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“ドクタースパート” の検索結果 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Sat, 27 Apr 2024 16:23:15 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 ライスシャワー列伝~疾走の馬、青嶺の魂となり~ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/#respond Sat, 27 Apr 2024 14:12:32 +0000 https://retsuden.com/?p=571 1989年3月5日生。1995年6月4日死亡。牡。黒鹿毛。ユートピア牧場(登別)産。
父リアルシャダイ、母ライラックポイント(母父マルゼンスキー)。飯塚好次厩舎(美浦)。
通算成績は、25戦6勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)2回、菊花賞(Gl)、
日経賞(Gll)、芙蓉S(OP)。

『時代』

 人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
 
 かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
 
 しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
 
 近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
 
 競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
 
 しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
 
 時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
 
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
 
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。

『ユートピアから』

 ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
 
 ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
 
 ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
 
 しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
 
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
 
 そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。

『隠れた良血』

 ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
 
 リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
 
 こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。

『その名のもとに』

 ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
 
 ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
 
 しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
 
 ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。

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サクラホクトオー列伝・編集後記 https://retsuden.com/horse_information/2023/03/1022/ https://retsuden.com/horse_information/2023/03/1022/#respond Sun, 02 Apr 2023 19:14:08 +0000 https://retsuden.com/?p=1022  「サクラの名を冠する」皆様が騒がしいようなので、忘れられないように本来「ヴィクトリー倶楽部」の一員であるべき馬の列伝を復刻しました。皆さま、ホクトオーのこともお忘れなく。。。サクラ前線上昇中の4月3日は、彼の誕生日です。それにしても、元ネタの横綱が将来理事長になるとは予想しなかったなあ…。

 サクラホクトオーは、「サクラ軍団」の一員であるだけでなく、輝ける1989年クラシック世代の代表馬の1頭でもあります。1989年クラシック世代・・・それは、2000年クラシック世代と並び称される「最弱世代」候補でもあります。いや、2000年組は、当時クラシックへの出走権がなかった外国産馬まで含めれば、アグネスデジタル、タップダンスシチー、エイシンプレストン、イーグルカフェらもいて「最弱」の「さ」の字も当てはまらなくなるのですが、89年組は・・・世代混合Gl勝ち馬がオサイチジョージただ1頭です。未整備だったとはいえ、ダート路線に目を向ければ名牝ロジータがいます!・・・JRA所属馬ですらないけれど。。。

この世代は、牡牝三冠勝ち馬6頭のうち、古馬になってからもまともに走れたのが皐月賞馬ドクタースパートとエリザベス女王杯馬サンドピアリスしかいない(オークス馬サンドピアリスはいちおう1走だけしていますが)ことからも分かる通り、主力となるべき彼(女)らが故障に泣きました。この世代で最も賞金を稼いだのがカリブソング、次点がミスタートウジンの無事是名馬系であるという事実は、競馬界の極めてどうでもいいトリビアです。そんな中で、本来であれば世代の中心となっていてもおかしくなかったにもかかわらず、それも故障とは違う「雨」という悲運に泣いたサクラホクトオーのことは、もっと知られていいはずです。サクラホクトオーが沈む条件の下で浮上するはずだったにもかかわらず、故障で戦線を離脱したレインボーアンバーが、故障のないまま皐月賞と日本ダービーを制して三冠に挑み、史実通りにバンブービギンの2着に敗れて阻止される世界線を妄想するのは、私以外にあまりいないでしょうが。・・・まさかレインボーアンバーの血が天皇賞馬レインボーラインにつながるとは思っていませんでした。

そういうわけで、サクラホクトオーのウマ娘化と、彼女と特別な縁を持つ天馬の戦いを描く「ウマ娘zero」を待望しています。

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サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/#respond Sun, 02 Apr 2023 17:52:46 +0000 https://retsuden.com/?p=293  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『雨に泣いたサラブレッド』

 全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。

 そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。

 栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。

 その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。

 だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、

「フォアボールを出してしまうかもしれない」

と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは

「お前の好きな球を投げろ」

と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。

 試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、

「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」

と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で

「わたしは雨を愛した詩人だ
 だがわたしは江川投手を愛する故に
 この日から雨がきらいになった
 わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」

