Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/webonetoone2/www/wp10retsuden/wp-content/themes/oto-template/functions.php:1) in /home/webonetoone2/www/wp10retsuden/wp-includes/feed-rss2.php on line 8
“スズカコバン” の検索結果 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Thu, 26 Jun 2025 23:00:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 タマモクロス本紀~白の伝説~ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/#respond Mon, 21 Apr 2025 12:27:48 +0000 https://retsuden.com/?p=410 1984年5月23日生。2003年4月10日死亡。牡。芦毛。錦野牧場(新冠)産。
父シービークロス、母グリーンシャトー(母父シャトーゲイ)。小原伊佐美厩舎(栗東)。
通算成績は18戦9勝(旧4-5歳時)。1988年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1988年天皇賞春秋(Gl)制覇、1988年宝塚記念、1988年阪神大賞典(Gll)、1988年鳴尾記念(Gll)、1988年京都金杯(Glll)。

第1章:「白い十字架」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…

『昭和最後の名馬』

 西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。

 時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。

 だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。

 日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。

 名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。

『白い稲妻』

 タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。

 名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。

 もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。

「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」

 シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。

 もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。

 しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。

『魅せられて』

 現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。

「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」

 錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。

 錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。

『予感に賭けた男』

 もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。

 初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、

「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」

「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」

 そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。

 しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。

 グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、

「この馬の子供は走る!」

と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。

 1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。

]]>
https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/feed/ 0
サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~ https://retsuden.com/horse_information/2022/21/290/ https://retsuden.com/horse_information/2022/21/290/#respond Fri, 21 Jan 2022 14:49:36 +0000 https://retsuden.com/?p=290 1985年2月19日生。2012年1月7日死亡。牡。鹿毛。谷岡牧場(静内)産。
父マルゼンスキー、母サクラセダン(母父セダン)。境勝太郎厩舎(美浦)。
通算成績は、10戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、弥生賞(Gll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『昭和最後のダービー馬』

 1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。

 日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。

 だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。

 日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、

「オグリキャップがいたら・・・」

という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。

 時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。

 そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。

 サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。

『トウメイの里』

 サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。

 サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。

 もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は

「若い奴にはチャンスを与えないといかん」

ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。

 すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。

『名馬伝説』

 谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。

 現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。

 だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。

 マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。

『ダービーに出してくれ』

 朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、

「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」

そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。

 こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。

 現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2022/21/290/feed/ 0
阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/#respond Wed, 17 Nov 2021 15:03:53 +0000 https://retsuden.com/?p=125  ~スエヒロジョウオー~
 1990年4月16日生。2020年4月30日死亡。牝。鹿毛。小泉賢吾(新冠)産。
 父トウショウペガサス、母イセスズカ(母父マルゼンスキー)。吉永猛厩舎(栗東)
 通算成績は、11戦3勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳牝馬S(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『仁川早春物語』

 1990年秋、JRAは翌91年のレース番組編成にあたり、それまで「西の3歳王者決定戦」として親しまれてきた阪神3歳Sを牝馬限定戦の「阪神3歳牝馬S」に改め、東西統一の3歳女王決定戦としてGlに格付けすることを発表した。

 実質的に91年から始まった阪神3歳牝馬Sは、20世紀最後の年である2000年まで続き、馬齢表記が数え年から満年齢に改められた2001年以降、「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めている。20世紀の終焉とともに姿を消した「阪神3歳牝馬S」の勝ち馬は、全部で10頭ということになる。

 ところで、日本のホースマンたちの意識の中では、3歳戦(現表記では2歳戦)を勝つために最も重要な仕上がりの早さは、単体での「名馬の条件」とされてこなかった。それゆえに3歳Glは、サラブレッドたちの最終目標としては位置づけられず、ホースマンたちの目標は、あくまでも翌年のクラシック戦線やその後の古馬戦線に向けられていた。彼らの中では、3歳戦はクラシック戦線の「予選」にすぎない、という意識が強く、その固定観念は、3歳牝馬にとって唯一のGlである阪神3歳牝馬Sについても例外ではなかった。

