この列伝を描いていた当時もルパン3世を見ながら、タカラスチールという馬名の英語表記は「Takara Steal」なので、「宝+盗む」だなあ…と思っていました。旧列伝はもれなくバッハを中心とするBGMを付けたビジュアルノベル(?)で、この列伝にも他のBGMを付けてはいたのですが、私の脳内でのタカラスチール列伝のイメージソングは、権利の関係で実現はするはずもない「炎のたからもの」でした。さらに言うならば、サブタイトルには藤子不二雄A先生の「愛ぬすびと」も影響していると思われます。
ところで、この「タカラスチール」という馬名の由来について、「冠名(タカラ)+父親の名前の一部」という説もありますが、父親の「スティールハート」の英語表記は「Steel Heart」、すなわち「鋼の心」です。「暗殺教室」でビッチ先生が日本人の欠点としてこだわっていたのはrとlの発音ですが、aとeだってたいがいなものなのです。
閑話休題。タカラスチールも、旧列伝当時には競馬界からほぼ忘れられた存在になっていたような気がします。こうした馬についてもまともに文章を書くことができるのは、80年代のJRAの公式雑誌「優駿」の圧倒的充実っぷりのおかげでした。重賞についてはGll、Glllでも必ず見開き2頁を使い、さらにすべてで騎手、調教師、生産者のインタビュー記事を載せ、Gl勝ち馬については生産牧場を訪ねていく・・・という編集方針(と「公式」としての信頼)が、どれほど旧列伝の力になったことでしょうか。
20世紀終盤以降の「優駿」の路線は、徐々に、しかし確実にライトユーザー層への訴求しやすいものへと変わっていき、Glや重賞の数の増加、その一方でGl生産牧場が一部の牧場に寡占化される傾向の強化による「Gl馬の故郷」コーナーの編集方針の変化があったため、現在のGl馬について20世紀の馬のような列伝を描く作業は、おそらく困難さをかなり増しているはずです。列伝で触れるGl馬を20世紀中心にしようと考えたのは、そういうことだったりします。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
「日本の近代競馬の始まりはいつなのか―」
という問いに対する答えにはいくつかの説があるが、比較的有力なのは、1867年に横浜の在留外国人たちが、それぞれの持ち馬を競わせたこととするものである。その時を出発点とするならば、日本競馬は、現在に至るまでの約150年以上にわたって、長い歴史を積み重ねてきたことになる。
歴史を築いてきた主人公は、多くの名馬たちと、さらに多くの無名馬たちである。・・・だが、歴史が150年にわたって積み重なってくると、かつて「名馬」と呼ばれた馬たちであっても、その存在感に差が出てくることは避けられない。歴史の中で永遠の輝きを放ち続ける名馬もいれば、ひとつの時代が去るとともに存在感が薄れ、やがて忘れられてゆく名馬もいる。
1986年のマイルCS(Gl)を制したタカラスチールは、早い時期から語られる機会が激減してしまったGl馬の1頭である。デビュー前から血統的には高い評価が与えられていなかったタカラスチールは、その低い評価を自らの実力によってはね返し、牝馬三冠戦線の第一冠・桜花賞では1番人気に支持されるほどになったものの、桜花賞での大敗を機に血統的な距離の限界を痛感し、オークス、エリザベス女王杯という牝馬三冠の残る二冠には、出走さえあきらめなければならなかった。
だが、彼女はそれで終わることなく、当時は現在ほど重視されていなかった短距離戦線に彼女だけの活路を見出した。そして、ついにはニッポーテイオー、トウショウペガサス、ロングハヤブサといった当時の名だたる一流牡馬たちを相手にマイルCS(Gl)を制し、中央競馬のグレード制導入後初めて、牝馬ながらに牡馬との混合Gl を勝つという快挙を成し遂げたのである。6番人気という低評価をはねのけた頂点の奪取は、非常に意外かつ見事なものだった。
しかし、彼女が最も輝いたのは、ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の三冠馬たちの時代と、平成三強時代の中間にあたる時期だった。絶対的な人気馬が不在の時期に、しかも現在ほど重視されていなかった短距離戦線で全盛を迎えたという間の悪さもあって、彼女に対するファンの印象は薄かった。さらに、非情な運命ゆえにその血を後世に刻みつけることも許されなかった女怪盗は、その静かで悲しい最期を知られることもなく、やがて移り気なファンから忘れられていく運命にあった。
