(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。
しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。
これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。
地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。
そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。
そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。
1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。
マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。
もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。
ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。
もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、
「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」
という思いを持っていた。
ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。
迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。
オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。
オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。
オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。
そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、
「最初に親孝行してくれた馬」
という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。
もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。
種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
2022年6月に発表されたダート路線の改革案は、日本競馬のダート界に1998年の統一グレード導入以降最大級の衝撃をもたらした。その改革案によれば、2024年以降、地方競馬の盟主・南関東競馬のクラシックレースである羽田盃、東京ダービーをJRAや他地域に開放したうえでダートグレード競走のJpnlに位置づけるとともに、現在は夏に行われているジャパンダートダービーの名称を「ジャパンダートクラシック」と変更したうえで実施時期を秋に移行し、この3つのレースをもって「3歳ダート三冠競走」として位置づけるというのである。
日本の競馬界における「ダービー」という名称は、世代王者決定戦であるクラシック・レースの中において最高の格式あるレースというイメージが定着している。そのイメージを前提とすると、「3歳ダート三冠」の中に「ダービー」が2つあるのは、不都合とも言えるかもしれない。
ただ、統一グレード導入前後、まだ競走馬の年齢表記が数え年表記だったころに存在した「4歳ダート三冠」では、三冠レースのうち2つは「ダービー」の名を冠していたが、特に不都合はなかった。しかし、今回は東京ダービーだけに「ダービー」の名を残し、ジャパンダートダービーから「ダービー」の名を消すという選択が、これらのレースの格式にどのような影響をもたらすのか、興味は尽きない。
今回の改革によって大きな影響を受けるジャパンダートダービーは、1999年の創設以降、多くの名馬たちが名勝負を繰り広げてきたレースである。創設当初は2つ、そして06年以降は唯一の旧4歳(現3歳)世代限定の統一GlないしJpnlとして、25年間にわたって世代別ダート王決定戦の役割を果たしてきたこのレースが、「3歳ダート三冠」のためにジャパンダートクラシックへ改編され、その歴史をいったん閉じることについては、感慨深いものを感じるファンも少なくないだろう。
2000年の第2回ジャパンダートダービーを制したマイネルコンバットは、JRA所属馬として初めてこのレースを制した馬である。「4歳ダート三冠」が幕を開け、まだ短い歴史を閉じていなかった20世紀最後の年、ダート戦線の黎明期に足跡を残した彼の歩みを振り返ってみたい。
1997年3月14日、マイネルコンバットは、浦河の高松牧場で産声をあげた。父はデビューからわずか2ヶ月の間に英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、母はJRAで8戦1勝の戦績を残したプリンセススマイルである。
マイネルコンバットは、プリンセススマイルの第4子にあたる。プリンセススマイルはもともと社台ファームで生産されたが、繁殖牝馬セールに出された際に、高松牧場によって購入された。そして、高松牧場で彼女が産んだ3頭の兄のうち、アガペーとサンキューホーラーは、最終的にはJRAの準オープン級まで出世する。当時はまだ兄たちがどこまでの戦績を残すのかを知るべくもないが、それでも長兄のアガペーは、もう条件戦をちょくちょく勝っていた。
