冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。
かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。
シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。
さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。
ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。
確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。
シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。
シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。
和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。
しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。
当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、
「和田に会いたい」
とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。
和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。
シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。
シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。
モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。
和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。
もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。
このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。
しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく
「ダービーを勝つことが夢だった」
というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。
しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。
もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。
かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。
彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。
1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。
スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。
社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。
種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。
しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に
「牧場が潰れるんじゃないか」
と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。
スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。
ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。
だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。
ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。
ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。
社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も
「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」
ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。
ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。
そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。
スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。
もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、
「これ、くれよ」
と場長に申し出た。
矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。
スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。
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