★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
]]>(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の歴史の中で、競馬ファンに「最強馬」として称えられ、あるいは「名馬」として尊敬を集めたサラブレッドたちは少なくない。しかし、競馬ファンのみならず、一般大衆にいたるまでの誰もがその名を知り、彼らを競馬ファンへと引きずり込むほどのインパクトを残した馬となると、きわめて限られる。
「ハイセイコー」は、そんな限られたサラブレッドの中の1頭である。この馬の知名度は、おそらく日本で走ったサラブレッドの中で屈指のものだろう。この馬と並ぶ知名度を誇る馬といえば、長い中央競馬の歴史の中でも、おそらくオグリキャップくらいしかいないに違いない。
その一方で、「最強馬」を問う議論の中にハイセイコーの名前が挙がってくることは、稀である。ハイセイコーの主な勝ち鞍を見ると、八大競走の一角とされる皐月賞以外は、当時まだ現在のように高い位置づけとされていなかった宝塚記念、高松宮杯といったあたりである。日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念といった、「最強馬」と呼ばれるために決して避けて通れない大レースにおいて、ハイセイコーはことごとく敗れている。
ハイセイコーが大衆的な人気を集めたのは、南関東競馬という地方競馬の出身である彼が、無敗のまま中央へと攻め上り、日本競馬の権威の象徴である日本ダービーを目指すという図式の中に、高度成長期という時代に、その時代に生きる国民が自らの夢を重ねることができたからにほかならない。日本ダービーでは史上最高の支持率を背負いながら3着に破れたハイセイコーだったが、ひとつの夢から覚めた大衆は、その後、ハイセイコーの強さとともに、その弱さをも愛するようになった。もしハイセイコーの生まれが5年ずれていたとしたら、あれほどの「ハイセイコー・フィーバー」は起こらなかっただろう。ハイセイコーこそ、時代が求めた英雄だった。彼によって競馬の魅力を知ったファンがあまりに多かったゆえに、ハイセイコーは
「競馬界に特別な貢献をもたらした」
と認められ、顕彰馬に名を連ねることになった。
競走馬としてそれほどの人気を誇ったハイセイコーは、種牡馬になってからも、父が勝てなかったダービーと天皇賞を勝ったカツラノハイセイコ、単勝43060円の20頭立て20番人気でエリザベス女王杯を制した馬サンドピアリスなどを輩出し、父内国産種牡馬の評価が低かった当時としては極めて優秀な成績を残している。・・・だが、そんなハイセイコーのあまりの偉大さと特異さゆえに、その産駒たちは、彼ら自身の戦いにおいても、彼ら自身ではなく父親の姿を投影されることが珍しくなかった。
ハイセイコーが晩年に輩出した傑作の1頭が、父とともに皐月賞父子制覇を成し遂げたハクタイセイである。彼はカツラノハイセイコと並ぶハイセイコー産駒のクラシックホースとなり、1990年クラシック世代を担う1頭として、ターフを沸かせた。父とは似ても似つかぬ芦毛にもかかわらず、「白いハイセイコー」と呼ばれたハクタイセイは、かつて父が泣いた血の限界とも戦わなければならない宿命を背負っていたのである。
ハクタイセイは、当時繁殖牝馬11頭という家族経営の生産農家だった三石の土田農場で、父ハイセイコーと母ダンサーライトとの間に生まれた。
父のハイセイコーは、前述のように日本競馬の歴史の中でも特異な地位を占める名馬である。彼はデビュー当初、南関東競馬で無敗のまま6連勝を飾って「南関東の怪物」とうたわれた。その後はさらにより強く、より大きな相手を求め、4歳クラシック戦線を前に中央競馬へと移籍し、弥生賞、スプリングS、そして皐月賞と勝ちまくった。無敗のまま連勝街道を驀進し、「南関東の怪物」から「地方から来た怪物」へと変わったハイセイコーに、大衆は
「地方馬出身初のダービー馬誕生か」
と熱狂したのである。彼こそは、「中央のエリートをなぎ倒し、実力で頂点を奪う地方馬」という高度成長期の夢を体現する存在だった。中央競馬の頂点・日本ダービーでの彼は、単勝120円で、同レースにおける単勝馬券の売上の66.7%を占める最高支持率を記録した。
その日本ダービーで宿敵タケホープの後塵を拝して3着に敗れ、さらに菊花賞でもタケホープの2着に終わったハイセイコーには、明らかに距離の壁があるとみられるようになった。天皇賞は春だけでなく秋も3200mで行われ、八大競走に含まれない宝塚記念の位置づけは現代ほど高くないなど、明らかに長距離偏重の感があった当時のレース体系のもとで、彼は本来の実力を発揮しきれず不遇をかこつ現役生活を送らざるを得なかった。・・・だが、ファンがハイセイコーに向けた愛情は、彼が日本ダービーで敗れる前と変わることなく、引退まで続いたのである。彼こそは、高度成長期を支えた名もなき大衆たちの代表者だった。
その一方、ダンサーライトは、レースには不出走ながら、土田農場では高い期待をかけられた繁殖牝馬だった。土田農場では、最初にダンサーライトを買いたいという申し出があった際、
「もしこの馬を第三者に売って競馬場に送り出した場合、万が一にも土田農場に戻ってこないかもしれない・・・」
と恐れて、その申し入れをあえて断った。その後、
「せっかく買いたいという申し入れを断った以上、他の馬主に競走馬として売ったら、最初に断った相手に申し訳ない」
ということで、ダンサーライトを競走馬として売ること自体をあきらめてそのまま繁殖入りさせ、牧場の基礎牝馬としたのである。
こうして競走経験がないまま繁殖入りしたダンサーライトが初仔を出産したのは、旧5歳の時だった。
ダンサーライトが初子を無事に出産した後、生産者の土田重実氏は、ダンサーライトの2度目の種付けにあたっては、もともと繁殖牝馬としては骨太で頑丈なタイプだった彼女のパワーを引き継ぐ馬を生産したい、と考えた。また、馬主に馬を買ってもらう工夫としては、なじみのある内国産種牡馬が望ましい。そこで、ダンサーライトには、さらなるパワー型の種牡馬であり、さらに現役時代には内国産馬としてカリスマ的な人気を誇ったハイセイコーを交配することにした。
やがてハイセイコーの子を無事受胎したダンサーライトが出産を待つばかりとなると、土田氏はまだ見ぬその子馬に、
「ハイセイコーによく似た子になってほしい・・・」
という願いすら抱くようになっていた。
ところが、実際に生まれたハクタイセイを見た時、土田氏は自分の期待が見事に裏切られたという失望を感じずにはいられなかった。生まれたばかりのハクタイセイはひ弱で、牝馬のように線が細い馬だったからである。
そして、ハクタイセイの毛色は、ハイセイコーではなくダンサーライトの芦毛を受け継いでいた。無論、血統的には何の不思議もない現象ではあるが、ダンサーライトよりハイセイコーの再来を夢見た配合だった以上、生産者としては、父に似た仔が出ることを望んでいた。それなのに・・・。
しかも、この年の土田農場では、もう一つの重大な問題が生じていた。土田農場ではこの年8頭の仔馬が生まれたが、その中の牡馬はハクタイセイ、ただ1頭だったのである。
日本では、少し前まで「男女7歳にして席を同じくせず」という言葉があったが、馬の場合も、放牧においては当歳から牡牝で分けることが多かった。しかし、ハクタイセイを他の牝馬から隔離して1頭だけ放しておいたのでは、競争心が育たない。サラブレッドの競争心とは、世代の近い馬たちと互いに競いあうことなしには育ち得ない・・・。
ハクタイセイは、当歳時に早々とセリに出された。ところが、700万円に設定されたハクタイセイに手を挙げる買い手は現れず、無情にも「主取り」となってしまった。・・・土田氏がハクタイセイに向けた思いは、裏切られてばかりだった。
セリでの結果は残念なものに終わったが、売れ残ったことに文句を言っても仕方がない。土田氏は、ハクタイセイの競争相手に近所の牧場から牡馬を1頭借りてきて、ハクタイセイと一緒に運動させることで、なんとか急場をしのいだ。ちなみに、このとき土田農場に牡馬を貸したのは、オグリキャップを生産した稲葉牧場だったという。
そんな苦労もあって、ハクタイセイは、旧2歳のセリではむしろ値段が上がり、1020万円となかなかの値で売れ、中央競馬への入厩も決まった。父とは似ても似つかぬ芦毛の仔馬は、「白」+「大成」という意味でハクタイセイと名付けられ、競馬場にと向かうことになった。
栗東の布施正厩舎に入厩したハクタイセイは、仕上がりが非常に早かったことから、3歳戦の小倉・芝1200mの新馬戦でデビューした。デビュー戦では3番人気の2着だったものの、レース内容に将来性を感じさせるものを見せたハクタイセイは、その後、軽いアクシデントもあって次走との間隔が空いたものの、勝ち上がりは時間の問題とみられていた。