 前記のとおり、「阪神3歳牝馬S」として行われたレースは1991年から2000年までの10回で、その歴史には10頭のサラブレッドが勝ち馬として刻まれている。その阪神3歳牝馬Sの歴史を振り返ると、確かにこのレースが翌年以降のGlの「予選」としての役割を果たした年も珍しくない。91年ニシノフラワー、93年ヒシアマゾン、96年メジロドーベル、そして2000年テイエムオーシャン・・・。彼女たちは、いずれも阪神3歳牝馬Sの勝ち馬となっただけでなく、そこからさらに大きく羽ばたいて別のGlをも手にしている。彼女たちの名前だけを見れば、阪神3歳牝馬Sが翌年以降のGlの「予選」として機能していた、という見方は誤りではないように思われよう。

 だが、強さと仕上がりの早さを両方備えた名馬として3歳Glを制したのは、10頭の勝ち馬のうち4頭だけである。阪神3歳牝馬Sというレースの性質を考える上では、残る6頭のこともあわせて考えなければならないのは、むしろ当然のことであろう。この6頭の名前と戦績をみると、このレースの勝者たちを単純に色分けすることの難しさに気づく。もし阪神3歳牝馬Sが、翌年以降のGl戦線、例えば牝馬三冠路線の単なる「予選」であれば、彼女たちのその後の「馬生」も、「重要な予選を勝ちながら、本戦に勝つことができなかった、あるいは出走できなかった」といったある意味で画一的な物語の中に組み込むことが可能だろう。しかし、阪神3歳牝馬Sは、まぎれもないGlでもあった。彼女たちの馬生には、その時点でGl勝ちというキャリアが刻まれる。Glというすべての馬たちが目指す目標をすでに制しながら、それだけでは十分な評価につながらないという中途半端さは、彼女たちの物語を「同じ阪神3歳牝馬Sを勝った」という共通点だけでとりまとめることを難しくする。

 スエヒロジョウオー、ヤマニンパラダイス、ビワハイジ、アインブライド、スティンガー、ヤマカツスズラン。阪神3歳牝馬Sが唯一のGl勝ちとなった6頭も、同じ阪神3歳牝馬SというGlを勝ってはいても、その馬生における阪神3歳牝馬Sの位置づけはさまざまである。勝利がただちに栄光と幸福を約束するわけでもないまま、ただGl勝ちという色をつけられてしまった彼女たちの物語は、一様ではない。競走馬たちの早すぎる春・・・それが20世紀の3歳Glであった。歴代阪神3歳牝馬Sのうち、他のGlを勝っていない6頭の勝ち馬たちが、仁川を舞台に綴った早春物語は、果たしてどのようなストーリーだったのだろうか。今回のサラブレッド列伝では、そんな彼女たちにスポットライトを当ててみたい。

『フロックの女王』

 1992年の阪神3歳牝馬S勝ち馬スエヒロジョウオーのイメージを当時のファンに聞いてみた場合、たいてい返ってくるのは次のような答えだろう。

「ああ、あの12万馬券のスエヒロジョウオーか・・・」

 1991年の阪神3歳牝馬Sを9番人気で制し、さらに2着に13番人気の馬を連れてきたために、馬連120740円の配当を演出したこと。スエヒロジョウオーについてのファンの記憶は、その一点に集約されている。彼女の別の姿を思い出すというファンは、競馬ファン全体の中でも極めて少ないであろう。

 それもそのはずで、スエヒロジョウオーの通算成績は11戦3勝、阪神3歳牝馬S以外の勝利は未勝利戦、きんせんか賞(500万下特別)で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sひとつだけである。さらに、彼女が敗れた8戦を見ても、函館3歳S(Glll)で5着に入ったのを除くと、あとは掲示板にすら載っていない。人気でも生涯1番人気に支持されたことがなかったのはもちろんのこと、5番人気以内に入ったことすら、チューリップ賞(OP)での3番人気、一度きりというのだから念が入っている。