マイネルコンバットの血統は、アガペーと同じくNorthern Dancer系の同系配合で、それもNorthern Dancerの4×3といういわゆる「奇跡の血量」を持つ(厳密には、兄は4×4×3)。アガペーが勝つたびに、マイネルコンバットに対する牧場の人々の期待も高まっていくことは、むしろ自然な流れだった。
マイネルコンバットが生まれたころ、高松牧場の経営者夫婦はある理由で夫婦喧嘩になっており、夫人が
「別れる!」
と言っていた。しかし、生まれたマイネルコンバットは、馬体の柔らかさが目立つ子馬で、
「あの子が競馬場で走るところを見てみたい」
と思って離婚を思いとどまることにしたという。マイネルコンバットは、競馬場で走る前から高松牧場の家族を守っていた。
そんな期待の子馬への買い付けの申し込みは、高松牧場の人々を歓喜させた。その申し込みの主は、「マイネル」「マイネ」の冠名で知られる一口馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表である岡田繁幸氏だった。
岡田氏は、1973年の朝日杯3歳Sを制したミホランザンなどを輩出した岡田蔚男牧場の長男として生まれた。大学中退後、本場の馬産を学ぶという名目で、実際には今後の人生の道標を探すために渡米し、米国の牧場に滞在していた際、世話を頼まれた牝馬を見出したところ、それが後に無敗の10連勝でニューヨーク牝馬三冠を制しながら悲劇的な最期を遂げるラフィアンだったことで知られており、後に彼が設立した牧場やクラブの名前も、彼女にあやかっている。
その後、日本へ帰国した岡田氏は、馬産に本格的に携わっていくことは決意したものの、「父の牧場を引き継いだのでは、本当の意味での自分の馬産ができないから」という理由で、父の牧場の継承権は弟に譲り、自分は自前で一から牧場を立ち上げることにした。
また、彼は自前の牧場の生産馬からだけではなく、「ラフィアンを最初に見出した男」という肩書で馬産地を直接訪ね、自ら見て回った子馬の中から眼鏡にかなった子馬を買い付けて馬をそろえるという手法をとった。・・・というよりも、主力はどちらかというと後者だった。
とはいっても、当時の馬産地では、目立った実績や血統を持つ馬になればなるほど、母馬やなじみの調教師との人間関係で、「生まれた時には馬主が決まっている」というパターンが多かった。そこで、岡田氏が馬を求めて回るのは、大馬主や調教師とのパイプを持たない中小牧場が多かった。
岡田氏の名前が一般のファンの間でも知られるようになったのは、1986年の日本ダービーである。彼が自らの所有馬として送り込んだグランパズドリームは、父が内国産馬カブラヤオー、母に至ってはサラ系のサラキネンという、当時の血統水準からしても目立たない…というよりは、逆の意味で目立つと言っても過言ではない血統のサラ系だった。しかし、それまでどんな馬を買っても認めてくれなかった父親の蔚男氏に
「本当にいい馬を見つけた。これだけは見に来てほしい」
と伝えたところ、蔚男氏も見に来て、
「本当にいい馬だな…」
と、初めてほめてくれたのだという。
蔚男氏は、その馬のデビューを見ることなく、亡くなってしまった。岡田氏は、自身の長男を可愛がってくれた父が最後に認めてくれた馬に「グランパズドリーム」と名付けて自身の名義で走らせ、青葉賞(OP)2着で日本ダービー(Gl)に出走を果たした。
日本ダービーではテン乗りの田原成貴騎手が騎乗したが、皐月賞で2着だったフレッシュボイスが故障で回避してがっかりしていたところに騎乗依頼を受けたという田原騎手は、
「馬主も調教師もあまりに威勢がいいから(依頼を)受けた」
という。
とはいっても、9戦2勝で勝ったのは条件戦のみ、重賞実績もないに等しいグランパズドリームは、23頭立てで単勝4370円の14番人気と、まったく人気がなかった。しかし、レースになると、大混戦の中でグランパズドリームは経済コースを通って先に抜け出し、一時は2,3馬身差をつけた。
そこからダイナガリバーが飛んできて、激しい一騎打ちとなったが、最後は差し切られて、半馬身屈した。
この日、馬主席に応援に来ていた岡田氏は、ダイナガリバーの生産者である社台ファームの吉田善哉氏が、65歳で初めてのダービー制覇を果たし、人目もはばからずに泣く姿を見ながら、
「初めてダービーの重みを知った」
と言い、善哉氏自身から
「君はまだ早い」
と言われたとも語っている。この時、「ダービーは近いうちに必ず獲れる」と思っていたという岡田氏にとって、この時の半馬身が生涯にわたって決定的なものになることなど、知る由もない。
もっとも、グランパズドリームでいきなり日本ダービー2着という結果を残し、さらにサラブレッドクラブ・ラフィアンでも「マイネル」「マイネ」の冠を持つ馬が早い時期から実績を残したことで、岡田氏に関する噂は、
「ラフィアンの馬は、安い割によく走る」
「岡田氏が選んだ馬は、血統が悪くてもよく稼ぐ」
と変わっていった。「相馬の天才」と呼ばれる岡田氏の名前は馬産地に広く知れ渡り、中小牧場の牧場主の中には「岡田さんに買ってもらえるような馬を作る」ことを目標として掲げる者も少なくなかった。
マイネルコンバットを認めた岡田氏とは、そんなホースマンだったのである。
]]>競馬を他の公営ギャンブルと最も大きく隔てる特徴は、その主人公であるサラブレッドたちが機械や道具ではない生物であり、それもランダムに生み出されるのではなく「血統」によってコントロールされた存在ということである。そうした特徴ゆえに、競馬は「ブラッド・スポーツ」とも呼ばれる。競馬の歴史は、馬産家たちが種牡馬と繁殖牝馬の短所を補い、長所を伸ばす次世代の産駒を送り出すために重ねてきた研究と実践、そして失敗と成功の繰り返しだったと言っても過言ではない。