ところが、その後のハクタイセイは、期待に反してなかなか勝つことができない。人気は集めるものの、4着、6着という着順が続いた。未勝利戦の場合、強い馬は次々勝ち上がっていくから、出走馬は時とともに弱くなっていくはずである。それなのにハクタイセイは、走れば走るほど着順が落ちていく。
ハクタイセイを管理する布施師は、考えた。芝の良馬場だと頭打ちである。ハクタイセイは血統的にはダート向きの力馬でもあるから、今度はダート戦を使ってみようか・・・。
すると、ハクタイセイは生まれ変わったかのように躍進を遂げた。やはり南関東競馬で圧倒的な強さを誇ったハイセイコーの血は生きていたのである。ダート初戦こそ2着に敗れたものの、次走では逃げて4馬身差の圧勝を飾り、5戦目にしてようやく勝ち上がりを果たした。もう1戦、400万円下でもダートを使ってみたところ、今度もやはり3馬身差の快勝で、悠々のオープン入りである。
早い時期にオープン入りすると、別の欲が出てくるのは、ホースマンの常である。旧3歳のうちに2勝を挙げたハクタイセイであれば、重賞のシンザン記念(Glll)に進むことは自然なローテーションだったし、無理をすれば中1週で当時は牡牝を問わない「西の旧3歳王者決定戦」だった阪神3歳S(Gl)に進む選択肢もあった。
しかし、布施師はあえてこれらのローテーションは選ぶことなく、オープン特別のシクラメンS(OP。当時は芝で開催)から若駒S(OP)へと歩みを進めることとした。
非情に慎重なローテーションの背景に、ハクタイセイの実力への疑念があったことは、事実だった。芝の未勝利戦でもたつき、持ち時計も平凡。力のいる馬場ならともかく、スピードでは一線級に及ばない、というのがハクタイセイに対する評価であり、強い相手と無理にぶつけるよりは、自分のペースで走らせようというのが、布施師の本音だった。
ところが、布施師の慎重な選択は、ハクタイセイのために「吉」と出た。同世代の有力馬たちが次々と重賞戦線に挑んでいく中で、「裏街道」ともいうべき地味なレースを選んで出走したハクタイセイは、さしたる強敵と戦う必要もないまま、シクラメンS、若駒Sを勝って4連勝を達成したのである。そうなれば、皐月賞、そして日本ダービーと続く春のクラシックも、現実のものとなってくる・・・。
もっとも、4連勝したからといって、それでただちにハクタイセイの評価がうなぎのぼりになったわけではなかった。勝ち続けたとはいっても、それは強い相手との厳しい競馬を避けてのことである。クラシックを勝ち抜くためには、彼がまだ経験していない本当に厳しい競馬を制することが、必ず必要になる。そうすると、ハクタイセイの厳しい競馬への経験の薄さは、マイナス材料となる可能性も高い。
ハクタイセイがこれから戦うべきこの年の4歳世代には、未対戦の強豪が2頭いた。疾風の逃げ馬アイネスフウジンと、雷光の末脚を持つメジロライアンである。
ハクタイセイが地道に勝ちを稼いでいたころ、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューティリティS)では、アイネスフウジンがあのマルゼンスキーに並ぶ1分34秒4というレコードタイ記録を叩き出し、圧勝していた。またメジロライアンはひいらぎ賞(400万円下)とジュニアC(OP)を鮮烈な差し切りで制し、大器の片鱗を明らかにしつつあった。当時の予想では、クラシック戦線はこの2頭の関東馬を中心に回っていくものとみられ、関西のハクタイセイにはあまり注目が集まっていなかった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。
フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、
「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」
という方が、よほど強かった。
そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。
だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。
第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。
競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。
1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。
実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。
もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。
そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。
日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、
「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」
と語っている。
勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。
閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。
フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。
ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。
その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。
しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。
これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。
地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。
そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。
そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。
1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。
マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。
もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。
ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。
もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、
「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」
という思いを持っていた。
ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。
迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。
オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。
オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。
オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。
そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、
「最初に親孝行してくれた馬」
という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。
もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。
種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
「日本ダービーとは何か」
―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。
しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」
とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、
「ダービーだけは特別だから・・・」
と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。
このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。
ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。
しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。
1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。
戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。
アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。
大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。
しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに
「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」
と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。
アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。
アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。
しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。
テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。
テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。
その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。
そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、
「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」
と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち
「うちに入れてくれないか」
という申し出があったという。
だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、
「手の施しようがありません」
と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、
「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」
と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。
すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。
結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。
そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も
「いい子が生まれた」
と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。
次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。
中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。
この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに
「こいつは走る・・・!」
という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。
大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。
アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。
加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。
ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。
中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。
ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。
「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」
と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は
「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」
と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。
しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。
もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。
実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。
調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって
「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」
では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。
「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」
こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。
しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。
しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。
馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。
中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。
加藤師は中野騎手に声をかけた。
「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」
中野騎手は、こう返したという。
「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」
中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。
「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」
次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。
「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」
中野騎手は、震えた。
中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から
「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」
と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。
中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に
「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」
と思ったという。
しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。
(こいつは走る!)
柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。
「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」
中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。
]]> 人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。
ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。
ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。
ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。
(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本の競馬界の歴史の中で「名馬」と呼ばれた馬は少なくないが、その中でも「歴史を変えた」と明言しうる存在は、ごく限られる。そんな少数の歴史的名馬の1頭が、オグリキャップである。
オグリキャップは、1987年から90年にかけて、32戦22勝の戦績を残した名馬である。地方競馬の中でも決して主流とはいえない笠松競馬でデビューし、やがてJRAへと移籍して様々な強豪と死闘を繰り広げ、2度の有馬記念(Gl)制覇を含むGl4勝を果たし、現役最後の年である90年には安田記念(Gl)と有馬記念を制覇によってJRA年度代表馬に輝いた劇的な競走生活は、多くの大衆の心をとらえ、競馬人気の爆発的な成長のきっかけをもたらしたことで知られている。
ただ、オグリキャップが人気を集めた要素は、単なる競走成績だけではない。JRAへ転入した4歳(現表記3歳)時に、圧倒的な強さを見せながら、クラシック登録がなされていなかったがゆえに最も格式あるクラシック・レースへの出走が許されなかったという悲劇性が彼の人気に大きく影響したことも、厳然たる事実である。幼駒時代のクラシック登録がされていなかったために皐月賞、東京優駿への出走を許されなかったオグリキャップが、「裏街道」と呼ばれる重賞を次々と制し、夏に高松宮杯(Gll)で古馬たちまで撃破したことで巻き起こった
「強い馬が出られないクラシック・レースとは何なのか」
という疑問は、やがて追加登録料の支払によるクラシックの追加登録を認める制度改革、そして後の「世紀末覇王」テイエムオペラオーによる99年の皐月賞や「みんなの愛馬」キタサンブラックによる15年の菊花賞制覇へとつながっていく。
ただ、その生涯が様々な角度から語られるオグリキャップだが、彼自身が出走できなかったクラシック・レースを、彼と非常に縁の深い牝馬が達成していることについては、近年意識されることが少なくなっているように思われる。そこで、今回のサラブレッド列伝では、オグリキャップの6歳下の半妹であり、1994年の桜花賞を制して兄の果たせなかった夢をかなえたオグリローマンについてとりあげてみたい。
1990年12月23日は、日本競馬における伝説のひとつとして記憶されている。この日、中山競馬場で開催された有馬記念(Gl)で、当時の最強馬と認められていたものの、秋は不振が続いて「もう終わった」と言われていたオグリキャップが優勝し、「奇跡」とも呼ばれた復活を遂げたのである。
笠松競馬でデビューして連戦連勝の強さを見せたオグリキャップは、JRAに転入した後も、「三流血統」「雑草」などと呼ばれながら、88年はタマモクロスとの「芦毛対決」、89年はスーパークリーク、イナリワンとの「平成三強」を形成して数々の名勝負を繰り広げ、日本競馬史の中でもレベルが高すぎる同時代のライバルたちとの過酷な戦いの中心にあり続けた。しかし、現役最後の年となる90年は、安田記念(Gl)こそレコード勝ちを飾ったものの、確勝とみられた宝塚記念(Gl)で伏兵オサイチジョージから大きく離された2着に敗れると、秋は天皇賞・秋(Gl)6着、ジャパンC(Gl)11着と惨敗を繰り返し、6歳(現表記5歳)という年齢もあって、有馬記念を最後に引退が決まっていた。
そして、最後のレースとなる有馬記念に出走したオグリキャップは、定員が17万人とされる中山競馬場に集結した17万7779人の大観衆の前で、天皇賞・秋で皐月賞に続くGl2勝目を達成したヤエノムテキ、宝塚記念でオグリキャップを下したオサイチジョージ、90年のクラシック戦線を牽引したメジロライアン、ホワイトストーンといった当時の強豪たちを相手に勝ち切り、自身の物語に美しい終止符を打ったのである。
オグリキャップの物語は、「三流血統の地方馬」が、約3年半の競走生活で9億1251万2000円の賞金を稼ぎ出し、18億円のシンジケートを組まれて馬産地へと帰っていくという形で大団円を迎えた。しかし、そんな彼が残した最大の遺産は競馬界の爆発的な人気であり、彼がJRAへ転入する直前の87年に過去最高の約251億円を記録した有馬記念の売上が、90年には480億円とほぼ倍増している。
何はともあれ、オグリキャップの引退によってひとつの伝説が終わり、大衆の関心は次なる夢へと移っていった。そして、オグリキャップを継ぐ夢は、この時、既に胎動していた。
時を半年ほど遡り、オグリキャップが円熟期を迎えていた90年春ころ、彼の生まれ故郷である稲葉牧場で、稲葉裕治氏、馬主の小栗孝一氏、笠松競馬の鷲見昌勇調教師の三者が話し合いをしていた。オグリキャップの母ホワイトナルビーのこの年の配合…つまりはオグリキャップの弟妹の配合を相談するためだった。
オグリキャップの生産者は、書類上は稲葉不奈男氏の生産馬とされているが、実際の牧場経営は息子の裕治氏に代替わりしていたようである。小栗氏はホワイトナルビーの馬主であり、それ以前のホワイトナルビー産駒をすべて自らの所有馬として笠松競馬場でデビューさせていた。鷲見師は、そんな小栗氏の笠松競馬場における主戦調教師である。
小栗氏と鷲見師の関係は長い。1929年生まれの小栗氏は、事業に成功して28歳ころに笠松での馬主生活をスタートさせた。きっかけについては、馬券を買うだけでは満足できなくなったため、友人を誘って共同馬主になったという説と、馬券を買っても全く儲からないと不満を持っていたところ、
「馬を持てば儲かる」
