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“ダイタクヘリオス” の検索結果 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Sat, 01 Feb 2025 15:08:41 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 ハクタイセイ列伝 ~怪物二世の光と影~ https://retsuden.com/horse_information/2025/02/475/ https://retsuden.com/horse_information/2025/02/475/#respond Sat, 01 Feb 2025 15:07:20 +0000 https://retsuden.com/?p=475 1987年4月17日生。2013年10月28日死亡。牡。芦毛。土田農場(三石)産。
父ハイセイコー、母ダンサーライト(母父ダンサーズイメージ)。布施正厩舎(栗東)。
通算成績:11戦6勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍:皐月賞(Gl)、きさらぎ賞(Glll)、若駒S(OP)、シクラメンS(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

 『ハイセイコーの子』

 日本競馬の歴史の中で、競馬ファンに「最強馬」として称えられ、あるいは「名馬」として尊敬を集めたサラブレッドたちは少なくない。しかし、競馬ファンのみならず、一般大衆にいたるまでの誰もがその名を知り、彼らを競馬ファンへと引きずり込むほどのインパクトを残した馬となると、きわめて限られる。

 「ハイセイコー」は、そんな限られたサラブレッドの中の1頭である。この馬の知名度は、おそらく日本で走ったサラブレッドの中で屈指のものだろう。この馬と並ぶ知名度を誇る馬といえば、長い中央競馬の歴史の中でも、おそらくオグリキャップくらいしかいないに違いない。

 その一方で、「最強馬」を問う議論の中にハイセイコーの名前が挙がってくることは、稀である。ハイセイコーの主な勝ち鞍を見ると、八大競走の一角とされる皐月賞以外は、当時まだ現在のように高い位置づけとされていなかった宝塚記念、高松宮杯といったあたりである。日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念といった、「最強馬」と呼ばれるために決して避けて通れない大レースにおいて、ハイセイコーはことごとく敗れている。

 ハイセイコーが大衆的な人気を集めたのは、南関東競馬という地方競馬の出身である彼が、無敗のまま中央へと攻め上り、日本競馬の権威の象徴である日本ダービーを目指すという図式の中に、高度成長期という時代に、その時代に生きる国民が自らの夢を重ねることができたからにほかならない。日本ダービーでは史上最高の支持率を背負いながら3着に破れたハイセイコーだったが、ひとつの夢から覚めた大衆は、その後、ハイセイコーの強さとともに、その弱さをも愛するようになった。もしハイセイコーの生まれが5年ずれていたとしたら、あれほどの「ハイセイコー・フィーバー」は起こらなかっただろう。ハイセイコーこそ、時代が求めた英雄だった。彼によって競馬の魅力を知ったファンがあまりに多かったゆえに、ハイセイコーは

「競馬界に特別な貢献をもたらした」

と認められ、顕彰馬に名を連ねることになった。

 競走馬としてそれほどの人気を誇ったハイセイコーは、種牡馬になってからも、父が勝てなかったダービーと天皇賞を勝ったカツラノハイセイコ、単勝43060円の20頭立て20番人気でエリザベス女王杯を制した馬サンドピアリスなどを輩出し、父内国産種牡馬の評価が低かった当時としては極めて優秀な成績を残している。・・・だが、そんなハイセイコーのあまりの偉大さと特異さゆえに、その産駒たちは、彼ら自身の戦いにおいても、彼ら自身ではなく父親の姿を投影されることが珍しくなかった。

 ハイセイコーが晩年に輩出した傑作の1頭が、父とともに皐月賞父子制覇を成し遂げたハクタイセイである。彼はカツラノハイセイコと並ぶハイセイコー産駒のクラシックホースとなり、1990年クラシック世代を担う1頭として、ターフを沸かせた。父とは似ても似つかぬ芦毛にもかかわらず、「白いハイセイコー」と呼ばれたハクタイセイは、かつて父が泣いた血の限界とも戦わなければならない宿命を背負っていたのである。

『星に願いを』

 ハクタイセイは、当時繁殖牝馬11頭という家族経営の生産農家だった三石の土田農場で、父ハイセイコーと母ダンサーライトとの間に生まれた。

 父のハイセイコーは、前述のように日本競馬の歴史の中でも特異な地位を占める名馬である。彼はデビュー当初、南関東競馬で無敗のまま6連勝を飾って「南関東の怪物」とうたわれた。その後はさらにより強く、より大きな相手を求め、4歳クラシック戦線を前に中央競馬へと移籍し、弥生賞、スプリングS、そして皐月賞と勝ちまくった。無敗のまま連勝街道を驀進し、「南関東の怪物」から「地方から来た怪物」へと変わったハイセイコーに、大衆は

「地方馬出身初のダービー馬誕生か」

と熱狂したのである。彼こそは、「中央のエリートをなぎ倒し、実力で頂点を奪う地方馬」という高度成長期の夢を体現する存在だった。中央競馬の頂点・日本ダービーでの彼は、単勝120円で、同レースにおける単勝馬券の売上の66.7%を占める最高支持率を記録した。

 その日本ダービーで宿敵タケホープの後塵を拝して3着に敗れ、さらに菊花賞でもタケホープの2着に終わったハイセイコーには、明らかに距離の壁があるとみられるようになった。天皇賞は春だけでなく秋も3200mで行われ、八大競走に含まれない宝塚記念の位置づけは現代ほど高くないなど、明らかに長距離偏重の感があった当時のレース体系のもとで、彼は本来の実力を発揮しきれず不遇をかこつ現役生活を送らざるを得なかった。・・・だが、ファンがハイセイコーに向けた愛情は、彼が日本ダービーで敗れる前と変わることなく、引退まで続いたのである。彼こそは、高度成長期を支えた名もなき大衆たちの代表者だった。

 その一方、ダンサーライトは、レースには不出走ながら、土田農場では高い期待をかけられた繁殖牝馬だった。土田農場では、最初にダンサーライトを買いたいという申し出があった際、

「もしこの馬を第三者に売って競馬場に送り出した場合、万が一にも土田農場に戻ってこないかもしれない・・・」

と恐れて、その申し入れをあえて断った。その後、

「せっかく買いたいという申し入れを断った以上、他の馬主に競走馬として売ったら、最初に断った相手に申し訳ない」

ということで、ダンサーライトを競走馬として売ること自体をあきらめてそのまま繁殖入りさせ、牧場の基礎牝馬としたのである。

 こうして競走経験がないまま繁殖入りしたダンサーライトが初仔を出産したのは、旧5歳の時だった。

 ダンサーライトが初子を無事に出産した後、生産者の土田重実氏は、ダンサーライトの2度目の種付けにあたっては、もともと繁殖牝馬としては骨太で頑丈なタイプだった彼女のパワーを引き継ぐ馬を生産したい、と考えた。また、馬主に馬を買ってもらう工夫としては、なじみのある内国産種牡馬が望ましい。そこで、ダンサーライトには、さらなるパワー型の種牡馬であり、さらに現役時代には内国産馬としてカリスマ的な人気を誇ったハイセイコーを交配することにした。