その死から既に30年近い時が流れ、タカラスチールは今や競馬の歴史、あるいは「想い出」の世界にのみ生きる存在となっている。
だが、競馬が単なるギャンブルを超えた現在の地位を築くことができたのは、馬を単なる記号としてではなく、物語としてとらえたことにこそ最大の要因がある。同じものが何個でも存在しうる記号ではなく、同じものはふたつと存在しない物語としてとらえる以上、それをかけがえのない物語として後世に語り継ぐことは、競馬が競馬であるために必要な使命である。タカラスチールが郷愁の中にのみ生きる存在ならば、せめてその郷愁の中で永遠に生き続けさせることこそが、競馬を愛する者の務めというべきだろう。今回のサラブレッド列伝は、忘れられた名牝・タカラスチールの物語である。
タカラスチールは、1982年4月16日、静内の鈴木実牧場で生まれた。父はミドルパークS(英Gl)などを勝った短距離馬スティールハート、母は鈴木牧場の基礎牝馬ルードーメンであり、時は競馬の季節が本格化するさなか、ちょうどリーゼングロスが桜花賞を勝った5日後のことだった。
当時の鈴木実牧場は、「繁殖牝馬は5頭前後」という典型的な日高の中小牧場だった。ただ、鈴木牧場にとってのルードーメンは、他に替えがたい牧場の誇りだった。ルードーメンは、競走馬としては4戦未勝利に終わり、まったくモノにならなかったものの、鈴木牧場で繁殖入りしてからの彼女は、「三冠馬を破った馬」ウメノシンオーを送り出したのである。
ウメノシンオーといえば、1983年のラジオたんぱ賞(重賞)を勝ったステークス・ウィナーである。だが、彼はそのことよりも、1982年暮れのひいらぎ賞(800万下)で、翌83年のクラシック戦線の有力候補とみられていたミスターシービー・・・後の三冠馬に土をつけたことの方が有名であろう。その後のミスターシービーが三冠街道を突っ走ったことで、否応なく引き合いに出されるようになったウメノシンオーは、鈴木牧場にとって、ひとつの到達点だった。
タカラスチールの父は、ウメノシンオーの父である中長距離血統のファバージから、短距離血統のスティールハートに変わっている。ウメノシンオーの時にはクラシックを意識してルードーメンをファバージと交配した鈴木氏だったが、その2歳下の弟妹をつくるにあたっては、最初から短距離を意識して配合を決めていた。鈴木氏がルードーメンの交配相手にスティールハートを選んだころ、彼の産駒はまだ日本ではデビューしていなかったものの、彼自身は1200mまでしか距離の実績がなく、馬産地でも生粋の短距離血統と噂されていた。
翌春生まれた子馬は、牝馬ではあったが、非常にバランスのとれた馬体をしていた。自分の予想以上にいい子馬が生まれ、近所の牧場の人々が見学に来るという状況に気を良くした鈴木氏は、
「この子なら、きっといい買い手がつくに違いない・・・」
とひそかな期待に胸を弾ませていた。
ところが、鈴木氏が期待した子馬の買い手は、実際にはなかなか見つからなかった。評判を聞いて子馬を見に来た調教師たちも、
「いい馬だ」
と褒め称えはするものの、いざ話を決めようとすると、途端に及び腰となった。
「中央ではムリだろう。地方の800mの競馬ならいいかもしれない・・・」
調教師たちを逡巡させたのは、子馬の血統・・・父・スティールハートに対する不信だった。鈴木氏が未知の可能性への夢を託したスティールハートだったが、調教師たちは
「スティールハート産駒は、早熟で奥行きがなさそうだ」
「一本調子のスピード馬で、3歳時は活躍してもクラシック戦線では用なしになるだろう」
と、その将来性を認めようとしなかった。中央競馬で短距離のレース体系が整備されたのは1984年のG制度導入と同時で、スティールハートの最高傑作となるニホンピロウイナーも、当時はまだ頭角を現していない。
「クラシックで期待を持てない馬は、一流馬たりえない」
という固定観念が根強かった時代に、あえて強い短距離馬をつくろうとした鈴木牧場の馬づくりは、時代をほんの少し先取りしすぎていたのである。
「地方競馬なら・・・」