 そんなスエヒロジョウオーの勝利には、「フロック」という評価がつきまとう。・・・「フロック」という言葉は、本来Gl馬に対して使うのは非常に失礼な形容であるが、ことスエヒロジョウオーに関していうならば、それ以外の形容は見つからない。

 ただ、スエヒロジョウオーの場合、「フロック」を貶し言葉としてとらえることは間違いと言っていい。なぜなら、スエヒロジョウオーの名前は、その「フロック」のイメージの強烈さゆえに、並の阪神3歳牝馬S勝ち馬よりもはるかに深く競馬史、そしてファンの記憶に焼きついているからである。

『小さな雑草のように』

 スエヒロジョウオーの生まれ故郷は、小泉賢吾氏が個人で経営する小泉牧場だった。

 スエヒロジョウオーの血統は、母がイセスズカ、父がトウショウペガサスというものである。イセスズカは、スズカコバンやサイレンススズカの生産牧場として知られる稲原牧場の生まれで、マルゼンスキーの娘という血統的な魅力もあったが、なにぶん通算成績が13戦1勝では注目されるはずもなく、引退後も稲原牧場ではなく小泉牧場に引き取られていた。

 そんなイセスズカと交配されたトウショウペガサスも、重賞2勝でGl勝ちはなく、「トウショウボーイの半弟」という血統的背景がなければとうてい種牡馬入りできないクラスの種牡馬にすぎなかった。後に彼がスエヒロジョウオー、そしてフェブラリーS(Gl)勝ち馬グルメフロンティアを出して2頭のGl馬の父となることなど、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。

 要するに、スエヒロジョウオーは、血統的な部分からは、どこをどう見ても注目されるはずがない馬だった。

 そんなスエヒロジョウオーだったが、小泉氏の自慢の土で育った牧草を食みながら、順調に育っていた。この土は、小泉氏が牧場を継ぐことになった時、腰が弱い馬しか育たないことに危機感を覚えた小泉氏が、

「土の悪さを何とかしなくては、とあせったね。でも、土を改良するにはカネがかかる」

ということで、自分の肉体で土に鍬を入れて掘り返し、生き返らせたものだった。やがて、手を入れた土地からミミズが大量に湧いて出るようになったことで

「これならいける!」

と自信をつけた小泉氏は、相変わらずの自分なりの方法で「土との戦い」を続け、他の牧場が自分の家や生活にお金をかけていた時期も、草と馬のためにお金をかけたという。そうした成果もあって、小泉氏の牧場で育った馬たちの体質は、最初に比べて目に見えてよくなり、スエヒロジョウオーもその成果の1頭だった。

 ただ、スエヒロジョウオーには、同期の馬たちと比べても馬格が小さいという問題点があった。小泉氏の自慢の牧草を食べても、不思議と馬体が大きくならない。もともと牝馬の馬格は牡馬より小さいものだが、スエヒロジョウオーの場合、同じ牝馬と並べても、明らかにひとまわり小さい。

 サラブレッドの馬格は、ただ大きければいいというものではない。しかし、競馬場に出れば、馬格が小さい馬も、大きい馬と対等に戦わなければならない。レース中に他の馬と激しく接触することもある。小さな馬体を跳ね飛ばされたり、馬群を割れずに閉じ込められることもある。それでも、負けは負けでしかない。馬格が大きな馬なら自力で切り抜けられることがあるが、馬格が小さい馬だとそれっきりである。そのため、スエヒロジョウオーが

