり、またオグリキャップと同世代で、爆発的な末脚を武器として、既にGlを2勝していたサッカーボーイだった。また、三強時代の最中に彼らと競い、そして敗れていった馬には、皐月賞と天皇賞・秋のGl2つを制したヤエノムテキ、「無冠の貴公子」メジロアルダン、短距離Gl2勝に加えて中距離にも果敢に挑んだバンブーメモリー、ランニングフリーなどの名前があがる。さらに、三強時代の終わりに世代交代を狙って世代交代の闘いを挑んだ1歳下の世代の馬にも、メジロライアン、ホワイトストーン・・・といったそうそうたる面々が名を連ねている。
そんな極めて充実したメンバーの中で、「平成三強」は、傑出した実力と結果を示し続けた。オグリキャップとスーパークリークが初めて対戦し、「平成三強」同士が初めて直接ぶつかった88年有馬記念からあるレースまでの約1年半にわたり、「平成三強」のうち2頭以上が出走したレースでは、外国招待馬ホーリックスが優勝した89年ジャパンC(Gl)以外のすべてのレースで、三強のいずれかが勝ち続けた。また、彼らの中で1頭だけが出走したレースでも、「平成三強」以外の馬に優勝を許したのは、成績にムラがあったイナリワンだけだった。何ともすさまじい時代であり、このような時代が、果たして今後再び来ることはあるのか、疑問ですらある。
だが、どんなに素晴らしい時代にも、終わりは必ず来る。長きにわたって続いた「平成三強」の時代は、1990年の宝塚記念をもって大きな転機を迎えた。このレースには、オグリキャップとイナリワンという三強のうち2頭が出走しながら、他の日本馬が勝ってしまったのである。
このレースをもって、「平成三強時代」は終わりを告げたといってよい。イナリワンはこの日が現役最後のレースとなり、二度とターフに戻ってくることはなかった。また、このレースを直前になって回避したスーパークリークは、秋に1戦した後、脚部不安によって引退した。そしてオグリキャップは、秋に戦線に復帰したものの、その後はかつての煌きを失ったかのように天皇賞・秋、ジャパンCと惨敗を繰り返した。これらの敗戦は、最後のレースとなる有馬記念によって伝説の一部として塗り替えられたとはいえ、「平成三強」の筆頭格だったオグリキャップには考えられないほど惨めな光景だった。
その意味で、1990年の宝塚記念でオグリキャップを抑えて優勝した馬・・・オサイチジョージの存在は、もっと強く意識されてしかるべきである。宝塚記念でオグリキャップとイナリワンを破った彼は、その勝利によって、単にひとつのGlを勝ったにとどまらず、平成三強時代に幕を引いた存在なのだから。
オサイチジョージは、1986年4月13日、北海道三石郡三石町の大塚牧場で産声を上げた。
オサイチジョージの母であるサチノワカバは、道営競馬で3勝を挙げている。サチノワカバの牝系は、大塚牧場が何代にもわたって育んできた牝系で、叔父に阪神3歳Sを勝ったカツラギハイデン、大伯父に菊花賞など重賞6勝を含む13勝を挙げて種牡馬になったアカネテンリュウがいる。
オサイチジョージの父であるミルジョージは、当時のサイヤーランキング上位の常連であり、また平成三強の一角・イナリワンの父でもある。オサイチジョージとイナリワンは、牝系のみを兄弟の基準とする馬の世界でこそ「兄弟」とは呼ばれないものの、人間ならば「腹違いの兄弟」にあたる。
ミルジョージの競走馬としての成績は、4戦2勝にすぎない。故障があったとはいえ、お世辞にも一流と呼ぶことはできない。だが、彼の父は英国ダービー、キングジョージ6世&QエリザベスDS、凱旋門賞という、いわゆる「欧州三冠」を史上初めて旧4歳で全て制した「英国の至宝」Mill Reefの産駒だった。そのため彼の血統に期待をかけた日本に輸入され、種牡馬として供用されていたのである。
すると、日本競馬に合っていたのか、ミルジョージは種牡馬として大成功した。彼の代表産駒としては、イナリワン、オサイチジョージのほかにも、90年のオークス馬エイシンサニー、91年のエリザベス女王杯馬リンデンリリー、帝王賞と東京王冠賞を勝って絶対皇帝シンボリルドルフにも食い下がった南関東の雄ロッキータイガー、牝馬ながら南関東三冠、東京大賞典を総なめにしたロジータ、長距離重賞を2勝し、天皇賞・春でも2着に入ったミスターシクレノンなどの名前が挙がる。ミルジョージ産駒の特徴は、芝でも実績は十分だが、ダート戦で実力を発揮する仔が非常に多かったことであり、ミルジョージの産駒からは、地方競馬の雄も多数輩出されている。