と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。

 野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。

 サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。

『星のふる里』

 サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。

 サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。

 サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が

「どんな馬だろう」

と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、

「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」

と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。

 そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。

 谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。

『桜の星の下で』

 谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。

 兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、

「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」

などと話し合っていたという。

 ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、

「サクラセダンの子が生まれた」

と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。

 サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。

 谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。

「この馬はきっと走る!」

 彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。

 全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。

 とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。

 だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。

「3000万円!」

 ・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。

 こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。

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https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/feed/ 0
ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/#respond Mon, 14 Feb 2022 16:54:30 +0000 https://retsuden.com/?p=237 1886年4月10日生。2016年8月27日死亡。牡。芦毛。栗山牧場(茨城)産。
父シーホーク、母クリノアイバー(母父グレートオンワード)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は、11戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『芦毛の時代』

 かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに、日本競馬においては、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬がほとんどいなかった時代もあった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣っているわけではないことは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。

 芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったから、というべきだろう。今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割弱と、それほど多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。

 かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給するという建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では、優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給に資するため、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、その必要性を説くことによって、軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。

 サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、遠目からでも目立つ馬体ゆえに、軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。

 芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。

 しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていったことも、少なくなかったことだろう。馬の才能は、それを見抜く人がいない限り、決して生かされることはない。

 1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏したことで解体の道をたどり、戦後の日本は平和憲法のもと生まれ変わり、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていった。…しかし、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見まで、一朝一夕で消滅することはなかった。

 競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けた。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。

 迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういう迷信を気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。20世紀の競馬界において

「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」

「ジャパンCも1番人気が勝てない」

という迷信がどれほど語られてきたか。そして、今日においても

「青葉賞に出走した馬は日本ダービーでは用なし」

「皐月賞を勝っていない日本ダービー馬は、菊花賞を勝てない」

・・・そんな理屈では説明がつかない迷信が、「ジンクス」という形ではあっても、単に公然と語られるばかりか、馬券の検討にも大きな影響を与えていることは、公知の事実なのだから。

 このように競馬界に確かに存在していた「芦毛馬は走らない」という迷信が、明確な形で打ち破られたのは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛の名馬が次々と現れて多くのGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、芦毛の強豪が定期的に現れるようになり、さらに近年は白毛の強豪まで現れるようになった。こうした時代の中で、芦毛馬の競走能力に対する偏見は、いまや完全になくなったと言っていい。

 このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。

 もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。これほどの名馬たちですら手が届かなかったことからすれば、そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。

 もしその馬が存在しなかったとすれば、2021年まで経ってなお、「芦毛馬は日本ダービーを勝てない」ままであり、「芦毛馬は走らない」という迷信の残滓がジンクスと名を変えて、生き残っていたことだろう。そのジンクスが生き残っていた場合、日本ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、日本ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見落とす理由となっていたかもしれない。

『ダービー馬の周辺』

 ウィナーズサークルの父であり、彼に芦毛という毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えた種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けて日本ダービー馬の父となっている。

 シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー血統でもあった。

 競走馬としては10戦1勝とさほどのものではなかったが、繁殖牝馬として栗山牧場に帰ってきて、なかなかの産駒を出していたクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。

 栗山牧場は茨城にあるため、周囲に良質な種牡馬がほとんどいない。そこで、交配の際には繁殖牝馬を日を決めて北海道へ連れていき、種付けしていたのだが、この年はもともと種付け予定だった種牡馬が急死したため、困って松山師に相談した。すると、松山師からは、かつて彼の父親である松山吉三郎師が管理したモンテプリンス・モンテファスト兄弟を輩出したシーホークを勧められた。そこで、栗山牧場の人々は、クリノアイバーを北海道へ連れていき、シーホークとの交配を実現させた。こうして生まれたのが、後のウィナーズサークルだった。

『神の馬』

 クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。

 普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、それまでは、年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは、なぜか生まれたときから真っ白だった。

 牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。

「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「いや、神の馬かもしれないぞ」

 皆でそう噂しあったという。

『いずれ立つべき場所』

 やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕を高く評価されていた。

 松山師は、ウィナーズサークルの1歳上の半兄にあたるクリノテイオーも管理し、若葉賞(OP)を含めて3勝を挙げ、日本ダービー(Gl)出走も果たしている(サクラチヨノオーの14着)。そんな半兄を超える馬に育ててほしい・・・そんな思いを込めて、栗山氏はウィナーズサークルを松山師に託し、さらには命名も任せてみたところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。

 ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所で、競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。

 ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに「評判の期待馬」として有名になっていった。血統的にも距離が延びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から

「ダービーを意識して育てよう」

と思ったという。

 松山師がウィナーズサークルのデビュー戦での北海道遠征を避け、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後は休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。

『謎の気性難』

 しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、突然騎手に反抗し始める。そして、騎手と喧嘩しているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬から2秒以上離された4着に惨敗してしまった。

 ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。

 郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。

 郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。

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阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/#respond Tue, 12 Oct 2021 17:50:18 +0000 https://retsuden.com/?p=547  1982年5月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。土井昭徳牧場(新冠)産。
 父スポーツキー、母シルバーフアニー(母父ドン)。吉田三郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、京都3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『消えたGl』

 日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。

 もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。

 その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。

 だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。

 阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。

 「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。

 もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。

=ダイゴトツゲキの章=

『忘れられた初代王者』

 1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。

 ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。

『足跡をたどって』

 ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。

 土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。

 ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。

 ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。

 もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。

 一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。

 オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。

 日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。

『ささやかな願い』

 スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは

「こいつは走るんじゃないか」

と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、

「せめて1勝でもしてくれよ」

というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は

「牧場史上最高の大物になってくれよ」

と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。

『意外性の馬』

 「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。

 もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。

 ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。

 新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。

 ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。

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オサイチジョージ列伝 ~さらば、三強時代~ https://retsuden.com/horse_information/2021/18/277/ https://retsuden.com/horse_information/2021/18/277/#respond Sat, 18 Sep 2021 13:34:05 +0000 https://retsuden.com/?p=277  1886年4月13日生。死没年月日不詳。牡。黒鹿毛。大塚牧場(三石)産。
 父ミルジョージ、母サチノワカバ(母父ファバージ)。土門一美厩舎(栗東)。
 通算成績は、23戦8勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、神戸新聞杯(Gll)、
 京都金杯(Glll)、中京記念(Glll)、中日スポーツ賞4歳S(Glll)、葵S(OP)。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『ある時代の終わり』

 日本競馬史上「三強」と称された時代は多いが、それらが本当に「三強の時代」というに値したかどうかを検証していくと、必ずしもその呼び名がふさわしくない場合も少なくない。「三強の時代」というからには、傑出した3頭の名馬が互いにしのぎを削り、他の馬の追随を許さない状態で勝ったり負けたりを繰り返さなければ物足りない。しかし、同じ時代に、名馬と呼ぶにふさわしい馬たちが3頭も同じターフに立ち、実力の絶頂期が同じ時代に重なるなどという都合の良い事態は、なかなか起こるものではない。

 その点、昭和末期から平成初期にかけて、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンという、いわゆる「平成三強」が繰り広げた戦いは、まさに「三強」と呼ぶにふさわしい時代だった。「平成三強」を形成した彼らは、それぞれがGlを4、3、3勝した超一流馬であり、彼らが勝ったGlレースを並べてみると、1988年菊花賞、有馬記念、89年天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、マイルCS、有馬記念、90年天皇賞・春、安田記念、有馬記念・・・である。これを見れば、この3頭がいかにこの時期の中央競馬の主要レースを総なめにしていたかは一目瞭然である。

