(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
2022年6月に発表されたダート路線の改革案は、日本競馬のダート界に1998年の統一グレード導入以降最大級の衝撃をもたらした。その改革案によれば、2024年以降、地方競馬の盟主・南関東競馬のクラシックレースである羽田盃、東京ダービーをJRAや他地域に開放したうえでダートグレード競走のJpnlに位置づけるとともに、現在は夏に行われているジャパンダートダービーの名称を「ジャパンダートクラシック」と変更したうえで実施時期を秋に移行し、この3つのレースをもって「3歳ダート三冠競走」として位置づけるというのである。
日本の競馬界における「ダービー」という名称は、世代王者決定戦であるクラシック・レースの中において最高の格式あるレースというイメージが定着している。そのイメージを前提とすると、「3歳ダート三冠」の中に「ダービー」が2つあるのは、不都合とも言えるかもしれない。
ただ、統一グレード導入前後、まだ競走馬の年齢表記が数え年表記だったころに存在した「4歳ダート三冠」では、三冠レースのうち2つは「ダービー」の名を冠していたが、特に不都合はなかった。しかし、今回は東京ダービーだけに「ダービー」の名を残し、ジャパンダートダービーから「ダービー」の名を消すという選択が、これらのレースの格式にどのような影響をもたらすのか、興味は尽きない。
今回の改革によって大きな影響を受けるジャパンダートダービーは、1999年の創設以降、多くの名馬たちが名勝負を繰り広げてきたレースである。創設当初は2つ、そして06年以降は唯一の旧4歳(現3歳)世代限定の統一GlないしJpnlとして、25年間にわたって世代別ダート王決定戦の役割を果たしてきたこのレースが、「3歳ダート三冠」のためにジャパンダートクラシックへ改編され、その歴史をいったん閉じることについては、感慨深いものを感じるファンも少なくないだろう。
2000年の第2回ジャパンダートダービーを制したマイネルコンバットは、JRA所属馬として初めてこのレースを制した馬である。「4歳ダート三冠」が幕を開け、まだ短い歴史を閉じていなかった20世紀最後の年、ダート戦線の黎明期に足跡を残した彼の歩みを振り返ってみたい。
1997年3月14日、マイネルコンバットは、浦河の高松牧場で産声をあげた。父はデビューからわずか2ヶ月の間に英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、母はJRAで8戦1勝の戦績を残したプリンセススマイルである。
マイネルコンバットは、プリンセススマイルの第4子にあたる。プリンセススマイルはもともと社台ファームで生産されたが、繁殖牝馬セールに出された際に、高松牧場によって購入された。そして、高松牧場で彼女が産んだ3頭の兄のうち、アガペーとサンキューホーラーは、最終的にはJRAの準オープン級まで出世する。当時はまだ兄たちがどこまでの戦績を残すのかを知るべくもないが、それでも長兄のアガペーは、もう条件戦をちょくちょく勝っていた。
マイネルコンバットの血統は、アガペーと同じくNorthern Dancer系の同系配合で、それもNorthern Dancerの4×3といういわゆる「奇跡の血量」を持つ(厳密には、兄は4×4×3)。アガペーが勝つたびに、マイネルコンバットに対する牧場の人々の期待も高まっていくことは、むしろ自然な流れだった。
マイネルコンバットが生まれたころ、高松牧場の経営者夫婦はある理由で夫婦喧嘩になっており、夫人が
「別れる!」
と言っていた。しかし、生まれたマイネルコンバットは、馬体の柔らかさが目立つ子馬で、
「あの子が競馬場で走るところを見てみたい」
と思って離婚を思いとどまることにしたという。マイネルコンバットは、競馬場で走る前から高松牧場の家族を守っていた。
そんな期待の子馬への買い付けの申し込みは、高松牧場の人々を歓喜させた。その申し込みの主は、「マイネル」「マイネ」の冠名で知られる一口馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表である岡田繁幸氏だった。
岡田氏は、1973年の朝日杯3歳Sを制したミホランザンなどを輩出した岡田蔚男牧場の長男として生まれた。大学中退後、本場の馬産を学ぶという名目で、実際には今後の人生の道標を探すために渡米し、米国の牧場に滞在していた際、世話を頼まれた牝馬を見出したところ、それが後に無敗の10連勝でニューヨーク牝馬三冠を制しながら悲劇的な最期を遂げるラフィアンだったことで知られており、後に彼が設立した牧場やクラブの名前も、彼女にあやかっている。
その後、日本へ帰国した岡田氏は、馬産に本格的に携わっていくことは決意したものの、「父の牧場を引き継いだのでは、本当の意味での自分の馬産ができないから」という理由で、父の牧場の継承権は弟に譲り、自分は自前で一から牧場を立ち上げることにした。
また、彼は自前の牧場の生産馬からだけではなく、「ラフィアンを最初に見出した男」という肩書で馬産地を直接訪ね、自ら見て回った子馬の中から眼鏡にかなった子馬を買い付けて馬をそろえるという手法をとった。・・・というよりも、主力はどちらかというと後者だった。
とはいっても、当時の馬産地では、目立った実績や血統を持つ馬になればなるほど、母馬やなじみの調教師との人間関係で、「生まれた時には馬主が決まっている」というパターンが多かった。そこで、岡田氏が馬を求めて回るのは、大馬主や調教師とのパイプを持たない中小牧場が多かった。
岡田氏の名前が一般のファンの間でも知られるようになったのは、1986年の日本ダービーである。彼が自らの所有馬として送り込んだグランパズドリームは、父が内国産馬カブラヤオー、母に至ってはサラ系のサラキネンという、当時の血統水準からしても目立たない…というよりは、逆の意味で目立つと言っても過言ではない血統のサラ系だった。しかし、それまでどんな馬を買っても認めてくれなかった父親の蔚男氏に
「本当にいい馬を見つけた。これだけは見に来てほしい」
と伝えたところ、蔚男氏も見に来て、
「本当にいい馬だな…」
と、初めてほめてくれたのだという。
蔚男氏は、その馬のデビューを見ることなく、亡くなってしまった。岡田氏は、自身の長男を可愛がってくれた父が最後に認めてくれた馬に「グランパズドリーム」と名付けて自身の名義で走らせ、青葉賞(OP)2着で日本ダービー(Gl)に出走を果たした。
日本ダービーではテン乗りの田原成貴騎手が騎乗したが、皐月賞で2着だったフレッシュボイスが故障で回避してがっかりしていたところに騎乗依頼を受けたという田原騎手は、
「馬主も調教師もあまりに威勢がいいから(依頼を)受けた」
という。
とはいっても、9戦2勝で勝ったのは条件戦のみ、重賞実績もないに等しいグランパズドリームは、23頭立てで単勝4370円の14番人気と、まったく人気がなかった。しかし、レースになると、大混戦の中でグランパズドリームは経済コースを通って先に抜け出し、一時は2,3馬身差をつけた。
そこからダイナガリバーが飛んできて、激しい一騎打ちとなったが、最後は差し切られて、半馬身屈した。
この日、馬主席に応援に来ていた岡田氏は、ダイナガリバーの生産者である社台ファームの吉田善哉氏が、65歳で初めてのダービー制覇を果たし、人目もはばからずに泣く姿を見ながら、
「初めてダービーの重みを知った」
と言い、善哉氏自身から
「君はまだ早い」
と言われたとも語っている。この時、「ダービーは近いうちに必ず獲れる」と思っていたという岡田氏にとって、この時の半馬身が生涯にわたって決定的なものになることなど、知る由もない。
もっとも、グランパズドリームでいきなり日本ダービー2着という結果を残し、さらにサラブレッドクラブ・ラフィアンでも「マイネル」「マイネ」の冠を持つ馬が早い時期から実績を残したことで、岡田氏に関する噂は、
「ラフィアンの馬は、安い割によく走る」
「岡田氏が選んだ馬は、血統が悪くてもよく稼ぐ」
と変わっていった。「相馬の天才」と呼ばれる岡田氏の名前は馬産地に広く知れ渡り、中小牧場の牧場主の中には「岡田さんに買ってもらえるような馬を作る」ことを目標として掲げる者も少なくなかった。