オサイチジョージは、ミルジョージが旧12歳の時に生まれた世代にあたる。5歳時から日本で種牡馬生活に入ったミルジョージにとっては、一流種牡馬としての評価が固まりつつある時期であり、後から見れば、ミルジョージの代表産駒とされる馬たちの多くは、この前後に生まれている。当時のミルジョージは、種牡馬として最も脂が乗った時期を迎えており、種付け料も高かった。
もっとも、ミルジョージとサチノワカバとの間に生まれたオサイチジョージは、生産者である大塚牧場の目には、あまりできのよくない産駒と見えていたようである。当歳の時に庭先取引で売れたとされているオサイチジョージだが、実際にはこの時馬主が目を付けたのは同い年の別の牝馬であり、その際に大塚牧場が、
「ついでにもう1頭買っていってほしい」
と言って見せた3頭の中から、馬主がオサイチジョージを選んだということである。意地の悪い言い方をすれば、オサイチジョージは「抱合せ販売のおまけ」に過ぎなかったことになる。実際には、「おまけ」が宝塚記念をはじめ重賞を5勝したのに対し、本来の目的であった牝馬は未出走のまま繁殖入りしたというから、サラブレッドとは本当に難しい。
旧3歳になったオサイチジョージは、土門一美調教師に入厩し、競走馬生活に入った。土門師は、オサイチジョージの主戦騎手として、自分の弟子である丸山勝秀騎手を起用することにした。
丸山騎手とのコンビで3歳時を3戦1勝2着2回で終えたオサイチジョージだったが、脚部不安を生じたため、春のクラシックは断念することになった。4歳緒戦となったあずさ賞(400万下)、葵S(OP)を連勝したオサイチジョージの重賞初挑戦は、血統的には中距離馬と思われていたにもかかわらず、裏街道と呼ばれるニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)だった。
このレースで1番人気に推されたオサイチジョージだったが、直線で2度も前が壁になる不利を受けてしまい、3着に終わった。このレースの後、丸山騎手は、
「私の騎乗ミスです。馬には責任はありません」
と関係者に頭を下げて回ったという。
丸山騎手は、デビューした年こそ21勝を挙げて注目されたものの、その後は伸び悩んでおり、オサイチジョージに出会うまでの6年間で通算91勝、重賞勝ちはなしという状態だった。目立った数字を残しているとはいえず、むしろ伸び悩んでいた当時の丸山騎手にとって、人気馬で重賞の騎乗機会を得ることは、大きなチャンスだった。しかし、そんなレースで結果を残せなかっただけでなく、その原因が騎乗ミスともなれば、チャンスはむしろピンチとなりかねない。オサイチジョージについても乗り替わりを命じられるおそれがあったが、丸山騎手は潔く謝った。
土門師らは、そんな丸山の潔さと心意気を買い、次走もコンビを継続した。すると、丸山騎手はその温情に応え、当時1800mで行われていた中日スポーツ賞4歳S(Glll)を勝った。これは、オサイチジョージにとってはもちろん、丸山騎手にとっても初めての重賞だった。
一方、オサイチジョージが駒を進めることができなかった1989年春のクラシック戦線は、空前の大混戦となっていた。皐月賞(Gl)は道営出身のドクタースパート、日本ダービー(Gl)はそれまでダートでしか勝ち鞍のなかったウィナーズサークルが制した。牝馬戦線でも同様に、桜花賞(Gl)こそ1番人気のシャダイカグラが勝ったものの、オークス(Gl)を制したのは10番人気のライトカラーだった。
混戦となった春のクラシックの裏側で、オサイチジョージの戦績は、7戦4勝2着2回3着1回となった。オサイチジョージが春のクラシックに出走していたらどうなっていたかは、無意味な仮定であるが、無意味と知りつつそのような仮定を考えてみたくなるほど、この世代は本命なき混戦だった。この時期の安定したレースからいえば、オサイチジョージが勝ち負けできる可能性も、決して小さくはなかったといえるだろう。
皐月賞馬ドクタースパート、ダービー馬ウィナーズサークルともいまひとつ信頼感に欠ける中で、オサイチジョージはいまだ底を見せていない上がり馬と評価され、秋に向けての巻き返しが期待できる有力馬の1頭とされていた。
もっとも、秋・・・菊花賞を目指す新興勢力は、オサイチジョージだけではなかった。栗東にはもう1頭、急速に頭角を現しつつある馬がいたのである。その馬の名は、バンブービギンといった。