 しかも、この時代のおそろしいところは、三強以外の顔ぶれも決して貧しかったわけではないことである。89年春は、オグリキャップとスーパークリークが故障でレースに出走できなかったことから、「平成三強」が明確に意識されたのは同年秋に入ってからだが、後から見れば、この時代は、88年有馬記念でオグリキャップがスーパークリークを含めた出走馬たちを抑えて日本競馬の頂点に立った時に幕が上がっていたといっていい。その有馬記念でオグリキャップの前に立ちふさがったのは、1歳年上の世代で、同年に史上初めて天皇賞春秋連覇を果たした「白い稲妻」タマモクロスであり、またオグリキャップと同世代で、爆発的な末脚を武器として、既にGlを2勝していたサッカーボーイだった。また、三強時代の最中に彼らと競い、そして敗れていった馬には、皐月賞と天皇賞・秋のGl2つを制したヤエノムテキ、「無冠の貴公子」メジロアルダン、短距離Gl2勝に加えて中距離にも果敢に挑んだバンブーメモリー、ランニングフリーなどの名前があがる。さらに、三強時代の終わりに世代交代を狙って世代交代の闘いを挑んだ1歳下の世代の馬にも、メジロライアン、ホワイトストーン・・・といったそうそうたる面々が名を連ねている。

 そんな極めて充実したメンバーの中で、「平成三強」は、傑出した実力と結果を示し続けた。オグリキャップとスーパークリークが初めて対戦し、「平成三強」同士が初めて直接ぶつかった88年有馬記念からあるレースまでの約1年半にわたり、「平成三強」のうち2頭以上が出走したレースでは、外国招待馬ホーリックスが優勝した89年ジャパンC(Gl)以外のすべてのレースで、三強のいずれかが勝ち続けた。また、彼らの中で1頭だけが出走したレースでも、「平成三強」以外の馬に優勝を許したのは、成績にムラがあったイナリワンだけだった。何ともすさまじい時代であり、このような時代が、果たして今後再び来ることはあるのか、疑問ですらある。

 だが、どんなに素晴らしい時代にも、終わりは必ず来る。長きにわたって続いた「平成三強」の時代は、1990年の宝塚記念をもって大きな転機を迎えた。このレースには、オグリキャップとイナリワンという三強のうち2頭が出走しながら、他の日本馬が勝ってしまったのである。

 このレースをもって、「平成三強時代」は終わりを告げたといってよい。イナリワンはこの日が現役最後のレースとなり、二度とターフに戻ってくることはなかった。また、このレースを直前になって回避したスーパークリークは、秋に1戦した後、脚部不安によって引退した。そしてオグリキャップは、秋に戦線に復帰したものの、その後はかつての煌きを失ったかのように天皇賞・秋、ジャパンCと惨敗を繰り返した。これらの敗戦は、最後のレースとなる有馬記念によって伝説の一部として塗り替えられたとはいえ、「平成三強」の筆頭格だったオグリキャップには考えられないほど惨めな光景だった。

 その意味で、1990年の宝塚記念でオグリキャップを抑えて優勝した馬・・・オサイチジョージの存在は、もっと強く意識されてしかるべきである。宝塚記念でオグリキャップとイナリワンを破った彼は、その勝利によって、単にひとつのGlを勝ったにとどまらず、平成三強時代に幕を引いた存在なのだから。

『オサイチジョージ』

 オサイチジョージは、1986年4月13日、北海道三石郡三石町の大塚牧場で産声を上げた。

 オサイチジョージの母であるサチノワカバは、道営競馬で3勝を挙げている。サチノワカバの牝系は、大塚牧場が何代にもわたって育んできた牝系で、叔父に阪神3歳Sを勝ったカツラギハイデン、大伯父に菊花賞など重賞6勝を含む13勝を挙げて種牡馬になったアカネテンリュウがいる。

 オサイチジョージの父であるミルジョージは、当時のサイヤーランキング上位の常連であり、また平成三強の一角・イナリワンの父でもある。オサイチジョージとイナリワンは、牝系のみを兄弟の基準とする馬の世界でこそ「兄弟」とは呼ばれないものの、人間ならば「腹違いの兄弟」にあたる。

 ミルジョージの競走馬としての成績は、4戦2勝にすぎない。故障があったとはいえ、お世辞にも一流と呼ぶことはできない。だが、彼の父は英国ダービー、キングジョージ6世&QエリザベスDS、凱旋門賞という、いわゆる「欧州三冠」を史上初めて旧4歳で全て制した「英国の至宝」Mill Reefの産駒だった。そのため彼の血統に期待をかけた日本に輸入され、種牡馬として供用されていたのである。