 やがてハイセイコーの子を無事受胎したダンサーライトが出産を待つばかりとなると、土田氏はまだ見ぬその子馬に、

「ハイセイコーによく似た子になってほしい・・・」

という願いすら抱くようになっていた。

『裏切られた思い』

 ところが、実際に生まれたハクタイセイを見た時、土田氏は自分の期待が見事に裏切られたという失望を感じずにはいられなかった。生まれたばかりのハクタイセイはひ弱で、牝馬のように線が細い馬だったからである。

 そして、ハクタイセイの毛色は、ハイセイコーではなくダンサーライトの芦毛を受け継いでいた。無論、血統的には何の不思議もない現象ではあるが、ダンサーライトよりハイセイコーの再来を夢見た配合だった以上、生産者としては、父に似た仔が出ることを望んでいた。それなのに・・・。

 しかも、この年の土田農場では、もう一つの重大な問題が生じていた。土田農場ではこの年8頭の仔馬が生まれたが、その中の牡馬はハクタイセイ、ただ1頭だったのである。

 日本では、少し前まで「男女7歳にして席を同じくせず」という言葉があったが、馬の場合も、放牧においては当歳から牡牝で分けることが多かった。しかし、ハクタイセイを他の牝馬から隔離して1頭だけ放しておいたのでは、競争心が育たない。サラブレッドの競争心とは、世代の近い馬たちと互いに競いあうことなしには育ち得ない・・・。

 ハクタイセイは、当歳時に早々とセリに出された。ところが、700万円に設定されたハクタイセイに手を挙げる買い手は現れず、無情にも「主取り」となってしまった。・・・土田氏がハクタイセイに向けた思いは、裏切られてばかりだった。

『競馬場へ』

 セリでの結果は残念なものに終わったが、売れ残ったことに文句を言っても仕方がない。土田氏は、ハクタイセイの競争相手に近所の牧場から牡馬を1頭借りてきて、ハクタイセイと一緒に運動させることで、なんとか急場をしのいだ。ちなみに、このとき土田農場に牡馬を貸したのは、オグリキャップを生産した稲葉牧場だったという。

 そんな苦労もあって、ハクタイセイは、旧2歳のセリではむしろ値段が上がり、1020万円となかなかの値で売れ、中央競馬への入厩も決まった。父とは似ても似つかぬ芦毛の仔馬は、「白」+「大成」という意味でハクタイセイと名付けられ、競馬場にと向かうことになった。

 栗東の布施正厩舎に入厩したハクタイセイは、仕上がりが非常に早かったことから、3歳戦の小倉・芝1200mの新馬戦でデビューした。デビュー戦では3番人気の2着だったものの、レース内容に将来性を感じさせるものを見せたハクタイセイは、その後、軽いアクシデントもあって次走との間隔が空いたものの、勝ち上がりは時間の問題とみられていた。

『塞翁が馬』

 ところが、その後のハクタイセイは、期待に反してなかなか勝つことができない。人気は集めるものの、4着、6着という着順が続いた。未勝利戦の場合、強い馬は次々勝ち上がっていくから、出走馬は時とともに弱くなっていくはずである。それなのにハクタイセイは、走れば走るほど着順が落ちていく。

 ハクタイセイを管理する布施師は、考えた。芝の良馬場だと頭打ちである。ハクタイセイは血統的にはダート向きの力馬でもあるから、今度はダート戦を使ってみようか・・・。

 すると、ハクタイセイは生まれ変わったかのように躍進を遂げた。やはり南関東競馬で圧倒的な強さを誇ったハイセイコーの血は生きていたのである。ダート初戦こそ2着に敗れたものの、次走では逃げて4馬身差の圧勝を飾り、5戦目にしてようやく勝ち上がりを果たした。もう1戦、400万円下でもダートを使ってみたところ、今度もやはり3馬身差の快勝で、悠々のオープン入りである。

 早い時期にオープン入りすると、別の欲が出てくるのは、ホースマンの常である。旧3歳のうちに2勝を挙げたハクタイセイであれば、重賞のシンザン記念(Glll)に進むことは自然なローテーションだったし、無理をすれば中1週で当時は牡牝を問わない「西の旧3歳王者決定戦」だった阪神3歳S(Gl)に進む選択肢もあった。

 しかし、布施師はあえてこれらのローテーションは選ぶことなく、オープン特別のシクラメンS(OP。当時は芝で開催)から若駒S(OP)へと歩みを進めることとした。

 非情に慎重なローテーションの背景に、ハクタイセイの実力への疑念があったことは、事実だった。芝の未勝利戦でもたつき、持ち時計も平凡。力のいる馬場ならともかく、スピードでは一線級に及ばない、というのがハクタイセイに対する評価であり、強い相手と無理にぶつけるよりは、自分のペースで走らせようというのが、布施師の本音だった。

 ところが、布施師の慎重な選択は、ハクタイセイのために「吉」と出た。同世代の有力馬たちが次々と重賞戦線に挑んでいく中で、「裏街道」ともいうべき地味なレースを選んで出走したハクタイセイは、さしたる強敵と戦う必要もないまま、シクラメンS、若駒Sを勝って4連勝を達成したのである。そうなれば、皐月賞、そして日本ダービーと続く春のクラシックも、現実のものとなってくる・・・。

『関東の新星』

 もっとも、4連勝したからといって、それでただちにハクタイセイの評価がうなぎのぼりになったわけではなかった。勝ち続けたとはいっても、それは強い相手との厳しい競馬を避けてのことである。クラシックを勝ち抜くためには、彼がまだ経験していない本当に厳しい競馬を制することが、必ず必要になる。そうすると、ハクタイセイの厳しい競馬への経験の薄さは、マイナス材料となる可能性も高い。