バンブービギンは、ダービー馬バンブーアトラスを父に持つ内国産馬で、素質は早くから期待されていたものの、脚部不安を抱えていたこともあって出世が遅れ、未勝利を脱出したのは4歳5月になってからだった。だが、鞍上に南井克巳騎手を迎えて、デビューから7戦目の初勝利を挙げると、晩成の成長力を爆発させてあっという間に3連勝し、注目を集めるようになっていた。
夏を挟んだオサイチジョージは、神戸新聞杯(Gll)から始動したが、そこには3連勝中のバンブービギンの姿もあった。オサイチジョージは、そのバンブービギンに3馬身半の差を付けて快勝し、まずは秋の緒戦を飾った。続く京都新聞杯(Gll)にも返す刀で出走したオサイチジョージは、ダービー馬ウィナーズサークルとの一騎打ちと予想されていた。
しかし、京都新聞杯でのオサイチジョージは、前走で決定的な差をつけて破ったはずのバンブービギンに1馬身1/4差をつけられ、雪辱を許す形となった。単純に計算すれば、オサイチジョージは神戸新聞杯からたった1ヶ月で、バンブービギンに約5馬身、先を越されたことになる。
バンブービギンの父バンブーアトラスは、今とは違って東高西低だった時代に、関西の星としてダービーに挑み、見事に優勝している。だが、秋に菊花賞を目指したバンブーアトラスは、前哨戦の神戸新聞杯で激しく追い込み、阪神の短い直線だけで3着に突っ込んだ。だが、その激走で故障を発生した彼は、菊花の舞台を踏むことなく、そのままターフを去った。・・・それから7年、バンブービギンの出現はまさに「父の無念を晴らす息子」という大衆受けしやすいドラマとして語られるようになった。京都新聞杯でオサイチジョージ、ダービー1、2着馬であるウィナーズサークルとリアルバースデー、弥生賞大差勝ち以来のレインボーアンバーをまとめて差し切った勝ちっぷりは、ファンに夢を見させるに充分なものだった。
続く菊花賞(Gl)では、オサイチジョージとバンブービギンに対するファンの支持は逆転し、春のクラシックでは影も形もなかったバンブービギンが1番人気に支持された。
2番人気に支持されたのは、京都新聞杯(Gll)4着からの巻き返しを図るダービー馬ウィナーズサークルだった。天皇賞馬2頭を出した父シーホークのスタミナは、淀3000mでこそ生きると思われた。神戸新聞杯(Gll)を圧勝した時点では死角なしと思われていたオサイチジョージは、3番人気に留まった。
菊花賞は、クラシック最後の一冠であり、京都3000mコースを利用して行われるため、淀の「だらだら坂」を二度越えることが要求される過酷なレースである。皐月賞とダービーに出走することさえできなかったオサイチジョージにとって、菊花賞は文字どおり、生涯一度のクラシックへの挑戦だった。
しかし、この日のオサイチジョージの鞍上にいたのは、デビュー戦以来のパートナーの丸山騎手ではなく、彼の兄弟子に当たる西浦勝一騎手だった。丸山騎手は、こともあろうに菊花賞を目前にして騎乗停止処分を受けてしまい、オサイチジョージの一生に一度の晴れ舞台に、パートナーとして上がることができなくなってしまったのである。
レースが始まると、バンブービギンは1番人気の意気に感じたか、好スタートを切ってからすぐに6、7番手に抑え、オサイチジョージ、ウィナーズサークルがそれを見るような形で道中を進んだ。・・・本来オサイチジョージに流れるミルジョージの血は、スタミナに富むものであり、淀の長距離にも充分対応できるはずだった。
そんな血の力を封じたのは、ほかならぬオサイチジョージ自身の気性だった。ゆったりとした流れに耐えきれなくなったオサイチジョージは、かかり気味となってスタミナを消耗していったのである。西浦騎手にはそれを抑えることはできず、バンブービギンが二度目の坂で徐々に進出を開始した頃、それについていくことさえできなくなったオサイチジョージは、ずるずると後退していった。
直線に入ってからは、バンブービギンが一気に先頭に立ち、そのまま快勝した。2着には弥生賞を大差勝ちしながら故障で皐月賞とダービーを使えなかったレインボーアンバー、3着にはダービー2着馬リアルバースデーが入った。日本ダービー馬のウィナーズサークルは10着に敗れ、後にレース中の骨折が明らかになった。
オサイチジョージは、骨折したウィナーズサークルにさえ先を越される12着という無残な結果に終わってしまった。長距離への適性の限界か、はたまた馬と人との呼吸が原因なのか。原因は不明のまま、オサイチジョージの生涯一度のクラシックは寂しく幕を閉じた。
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