ただ、実際には、生まれてきた産駒たちが、父や母とは全く異なる特徴や傾向を示すことも、決して稀ではない。それもまた競馬、そして生命の深遠さである。
1999年の南部杯マイルチャンピオンシップ(統一Gl)を制したニホンピロジュピタも、父は芝で実績を残し、母に至っては芝でしか走ったことがなかったことから、血統的に芝向きと思われており、デビュー後しばらくの間は芝のレースに使われ続けた。しかし、素質は示しながらも、満足するべき成果までは、どうしても残すことができない。
そんな彼が活路を見出したのは、両親、そして自身の血統とは全く異なるダートの世界だった。新天地で実績を残した彼の活躍は、彼と似た血統の馬たちを見る目を変えるほどのものだった。・・・だが、他の馬たちの馬生に新しい可能性をもたらした彼自身の馬生は、誰にも予期できない悲劇によって彩られることになったのである。
1995年5月3日、ニホンピロジュピタは、浦河の橋爪松夫氏が経営する牧場で生を享けた。血統は、父がオペラハウス、母がニホンピロクリアというものだった。
ニホンピロクリアの通算戦績はJRAで10戦3勝、主な勝ち鞍は中京3歳S(OP)で、重賞での実績は小倉3歳S(Glll)3着が最高・・・というものだが、繁殖牝馬としては、CBC賞(Gll)、マイラーズC(Gll)など38戦8勝の実績を残したニホンピロプリンス(父ニホンピロウイナー)、数字だけなら7戦1勝ながら、新馬戦を勝ち上がった後の函館3歳S(Glll)で3着に入ったニホンピロプレイズらを輩出している。
また、ニホンピロクリアが属する牝系は、小岩井農場が1907年に輸入した20頭の基礎牝馬の中でも特に著名な1頭であるアストニシメントに遡る。彼女の系統からは、メジロ牧場の主流血統となったアサマユリの系統から2頭でGl6勝を挙げたメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟が出ている。また、ニホンピロジュピタ以降も天皇賞・秋を制したオフサイドトラップや川崎記念馬インテリパワー、21世紀に入ってからはトロットスター、ショウナンカンプ、リージェントブラフなど多くのGl馬を輩出しており、現在まで一定の影響力を保持する名門牝系である。
そんな一族に属し、既に繁殖牝馬として実績を残していたニホンピロクリアだけに、彼女に寄せられた血統的な期待は大きかった。血統的な評価が微妙だったと言えば、むしろ母ではなく、父であるオペラハウスの方だったかもしれない。
現役時代に英国馬として走ったオペラハウスは、5歳時にコロネーションC、エクリプスS、キングジョージとGl3連勝を飾り、凱旋門賞でもアーバンシーの3着に入っている。この競走成績は、当時日本に輸入されていた欧州の種牡馬の中でも、十分に立派なものだった。問題は、彼の実績よりも血統である。
オペラハウスの父は、1981年生まれで愛2000ギニーなどを制したSadler’s Wellsである。Sadler’s Wellsといえば、1990年に初めて英愛リーディングサイヤーに輝くと、1年置いた92年から2004年まで13年連続でこの地位を保持し続けて欧州を席捲し、現代では「世界的大種牡馬」という評価が確立している。そんな血統の何が問題だというのか?
答えは簡単で、話をこと日本に限るならば、Sadler’s Wellsの産駒は、とにかく走っていなかった。彼の子だけでなく、日本で種牡馬として供用された彼の産駒も実績をあげておらず、オペラハウスより2歳年長で仏愛ダービーを制したオールドヴィックも、2年間日本でリースされたものの、さしたる実績馬を残していない。
「Sadler’s Wellsの血は、日本の馬場とは合わない・・・」
いつしか、それが日本競馬界における定説となっていた。オペラハウスが後に「世紀末覇王」テイエムオペラオーや、Gl4勝を挙げたメイショウサムソンを産駒として輩出したことを知る後世の感覚からはズレが生じるが、当時そうした雰囲気が日本競馬を支配していたことは、厳然たる事実である。
オペラハウスとニホンピロクリアの間に生まれた鹿毛の牡馬は、やがて「ニホンピロジュピタ」と名付けられた。「ジュピタ」とは、太陽系の惑星である「木星」(Jupiter)のことだが、木星という惑星自体、「拡大と発展」という意味も持っているという。
そんな縁起の良い馬名を与えられたニホンピロジュピタは、「ニホンピロ軍団」を多く手掛ける目野哲也厩舎に入厩することになった。…というより、初子のニホンピロプリンス以降、ニホンピロクリアの子はすべて「ニホンピロ軍団」の一員として目野厩舎でデビューしている。ニホンピロジュピタにとっては、誕生の瞬間から既に、そこまでの道が運命づけられていた・・・という方が、正確であろう。
だからといって、ニホンピロジュピタがそこまで大きな期待を集めていたわけでもない。橋爪氏によれば、ニホンピロクリアの産駒たちは、ニホンピロプリンス、ニホンピロプレイズといった活躍馬も含めて、育成時代には目立った動きをしない馬ばかりだったという。そして、その点についてはニホンピロジュピタも同じだった。
彼が変わってきたのは、牧場から育成場へと移った後のことで、育成場のスタッフから
「いい動きをしている」
と連絡をくれるようになるまで、橋爪氏はニホンピロジュピタのことを期待馬として特に意識していなかったという。
だが、一族の特徴を熟知した目野師の管理下に入った後、ニホンピロジュピタの仕上がりは早かった。96年に半兄ニホンピロプリンスとのコンビで、自身にとって当時唯一の重賞制覇となるマイラーズC(Gll)を制した小林徹弥騎手を鞍上に、3歳8月の札幌新馬戦でデビューを果たしたのである。
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