「こんな小さな馬体で、レースになるのかな」

という懸念を持たれるのもやむをえないことで、幼いころのスエヒロジョウオーとは、その程度の存在だった。

]]>
https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/feed/ 0
サイレンススズカ列伝~永遠の幻~ https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/ https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/#respond Mon, 25 Oct 2021 16:42:48 +0000 https://retsuden.com/?p=270 1994年5月1日生。1998年11月1日死亡。牡。栗毛。稲原牧場(平取)産。
父サンデーサイレンス、母ワキア(母父Miswaki)。橋田満厩舎(栗東)。
通算成績は16戦9勝(4-5歳時)。1998年度JRA賞(特別賞)受賞馬。
主な勝ち鞍は、1998年宝塚記念(Gl)、1998年毎日王冠(Gll)、1998年金鯱賞(Gll)、1998年中山記念(Gll)、1998年小倉大賞典(Glll)、1998年バレンタインS(OP)、1997年プリンシパルS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『記憶に残る馬』

 日本競馬の歴史の中で、我々に最も鮮烈な印象を残した馬として、サイレンススズカの名前を落とすわけにはいかないだろう。古馬になって本格化した後のサイレンススズカは、おそらく歴史上他に例を見ないほどの圧倒的なスピードで、スタートからゴールまで決して先頭を譲ることのないままに、常に馬群の先頭を走り続けた。果たしてこの馬が「差される」ということがあり得るのか。そう思わせるほどに、その走りはスピードに溢れ、金色の馬体以上に輝きを放っていた。

 しかし、サイレンススズカの実績を見ると、かつて「名馬」と呼ばれてきた強豪たちと比べて、決して突出したものとはいえないことも、また事実である。確かに16戦9勝という戦績は立派だが、特に5歳春までに勝ったレースでは、相手関係が弱いところを選んで走ってきており、サイレンススズカが勝ったレースの中で、本当の意味で一線級の馬が走ったレースといえるのは、1998年宝塚記念(Gl)と、同年の毎日王冠(Gll)ぐらいしかない。

 サイレンススズカのレースにそのような偏りがある理由としては、4歳時の彼が、期待の割には戦績が振るわなかったことから、陣営が慎重にレースを選んだことが大きい。しかし、最大の要因は、それよりもむしろ、サイレンススズカの距離適性に限界があったことにあるというべきだろう。サイレンススズカの勝ち鞍は明らかに中距離に偏っており、マイルやクラシックディスタンスのレースには、使われることすらあまりなかった。

 5歳時のサイレンススズカであれば、出走しさえすれば、マイルやクラシックディスタンスのレースでも勝つことができたかもしれない。しかし、勝負の世界に「たら」「れば」が許されない以上、それは意味のない仮定に過ぎない。実際に意味を持つのは、中距離以外ではほとんど戦績がないという現実の記録である。ゆえに、サイレンススズカに対して

「その最期ゆえに過度に神格化されている」

という否定的評価がつきまとうことも、まったく理由のないことではない。

 しかし、そうであったとしても、やはり多くのファンにとって、サイレンススズカが強烈な輝きを放った名馬であることは、間違いのない事実である。今回は、名馬たちの個性が薄れたといわれる現代競馬に現れた希代の逃げ馬サイレンススズカの馬生を振り返ってみることにしたい。

『生まれ故郷』

 サイレンススズカが生まれた平取の稲原牧場は、スズカコバン列伝(皇帝のいない夏)で取り上げたとおりの実力派牧場であり、テルテンリュウ、スズカコバンによる宝塚記念制覇をはじめとして、その生産馬たちは素晴らしい実績を残してきた。

 稲原牧場をほぼ一代で有力生産牧場に育て上げたとされる場主の稲原一美氏は、血統に対して強いこだわりを持った馬産家としても知られている。というより、そのこだわりこそが、彼に馬産家としての成功をもたらした原動力になったという方が正確かもしれない。

「強い馬を作るためには、良血の牝馬に良血の種牡馬を配合しなければならない。」

 稲原氏は一貫してその信念に基づく馬産に取り組んできた。稲原牧場の規模は繁殖牝馬が20頭弱というところで、牧場の実績を考えるともっと大きくなっていてもいいし、またその気になりさえすれば不可能ではないはずである。しかし、それをしてしまうと、1頭の馬にかけられる手間も、そして費用も落ちてしまうことを、稲原氏はよく知っていた。