マイネルコンバットを認めた岡田氏とは、そんなホースマンだったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく
「ダービーを勝つことが夢だった」
というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。
しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。
もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。
かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。
彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。
1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。
スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。
社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。
種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。
しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に
「牧場が潰れるんじゃないか」
と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。
スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。
ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。
だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。
ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。
ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。
社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も
「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」
ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。
ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。
そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。
スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。
もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、
「これ、くれよ」
と場長に申し出た。
矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。
スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。
]]>皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。
時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。
彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。
「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」
同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。
大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。
2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。
すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。
そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。
しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。
ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、
「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」
と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、
「今年の一番馬は、この馬だ」
と噂しあった。
だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。
「こんなはずではなかった・・・」
生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。
しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。
「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」
それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。
こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に
「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」
と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。
最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。
「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」
それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本の中央競馬においては、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というそれぞれ条件の異なる3つの世代限定Glが「三冠レース」として位置づけられ、世代最強馬を決する戦いとして高い格式を誇るとともに、多くのファンの関心と注目を集めてきた。
ただ、これらのレースは建前としては「牡牝混合戦」とされているものの、事実上は牡馬しか出走しないのがほとんどである。これらのレースを牝馬が勝った例を探してみると、日本競馬の長い歴史の中でも5頭が6勝を挙げただけで、それも1947年にトキツカゼが皐月賞、ブラウニーが菊花賞を勝った後、2007年にウオッカが日本ダービーを勝つまでの約60年間にわたって、牝馬による三冠レースの制覇は途絶えている。
中長距離戦で牡馬と牝馬を同じレースで走らせた場合、牡馬が圧倒的に有利であるというのが、長らく競馬界の常識だった。そこで、牝馬たちのために用意された独自路線が、出走資格を牝馬に限定した、いわゆる「牝馬三冠」である。桜花賞、オークス、秋華賞からなる「牝馬三冠」は、牝馬による「三冠」挑戦があまりに難しいことから、一流牝馬たちのローテーションとしても承認されており、世代別牝馬チャンピオン決定戦として定着している。