 ハクタイセイがこれから戦うべきこの年の4歳世代には、未対戦の強豪が2頭いた。疾風の逃げ馬アイネスフウジンと、雷光の末脚を持つメジロライアンである。

 ハクタイセイが地道に勝ちを稼いでいたころ、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューティリティS)では、アイネスフウジンがあのマルゼンスキーに並ぶ1分34秒4というレコードタイ記録を叩き出し、圧勝していた。またメジロライアンはひいらぎ賞(400万円下)とジュニアC(OP)を鮮烈な差し切りで制し、大器の片鱗を明らかにしつつあった。当時の予想では、クラシック戦線はこの2頭の関東馬を中心に回っていくものとみられ、関西のハクタイセイにはあまり注目が集まっていなかった。

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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~ https://retsuden.com/horse_information/2022/27/396/ https://retsuden.com/horse_information/2022/27/396/#respond Sat, 27 Aug 2022 14:39:35 +0000 https://retsuden.com/?p=396 1987年4月10日生。2008年12月12日死亡。牡。黒鹿毛。清水牧場(平取)産。
父ビゼンニシキ、母ネヴァーイチバン(母父ネヴァービート)。梅田康雄厩舎(栗東)。
通算成績は、35戦10勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、マイルCS(Gl)連覇、マイラーズC(Gll)連覇、毎日王冠(Gll)、高松宮杯(Gll)、クリスタルC(Glll)、葵S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『嵐』

 サラブレッドや競馬を語る場合、よく「あの馬は血統がいいから走る」「あの馬は血統が悪いから勝てない」という言い方がされることがある。現存するサラブレッドの父系をたどるとすべて「三大始祖」のいずれかにたどりつく閉鎖的な血しか持たないサラブレッドの世界は、それゆえに血統をこの上なく重視し、その価値観を究極まで推し進めたところで発展してきた。

 本来ならば、サラブレッド自体が限られた血統しか持たない以上、「血統がいい」「血統が悪い」といっても、その違いはそう大きなものではないはずである。「良血」といわれる馬と「雑草」といわれる馬の血統表を見比べてみると、2~3代も遡れば同じ馬に行き着く・・・ということは、珍しいことではない。そうであるにもかかわらず、実際には「良血」といわれる馬は高値がついて大切にされる反面、「雑草」といわれる馬は、捨て値で売られてばかにされ、やがてその血統自体が滅び去っていくことが多いのは、非常に悲しいことである。

 だが、時にそうした運命に正面から戦いを挑む「雑草」が現れるのも競馬の面白さと魅力である。1991年、92年のマイルCS(Gl)を連覇した名マイラー・ダイタクヘリオスは、そんな競馬の面白さ、魅力を体現した1頭に数えることができる。

 ダイタクヘリオスという馬を語る場合、「雑草」とか「マイルCS連覇」とか「名マイラー」といった一般的な言葉を並べただけでは、そのすべてを表すことはできない。ダイタクヘリオスの特色を並べてみると、他の馬たちではとても真似できないヘンなものばかりである。1番人気で重賞を勝ったことがない。それどころか彼が古馬になってから出走した重賞では、彼以外の馬も含めて、一度も1番人気の馬が勝ったことがない。レース直前の併せ馬では、Gl2勝馬でありながら、平気で未勝利馬に大差をつけられる。パドックで暴れれば暴れるほどレースでは強く、静かにしているときは全然ダメ。負ける時は、直線で笑いながら沈んでいく・・・。ひとつだけでも十分面白いのに、これだけ重なればもはや奇跡である。そんな面白い馬が、いざレースになると素晴らしい先行力を見せ、さらに第4コーナーから凄まじいダッシュをかけて後続を突き放すとそのまま粘り切ってしまうのだから、そんな競馬を見せられるファンがしびれないはずがない。嵐のような激しさでターフを荒らし回ったダイタクヘリオスは、伝説の時代ならいざ知らず、日本の現代競馬においては、ほぼ間違いなく有数の個性派ということができるだろう。

 こうして圧倒的な個性をひっさげてマイル路線に乗り込む彼の前に立ちふさがったのが、華のような華麗さでマイル戦線に輝いた同年齢の名マイラー・ダイイルビーだった。ダイイチルビーは名牝マイリーの血を引く「華麗なる一族」の出身で、さらに母がハギノトップレディ、父がトウショウボーイという当時の日本ではこれ以上望みようがないという内国産の粋を集めた血統を持っていた。生まれながらに人々の注目という名の重圧を背負った彼女は、直線に入ってからの馬群を切り裂くような鋭い切れ味を持ち味としており、ダイタクヘリオスとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていったのである。

 今回は、マイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたダイタクヘリオスの軌跡を語ってみたい。

『血の系譜』

 ダイタクヘリオスは、1987年4月10日、平取の清水牧場で産声を上げた。父がスプリングS(Gll)、NHK杯(Gll)などを勝ったビゼンニシキ、母が未出走のネヴァーイチバンという血統は、決して目立つものではない。後にダイタクヘリオスの血統は、ライバルのダイイチルビーと対比してたびたび「雑草」といわれるようになったが、それもあながち理由のないことではない。

 ただ、当時の日本競馬においては、ダイイチルビーの血統と比較すると、たいていの内国産血統が「雑草」になってしまうことも事実である。また、ダイタクヘリオスの牝系を見ると、華やかさにおいてはダイイチルビーの一族に遠く及ばないとはいえ、長い歴史と堅実な成績という意味では決して恥じるべきものでなかったことについては、注意しておく必要がある。

 ダイタクヘリオスの牝系は、1952年に競走馬として輸入された外国産馬スタイルパッチに遡る。スタイルパッチは短距離ハンデをはじめ競走馬として41戦9勝の戦績を残し、繁殖牝馬としても期待されていた。

 繁殖牝馬としてのスタイルパッチは明らかに「男腹」で、死産を除く11頭の産駒のうち、牝馬はわずかに3頭だけだった。ダイタクヘリオスは、この3姉妹の「長女」にあたるミスナンバイチバンの孫にあたる。ミスナンバイチバンは26戦4勝の戦績を残し、そこそこの期待とともに繁殖入りを果たした。ちなみにその2頭の妹を見ても、シギサンは4勝、リンエイは南関東競馬とはいえ10勝を挙げている。牡馬も8頭のうち6頭が勝ち星を挙げており、スタイルパッチの繁殖成績は、目立たぬながらもなかなかのものだったと言えよう。

 だが、スタイルパッチの血の真価が発揮されたのは、子の代ではなく孫、ひ孫の代に入ってからだった。まず1975年、ミスナンバイチバンの長女カブラヤの子であるカブラヤオーが、歴史上類を見ない逃げで皐月賞、日本ダービーの二冠を奪取した。カブラヤオーの名前は、通算13戦11勝の二冠馬という記録以上に、ついていった馬が次々と故障したという悪魔的な逃げの記憶が語り継がれている。