 稲原氏は、牧場の生産成績が上がってくると、牧場の規模をさらに大きくしようとするのではなく、1頭あたりにかけられる手間と費用を増強することに心を砕いた。具体的には、牝馬に交配する種牡馬の質を上げ、繁殖牝馬も厳選したもののみを牧場に残し、さらに外部の牝系の導入によって積極的に血の入れ替えも図って、優れた血のみが牧場に残るように日々努力を重ねたのである。

『挑戦なくして成功なし』

 そんな稲原牧場にとって、アメリカから輸入したワキアは、牧場の期待を集める繁殖牝馬だった。ワキアは稲原牧場と親交が深い橋田満調教師と稲原氏の長男が渡米した際に、橋田師が見付けてきた牝馬である。橋田師が目を付けた当時、ワキアはまだ現役の競走馬だった。しかし、ワキア自身が当時既にかなりの競走成績を挙げていただけでなく、その血統もまたミスタープロスペクター系のエース格種牡馬ミスワキで、牝系も多くの重賞勝ち馬を出しているという裏付けがあった。

 ワキアの競走成績、力強くスピード感に満ちた走り、そして日本競馬と相性がよく、活力に溢れた血脈が集約された血統に心惹かれた橋田師から

「いい牝馬がいるので買ってみませんか」

と誘われた稲原氏は、その話を聞いてすぐに決断し、ワキアを買うことにした。当時はまだその決断の結果が分かるはずもないが、橋田師の相馬眼、そして稲原氏の決断の正しさは、やがて確固たる実績によって証明されることになる。

『偶然から生まれた名馬』

 稲原氏が権利を購入したワキアは、5歳一杯アメリカで競走生活を続け、19戦7勝という成績を残して引退すると、その後日本へと輸入された。

 日本へやってきたワキアは初年度ダンスオブライフの牝馬を産んだ。その牝馬がワキアの残す唯一の牝馬になるなどとは夢にも思わぬ稲原氏は、2年目

「今度こそ牡馬を」

という願いを託し、勝負を賭ける意味で、シンジケートに加入していたトニービンを交配することにした。

 トニービンは当時、前年に初年度産駒がデビューしたばかりだったが、その中からいきなりダービー馬ウイニングチケット、桜花賞、オークスの牝馬二冠を制したベガなどを輩出し、その評価を高めていた。このまま順調に行けば、ポスト・ノーザンテースト時代の日本のリーディングサイヤーになることは確実といわれていたトニービンが相手なら、ワキアはどれほど良い仔を産んでくれるだろうか。稲原氏はそんな期待に胸を弾ませ、発情期を見計らってワキアをトニービンが繋養されている社台スタリオンステーションに連れて行った。

 ところが、稲原氏が来てみると、その日は既にトニービンの種付け予定が埋まった後だった。株を持っているので次の機会に種付けをすることもできないわけではないが、それではせっかくの発情期をみすみす棒に振ることになる。また、次を待ったとしても無事受胎してくれるとは限らない。稲原氏は己の不運を呪い、頭を抱えてしまった。

 すると、そんな稲原氏を気の毒に思ったのか、社台SSの方から予想もしない助け舟が出てきた。

「サンデーサイレンスなら今日は空いているので、付けていきませんか」

というのである。

 サンデーサイレンスは現役時代に米国クラシック三冠のうち二冠、そして米国競馬の最高峰であるブリーダーズカップクラシックを制し、2年前に鳴り物入りで日本へ輸入され、供用が始まったばかりの種牡馬だった。サンデーサイレンスは、その後に初年度産駒が大活躍したことで、空前絶後の大種牡馬として日本種牡馬界に君臨する帝王となるのだが、このときは初年度産駒がデビューする直前で人気が落ちていたため、その日の予定が空いていたのである。今では信じられないことだが、そう言われた稲原氏も