 すると、日本競馬に合っていたのか、ミルジョージは種牡馬として大成功した。彼の代表産駒としては、イナリワン、オサイチジョージのほかにも、90年のオークス馬エイシンサニー、91年のエリザベス女王杯馬リンデンリリー、帝王賞と東京王冠賞を勝って絶対皇帝シンボリルドルフにも食い下がった南関東の雄ロッキータイガー、牝馬ながら南関東三冠、東京大賞典を総なめにしたロジータ、長距離重賞を2勝し、天皇賞・春でも2着に入ったミスターシクレノンなどの名前が挙がる。ミルジョージ産駒の特徴は、芝でも実績は十分だが、ダート戦で実力を発揮する仔が非常に多かったことであり、ミルジョージの産駒からは、地方競馬の雄も多数輩出されている。

 オサイチジョージは、ミルジョージが旧12歳の時に生まれた世代にあたる。5歳時から日本で種牡馬生活に入ったミルジョージにとっては、一流種牡馬としての評価が固まりつつある時期であり、後から見れば、ミルジョージの代表産駒とされる馬たちの多くは、この前後に生まれている。当時のミルジョージは、種牡馬として最も脂が乗った時期を迎えており、種付け料も高かった。

 もっとも、ミルジョージとサチノワカバとの間に生まれたオサイチジョージは、生産者である大塚牧場の目には、あまりできのよくない産駒と見えていたようである。当歳の時に庭先取引で売れたとされているオサイチジョージだが、実際にはこの時馬主が目を付けたのは同い年の別の牝馬であり、その際に大塚牧場が、

「ついでにもう1頭買っていってほしい」

と言って見せた3頭の中から、馬主がオサイチジョージを選んだということである。意地の悪い言い方をすれば、オサイチジョージは「抱合せ販売のおまけ」に過ぎなかったことになる。実際には、「おまけ」が宝塚記念をはじめ重賞を5勝したのに対し、本来の目的であった牝馬は未出走のまま繁殖入りしたというから、サラブレッドとは本当に難しい。

『人と馬と』

 旧3歳になったオサイチジョージは、土門一美調教師に入厩し、競走馬生活に入った。土門師は、オサイチジョージの主戦騎手として、自分の弟子である丸山勝秀騎手を起用することにした。

 丸山騎手とのコンビで3歳時を3戦1勝2着2回で終えたオサイチジョージだったが、脚部不安を生じたため、春のクラシックは断念することになった。4歳緒戦となったあずさ賞(400万下)、葵S(OP)を連勝したオサイチジョージの重賞初挑戦は、血統的には中距離馬と思われていたにもかかわらず、裏街道と呼ばれるニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)だった。

 このレースで1番人気に推されたオサイチジョージだったが、直線で2度も前が壁になる不利を受けてしまい、3着に終わった。このレースの後、丸山騎手は、

「私の騎乗ミスです。馬には責任はありません」

と関係者に頭を下げて回ったという。

 丸山騎手は、デビューした年こそ21勝を挙げて注目されたものの、その後は伸び悩んでおり、オサイチジョージに出会うまでの6年間で通算91勝、重賞勝ちはなしという状態だった。目立った数字を残しているとはいえず、むしろ伸び悩んでいた当時の丸山騎手にとって、人気馬で重賞の騎乗機会を得ることは、大きなチャンスだった。しかし、そんなレースで結果を残せなかっただけでなく、その原因が騎乗ミスともなれば、チャンスはむしろピンチとなりかねない。オサイチジョージについても乗り替わりを命じられるおそれがあったが、丸山騎手は潔く謝った。

 土門師らは、そんな丸山の潔さと心意気を買い、次走もコンビを継続した。すると、丸山騎手はその温情に応え、当時1800mで行われていた中日スポーツ賞4歳S(Glll)を勝った。これは、オサイチジョージにとってはもちろん、丸山騎手にとっても初めての重賞だった。

『出揃うライバル』

 一方、オサイチジョージが駒を進めることができなかった1989年春のクラシック戦線は、空前の大混戦となっていた。皐月賞(Gl)は道営出身のドクタースパート、日本ダービー(Gl)はそれまでダートでしか勝ち鞍のなかったウィナーズサークルが制した。牝馬戦線でも同様に、桜花賞(Gl)こそ1番人気のシャダイカグラが勝ったものの、オークス(Gl)を制したのは10番人気のライトカラーだった。