 カブラヤオーの鮮烈な登場によって再び脚光を浴びたスタイルパッチ系からは、その後79年にエリザベス女王杯を勝ったカブラヤオーの妹ミスカブラヤ、そして82年に7戦6勝でスプリングSに臨み、「82年クラシックの主役」と謳われながらもこのレースで故障し、そのままターフを去った悲運の大器サルノキング・・・と次々強豪が輩出した。ちなみに、このサルノキングが敗れたスプリングSは、それまで逃げで勝ってきたサルノキングがなぜか突然最後方待機策をとったこと、そしてそのスプリングSを勝ったのが「華麗なる一族」に属するやはり逃げ馬のハギノカムイオーだったこと、さらにハギノカムイオーの馬主がレース直前にサルノキングの権利を半分買い取っていたことから、一部では

「血統的に、勝てば高値で売れるハギノカムイオーを勝たせるための陰謀ではないか」

という説まで流れた。それはさておき、このレースの後皐月賞の本命としてクラシックへと進んだハギノカムイオーに対し、このレースを最後に故障によってターフを去ったサルノキングは、種牡馬入りこそしたものの、実績以前に最低限の人気すら集められず、最後は用途変更によって行方不明になるという運命をたどった。あまりにも対照的な明暗に分かれた2頭の物語は、ダイタクヘリオスの一族とダイイチルビーの一族の、最も古い因縁である。

『脚光の狭間で』

 閑話休題。こうして次々と活躍馬が出たことによって、スタイルパッチ系の牝馬への注目度は当然高まるはずだった。・・・だが、そうした一族の栄光への余光は、ダイタクヘリオスの母であるネヴァーイチバンのところまでは回ってこなかった。

 スタイルパッチ系自体ミスナンバイチバンをはじめとして多産の系統だったが、これは希少価値の面からは見劣りするものだった。また、スタイルパッチ系の活躍馬であるサルノキングはいとこ、カブラヤオー、ミスカブラヤ兄妹は甥姪にあたり、同族とはいっても、ネヴァーイチバンからしてみれば、その血脈は、微妙にずれたところにあった。

 それらに加えて、ネヴァーイチバン自身も、生まれつき両前脚が曲がっている奇形があった。彼女が未出走に終わったのもその欠陥ゆえだったし、彼女の初期の産駒は、母の脚の形まで受け継いでしまい、ろくに走ることができなかったのである。

 ネヴァーイチバンの初期の産駒は、3番子までがすべて未出走か未勝利に終わり、4番子のエルギーイチバンが初めて勝ち星を挙げたと思ったら、それは北関東競馬での結果だった。繁殖牝馬としてこのような結果が出つつあった情勢の中では、いくら同族が活躍しても、彼女まで脚光が及ぶことはない。ネヴァーイチバンは、一族の活躍とはまったく無縁のままに、ある牧場でひっそりと繁殖生活を送っていた。

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https://retsuden.com/horse_information/2022/27/396/feed/ 0
ダイイチルビー列伝・編集後記 https://retsuden.com/horse_information/2022/24/925/ https://retsuden.com/horse_information/2022/24/925/#respond Tue, 23 Aug 2022 15:17:45 +0000 https://retsuden.com/?p=925 令和のダイタクヘリオスはメジロパーマーのものになってしまったのかと思っていたところで突如実装されたダイニチニョライ嬢・・・もとい、ダイイチルビー嬢の列伝です。

サブタイトルの「女は華、男は嵐」は、今は亡き昼メロ枠の東海テレビ・グランドロマンシリーズ「華の嵐」(1988)から。生まれは卑しいが野性的で能力もある男(渡辺裕之)と、時代に翻弄される華族令嬢(高木美保)のドロドロラブストーリーです。

さらに言うならば、「ダイタクヘリオス列伝」のサブタイトルも「女は華、男は嵐」。当初公開時は、列伝史上唯一の試みとして、両列伝を物語内の時系列に沿って並行アップ…つまり、ほぼ同時に開始し、両馬の時系列が揃うように調整しながらそれぞれを小刻みに上げていく…という趣向をこらしていました。

ダイタクヘリオスは、私の最も感情移入できる馬の1頭です。そもそも父親が何ニシキかとか、祖母がミス何イチバンかとか、馬の背景の時点でなかなかの縁があるのに、馬自身も気分屋で成績が安定しないとか、一夜漬けの後方一気ができないから先行して粘るしかないとか、馬鹿にされる原因が真面目過ぎて前の馬を追い抜かなければ死ぬくらい頑張る性格だとか、もういろいろな意味で「お前は俺か」レベルの親愛さを感じていました。そんな彼が恋していたのが真正のお嬢様だとか言われたら、もう「競馬が人生の縮図なのではない。人生が競馬の縮図なのだ」と言いたくなります(意味不明)。そんな私だから、

「『ヘリオス←→ルビー』じゃなくて『ヘリオス→ルビー→ミラクル』じゃね?」

なんて指摘されようものなら、割と真剣に切れていましたとも。戦績を見ると的を射ているだけに、なおさら。ケイエスミラクルさん、ごめんなさいorz 今の私なら、正統お嬢様だけではなく、饅頭パクパクお嬢様やラーメン大好きお嬢様、ジンクスブレイカーお嬢様、クイーンではないキングお嬢様とかでも、なんでもOKで、明らかに人としての幅が広がっている分、ケイエスミラクルにももっと目配りができた内容になって…いたのだろうか?(ちなみに、お嬢様が多いウマ娘なのに、普通のお嬢様がいないような気がするのはきっと妄想)

ダイイチルビーがスプリンターズSで「幻影のダイタクヘリオスを追いかけている・・・かもよ?w」という部分は、たぶん「優駿の門」における某最強馬に影響を受けたのでしょう。実は時々様々なサブカルを横断してこうした事態が起こっているのですが、どの程度気づかれているのだろう。

ちなみに、そんな馬たちへの思い入れの割に(故に?)、改訂前の文章には粗さも目立ちました。オークスをほぼ結果だけで済ませていたからか、その後の地の文章で「牝馬三冠未出走」と書いていたり、「塞翁が馬」と書くべきところを「塞翁が牛」と書いていたり。私自身、ことわざをネタでわざと誤用してツッコミを待つことは常習的にやるのですが、ここでの「塞翁が牛」については何の伏線もなく、恥ずかしくて死にたいほどです。証拠隠滅・・・してもアーカイブが残ってるんだよな…orz