「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか…」

ということで承諾し、この日、ワキアの相手は急きょサンデーサイレンスに切り替わった。

 約1年が経った平成6年5月1日、ワキアは稲原牧場で一頭の栗毛の牡馬を産み落とした。父に米国80年代最強馬の呼び声高きサンデーサイレンス、母に米国で7勝を上げた実績馬のワキアを持って生まれたその子こそが、後にサイレンススズカという名を与えられ、希代の逃げ馬として名を残すことになる運命を背負いし馬だった。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/feed/ 0
ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~ https://retsuden.com/horse_information/2021/10/513/ https://retsuden.com/horse_information/2021/10/513/#respond Sun, 10 Oct 2021 12:56:11 +0000 https://retsuden.com/?p=513 1980年4月7日生。2000年12月15日死亡。牡。黒鹿毛。千明牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母シービークイン(母父トピオ)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は15戦8勝(旧3-6歳時)。1983年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1983年皐月賞(重賞)、1983年東京優駿(重賞)、1983年菊花賞(重賞)、1984年天皇賞・秋(Gl)、1983年弥生賞(重賞)、1983年共同通信杯4歳S(重賞)。

第1章:「天馬二世」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

 すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・

『時代の英雄』

 20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
 
 三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
 
 ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
 
 しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
 
 ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
 
 ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。

 こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
 
「勝負づけは済んだ」
 
と決め付けられることになった。
 
 しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
 
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
 
 識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
 
 結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
 
 大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。

『馬に魅せられた一族』

 ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。

 千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず

「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」

とつぶやいた。
 
 そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。

 年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
 
 二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。

 戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
 
 再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2021/10/513/feed/ 0
カツラギエース列伝~エース・オブ・ジャパンの黄昏~ https://retsuden.com/horse_information/2021/31/96/ https://retsuden.com/horse_information/2021/31/96/#respond Tue, 31 Aug 2021 00:07:07 +0000 https://retsuden.com/?p=96  1980年4月24日生。2000年7月3日死亡。牡。黒鹿毛。片山専太郎牧場(三石)産。
 父ボイズィーボーイ、母タニノベンチャ(母父ヴェンチア)。土門一美厩舎(栗東)。
 通算成績:22戦10勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍:ジャパンC(Gl)、宝塚記念(Gl)、
 毎日王冠(Gll)、産経大阪杯(Gll)、京阪杯(Glll)、京都新聞杯(重賞)、NHK杯(重賞)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『府中が凍った日』

 1984年11月25日―この日付は、日本競馬の歴史に残る1日として、その記録に深く刻まれている。海外から招待された強豪たちを東京芝2400mコースに迎え、日本を代表する強豪たちがこれに立ち向かうという趣旨のもとに始まったジャパンC(Gl)で、第4回にしてはじめて日本馬が外国招待馬を破って優勝したのである。

 ジャパンカップは「日本競馬を世界に通用するレベルに!」という目標のもと、まずは世界の一流馬を日本へ招待し、国内の一流馬に世界の一流馬と戦う機会を設けようということで始まった。創設当初は

「2400mでは、万に一つも日本馬に勝ち目はない」

ということで、ジャパンCは2000m戦とすべきであるという意見もかなり強く主張されたが、最終的には2400m、それも日本ダービーとまったく同じ東京2400mコースで開催されることに決まった。その背景には、「クラシックディスタンス」といわれ、世界的にも最も価値ある距離であるとされる2400mで世界に通用する馬を作りたいという、日本競馬共通の強い願いがあった。

 このような雄図のもとに創設されたジャパンカップだったが、初期の結果は、無残なものだった。記念すべき第1回ジャパンカップは、レース自体の認知度の低さに加えて開催者の不手際もあり、欧州からの参加はなかった。そのため中心となったのは米国やカナダからの招待馬だったが、こちらも日本側が期待したような一流馬はまったく参加せず、日本でいう準オープンクラス程度の二流馬がほとんどだった。それに対して迎え撃つ日本馬はホウヨウボーイ、モンテプリンスら当時を代表する名馬が顔をそろえ、日本競馬関係者が