と言われた鈴木氏だったが、彼は自分の自信作であるこの馬を、なんとしても中央で勝負させたかった。結局、彼らが期待をかけるウメノシンオーの半妹は、美浦の坂本栄三郎厩舎へと入厩し、「タカラスチール」と名づけられて走ることになった。騎手出身の調教師である坂本師は、騎手時代には菊花賞馬ラプソデーに騎乗して安田記念をレコード勝ちしたこともあるが、それよりは中山大障害2勝という障害騎手としての実績の方が有名である。調教師としては1970年にタマミで桜花賞、スプリンターズSを制しているが、当時はかつての栄光も既に色褪せ、1982年度、83年度とも、リーディングトレーナー50傑の中に坂本師の名前を見出すことはできない。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドの強弱を語る時に欠かせない要素のひとつとして、そのサラブレッドが属する世代の強弱が挙げられる。日本の競馬体系は、まず世代限定戦から出発し、異世代との対決はクラシック戦線で同世代との決着をつけた後になる。そのため、同世代での対決では強く見えた馬でも上の世代との対決で馬脚を現したり、逆に同世代の中では二流とされていた馬が上の世代に混じって意外な健闘を見せてファンを驚かせることも、決してまれではない。強豪が揃った「強い世代」の中で埋没していた馬、逆に幸運に恵まれて「弱い世代」の中で栄冠を勝ち得た馬・・・様々なサラブレッドによる果てしなき戦いの過程を通じて、ファン、そして歴史は、真に「名馬」と呼ばれるべき存在を選別していく。
そうした過程をことごとく勝ち抜き、「日本競馬史上最強の名馬」との名誉をほしいままにしたのが、1984年に無敗のままクラシック三冠を制し、翌85年にかけてGl通算7勝を記録した「絶対皇帝」シンボリルドルフである。彼は、同世代との決着を「無敗の三冠達成」という形でつけたにとどまらず、その後も歴史上有数の「強い世代」とされる1歳上のミスターシービー世代の名馬たち、そして1歳下の世代を代表する二冠馬ミホシンザンなど、当時の日本競馬における一流馬をことごとく撃破し、中長距離戦線を完全に制圧した。競走馬の体調、騎手の騎乗、天候、馬場状態、展開・・・流動するあらゆる不確定要素の中で勝ち続け、自らの絶対的な能力を結果によって証明したシンボリルドルフは、今なお多くのファンから信仰に近い畏敬を捧げられる名馬とされている。
だが、その半面で、シンボリルドルフと同じ世代に生まれたサラブレッドたちは、シンボリルドルフとは違って厳しい評価に甘んじてきた。1981年に生まれた彼らの世代は「シンボリルドルフ世代」と呼ばれており、また他には呼ばれようがない。シンボリルドルフに負け続け、さらに上の世代、下の世代との対決においても常に苦渋をなめさせられ続けた彼らは、「弱い世代」という汚名を受ける羽目になっている。
なるほど、シンボリルドルフを除く「シンボリルドルフ世代」の顔ぶれは、前後の世代と比べてかなり見劣りするといわなければならない。ビゼンニシキ、ニシノライデン、スズマッハ・・・。世代の一流馬といわれた彼らも、しょせんはGl未勝利である。ミスターシービーを筆頭に、カツラギエース、ニホンピロウィナー、ギャロップダイナといった強豪が並ぶ「ミスターシービー世代」はいうに及ばず、ミホシンザンだけでなく、サクラユタカオー、タカラスチールらも世代混合Glを勝っている「ミホシンザン世代」にも劣るといわなければならない。というよりも、「シンボリルドルフを除くシンボリルドルフ世代」に劣る世代は、歴史を振り返ってもなかなか見つけられないというのが正直なところである。
だが、同世代の馬たちがシンボリルドルフ、そして異世代の強豪たちに敗れ、次々とターフから消えていく中で、数々の敗北にあってもなお夢を諦めずに走り、戦い続けた馬がいた。そんな彼がGlの大輪の花を咲かせた時、彼を苦しめ続けたシンボリルドルフはとうにターフを去り、彼自身も既に7歳(現表記6歳)になっていたが、彼の勝利は、シンボリルドルフを除いた彼らの世代唯一の世代混合Gl制覇となった。
皇帝のいない夏にようやく遅咲きの才を開花させた彼は、その後も戦い続けることに生きる意義を見出したかのように現役を続け、ターフを沸かせたのである。
シンボリルドルフと同じ年に生まれ、同じクラシックを戦い、低い評価に泣きながらもついにはGlを手にしたその馬とは、1987年の宝塚記念馬スズパレードである。
スズパレードの生まれ故郷は、当時門別に存在していた柏台牧場という生産牧場である。柏台牧場は、後にオグリキャップの宿敵・スーパークリークを生産したことで有名になるが、当時はまだGl馬を輩出していなかった。