ところで、「三冠」をすべて制した「三冠馬」は過去8頭が出現しているものの、「牝馬三冠」をすべて制した「牝馬三冠馬」は6頭にとどまっている。中央競馬が範をとった英国競馬では秋華賞にあたるレースが存在せず、日本で「牝馬三冠」が成立したのは1970年にビクトリアCが新設された(76年にエリザベス女王杯に改称、96年にはエリザベス女王杯の古馬開放に伴って秋華賞に改編)後であることを考慮に入れたとしても、皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬は16頭(三冠馬を除く。2021年まで)いるのに対し、桜花賞、オークスを制した牝馬二冠馬は9頭(牝馬三冠馬を除く。2021年まで)しかいないという差は、明らかに有意な差であるといわなければならないだろう。
牝馬が牡馬に比べて体調管理が難しく、消長も激しいことは、多くのホースマンたちが口を揃えるところである。その名を青史に刻む多くの牝馬たちが、あるレースでは圧倒的な強さを示しながら、やがて牝馬ならではの困難につきあたって敗れることで、そんな評価の正しさを心ならずも証明してきた。1987年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬マックスビューティも、そんな系譜に名を連ねる1頭である。
マックスビューティ・・・日本語で「究極美」という意味の名前を持つその牝馬は、日本史上初めてにして20世紀唯一の牝馬三冠馬・メジロラモーヌが牝馬三冠戦線を戦った次の年の牝馬三冠戦線に現れ、メジロラモーヌ以上の安定感と破壊力をもって戦い、そして勝ち続けた。桜花賞、オークス、そしてそれらのトライアルまで勝ちまくったマックスビューティが、秋に8連勝でエリザベス女王杯のトライアルレースであるローズS(Gll)を制した時には、誰もがマックスビューティの歴史的名馬たることを信じ、彼女が前年のメジロラモーヌに続く三冠牝馬となることを疑わなかった。それは、もはや歴史の必然ですらあった。
ところが、栄光とともに戴冠するはずだったエリザベス女王杯で、マックスビューティの連勝と伝説は終わりを告げた。その後の彼女は、それまでの栄光の日々とは対照的に長い不振にあえぎ、苦しみ続けた。競走生活が終わってみると、彼女が頂点に君臨した期間は1年にも満たず、さらにその範囲も、世代限定の牝馬三冠戦線のみにすぎなかった。そんな彼女の戦いの光景は、私たちに牝馬の消長の激しさを改めて思い知らせるものだった。
・・・それでいてなお、マックスビューティがその短い期間に放った輝きは、私たちを魅了するものだった。「究極美」というその名に恥じない美しさ、そして強さを兼ね備えた彼女の牝馬三冠戦線は、競馬界の歴史、そしてファンの記憶に残る。なればこそ、彼女の「その後」もまた、競馬の難しさを表すエピソードとして語り継がれる。
「名は体を現す」ということわざがある。今回のサラブレッド列伝では、その名によって自らを現し、そして自らの戦いによってその名を表現し尽くした名牝マックスビューティについて語ってみたい。
マックスビューティの生まれ故郷は、浦河の酒井牧場である。消長が激しいサラブレッドの生産牧場の中で、創業が1940年まで遡る酒井牧場は、浦河で指折りの名門牧場だった。先代の酒井幸一氏が指揮を取っていた1961年には、生産馬のハクショウが日本ダービー、チトセホープがオークスを勝ち、牡牝それぞれのクラシックで世代の頂点を独占するという栄光の歴史を持ち、後にも93年のエリザベス女王杯(Gl)を制し、さらに交流重賞の黎明期に交流重賞10連勝という金字塔を打ち立てた「砂の女王」ホクトベガを輩出している。
ただ、マックスビューティが出現する直前期は、酒井牧場にとって、そんな栄光の狭間となる「冬の時代」だった。75年に父の幸一氏から牧場の実験を譲り受けたのは酒井公平氏だったが、代が替わった途端、牧場の生産馬が走らなくなったのである。名門牧場の看板の重み、先代が残した輝かしい実績・・・それらとは対照的に、その後の酒井牧場の生産馬による重賞制覇は途絶えていた。
このままではいけない。なんとかしなければいけない。酒井氏は悩み苦しんだ末、様々な手を打った。繁殖牝馬はもちろんのこと、牧場の土をすべて入れ替えたりもした。・・・それでも結果は出なかった。酒井氏の耳に入ってくるのは、周囲の
「酒井牧場は、跡取りのせいでダメになった・・・」
という声ばかりだった。酒井氏は、やがて自分の馬産に自信を失っていった。そんな矢先に突然酒井牧場に降り立ったのがマックスビューティであり、自信を失いかけた酒井氏、そして衰えゆくかに見えた名門牧場を救う光明だった。
父、ブレイヴェストローマン。母、フジタカレディ。マックスビューティの血統自体は、決して目立ったものとはいえない。ブレイヴェストローマンは、後には種牡馬としての評価も定まって高く評価されるようになったとはいえ、当時は輸入初期の産駒が走り始めたばかりで、自らの競走成績から、奥行きの無いマイラーと思われていた。トウカイローマンがオークスを勝ったことでブレイヴェストローマン産駒の実力と距離適性が再評価され始めたのは、マックスビューティが生まれた84年のことである。
マックスビューティの母フジタカレディも、自らは未勝利馬だった。この牝系の血統表からアルファベットの馬名にたどりつくには、1918年生まれの9代母Silver Queenまで遡らなければならない。ちなみに、8代母のタイランツクヰーン産駒には「幻の馬」トキノミノルがいる。
だが、そんな一族も、トキノミノル以降は鳴かず飛ばずとなり、それ以降の彼女の一族の代表馬は、1972年のAJC杯をレコード勝ちし、ヒカルイマイが勝った71年の日本ダービーで5着に入った・・・というよりは、吉永正人騎手の騎乗とともに「後方ぽつん」の追い込み馬として知られたゼンマツ、80年から83年にかけて重賞を3勝したフジマドンナが出た程度だった。
これほど古くから日本にあった系統でありながら、ここまで活躍馬が出ないというのは、もはや運やめぐり合わせの問題とは言い難い。この血統は、活力が失われつつある一族と評価される・・・というよりは、評価される価値すら認められていなかった。
もともとは青森屈指の名門である浜中牧場で生まれたフジタカレディだったが、そんな彼女に目をつけ、彼女を管理していた松山吉三郎師に頼み込んで牧場に連れてきたのが酒井氏だった。上の2頭は期待外れで未勝利に終わったフジタカレディだったが、酒井氏は彼女への期待を捨てきれず、この年はマルゼンスキーと交配する予定にしていた。
ところが、フジタカレディがいざ発情した当日、マルゼンスキーは予約がいっぱいで種付けができない状態だった。そこで急きょ交配されることになったのが、ブレイヴェストローマンだった。
後になって、なぜこの時数いる種牡馬の中からブレイヴェストローマンを選んだのかを聞かれた酒井氏は、
「分かりません。あの時の僕は、何を考えていたんでしょうかねえ」
と首をひねっている。酒井氏は、本来フジタカレディにプレイヴェストローマンは体型的に合わないと考えており、最初に配合を考えた際には、真っ先にリストから外したほどだった。
マックスビューティをはじめとする活躍馬を輩出した後、馬産地では酒井氏が配合について独自の理論を持っていると評価されるようになり、浦河近辺の馬産農家で、配合に困って酒井氏に相談したことがあるという者は少なくないという。そんな酒井氏が選んだ、意味不明の交配から名馬が現れるのだから、競馬は深遠である。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬の華ともいうべき牡馬クラシック三冠に関する有名な格言に、次のようなものがある。
「皐月賞は、最も速い馬が勝つ。ダービーは、最も幸運な馬が勝つ。菊花賞は、最も強い馬が勝つ」
この言葉は、牡馬クラシック三冠のそれぞれの特色を示すものである。この言葉によるならば、日本競馬において至高の存在とされる三冠馬とは、世代で最も速く、最も幸運で、最も強い馬ということになる。そんな馬はまさに「究極のサラブレッド」であり、日本競馬の黎明期から現在に至るまで、三冠馬が特別な存在として敬われていることは、むしろ当然ということができる。