「いくらなんでも、これなら勝てるだろう」

と思ったのも無理はなかった。

 ところが、レースが終わってみると、米国では二流の牝馬に過ぎなかったメアジードーツの完勝に終わった。当時のベストメンバーをそろえたはずの日本馬たちはくつわを並べて討ち死にし、最先着はゴールドスペンサーの5着という悪夢のような結果になったのである。ある意味で「世界のレベルを知る」という開催者の目的は見事に果たされたわけだが、それにしてもこの結果はひどすぎた。日本競馬の関係者たちは、第1回ジャパンカップを機に誰もが「世界」の遠さを思い知らされることになったのである。

 その後もジャパンカップは回を重ねたが、やはり日本馬はなかなか勝てなかった。第2回はヒカリデユール、アンバーシャダイといったこれまた当時のエース格たちが、やはり外国馬に苦もなくひねられた。第3回では、天皇賞馬キョウエイプロミスがレース中に故障を発症しながら激走し、競走生命と引き換えに日本馬初の連対を果たしたものの、それでも優勝には手が届かなかった。いつしか

「日本馬でジャパンカップを勝とう!」
「府中に日の丸を掲げよう!」

という目標が日本競馬の合言葉、悲願となり、ホースマンたちはジャパンカップに出走できるような馬を作り、育てようと精魂を傾けた。

 しかし、4回目の挑戦にしてついにその悲願が達成されたとき、東京競馬場を支配したのは、場内を包む興奮でもなければ割れるような大歓声でもなかった。日本馬が外国馬を従えて先頭でゴールする・・・日本競馬が夢見た悲願が現実となったとき、府中は一瞬の静寂、沈黙に包まれたという。

 日本馬として初めてジャパンカップに優勝し、府中に日の丸を掲げることで歴史に名を残したのは、黒光りするような黒鹿毛の馬体を持ち、それまでにも宝塚記念など多くの中距離重賞を勝ってきたカツラギエースだった。カツラギエースの戦績はこの日の勝利で10勝目、重賞制覇は7つめであり、本来ならば優勝してもなんら不思議はない一流の実績馬だった。それなのに、彼の勝利がこのような驚きで迎えられたのは、果たしてなぜだったのだろうか。

『並の馬として』

 カツラギエースは、1980年4月24日、三石の片山専太郎牧場で生まれた。母タニノベンチャは、「タニノ」の冠名から察せられるとおり、もともとはカントリー牧場で生まれた牝馬だったが、その後片山牧場へと移動することになり、5番子のカツラギエースは、タニノベンチャが片山牧場で最初に生んだ産駒にあたる。

 タニノベンチャの血統表だけを見ると、当時の人気種牡馬だったヴェンチアの娘であり、さらに京都4歳特別優勝、皐月賞4着などの実績を持つタニノモズボローをはじめ、4頭の兄姉がすべて中央で勝ち上がっている。タニノベンチャ自身の競走成績も、3戦1勝というのは優れたものではないが、日本で生まれたサラブレッドのうち中央でデビューできるのは一部であることを考えれば、悲観するほどのものではない。問題は、繁殖入りした後の彼女の産駒成績だった。

 そこそこの期待とともに繁殖入りしたタニノベンチャだったが、彼女のカントリー牧場での産駒成績は、散々なものだった。カツラギエースの4頭の兄姉のうち、競馬場でデビューできたのは2頭だけ。しかも、勝ちあがったのはそのうち1頭というのでは、血統的な妙味以前の問題とならざるを得なかった。