スズパレードの母スズボタンは、競走馬としては4勝を挙げる実績を残していたものの、産駒たちの成績は今ひとつだった。スズパレードの上の3頭の兄姉は、いずれも特筆すべき成績を残していない。後にはスズドレッサー(父カツラギエース、中央5勝)やユウキスナイパー(父ミスターシービー、中央3勝)、クリールサンプラス(父イブンベイ、中央3勝)らを次々と送り出すスズボタンだが、スズパレードが生まれた当時は、血統的にさほど注目を集めてもいなかった。
ただ、牝系の方は目立たないスズパレードだったが、父の方は人々の耳目を集めやすい悲劇に彩られていた。
スズパレードの父ソルティンゴは、社台ファームの総帥・吉田善哉氏の所有馬として伊仏で走り、15戦5勝、イタリア大賞(伊Gl)、ミラノ大賞(伊Gl)を勝ち、伊ダービー(伊Gl)2着という2400mの大レースで実績を残した。それらの実績を買われたソルティンゴは、種牡馬として日本へ輸入されることになった。日本での「種牡馬・ソルティンゴ」に期待をかけていた人々は、彼にその後どのような運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。
輸入初年度の種付けシーズンを無事に終えたある日のこと、ソルティンゴはいつものようにパドックに放牧される・・・はずだった。ところが、担当厩務員のミスによって、ソルティンゴは彼の本来のパドックではなく、隣のバウンティアスのパドックに、バウンティアス自身も放牧されているにも関わらず、放牧されてしまった。
怒ったのは、バウンティアスである。彼にしてみれば、自分の縄張りを闖入者に荒らされた形となる。悪いことに、バウンティアスは当時の種牡馬の中でも名だたる激しい気性を持っていた。怒り狂ったバウンティアスは、ソルティンゴに襲いかかってきた。
ソルティンゴは、怒りに燃えたバウンティアスに蹴飛ばされ、大けがを負ってしまった。しかも、怪我の箇所が悪く、種牡馬の命というべき受精能力を失ってしまったのである。ソルティンゴの担当厩務員は、自らの失態に責任を感じたのか、事故の数日後に割腹して果てている。
期待の種牡馬の将来だけでなく、担当厩務員の生命まで奪った悲劇に、社台ファームは悲しみに沈んだ。ソルティンゴについては、万に一つ回復するかも知れない、という淡い期待のもとに種牡馬登録を抹消せず、懸命の治療を続けたが、その熱意は実を結ぶことのないまま、スズパレードがデビューした1983年に死亡した。ソルティンゴは、わずかにスズパレードを含む1世代しか産駒を残すことができなかったのである。
スズパレードは、こうして生産界の歴史から姿を消したソルティンゴが遺した忘れ形見の1頭であり、その意味でわずかに注目を集める程度の馬だった。生まれてきたスズパレード自身は、小柄な体格であまり見栄えがせず、地味な存在だった。
ただ、スズパレードが育った柏台牧場には、他の牧場にはない特色があった。柏台牧場では、自然の地形を利用して、牧場の敷地内に大きな高低差をつけていた。
また、柏台牧場は、当時ようやく日本で採り入れられ始めたばかりだった自然放牧を、他の牧場に先駈けて導入していた。おかげで、柏台牧場の中では、馬が移動する際には天然の「坂路」を越えなければならず、馴致前から自然と幼駒の腰が鍛えられるというメリットがあった。
生まれながらに若干の脚部不安があったスズパレードだったが、天然の「坂路」で鍛えられ、次第に隠された資質を発揮するようになっていった。やがて馬主、所属厩舎も決まり、中央競馬でデビューすることになったスズパレードは、デビュー戦こそダートで3着に敗れたものの、折り返しの新馬戦では芝に替わって何と9馬身差の圧勝を見せた。
初勝利を挙げて意気上がるスズパレードは、その勢いを駆って400万下、オープン特別も勝ち、3連勝を飾った。3連勝の内容も、先行して直線で抜け出し、余力を残して勝つという横綱競馬ばかりだった。
3歳戦を終えて4戦3勝3着1回ならば、「クラシックの主役候補」といっても十分に通用する。富田六郎調教師をはじめとする関係者たちは、
「この馬は、思ったより走るぞ」
と驚き喜び、これならばクラシックも夢ではない、とひそかに胸を躍らせた。そんな彼らのクラシックロードの始まりは、共同通信杯4歳S(Glll。年齢は当時の数え年表記)だった。
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