そんな偉大な三冠馬にあと一歩届かなかった二冠馬たちの中で、1987年の皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーは、かなりの異彩を放つ存在である。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられたという特異な経歴を持つサクラスターオーは、まず皐月賞を圧倒的な強さで制して「最も速い馬」となった。しかし、その後脚部不安で長期休養を余儀なくされ、日本ダービーには出走することさえできないまま三冠の夢と可能性を断たれたサクラスターオーは、ダービーの後の調整も遅れに遅れ、ついには半年間の空白を経て、菊花賞本番で復帰するという前代未聞のローテーションを採らざるを得なかった。
「無謀だ」
「3000m持つはずがない」
そんな批判を浴びながら菊花賞に向かったサクラスターオーだったが、それからが彼の真骨頂で、クラシックの最後の戦場、そして半年ぶりの実戦となったここで、他の馬たちをなぎ倒して二冠目を奪取した彼は、「最も強い馬」となったのである。
サクラスターオーのことを、ファンは「奇跡の馬」「幻の三冠馬」と呼んだ。「最も速い馬」にして「最も強い馬」となったサクラスターオーが「三冠馬」と呼ばれるため足りなかった勲章はただひとつ、「最も幸運な馬」に与えられるべき日本ダービーだった。
しかし、そうした輝かしい栄光のすべてが儚くなるまでに、時間は必要なかった。サクラスターオーは、翌年の年頭、1987年の年度代表馬にも選出されたものの、年度代表馬選出が決まったその時も、彼の関係者たちの表情に喜びはなかった。前年の桜の季節に花咲き、さらに菊の季節にもう一度狂い咲いたサクラスターオーは、年末の祭典・有馬記念(Gl)で無残に倒れ、この時生死の境をさまよっていたのである。そして彼は、再び巡ってきた桜の季節の終わりとともに、華やかながらも哀しみに彩られた短い生涯を閉じた。
サクラスターオー自身、競馬場で戦った期間はわずか14ヶ月間にすぎない。そのうちの10ヶ月間は脚部不安による2度の長期休養にかかっており、ファンの前で姿を見せていた期間は、さらに短かい。彼が得意とした競馬の内容も中団からの差し切りであり、大逃げや追い込みのようにファンを魅了する強烈な戦法を得意としていたわけでもない。新馬戦で1番人気に支持された彼だが、その後は1番人気に支持されることさえなく、彼が次に1番人気に支持されたのは、最後のレースとなった有馬記念(Gl)のことだった。それでも私たちは、鮮烈な印象を残した彼の面影を忘れることはない。
昭和も末期を迎えた時代、「サクラスターオー」と呼ばれた1頭のサラブレッドがいた。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられた彼は、生まれながらの脚部不安を抱えながら、流れ星さながらにターフを駆け抜け、煌めいた。まるで、自分を育ててくれた人間の恩に報いようとするかのように。育ての親が彼の活躍を見ることなく逝ったことも知らず、ひたすらに走り、ひたすらに戦い続けた彼の姿は、流れ星のように美しく、そして儚く輝いた。そんな彼は、自らが背負った悲しい宿命に殉じるかのように、平成の世の到来を待たずして消えていったのである。
サクラスターオーが生まれたのは、静内の名門藤原牧場である。藤原牧場といえば、古くは皐月賞馬ハードバージや天皇賞馬サクラユタカオー、比較的最近ではダービー馬ウイニングチケットを生産した名門牧場として知られている。また、藤原牧場は「名牝スターロッチ系」の故郷としても有名であり、サクラスターオーもスターロッチ系の出身である。
サクラスターオーの母サクラスマイルは、スターロッチ系の中でも特に優れた繁殖成績を残した名牝アンジェリカの娘である。彼女の系統は、スターロッチ系の中でも本流というべき存在で、「日の丸特攻隊」として知られたサクラシンゲキはサクラスマイルの兄、天皇賞・秋(Gl)をレコードで制したサクラユタカオーはサクラスマイルの弟にあたる。また、サクラスマイル自身、重賞勝ちこそないものの、中央競馬で29戦4勝という数字を残し、エリザベス女王杯(Gl)3着をはじめとするなかなかの実績を残している。
そんなサクラスマイルだから、競走生活を切り上げて藤原牧場に帰ってくるにあたっても、かなりの期待をかけられていた。そんなサクラスマイルの初年度の交配相手は、日本ダービー馬サクラショウリに決まった。サクラショウリといえば、ダービー以外にも宝塚記念を勝ち、皐月賞3着などの実績を残したパーソロン産駒の名馬の1頭である。その冠名から分かるとおり、この2頭はいずれも「サクラ軍団」の全演植氏の持ち馬であり、その配合も馬主の縁で行われた。
自らの勝負服で走った両親から生まれた血統の馬を走らせることは、「馬主冥利に尽きる」とよくいわれる。サクラスターオーも、名牝系の末裔にして「サクラ軍団」の粋を集めた血統として、生まれながらに人々の期待を集めていた。
しかし、そんなサクラスターオーを待っていたのは、早すぎる悲運だった。ある夏の日、サクラスターオーと一緒に放牧されていたサクラスマイルは、腸ねん転を起こして突然倒れた。牧場の人々が駆け寄ったとき、幼きサクラスターオーは、懸命に倒れた母を起こそうとしていたというが、サクラスマイルが息を吹き返すことはなかった。サクラスマイルがサクラスターオーを産み落としたわずか約2ヵ月後の悲劇だった。
サラブレッドの場合、出産の際に母馬が命を落とすことは、そう珍しいことではない。このような場合に最もよく使われるのは、遺された子馬に母親代わりの乳母をつけ、乳母の手で育てさせる方法である。しかし、この方法は、母馬が出産後間もなく死んだときしか使えない。一度母馬に育てられた子馬には母馬の匂いがついてしまうため、後から乳母をつけようとしても、乳母が他の馬の匂いがついた子馬を育てようとはしないのである。約2ヶ月間にわたってサクラスマイルに育てられたサクラスターオーにも、乳母をつけることは困難だった。
藤原牧場の場長である藤原祥三氏は、サクラスターオーをどうやって育てたらいいのか散々悩み、ついには自らの手で育てることを決意した。子馬は数時間に一度の割合でミルクを飲むが、藤原氏は、夜も4時間ごとに起きるとミルクを作り、サクラスターオーにミルクを与え続けた。しまいには、サクラスターオーの方でも藤原氏の足音を聞き分けるようになり、藤原氏の足音が聞こえるだけで、甘えて鳴き声をあげるようになったという。藤原氏は、サクラスターオーにとって、まさに親代わりの存在だった。
ただ、子馬はミルクを与えるだけでは強い馬には育たない。十分な食事とともに十分な運動があってこそ、サラブレッドは持って生まれた資質を花開かせることができる。同期の子馬たちがまだ離乳せず、母馬と一緒にいる中で、母馬のいないサクラスターオーを1頭だけ放していても、仲間にも入れてもらえないし、十分な運動もできない。
そこで藤原氏は、サクラスターオーの曾々祖母(祖母の祖母)で、繁殖牝馬を引退し、功労馬生活を送っていたスターロッチをサクラスターオーと一緒に放牧することにした。高齢のスターロッチは、若い母馬のように子馬と一緒に走り回ることはできないが、サクラスターオーの母親代わりとして飛び回る彼を常に見守っていたという。
母なきがゆえに藤原氏、スターロッチらに「育てられた」サクラスターオーは、まるで自分に母のないことが分かっているかのように、大人びた馬に育っていった。5月2日生まれのサクラスターオーは、同期の馬の中でも生まれは遅い方だったが、自分より早生まれの馬たちがまだ乳離れもできないうちから、1頭で牧草を食べ、他の馬がいなくても自由に牧場を走り回るようになっていった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。
日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。
だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。