それにしても、まさかのダイタクヘリオス周辺の充実っぷりには感動するばかりです。これなら、第3期メインはヘリオスいけるんじゃね?でも、あのヘリオスがこれからお嬢様に塩い対応されてぴえんぴえんまるになるのを見せつけられるのはちとつらい。。。

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https://retsuden.com/horse_information/2022/24/925/feed/ 0
ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/#respond Tue, 23 Aug 2022 14:16:06 +0000 https://retsuden.com/?p=362 1987年4月15日生。牝。黒鹿毛。荻伏牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母ハギノトップレディ(母父サンシー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
通算成績は、18戦6勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、スプリンターズS(Gl)、京王杯スプリングC(Gll)、京都牝馬特別(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『華』

 日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。

 古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。

 とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。

 このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。

 その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。

 「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。

 だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。

 そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。

『名牝マイリーから』

 ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。

 ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。

 当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。

 ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。

 ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。

「このままでは、子供が産まれてしまう!」

 もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。

閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。

 マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。

『華麗なる一族』

 こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。

 しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。

 こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。

 重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。

 このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。

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https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/feed/ 0
メジロブライト列伝・編集後記 https://retsuden.com/horse_information/2021/20/721/ https://retsuden.com/horse_information/2021/20/721/#respond Fri, 19 Nov 2021 17:50:44 +0000 https://retsuden.com/?p=721 まだ見ぬ新ウマ娘はメジロブライトだったということで、復刻しました。マルゼンスキーと似てる・・・と思いましたが、考えてみれば、まったくもって正当です。ただ、メジロブライトが実装されたとなると、サニーブライアンとシルクジャスティスも欲しくなり、シルクジャスティスが来たらエリモダンディーも欲しくなるのは目に見えています。うーん、サイゲの術中にはまっている。。。

97年クラシック戦線と言えば、私は既にどっぷり競馬沼につかっていたのですが、

「馬券で生活費を稼ぎたい」

と言い出した当時競馬未経験のmilkyhorse.com管理人友人から頼まれて、競馬と馬券について自分はエアバケンシなことを告げずに(だって学生だったし)皐月賞を教材として教授し、彼が自分で考案したという、馬柱の近走における上がり3ハロンのタイムと抜いた馬の数から馬の強さを割り出す「追い込み指数」とやらの新指標について「で、それで強い逃げ馬や先行馬の強さはどう測るんだ?」と無慈悲に打ち砕き、彼がメジロブライトを本命に指名するや、皐月賞当日、競馬が分かる仲間を彼の家に集めて競馬中継の上映会を開かせ、玉砕をさらしものにする最期を皆で見届けるという、なかなか忘れがたい記憶が今なお残っています。あの日、パドックではエリモダンディーがものすごく良く見えたことは、いまだに忘れられません。

「いつかGlを勝つ馬だ!」

と感じた彼が、もしあのまま本格化していれば、天皇賞・春は勝てたのではないでしょうか。・・・あれ?でも、もし本当にそうなっていたとすると、メジロブライトの唯一のGl勝利が(以下ry)

まあ、それはさておき、この時の皐月賞はというと、ご存知の通り、サニーブライアン、シルクライトニングの人気薄BT丼で決まったのですが、その時の上映会はどうなったかというと、真っ白に燃え尽きた家主を放置して、周りでは経験者たちが

「こんなん分かるか!」

「大西ーヤストミなんて、Glと言えるか!」

「っていうか、大西って誰?」

「ブライトは…ライアンの正当後継者だな」

なんて好き勝手にひどい論評をしていました。この時は「ひどい」側だった私ですが、その後大西騎手が気になってスポーツ紙などで情報を追っていたところ、日本ダービーへ向けた陣営の吹きまくりやら、プリンシパルS前の未勝利馬に蹴られての回避やらで苦笑いしながら印を削り、そして本番では私も真っ白になって大西信者となり、97年クラシック組の列伝を友人からは「大西を手を変え品を変え称えるHP」と評されるに至るのは、また別のお話です。

閑話休題。プリティーダービーでメジロドーベル実装と合わせてウマ娘への追加参加を果たし、メジロ祭り?の一翼を担うメジロブライトですが、デザインがマルゼンスキーとよく似ていると思ったものの、すぐにその正当さに気づいて感動しました。

私はプリティーダービーにミスターシービーが登場した時、

「タマモクロスかマチカネタンホイザかファインモーションかダイタクヘリオスかツインターボかメジロドーベルかメジロパーマーかメジロアルダンかキタサンブラックかサトノダイヤモンドが実装されない限り!ミスターシービー実装までガチャを控える!」

と強く決意したのですが、早々に現れたその一角メジロドーベルは、10連一発で当てました。なんてトレーナー孝行なお嬢様でしょうか。でも、メジロブライトが実装されたら、その中に加わってくるかもしれません。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/20/721/feed/ 0
セイウンスカイの略称問題 https://retsuden.com/horse_information/2021/16/635/ https://retsuden.com/horse_information/2021/16/635/#respond Sat, 16 Oct 2021 11:25:25 +0000 https://retsuden.com/?p=635 時々論争を巻き起こす競走馬の略称ですが、よくツッコミの対象となる「ウンス」について、彼の現役時代にそう呼ぶ声はほとんどなかったという資料を発見しました。・・・といっても、2ちゃんねる競馬板で、それも50スレまで行かなかったスレですが。

オペラオーを倒せるのはウンスだけだ! (5ch.net)

このスレッドを見ればわかる通り、セイウンスカイの現役最後のレースとなった天皇賞の前年の有馬記念を前に、彼のことを「ウンス」と略するスレを立てた>>1に対し、周囲の反応は素晴らしく冷淡です。当時のファンでセイウンスカイのことを「ウンス」と呼んでいた人は、ほとんどいなかったことが裏付けられます。そして、その約4か月後の天皇賞・春がセイウンスカイの最後のレースとなったことから、彼の略称「ウンス」が定着したのは、彼の現役時代ではありえないのです。

しかしながら、その後、後付けで「ディープスカイ」という「スカイ」の略称では区別できない名馬が出てきたこともあって、いつの間にやら「セイウンスカイ」=「ウンス」は定着していきました。いつ頃セイウンスカイが「ウンス」と呼ばれ始めたのかも曖昧になっていくほどに。