と人に勧められたからという説がある。いずれにしても、馬主になってもなかなか儲からず、辞めようかとも思っていた小栗氏だったが、鷲見師に強く勧められたアングロアラブのオグリオーが活躍して笠松競馬場に「オグリオー記念」というレースまで作ってもらったことで
「(馬主を)やめられなくなった」
とのことである。
ホワイトナルビーは、オグリオーより3歳下の1974年生まれで、JRAではマルゼンスキーと同世代にあたる。鷲見師が自厩舎に迎える逸材を探して日高の牧場を渡り歩いていた際に「ピンときた」ということで、「価格は600万円だが、引退後に繁殖牝馬として牧場が200万円で買い戻す条件が付いているから、実質400万円で買える」と言って、小栗氏に持ち込んだという。
しかし、鷲見厩舎が所属する笠松競馬場を含めた東海競馬における最大のレースとされていた東海優駿の当時の1着賞金は、1000万円である。JRAを見ても、日本ダービーの1着賞金が5000万円であり、同世代の優勝馬ラッキールーラの取引価格は800万円だったと言われる時代だから、「実質400万円で買える」と言っても、元を取るハードルはかなり高い。小栗氏が、そんなホワイトナルビーを買ったのは、鷲見師の熱意に推されたから、という一点だった。
ところが、8戦4勝という戦績を残したところで故障したホワイトナルビーを約束通りに牧場へ返そうと思って引退させたところ、牧場から一方的に買戻しをキャンセルされたという。
「そんな馬鹿な話があるか!?」
と小栗氏が立腹したのも当然だが、結局小栗氏は、ホワイトナルビーを自己所有の繁殖牝馬として引き取ることにした。そこで鷲見師が、買戻しがキャンセルされる以前から彼女に興味を示していたという稲葉氏と話をつけ、彼女は稲葉牧場で繁殖生活を送ることになったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。
そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。
栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。
その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。
だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、
「フォアボールを出してしまうかもしれない」
と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは
「お前の好きな球を投げろ」
と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。
試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、
「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」
と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で
「わたしは雨を愛した詩人だ
だがわたしは江川投手を愛する故に
この日から雨がきらいになった
わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」
と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。
野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。
サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。
サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。
サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。
サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が
「どんな馬だろう」
と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、
「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」
と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。
そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。
谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。
谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。
兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、
「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」
などと話し合っていたという。
ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、
「サクラセダンの子が生まれた」
と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。
サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。
谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。
「この馬はきっと走る!」
彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。
全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。
とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。
だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。
「3000万円!」
・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。
こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。
古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。
とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。
このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。
その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。
「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。
だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。
そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。
ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。
ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。
当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。
ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。
ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。
「このままでは、子供が産まれてしまう!」
もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。
閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。
マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。
こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。
しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。
こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。
重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。
このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。
]]>この列伝は、形になっている列伝の中でもかなり初期に書かれたものなので、自分でもスタイルの違いに戸惑います。主人公にとっての大きな節目となるレースへの入り方が、私の中でまだ確立されていなかった結果、なんだか雑な印象です。「キン肉マン」昭和版の1巻あたりは、中盤以降と作画が別人・・・と言いましょうか。本当はこういう文章も一から書き直すべきなのでしょうが、そこは専業ならざる・・・というより副業ですらない余興ということで、ご容赦いただくよりほかにございません。
旧列伝の校正作業がしばらく止まっていたのは、多忙という要素もあるのですが、そろそろ列伝を貫く史観について、単なる表現の若干の見直しで済むものが少なくなってきたという点が挙げられます。20年という時の流れの大きさと残酷さです。
スーパークリークといえば、何と言っても「平成三強」なのですが、「長きに渡った」というイメージがあった「平成三強時代」は、実は89年秋の半年だけではなかったか・・・などと感じました。「平成三強」がそろい踏みしたレースとは、実は89年の天皇賞・秋、ジャパンC、有馬記念の3戦だけで、勝ち馬ないし日本馬最先着は「平成三強」が分け合う形になっています。これ以外に2頭が直接対決したのは、88年菊花賞と有馬記念(オグリキャップvsスーパークリーク)、89年毎日王冠(オグリキャップvsイナリワン)、90年天皇賞・春(スーパークリークvsイナリワン)、宝塚記念(オグリキャップvsイナリワン)とあるわけですが、「三強のうち二強の対決」と「三強直接対決」では、やはり位置づけが違います。3頭の直接対決がそこまで多くなかったからこそ、3頭の力関係がはっきりしすぎず、「平成三強時代」という形で美しい物語を紡ぐことができたという側面は、間違いなくありそうです。これも歴史の配材でしょう。
ちなみに、最後は社会現象と化した「オグリ人気」の中で、南関東とはいえ同じ地方出身のイナリワンをそう位置づけることはできなかったにしても、スーパークリークが「地方出身の雑草の前に立ちはだかる中央のエリート」というような位置づけをされていたのは、冷静に見直してみると、明らかに何かが間違っています。「父ノーアテンション、母父インターメゾで、セリ競落価格810万円のエリート」・・・。「雑草vsエリート」の構図は売りやすいという大人の事情は理解しますけど・・・。
まあ、この件に限らず、特に90年代前半以前の競馬界は、客観的に検証すると「???」という逸話が、結構定説化していることに気づきます。外部からの可視性が低い競馬サークルという閉じた世界から、一般社会の注目を集めるための情報には、どうしても意図的、あるいは意図せざる齟齬が生じてしまうのです。
校正の際、こうしたポイントに気づいてしまったらどうするのかということにも、悩んでいたりします。日本史で言えば、私が認識していたかつての「常識」も、
・一の谷と鵯越は8kmも離れたまったくの別物
・元寇は二度目だけでなく一度目も鎌倉幕府軍は決して連戦連敗していたわけではない
・建武の新政は結果的に崩壊しただけで、崩壊必至の単なる復古政策だった・・・とは言い切れない
・北条早雲は素浪人ではなく室町幕府でもそれなりの地位にいた名門の出自
・斉藤道三は父子二代の業績が合体して後世に語られていたらしい
・長篠の三段撃ちは嘘
・小早川秀秋は、関ヶ原で家康に鉄砲を撃ちかけられてあわてて裏切った・・・というのは単なる俗説
・大坂の陣は、少なくとも冬の段階では豊臣軍敗北が必然だったとは言えない
など、割と多数の変化があったようです。たった30~40年前の歴史がこうなのですから、むべなるかなというべきでしょう。
]]>