日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、
「オグリキャップがいたら・・・」
という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。
時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。
そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。
サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。
サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。
サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。
もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は
「若い奴にはチャンスを与えないといかん」
ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。
すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。
谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。
現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。
だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。
マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。
朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、
「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」
そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。
こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。
現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本の馬産界には、「一腹一頭」という格言がある。それは、どんな期待の繁殖牝馬であったとしても、その生涯で本当に走る産駒は1頭送り出せれば十分成功といえるのだから、それ以上を求めてはいけない、ということを意味している。
牡馬であれば、人気種牡馬は1年で100頭以上、生涯では2000頭以上の産駒を残すことも不可能ではない。しかし、牝馬の場合は、どんなに頑張っても1年に1頭しか子を生むことができない以上、生涯で残すことができる産駒も、せいぜい十数頭に過ぎない。1頭の牝馬から名馬が生まれる確率が本来天文学的確率であることからすれば、「一腹一頭」という言葉の説くところは、至極もっともであるといえるだろう。
「一腹一頭」の正しさを裏付けるように、毎年何十頭もデビューする「Gl馬の弟や妹」たちの中から兄や姉を超える名馬が現れることは、滅多にない。それでも、ごくまれにGlのきょうだい制覇を果たす馬が現れることもないではないが、「名馬」の必須条件ともいえる「Gl2勝以上」を両方が記録しているきょうだいとなると、その数はさらに限定される。
日本競馬において、輝かしい戦績を挙げたきょうだいといえば、パシフィカスを母とするビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟、スカーレットブーケを母とするダイワメジャーとダイワスカーレットの兄妹、オリエンタルアートを母とするドリームジャーニーとオルフェーヴルの兄弟などの名前が挙がる。いずれも単独でも名馬と呼ばれる水準の産駒が同じ母から生まれるという奇跡は、もっと高い評価を受けてしかるべきであろう。
しかし、兄弟合わせてGl6勝を挙げ、その勝ち鞍もいわゆる「八大競走」か、それに準ずるレースばかりという、競馬史に特筆すべき実績を残していることは明らかなのに、その栄光が忘れられがちとなっている例もある。
その例とは、メジロオーロラを母とするメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟である。厳密には、弟に対する評価は、現役を退いてから約30年が経過しつつある現在においても「天皇賞親子三代制覇」という金看板を背負って誰からも「名馬」と認められている。しかし、弟と同じ2400mを超える長距離でその実力を最大限に発揮したステイヤーであり、自身も菊花賞と有馬記念という根幹Glを制したはずの兄が、現役時、そして引退後ともぱっとしない扱いを受け続けたことは、極めて残念であるというよりほかにない。
確かに祖父、父とも芦毛の天皇賞馬であり、自らの天皇賞制覇によって父子三代天皇賞制覇という奇跡を成し遂げた弟と違い、地味な輸入種牡馬を父としていた兄に、弟のような分かりやすい物語はなかった。また、2つのGl勝ちはいずれも人気薄の時でのもので、しかもレース中に有力馬のアクシデントがあったため、印象が薄くなりがちという不幸な面もあった。しかし、そうした要素はメジロデュレンにはあずかり知らぬことである。そもそも、実力がない馬ならば、Glを2つも勝てるはずがない。
生涯を通じて堅実な成績を収め、どんなレースでもそれなりに走った優等生の弟とは違い、兄は調子の悪い時にはまったく勝ち負けにもならず、大崩れすることが珍しくなかったため、「気分次第の一発屋」というイメージがつきまとったことは事実である。しかし、兄が勝ったレース・・・菊花賞、有馬記念優勝という実績は、弟の存在を切り離したとしても、十分「一流」の賞賛を受けるに値するものである。こと長距離で能力を最大限に発揮した時に限れば、メジロデュレンの強さは、決してメジロマックイーンに引けを取るものではなかったのではないか。さらに、メジロデュレンは、名門メジロ牧場に初めて牡馬クラシックをもたらした馬であるということも、忘れてはならない重要な事実である。私たちは、メジロデュレンという馬について、もっと正当に評価する必要があるのではないだろうか。
メジロデュレンは、その冠名が示すとおりに「メジロ軍団」の馬ではあるものの、生まれはメジロ牧場ではない。メジロデュレンが生まれた浦河の吉田堅牧場は、当時の繁殖牝馬10頭のすべてがメジロ牧場の仔分けであり、メジロデュレンもそんなメジロ牧場の仔分け馬メジロオーロラの子として生まれている。ちなみに、「仔分け」とは、馬主が繁殖牝馬を自らの所有馬として牧場に預け、産まれた子供の所有権は馬主が得ることをあらかじめ約束しておく方法である。
メジロデュレンの母メジロオーロラは、メジロ牧場の基礎牝系のひとつであるアサマユリ系に属している。アサマユリは、自らの現役時代こそ平地で21戦2勝、障害で4戦未勝利とパッとしない成績に終わったものの、繁殖に上がってからは2頭の重賞馬を出しただけでなく、さらに毎年のようにターフへと送り出した産駒のうちの娘たちを通じて、その血をさらに拡げたメジロ牧場の主流血統のひとつだった。
アサマユリの初子メジロアイリスは、平地、障害でそれぞれ3勝ずつを挙げている。そのメジロアイリスに、英国の重賞を4勝して輸入され、ダービー馬のオペックホースやオークス馬のアグネスレディーやテンモンなどを輩出した名種牡馬のリマンドが交配されて生まれたのがメジロオーロラである。
『情熱が人を動かす』
メジロオーロラが吉田牧場にやってくることになったのは、吉田堅(かたし)牧場の先代・吉田隆氏の情熱のたまものだった。