というわけで、その直前に別スレで「ラーメン」という略称を理解できずに置いてけぼりをくらい、悔しくて他に印象的な?馬の略称を開発できないかと考えた挙句、セイウンスカイを「ウンス」と呼び始めることを考案してこのスレを立てた>>1となり、その後もあちこちで「ウンス」と言い続けた私としては、満足の至りです(ちなみに、このすれで言及されている「クヤマ」は私ではありません。ダイタクヘリオスに思い入れのある私としては、その代表産駒を距離適性的に出走するはずのない有馬記念への出走前提でネタにしたりはしないのです)。

 まあ、ここのルートは一般に広がることはないまま途切れ、他の人が別のところで言い出した「ウンス」が広まった・・・という可能性も十分あるわけですが、それが私かどうかはともかく、起源は誰かいるはずです。市井の一ファンの書き込みが20年後に一般的なものとなっているというのも、ロマンを感じるお話です。

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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/#respond Tue, 12 Oct 2021 17:50:18 +0000 https://retsuden.com/?p=547  1982年5月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。土井昭徳牧場(新冠)産。
 父スポーツキー、母シルバーフアニー(母父ドン)。吉田三郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、京都3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『消えたGl』

 日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。

 もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。

 その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。

 だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。

 阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。

 「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。

 もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。

=ダイゴトツゲキの章=

『忘れられた初代王者』

 1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。

 ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。

『足跡をたどって』

 ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。

 土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。

 ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。

 ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。

 もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。

 一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。

 オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。

 日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。

『ささやかな願い』

 スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは

「こいつは走るんじゃないか」

と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、

「せめて1勝でもしてくれよ」

というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は

「牧場史上最高の大物になってくれよ」

と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。

『意外性の馬』

 「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。

 もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。

 ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。

 新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。

 ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。

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ミスターシービー本紀・編集後記 https://retsuden.com/editors_note/2021/10/604/ https://retsuden.com/editors_note/2021/10/604/#respond Sun, 10 Oct 2021 13:20:20 +0000 https://retsuden.com/?p=604  これだけ多くの競走馬の馬生を振り返っていると、その中には「何かにとりつかれたように」書けてしまう馬も出てきます。その中のひとつが、ミスターシービー本紀でした。19年も前の文章を校正しているのに、目立った修正点がほとんど出てこない。。。

 叙情的な文章を垂れ流しておきながら、実は私はこの時代の競馬をリアルタイムで見ていません(そのペテンっぷりこそ、「ぺ天使」というHNの由来のひとつだったりします)。しかし、ミスターシービーという馬の在り方についてはきわめて多くの資料が残されており、またその時代の名残がまだ競馬場に漂っていた時期に競馬へ魂を惹かれていった者として、彼というサラブレッドの生きざまは、ぜひ残しておきたいものでした。

 twitterのエゴサーチで「本紀は時代順なのにルドルフとシービーだけ逆で泣いた」(意訳)みたいなシービー党の方(たぶん)の書き込みを見たのですが、本紀が(ルドルフとシービー以外)時代順に見えるのは単なる偶然で、そんな意識はまったくありませんでした。オグリキャップ、メジロマックイーンやトウカイテイオー、ビワハヤヒデが本紀にならないなんて、そんな恐ろしい歴史観を持ってはいないのです。

 ちなみに、本文の「常勝と不敗と」というあたりには、明らかに「銀河英雄伝説」の影響が見て取れます。ミスターシービーなラインハルトと、シンボリルドルフなヤン・ウェンリーだと、原作自体に凄まじい展開の齟齬が出て来そうですが。他にも「随一から唯一へ」のあたりも影響が感じられます。・・・この本紀に限らず、列伝&本紀全体に、「銀英伝」の影響はかなり広範かつ深遠なものがあることには、果たしてどの程度の方に気づいていただけているでしょうか。。。

 ところで、そんな私の心を犯罪的に奪ったのは、ウマ娘版ミスターシービーさん。エイシンフラッシュのストーリーに脈絡なく出演したと聞いて、しかもビジュアルが好みのど真ん中すぎたため、当時ストックしていた無償ジュエルを全部突っ込んだけれど、結局エイシンフラッシュをお迎えできなかったためにミスターシービーさんにも会えず(ちなみに私自身は無課金プレイヤーです)、鬼哭の涙を流しました。その後のハーフアニバーサリーで配布された無償ジュエルは、ミスターシービーさん実装時に備えて貯えておこうと思っています。・・・タマモクロス、メジロパーマー、ダイタクヘリオス、ツインターボ、メジロドーベル、メジロアルダン、マチカネタンホイザ、ファインモーション、キタサンブラック、サトノダイヤモンドが育成実装されない限り、浮気しないくらいの強い思いです。

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レッツゴーターキン列伝・編集後記 https://retsuden.com/editors_note/2021/09/596/ https://retsuden.com/editors_note/2021/09/596/#respond Sat, 09 Oct 2021 13:16:15 +0000 https://retsuden.com/?p=596  サラブレッド列伝でも初期の馬たちは、「Glを勝ちながら一発屋扱いされて実力を正当に評価されなかった馬たち」がなかなか高い割合を占めているのですが、レッツゴーターキンもその典型的な1頭です。

 私の心を虜にした「プリティーダービー」アニメ第2期では「無敗でなくなったことで走る目標を失ったトウカイテイオーの精神的敗北」という側面が色濃く描かれ、馬主の許可が取れていないと思われる大人の事情も相まって勝ち馬の描写すら省略された92年天皇賞・秋ですが、実際には作中でも「バカ爆逃げコンビ」として描かれるメジロパーマー、ダイタクヘリオスによる狂気のハイペースの影響が極めて甚大で、好位につけてしまったトウカイテイオーまで道連れにされてしまった・・・というのが私の、そして通説の理解と思われます。

 ただ、そうした特異な展開での勝ち馬は、他のGlを勝つなどの事情がない限り、低い評価に甘んじるというのが日本競馬の傾向であり、その結果、レッツゴーターキンの種牡馬生活は、極めて不遇なものに終わってしまいました。当時の名馬たちや脇役たちの再評価に多大なる影響をもたらしていると思われる「ウマ娘」の世界でも、レッツゴーターキンは救われないのです。哀しからずや。

 というわけで、「ウマ娘」をきっかけにこのHPにたどり着く方たちがいた場合、ぜひ、Glを勝ったクラスでも、「ウマ娘」に取り上げられない名馬たちが多数いること、そして彼や彼女たちにも、ネームドウマ娘のモデルたちに決して引けを取らない物語があるということに気づいていただければ幸いです。 