 その後、タニノベンチャはボイズィーボーイと交配された。ボイズィーボーイは、英仏で通算28戦9勝という戦績を残した。もっとも、主な勝ち鞍はストッカーロスS、ジョック・スコットSといったあたりで、日本人でも知っている大レースでの実績としては、夏の欧州マイル王決定戦のひとつであるムーラン・ド・ロンシャン賞でハビタットの2着になったことがあるくらいである。ボイズィーボーイの客観的な評価は、2000m以下の距離でそこそこ走る二流馬・・・というのが正確なところだった。種牡馬としても、最初に供用されたオーストラリアでヴィクトリア・ダービー馬ガレナボーイを出したのが関の山で、日本に輸入が決まった際にも話題に上ることさえほとんどなかった。輸入後2年で死亡してしまったボイズィーボーイは、結局カツラギエース以外には、これといった実績馬を日本に残すことはできなかった。

 タニノベンチャが片山牧場へやってきたのは、彼女に見切りをつけたカントリー牧場が彼女をセリに出したところ、たまたまタニノベンチャに目をとめた片山氏が競り落としたからだった。彼女の購入価格である350万円という価格は、当時の繁殖牝馬の相場としても安いものであり、片山牧場も彼女に過大な期待をかけてはいなかった。まして、その彼女がセリの時にたまたま受胎していた無名種牡馬の仔に、期待される要素など何もなかった。

『売れ残り』

 生まれた直後のカツラギエースは、「二流血統」以外の何者でもなかった。当然のことながら、生まれたばかりの彼にわざわざ注目しようというホースマンはおらず、生まれてしばらくの間、彼は競馬界ではまったくありふれた凡馬の1頭に過ぎなかった。

 その後、馬体の成長によって少しは見所がある、と思われたのか、2歳馬の中でもある程度選抜された馬しか上場を許されない6月特別市場への上場を許されたカツラギエースではあったものの、肝心のセリの参加者たちに素質を見抜いてもらえず、売れ残って主取りになってしまった。

 8月になって、今度は日高の定期せり市に出されたカツラギエースだったが、今度も最初のお台とされた600万円では声がかからず、500万円に落としたところでようやく声がかかり、数人の競合の結果、710万円で落札された。当時の競走馬の相場を考えると、安くはないが高くもないといったところの値段である。

 この時彼を落札したのは、後にカツラギエースの馬主となる野出一三氏から馬選びを任された馬商だった。この時馬商に野出氏から出されていた注文は、

「1年に1勝はしてくれ、5歳いっぱいまで走れる馬。予算は1000万円まで。」

というものだった。カツラギエースは、そんな要望を満たす馬として選ばれた。この時点の彼は、それ以上のものではまったくなかったのである。

『日陰でのデビュー』

 カツラギエースは、やがて栗東の土門一美厩舎に入厩することになった。しかし、土門師もカツラギエースが期待馬だったから引き受けたというわけではなく、馬主周辺の人間関係から預かったというのが正直なところらしい。土門師にとって、入厩したてのカツラギエースは、「どこがいいのか分からない」という程度の馬だった。

 入厩したころのカツラギエースは、腰が甘くてろくに調教すらできない状態だった。何とか調教できるようになってからも、あまり強く追えないため、なかなか身体が絞れない。しかも、併せ馬をさせてみると、どんな馬と併せても、必ず遅れてしまう。併せ馬の相手にしてみれば、これでは併せ馬にする意味がない。土門師や、調教の様子を見に来た野出氏たちは、

「やっぱりセリで買った馬はダメやなア」
「クズ馬つかまされてしもうた」

などと、好き勝手なことをいって嘆いていた。9月の新馬戦に下ろされることになったのも、

「これ以上待ってもよくなる見込みはないから、さしあたってレースに使ってみて様子を見てみよう」

という、この上なく投げやりな理由からだった。

 厩舎関係者ですらこんな状態だから、一般のファンからの支持などあろうはずもない。カツラギエースのデビューは阪神芝1200mの新馬戦だったものの、単勝人気は14頭だての6番人気に過ぎなかった。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2021/31/96/feed/ 0