吉田牧場がメジロ牧場の仔分けを始めたのは、1968年ころのことである。彼の牧場の仔分け馬からは、天皇賞、有馬記念で続けてハナ差の2着に入ったり、天皇賞6回、有馬記念5年連続出走という怪記録を作ったりして「個性派」として人気があったメジロファントム、牝馬ながらにセントライト記念で菊を目指した牡馬たちを完封したメジロハイネ、そして中山大障害を勝ったメジロジュピターが次々と重賞を勝った。そして、彼らの母はすべてアサマユリ系のメジロハリマだった。
しかも、吉田牧場から重賞を勝った3兄弟が出たのと時を同じくして、やはりアサマユリ系の繁殖牝馬を預かっていた近所の牧場の生産馬からも、同じように活躍馬が何頭か現れた。不思議なことに、吉田牧場の近所では活力ある発展を見せていたアサマユリ系なのに、メジロ牧場を含めた他の地域からは、活躍馬がなかなか出てこない。吉田氏は、いつしか
「きっと、この周辺の土地が、アサマユリ系と相性が良いのだろう・・・」
と確信するようになっていった。
そう思っていた矢先に、アサマユリ系の出身で、しかも吉田氏がかねてからその血を導入したいと思っていた種牡馬リマンドを父とする牝馬が、「メジロオーロラ」としてデビューするという噂が飛び込んできた。当時の日高にはリマンドの娘が滅多におらず、その血を持つ繁殖牝馬もなかなか手に入らない。吉田氏はこの機をおかず、メジロオーロラを引退後には自分の牧場で預からせてもらえるよう、メジロ牧場に頼み込むことにした。
もっとも、メジロオーロラに競走馬としてあまり良い成績を挙げられると、「預からせてください」とはいいにくくなる。メジロ牧場自身も生産牧場を持っている以上、優秀な成績を挙げた繁殖牝馬は、なるべく自分の牧場に留めておきたいというのも人情である。・・・しかし、幸か不幸かメジロオーロラは、5歳いっぱいまで走ったものの、1勝を挙げたのみで引退することになった。
吉田氏は、メジロ牧場の総帥・北野豊吉氏に直接会った際、
「ぜひオーロラを仔分けの繁殖牝馬として預からせてもらいたい」
と頼み込んだ。すると、北野氏は、
「そんなに気に入った血統なら、どうぞ連れて行ってください」
と吉田氏の頼みを聞き入れ、繁殖に上がったばかりのメジロオーロラを吉田牧場へと送り届けたのである。
このような事情で、吉田堅牧場がメジロオーロラを預かった時点で、彼女から生まれる子馬が将来メジロの勝負服で走ることは、既に決まっていた。
仔分けの繁殖牝馬の配合については、馬主と牧場の個別の協議によって異なるようだが、メジロ牧場と吉田牧場の間では、最終的にはメジロ牧場が決めるものとされていた。繁殖に上がったばかりのメジロオーロラの初年度の交配相手として選ばれたのは、メジロ牧場がシンボリ牧場などと共同でフランスから購入したフィディオンだった。
フィディオンの競走成績は、通算8戦2勝に過ぎない。主な勝ち鞍がボワルセル賞・・・という彼は、英国ダービーに出走してはいるものの、グランディの8着に敗れており、競走馬としては二流のまま終わったと言わなければならない。
しかし、フィディオンの馬主は、メジロ牧場の北野豊吉氏がシンボリ牧場の和田共弘氏をはじめとする有力馬主とともに結成した日本ホースマンクラブであり、その代理人として欧州に渡った野平祐二騎手(後に調教師)が、2歳の時点で将来的な種牡馬としての資質と未知の魅力を見出して、競り落とした馬だった。当初から競走馬より種牡馬としての資質に着目されていたフィディオンは、引退後にはダンディルートらとともに日本へ連れてこられた。
こうして日本で種牡馬入りしたフィディオンだったが、北野氏や野平師にとって計算外だったのは、この馬がとんでもない気性難だということだった。輸入したての頃に、メジロ牧場の従業員に2人立て続けに大怪我を負わせたのである。あまりにも危険なために一時は種牡馬としての供用を中止することまで検討され、結局その案は思いとどまられたものの、メジロ牧場からは追われて別の牧場で供用されることになった。
しかし、種牡馬としてのフィディオンは、野平師の目にかなっただけのことはあり、その子供たちはなかなかの実績を残した。そう多くもない産駒の中から、京都記念と金杯を優勝し、天皇賞・春と宝塚記念で2着に入ったメジロトーマス、阪神大賞典優勝のメジロボアール、ステイヤーズS優勝のブライトシンボリ・・・といった活躍馬を次々と輩出したのである。これらの馬たちの実績をみれば分かるとおり、フィディオンは真性のステイヤー血統だった。これは、天皇賞制覇を最大の名誉とし、強いステイヤー作りを究極の理想に掲げたメジロ牧場にとって、うってつけの血統だった。
メジロオーロラの初めての種付けに当たっても、第一に意識されていたのは、「天皇賞を勝てる馬」を作ることだった。種牡馬として実績を残しつつあったフィディオンと交配されたメジロオーロラは、1983年5月1日、やや小柄な鹿毛の初仔を産んだ。この牡馬が、後に「メジロデュレン」と名づけられ、「メジロ軍団」に初めての牡馬クラシックをもたらすことになる。
『母の愛を知らず』
ところが、メジロオーロラは、初仔であるメジロデュレンに対して冷たい態度しか示さなかったという。メジロオーロラは、もともと気性に問題のある馬だったが、初子であるメジロデュレンに対しては、乳を飲ませることすら嫌がった。幼いメジロデュレンが乳を飲むために母のもとへとすり寄っていくと、メジロオーロラは座り込んで、メジロデュレンが乳を飲めないようにしてしまう。メジロデュレンは、生まれながらにして母に疎まれるという悲しい運命を負っていた。
それでも無事に成長したメジロデュレンは、当歳の10月にはメジロ牧場に移され、育成のための調教を積まれるようになった。狂気の血を持つ父、子をも拒む激しさがある母。そんな両親の血と気性を受け継いだメジロデュレンも、この頃から既に気性の激しさを見せていた。
しかし、それと同時に、彼は当歳離れした勝負根性・・・他の馬たちに決して負けまいとする強い意思を持っていた。子別れ以前から母に突き放されて育った幼いメジロデュレンは、他の同期よりもはるかに早く、ひとりで生きていくための覚悟を身につけていたのかもれない。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界には、「常識」と呼ばれるものが無数に存在している。馬の血統、個性、レースの展開、騎手の手腕、性格、人間関係など、様々な局面で気まぐれに顔を覗かせる「常識」は、ファンの予想に大きな影響を与える。時にはとんでもない誤解や勘違いで道を踏み外しながら、自分自身の「常識」を発見していくのも、競馬の楽しみ方のひとつである。自分自身の「常識」が、不特定多数の議論を経て競馬界の新しい「常識」としてとりいれられていくことは、インターネット時代を迎えた現代においては、それほど珍しいことではない。
世に広く受け入れられている「常識」の中のひとつに、「湿った芝では差し脚が殺されるため、前残りになる」というものがある。少なくとも芝のレースの場合、雨や雪によって馬場状態が悪化すると、直線での加速がつきにくくなり、最高速度も低下せざるを得ないことから、直線の瞬発力に賭けるタイプの馬たちに不利となることが多い。このような馬場で後方からの差しや追い込みタイプの馬が届きにくいことは、確かな事実として存在する。
しかし、時にはこのような「常識」を覆す存在が現れるのも、競馬の奥深さと面白さである。1987年の安田記念(Gl)を制したフレッシュボイスは、そんな常識破りの馬の1頭だった。彼は極端な追い込み一手の脚質でありながら、不良馬場や重馬場を得意とする、日本競馬の「常識」を超えた特異な馬だったのである。
フレッシュボイスは、1983年5月9日、当時静内にあった小笠原牧場で生をうけた。当時、小笠原牧場といえば、静内近辺では古い歴史を持つ名門牧場のひとつとして知られており、かつては1952年の皐月賞、ダービーでともに2着したカミサカエを出したこともあった。
小笠原牧場の歴史を支えたのは、セフトニヤという繁殖牝馬まで遡る牝系である。太平洋戦争が終わった1945年に生まれたこの牝馬は、前記のカミサカエのほかにも京阪杯を勝ったタイセフトを出し、さらに彼女の娘たちからはさらに多くの活躍馬を出した。セフトニヤを祖とする一族の中でも、孫にあたるベロナは、1965年のオークスを制している。