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レッツゴーターキン列伝~煌めく殊勲の向こう側~ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/542/ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/542/#respond Sat, 09 Oct 2021 12:55:13 +0000 https://retsuden.com/?p=542  1987年4月26日生。2011年1月30日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(早来)産。
 父ターゴワイス、母ダイナターキン(母父ノーザンテースト)。橋口弘次郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、33戦7勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、小倉大賞典(Glll)、
 中京記念(Glll)、谷川岳S(OP)、福島民報杯(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『旅路の果て』

 1992年秋の古馬中長距離Gl戦線の始まりを告げる第106回天皇賞・秋(Gl)当日、全国の競馬ファンの注目は、ただ1頭のスターホースに注がれていた。トウカイテイオー・・・それが、当時の競馬ファンの注目を独占したそのサラブレッドの名前である。

 トウカイテイオーは、日本競馬史上最高の名馬であるシンボリルドルフの初年度産駒であり、最高傑作とされる名馬である。偉大な父は、現役時代は中央競馬史上初めて無敗のままクラシック三冠を制し、国内の通算成績は15戦13勝2着1回3着1回と、ほぼ完璧に近い強さを誇った。引退までにGlを7勝したこの名馬の中の名馬を、ファンは畏敬の念すら込めて「絶対皇帝」と呼び、そして「絶対皇帝」の血を受けたトウカイテイオーもまた、父の後継者としてのファンの注目と期待を一身に集めていた。

 この日までにトウカイテイオーが残した戦績は8戦7勝だった。前年に

「皇帝の子・帝王現る!」

というセンセーショナルな見出しとともにクラシック戦線に躍り出た彼は、父と同じく不敗のまま皐月賞、ダービーを制し、二冠を達成した。父に続く三冠の夢は骨折によって絶たれたものの、父子二代で無敗のまま二冠を達成した快挙は、中央競馬の歴史の中でも当時としては初めてのことであった。

 その後のトウカイテイオーは、古馬になったこの年の春、天皇賞・春(Gl)でメジロマックイーンの前に生涯初めての敗北を喫したとはいえ、レース中に骨折していたことが判明したこともあり、多くのファンは、いまだに「中距離で最も強いのはトウカイテイオー」ということを信じていた。得意の長距離でトウカイテイオーを撃破したメジロマックイーンが、この秋は故障によって戦線を離脱していたこともあって、ファンの人気はトウカイテイオーただ1頭に集中した。血統的なカリスマ性がトウカイテイオーの人気を後押ししていたという側面は否めないものの、それを差し引いたとしても、トウカイテイオーがファンの支持を集めるに足りる戦績を残し、父の後継者と呼ばれるに足る存在だったことも、間違いない事実だった。

 天皇賞・春のレース中の骨折によって戦線を離れていたトウカイテイオーが迎えた復帰戦が、この日の天皇賞・秋だった。このレースは、父シンボリルドルフがいったん直線で抜け出しながら、伏兵ギャロップダイナにまさかの敗北を喫し、ついに制覇をなし得なかった因縁のレースでもある。

「帝王が、皇帝の果たし得なかった天皇賞・秋の制覇を果たすのか?」

 ファンの関心は、その一点のみにあった。トウカイテイオーは故障明けだったにもかかわらず、彼に対する信頼は絶大なものであり、ファンの夢と期待は、彼を単勝240円の1番人気に押し上げていた。

 ・・・ところが、そんな「トウカイテイオーのためのレース」だったはずの天皇賞・秋を待っていたのは、誰もが予想しない結末だった。ウィナーズサークルに立ったのは、圧倒的1番人気に支持されたトウカイテイオーと岡部幸雄騎手ではなく、単勝11番人気のレッツゴーターキンと大崎昭一騎手だった。2着にも5番人気のムービースターを連れてきた馬連は、何と17220円をつける大波乱となった。ローカルで地味な活躍を続けた古豪と、地獄を見た男とのコンビは、輝かしい戦果を挙げたのである。

 しかし、このコンビが栄光をつかむまでには、人馬それぞれに長い戦いと苦悩の積み重ねがあった。今回のサラブレッド列伝では、彼らが長い旅路の果てにようやくたどり着いた大殊勲、そしてそんな大殊勲の向こう側にあったものは何だったのか、というテーマを取り上げてみたい。

『社台の誇りの血』

 1992年の天皇賞・秋を制したレッツゴーターキンは、1987年4月26日、早来・社台ファームで生まれた。社台ファームといえば、いわずと知れた日本最大のブリーダーである。

 レッツゴーターキンは、母ダイナターキンの第3仔に当たる。レッツゴーターキンの牝系は、社台ファームを一代で日本最大の牧場へと育て上げた吉田善哉氏、そして社台ファームそのものの馬産の歴史が詰まったものだった。

 ダイナターキンの母、つまりレッツゴーターキンの祖母は、社台ファームに初めてのオークスをもたらした1969年のオークス馬・シャダイターキンである。シャダイターキンは、前年の桜花賞馬コウユウとともに、初期のシャダイファームを支えた名種牡馬ガーサントの牝馬の代表産駒とされることが多い。

 馬産界では、ガーサントを現在に続く巨大帝国・社台ファームの礎を築いた功労馬とする見方が定着している。ガーサントが日本へ輸入された1961年頃までの間、吉田氏は牧場の屋台骨を支え、拡大路線の推進力たりうる名種牡馬を求め、次々と海外の種牡馬を輸入していたものの、これらがことごとく外れるという、極めて厳しい状況にあった。社台ファームの経営自体が危うくなったことも、一度や二度ではないという。そんな時期に現れた救世主が、コウユウ、シャダイターキン、そして他の牧場の生産馬ながらニットエイト等を次々と輩出することで名種牡馬としての地位を確立したガーサントだった。ガーサントの存在は、社台ファームに莫大な種付け料収入をもたらすとともに、「母の父」として牧場の繁殖牝馬たちに底力を注入することで、血統水準の底上げに大きく貢献した。

 そんな社台ファームの躍進を象徴するオークス馬・シャダイターキンに対し、ガーサントの後に社台ファーム、そして日本の馬産界を支えたノーザンテーストを配合して生まれたのが、レッツゴーターキンの母親だった。ノーザンテーストについては、もはやここでの説明を要しないだろう。かつて11年連続チャンピオンサイヤーに輝いたノーザンテーストは、日本競馬に一時代を築いた種牡馬であり、その血が日本の競馬界に与えた影響は計り知れない。もし社台ファームがノーザンテーストを導入していなかったら、今の日本の馬産界はどのような勢力図になっていたかを想像することは、困難である。