しかし、セフトニヤ系が繁栄する一方で、牝系の総本山とも言うべき小笠原牧場は、その恩恵に浴することができなかった。当時の当主が50歳にならない若さで急逝する悲劇に見舞われた小笠原牧場は、跡を継ぐべき子供たちが未成年であり、唯一の男手である婿も20代半ばだった上、馬産とはまったく無縁の公務員をしていた・・・という状況の中で、存亡の危機を迎えた。残された人々は、牧場を続けていくために、やむを得ず繁殖牝馬を大幅に整理して規模を縮小せざるを得なかったのである。その後競馬場で活躍したのは、ことごとくよその牧場に流出した繁殖牝馬の子供たちばかりだった。
そんな苦境にあって、小笠原牧場に残った数少ないセフトニヤ系の繁殖牝馬の末裔が、フレッシュボイスの母となるシャトーハードだった。ただ、フレッシュボイスが活躍する以前のシャトーハードは、決して優れた繁殖牝馬として評価されていたわけではなかった。彼女自身はあまりの気性の激しさに競走馬としてデビューすることができなかったし、彼女の子供たちも、母の激しすぎる気性を受け継ぎ、大成を阻まれていた。
こうした結果を受けて小笠原牧場の人々が考えたのは、
「穏やかな気性でシャトーハードの気性の激しさを打ち消してくれるような種牡馬はいないものか」
ということであり、そうして選ばれたのがフィリップオブスペインだった。
フィリップオブスペインは、英国で9戦1勝という戦績を残している。生涯唯一の勝ち鞍が3歳限定の5ハロン戦であるニューS(英Glll)という重賞だという事実は、わが国の競馬とはまったく異なる本場のレース体系の奥深さを物語る。他にも、3歳限定の6ハロン戦ミドルパークS(英Gl)、ジムクラックS(英Gl)でクビ差の2着に入った実績があり、競走馬としては典型的な早熟のスプリンターだった。
3年間英国で種牡馬生活を送った後に日本へ輸入されたフィリップオブスペインは、日本の水が合ったのか、なかなかの成功を収めた。フレッシュボイスのほかにも高松宮杯(Gll)を勝ったミスタースペイン、京王杯(現京成杯)SCを勝ったエビスクラウン、生涯103戦を走り抜いた文字通りの「百戦錬馬」(?)スペインランドなどを出したその種牡馬成績は、現役時代の競走成績に比べると上出来の部類に入るだろう。
フィリップオブスペインの子供は、気性がおとなしく、長い活躍が見込めるという特徴があった。小笠原牧場の人々は、フィリップオブスペインの血にシャトーハードの気性難を打ち消す役割を託した。・・・そして、フィリップオブスペインの子として生まれたシャトーハードの6番目の子となる鹿毛の牡馬は、牧場の人々の狙いどおり、とてもおとなしく、賢い子馬だった。父の穏やかな気性を受け継いで人間の手もあまりわずらわせることがなかったという彼は、やがて「フレッシュボイス」という名を与えられ、中央競馬へとデビューすることになった。
3歳になって境直行厩舎へと入厩したフレッシュボイスは、やがて福島へと連れていかれ、芝1000mの新馬戦でデビューすることになった。父の実績からすれば、平坦コースの3歳戦、それも短距離というのは、格好の稼ぎ時といえた。10月というデビュー時期も、有力馬が中央開催でデビューする中でのローカル開催にあたり、相手関係がかなり楽な時期である。
ところが、このレースでのフレッシュボイスは、11頭だての7番人気に過ぎなかった。少なくともこの時期のフレッシュボイスは、ファンの注目を集める存在ではなかった。
不良馬場でのレースとなったデビュー戦を、生涯ただ一度の逃げ切りで制したフレッシュボイスは、次走のきんもくせい特別(400万下)では、7頭だての6番人気ながら見事な差し切り勝ちを収め、2連勝を飾った。続く福島3歳Sでも、8頭だて5番人気の低評価に甘んじながら、鋭い追い込みで3着に入った。
フレッシュボイスの3歳戦は、福島での3戦だけに終わった。しかし、その戦績は3戦2勝3着1回という立派なものだった。デビュー前の注目度、そしてこの3戦での単勝人気を考えれば、上々の戦果だった。
3歳時は勝っても勝っても評価が上がらなかったフレッシュボイスだったが、さすがにこれだけ好走を続けると、周囲の視線も変わってきた。4歳初戦で初めて重賞に挑むことになったフレッシュボイスは、そのシンザン記念(Glll)では、2番人気に支持された。
「早く追い出すと末が甘くなるから、坂を登り切るまでは行くな・・・」
境師の指示を受けた古小路重男騎手も後方待機で待ちの競馬に徹し、最後はクビ差抜け出しての重賞制覇を果たした。後にフレッシュボイスの最大の武器となる瞬発力は、この時点から既に芽ぶきつつあった。
だが、フレッシュボイスの名前が本当の意味での全国区になったのは、次走の毎日杯(Glll)でのことだった。当時の毎日杯は、クラシックを目指す関西馬が賞金を加算して皐月賞へと参戦する最後のチャンスであり、「東上列車最終便」とも呼ばれていた。フレッシュボイスの場合、シンザン記念優勝の実績があって賞金は足りているとはいえ、血統的に距離への対応力が疑問視されており、2000mの毎日杯での結果は、今後のクラシックに向けた大きな試金石と位置づけられていた。
毎日杯当日、阪神競馬場には雪が降りしきっていた。フレッシュボイスの最大の持ち味である瞬発力が殺されてしまいかねない天候と馬場状態は、フレッシュボイス陣営の人々にとって、不安以外の何者でもなかった。
しかも、フレッシュボイスは、本賞金の多さゆえに他の出走馬たちより1kg重い56kgの斤量を背負い、鞍上も障害戦で落馬して負傷した古小路騎手からテン乗りの田原成貴騎手へ乗り替わっていた。様々な要因が重なってファンの不安も募り、この日のフレッシュボイスはタケノコマヨシに次ぐ2番人気にとどまっていた。
しかし、そんな不安を振り払うかのように、フレッシュボイスは圧勝した。スタートから立ち後れ気味になって最後方からの競馬となったフレッシュボイスだったが、向こう正面でまだ一番後ろにいたにもかかわらず、第3コーナーを過ぎると、みるみる進出を開始した。そして、直線に入ると、一完歩、一完歩ごとに、他の馬とは次元の違うパワーで鬼脚を爆発させ、最終的には2着に3馬身半差をつけて圧勝を飾ったのである。
この日の実況を担当した関西競馬中継の名物アナウンサー・杉本清氏は
「雪はやんだ、フレッシュボイスだ!」
と実況した。この実況はいわゆる「杉本節」のひとつとして後世に語り継がれているが、フレッシュボイスの名前も、当時の競馬界に「杉本節」の広がりとともに知られるようになっていった。・・・当日の降りしきる雪は、レースの間に弱まってはいたが、ゴール後も降り続いているようにしか見えなかったというのは、どうでもいい話である。
毎日杯を勝ったことで2000mの距離にも対応できることを証明したフレッシュボイスは、1986年牡馬クラシックロードを歩んでいくことになった。毎日杯での見事な騎乗が評価され、フレッシュボイスの主戦騎手は田原騎手が務めることになり、古小路騎手がその後フレッシュボイスに再び騎乗することはなかった。古小路騎手にとって、乗り替わりの原因となった負傷は、あまりに痛いものとなってしまった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
80年代から90年代にかけて新たに競馬に関心を持ったファンに対し、そのきっかけとなった名馬を聞いた場合、そのパターンはそれほど多くないことに気づく。かつては確かに「なんとなく後ろ暗いギャンブル」というイメージも根強かった日本競馬がこの時期に急成長したのは、「ギャンブル」とは無縁な一般大衆にも受ける分かりやすいスター性や物語性を持った名馬たちの登場によって大手マスコミに取り上げられ、その記事をきっかけに、多くの新規ファンが誕生したためである。それらのきっかけとなった名馬たちとは、「オグリキャップ」であり、「ナリタブライアン」であり、「サイレンススズカ」といった名前が挙がるが、彼らによって競馬に心を奪われた新規ファンが、自分が競馬を知る以前の馬のことを知りたいと思えば、当然のことではあるものの、後世の記録、映像を通してということになる。
1人の競馬ファンが直接見聞きしうる競馬など、日本競馬の長い歴史の中では、しょせんひとコマかふたコマの限られた一部に過ぎない。歴史が過去から連綿と続く積み重ねであり、人の寿命に限りがある以上、競馬界を知るために自らの見聞ではない知識に頼らなければならないことは、避けることができない。
たとえ一時代前の馬であっても、誰もが認める名馬の場合は、後世の記録、映像として取り上げられることも多くなり、新しいファンがその功績、特徴に触れる機会も増えていく。「オグリ以降」のファンも、多くはシンザン、ハイセイコー、TTG、そしてミスターシービーやシンボリルドルフといった名馬たちのことを知っており、また程度の差こそあれ、その偉大さも認めている。
しかし、すべての馬が記録や映像によって大きく取り上げられるわけではないのも競馬の現実である。記録や映像としての競馬を伝えるマスコミは、本質が営利企業である宿命で、その関心は大衆の興味を引きやすい馬・・・ごく限られた歴史的名馬や比較的新しい馬に集中しがちである。マスコミに取り上げられない多くの馬たちは、当時は一流馬として認知された馬であっても、やがて忘れられ、マスコミに頻繁に取り上げられる同時代の名馬たち、新たな時代の名馬たちによって歴史の片隅へと追いやられていく。
1985年の朝日杯3歳S(Gl)を制したダイシンフブキも、まさに歴史の片隅へと追いやられる悲劇を背負った馬である。最初に挙げた馬たちをきっかけに競馬に関心を持ったファンの大多数は、おそらくそのほとんどが名前すら知らないであろうダイシンフブキだが、彼は無敗の4連勝で朝日杯を勝って世代の頂点に君臨したほどの強豪だった。そんな彼が不当な評価に甘んじたのは、その極端な短距離血統ゆえに、クラシックに挑む前から「血統的にクラシックは無理」という評価に支配されてしまった不運ゆえだった。そうした声を一掃すべくクラシックの前哨戦となる弥生賞をも勝ち、ようやく主役としての地位を勝ち得たダイシンフブキだったが、そんなを待ち受けていたのは、渇望していた歓喜と栄光ではなく、予期せぬ失意と屈辱だった。・・・(旧)3歳時に同世代のサラブレッドの頂点に立ったダイシンフブキの栄光の季節はあまりにも短く、まるでその名にし負う「吹雪」のように、春の訪れとともに去っていったのである。
ダイシンフブキの生まれ故郷は、公式では浦河の鎌田牧場とされている。だが、彼を実質的にこの世へと生み出した牧場は、鎌田牧場ではない別の牧場である。
ダイシンフブキの血統は、今はなき浦河の名門牧場・ヤシマ牧場に遡ることができる。戦後間もない時期の大レースの勝ち馬生産者欄に多くの名を連ねるヤシマ牧場は、1953年にはボストニアン、56年にはハクチカラという2頭のダービー馬を出して黄金期を迎えた。なお、53年の菊花賞で二冠馬ボストニアンを破って三冠を阻止したのはハクリョウだが、この馬もヤシマ牧場が他の牧場に預託馬として預けていた牝馬から生まれた馬だった。
そのヤシマ牧場によって1961年に英国から輸入された繁殖牝馬のアーイシャは、英国2000ギニー馬Martialの妹という良血を期待され、将来のヤシマ牧場の屋台骨を担う主流血統となることを期待されていた。
しかし、そんな期待を背負って日本へやって来たアーイシャは、輸入直後の62年に牝馬のギフトヤシマを生んだものの、その翌年に受胎しながら流産したのを最後に、その後9年連続して不受胎に終わり、繁殖牝馬としての使命を終えることになった。アーイシャのただ1頭の娘となったギフトヤシマも、母に似て受胎しにくい体質だったのか、生涯に残した産駒は3頭、そのうち牝馬は1頭だけという繁殖成績に終わった。
ダイシンフブキの母となるラビットヤシマは、そのギフトヤシマが残したただ1頭の牝馬である。アーイシャ、ギフトヤシマと続く「一子相伝」の牝系を受け継いだラビットヤシマは、競走馬としては5戦未勝利に終わったものの、繁殖に上がってようやくまともに産駒をだすようになった。アーイシャから数えて、実に3代目のことだった。
・・・ところが、ギフトヤシマが産駒を出し始めたころには、肝心のヤシマ牧場の方が活力を失い始めていた。かつて毎年のように出走馬を送り出していた大舞台からヤシマ牧場の名前が消え、やがて重賞で見出すことさえできなくなっていった。1940年代後半から50年代にかけて音に聞こえた名門牧場としてならしたヤシマ牧場は、時代の流れとともに勢いを失い、ついに閉鎖されることになった。
閉鎖が決まったヤシマ牧場の繁殖牝馬たちは、次々と新しい買い手がつき、他の牧場へと移っていった。だが、ラビットヤシマだけはなかなか買い手がつかない。ラビットヤシマが繁殖牝馬としてはもう高齢だったことに加え、彼女の産駒自体も、ダイシンフブキ以前に生んだ7頭の兄姉のうち勝ち馬が1頭だけでは、他の牧場から敬遠されるのもやむを得なかった。
「ラビットヤシマが売れ残っている」
その話を聞いて興味を持ったのが、やはり浦河にある鎌田牧場だった。ラビットヤシマが英国2000ギニー馬の妹の系統であることを知った鎌田牧場は、売れ残っていたこの牝馬の引き取り先として手を上げ、鎌田牧場へと迎え入れることに決めた。
鎌田牧場へ移って来た時、ラビットヤシマはすでに、ヤシマ牧場で交配されたドンの子を宿していた。その子こそが、後のダイシンフブキである。
1983年2月18日、ダイシンフブキは母親のが移籍したばかりの鎌田牧場でその産声をあげた。「兎選」・・・それが、生まれたばかりのダイシンフブキに与えられた幼名である。名前のうち「兎」は、母の「ラビット」からとられている。
ところで、この世に生を受けた兎選は、非常に特殊な・・・というよりは異常ともいうべき血統を持っていた。
もともと彼の母であるラビットヤシマは、母の父の父がNasrullah、父の母がRivazという血統だった。NasrullahとRivazは、父Nearcoと母Mumtaz Brgumの間に生まれた全兄妹である。
古くから、馬産界では「インブリード」と呼ばれる近親配合は、「名馬を生み出す配合」と信じられており、無数に繰り返されてきた。歴史を振り返ると、何頭もの歴史的名馬が強い「インブリード」の結果として生まれている。しかし、そんな少数の成功の裏には、その数十倍、数百倍の失敗がある。もともと父系をたどればわずか3頭の「三大始祖」に行き着く閉鎖的な血を持つサラブレッドにとって、さらに近親の血を重ねる「インブリード」の弊害は小さくなく、強い馬どころか競走馬にもなれない虚弱な馬、あるいは精神に狂気を宿した馬が生まれたことも多かった。
ラビットヤシマは、彼女自身の中に強い「インブリード」の血を持っていた。このような繁殖牝馬は、配合相手の種牡馬を選ぶ際には、徹底的に「インブリード」を避け、同系の血を持たない馬を選ぶのが普通である。ところが、ヤシマ牧場はそんなセオリーを無視して、ラビットヤシマの配合相手にドンを選んだ。
ドンは、現役時代にフランス2000ギニーなどを勝ったスピード馬で、種牡馬としてはアイルランドで4年間供用された後に、日本へと輸入されていた。代表産駒が「日の丸特攻隊」サクラシンゲキであることからうかがわれるとおり、その産駒は一本調子の短距離馬がほとんどだったが、種牡馬としての信頼性は高かった。問題は、ドンの血統である。
ドンは、Nasrullahの直系の孫だった。ただでさえNasrullahとその全妹の濃厚な「インブリード」がかかっているラビットヤシマなのに、そこへNasrullahの直系の孫を交配するというのだから、これはもはや「異常」というよりほかにない。
Nasrullahといえば、今でこそ歴史に残る世界的大種牡馬として認められているが、競走馬としての通算成績は10戦5勝、主な勝ち鞍もチャンピオンSで、クラシックとは無縁だった。彼の大成を阻んだのは、先頭に立ったとたんに気を抜くくせ、そしてあまりに激しすぎる気性ゆえだった。種牡馬としては卓越したスピードを子孫に伝えて多くの名馬を輩出したNasrullahだが、その半面で彼の産駒たちも父に似て気性が激しく、その血統は「狂気の血統」としても恐れられていた。ヤシマ牧場が残した配合は、Nasrullahのスピードと狂気を一身に集めた魔性の血だったのである。
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