 そんな社台ファームが誇る牝系に、ターゴワイスを付けて生まれたのがレッツゴーターキンである。父のターゴワイスは英仏で8戦5勝、エクリプス賞(仏Glll)などを勝った仏3歳王者であり、種牡馬としてもなかなかの成功を収めている。引退後3年間をフランスで供用されたターゴワイスだったが、その間に凱旋門賞などを勝ったオールアロング、仏1000ギニー馬エクレイヌを出し、初年度産駒がデビューした年には仏3歳リーディングに輝いている。日本に輸入された後は大物を出せなかったが、それでも粒揃いというに足りる産駒は送り出し、多くの重賞馬も輩出している。

『オチコボレ』

 もっとも、このような血統背景を持つレッツゴーターキンだったが、育成牧場での評判は芳しいものではなかった。

 社台ファームは、当時から生産と育成を分けて行っており、レッツゴーターキンも育成のために千歳の社台ファーム空港牧場に送られていった。当時の空港牧場は、当時から早来の本場の生産馬のうち約3分の1の調教・育成を担当していた。

 ところが、空港ファーム入りしてからのレッツゴーターキンは、とてつもない不良ぶりをいかんなく発揮するようになった。なにせ、厩舎の中でも放牧地でも、ちょっと目を離すと何をしでかすか分からなかった。機嫌が良いと思って乗り運動をさせていても、何を思ったか突然暴れたり、横へ吹っ飛んだりした。

 当時の場長は、あまりにもレッツゴーターキンのいたずらがひどいので、

「あんなアブない奴には他人を乗せる訳にいかない」

と意を決し、乗り運動ではいつも自分で乗っていた。しかし、レッツゴーターキンの奇行はいっこうにおさまらず、振り落とされたり、かまれたりで、場長には生傷が絶えなかったという。

 さらに、レッツゴーターキンは一口馬主クラブである社台ダイナースサラブレッドクラブの所有馬として出資者を募ることになったが、あまりに落ち着きがなくじっとしていないため、クラブのカタログに使うための写真すら撮れない。おまけに、大切なクラブ会員の見学ツアーの時には、いつも放馬する始末だった。

 レッツゴーターキンのあまりの態度の悪さに、場長は

「口が利ければじっくり話し合いたいけれど、そうもいかない。どうしてアイツは口が利けないんだ」

と嘆いていたという。しかし、場長に同情した他の従業員が交替しても、そのたびに危ない目に遭うため、結局は場長の手に戻さざるを得なかった。さすがに彼らも頭にきたのか、レッツゴーターキンの育成牧場で「オチコボレ」と呼ばれていたという。

 ちなみに、後の天皇賞・秋でレッツゴーターキンの2着に入るのはムービースターだが、レッツゴーターキンの1年前に同じ空港牧場を旅立ったこちらは、「オチコボレ」のレッツゴーターキンとは正反対の、手のかからない優等生だったとのことである。

『いまだ更生せず』

 そんな空港牧場の関係者たちの苦労も、ようやく終わる日がやって来た。3歳秋になって橋口弘次郎厩舎への入厩が決まった「オチコボレ」は、ようやく栗東のトレセンへと送り出されていったのである。ようやくその手から希代の問題児を放した彼らは、肩の荷を降ろした安堵感に、心の中で快哉を叫んでいた。

 もっとも、このことで問題が根本的に解決されるわけでもない。それまで空港牧場のスタッフが味わっていた恐怖と苦労を、今度は橋口厩舎のスタッフが味わうようになっただけだった。カラスを見ても大騒ぎするレッツゴーターキンに対し、橋口師は

「気性が悪いというよりも臆病なのではないか・・・」

と思ったりもしたが、だからといってどうなるものでもない。レッツゴーターキンは、橋口厩舎でも相変わらず乗り手を振り落としたり、指示を聞かずに勝手に走る方向を変えたりしていた。ある時などは、坂路に連れていったのに、1頭だけで厩舎に逃げ帰ってしまったという。

「全く期待なんてしていませんでしたよ。1つか2つ勝ってくれればいいなって感じでした」

 ・・・それが、橋口師の当初のレッツゴーターキン評だった。

『うら若き日々』

 さて、橋口厩舎の所属馬として12月にデビューしたレッツゴーターキンは、3歳戦を2度使われたものの、いずれも着外に終わった。レッツゴーターキンの初勝利は、通算4戦目・・・4歳4月まで待たなければならなかった。

 その後ほどなく2勝目を挙げたレッツゴーターキンは、出世の早さという意味では「オチコボレ」ではなく平均以上のペースだった。もっとも、平均以上とはいっても、レッツゴーターキンが春のクラシックとは無関係のところにいた、というのもまた事実である。

 レッツゴーターキンの重賞初挑戦は「残念ダービー」こと中日スポーツ4歳S(Glll)だった。ここでのレッツゴーターキンの人気は、12頭立ての11番目に過ぎなかった。たかだか4歳限定のローカルGlllでこの人気だから、この当時のレッツゴーターキンに対するファンの期待がどの程度のものだったのかは、自ずと知れるだろう。

 レッツゴーターキンは、ここで大方の期待を裏切ってロングアーチの2着に突っ込んだ。不良馬場だったことから「展開の紛れ」という冷たい声もあったが、重賞連対は重賞連対である。ここで本賞金を加えたレッツゴーターキンは、後のローテーションにも新しい可能性を切り拓くことになった。・・・それはクラシック最後のひとつ、秋の菊花賞への道である。

 秋のレッツゴーターキンは、菊花賞を目指して神戸新聞杯(Gll)に出走した。無論その道が楽なはずもなく、4着と可もなく不可もない成績に終わると、今度はクラスが準オープンにとどまっていることを利用し、菊花賞と同じコースを体験させるために嵐山S(準OP)を使ったが、ここでも4着となった。

 強い相手に混じった時の底力、長距離適性に確信を持てないままに菊花賞へと向かうことになったレッツゴーターキンだったが、案の定というべきか、菊花賞ではその力はまったく通用せず、9番人気、11着に終わった。菊花賞当日の京都競馬場は重馬場であり、不良馬場の中日スポーツ4歳Sで2着に入った実績があるレッツゴーターキンにチャンスが出てきたようにも思われたが、名馬メジロマックイーンの前に、まったく歯が立たなかったのである。

 レッツゴーターキンは、菊花賞の後もう1戦の戦績を重ね、4歳を終えて13戦2勝2着2回3着2回という結果を残した。この頃のレッツゴーターキンの位置づけは、せいぜい二流馬の上といったところだった。

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