 混戦となった春のクラシックの裏側で、オサイチジョージの戦績は、7戦4勝2着2回3着1回となった。オサイチジョージが春のクラシックに出走していたらどうなっていたかは、無意味な仮定であるが、無意味と知りつつそのような仮定を考えてみたくなるほど、この世代は本命なき混戦だった。この時期の安定したレースからいえば、オサイチジョージが勝ち負けできる可能性も、決して小さくはなかったといえるだろう。

 皐月賞馬ドクタースパート、ダービー馬ウィナーズサークルともいまひとつ信頼感に欠ける中で、オサイチジョージはいまだ底を見せていない上がり馬と評価され、秋に向けての巻き返しが期待できる有力馬の1頭とされていた。

 もっとも、秋・・・菊花賞を目指す新興勢力は、オサイチジョージだけではなかった。栗東にはもう1頭、急速に頭角を現しつつある馬がいたのである。その馬の名は、バンブービギンといった。

 バンブービギンは、ダービー馬バンブーアトラスを父に持つ内国産馬で、素質は早くから期待されていたものの、脚部不安を抱えていたこともあって出世が遅れ、未勝利を脱出したのは4歳5月になってからだった。だが、鞍上に南井克巳騎手を迎えて、デビューから7戦目の初勝利を挙げると、晩成の成長力を爆発させてあっという間に3連勝し、注目を集めるようになっていた。

 夏を挟んだオサイチジョージは、神戸新聞杯(Gll)から始動したが、そこには3連勝中のバンブービギンの姿もあった。オサイチジョージは、そのバンブービギンに3馬身半の差を付けて快勝し、まずは秋の緒戦を飾った。続く京都新聞杯(Gll)にも返す刀で出走したオサイチジョージは、ダービー馬ウィナーズサークルとの一騎打ちと予想されていた。

 しかし、京都新聞杯でのオサイチジョージは、前走で決定的な差をつけて破ったはずのバンブービギンに1馬身1/4差をつけられ、雪辱を許す形となった。単純に計算すれば、オサイチジョージは神戸新聞杯からたった1ヶ月で、バンブービギンに約5馬身、先を越されたことになる。

 バンブービギンの父バンブーアトラスは、今とは違って東高西低だった時代に、関西の星としてダービーに挑み、見事に優勝している。だが、秋に菊花賞を目指したバンブーアトラスは、前哨戦の神戸新聞杯で激しく追い込み、阪神の短い直線だけで3着に突っ込んだ。だが、その激走で故障を発生した彼は、菊花の舞台を踏むことなく、そのままターフを去った。・・・それから7年、バンブービギンの出現はまさに「父の無念を晴らす息子」という大衆受けしやすいドラマとして語られるようになった。京都新聞杯でオサイチジョージ、ダービー1、2着馬であるウィナーズサークルとリアルバースデー、弥生賞大差勝ち以来のレインボーアンバーをまとめて差し切った勝ちっぷりは、ファンに夢を見させるに充分なものだった。

『秋風』

 続く菊花賞(Gl)では、オサイチジョージとバンブービギンに対するファンの支持は逆転し、春のクラシックでは影も形もなかったバンブービギンが1番人気に支持された。

 2番人気に支持されたのは、京都新聞杯(Gll)4着からの巻き返しを図るダービー馬ウィナーズサークルだった。天皇賞馬2頭を出した父シーホークのスタミナは、淀3000mでこそ生きると思われた。神戸新聞杯(Gll)を圧勝した時点では死角なしと思われていたオサイチジョージは、3番人気に留まった。

 菊花賞は、クラシック最後の一冠であり、京都3000mコースを利用して行われるため、淀の「だらだら坂」を二度越えることが要求される過酷なレースである。皐月賞とダービーに出走することさえできなかったオサイチジョージにとって、菊花賞は文字どおり、生涯一度のクラシックへの挑戦だった。

 しかし、この日のオサイチジョージの鞍上にいたのは、デビュー戦以来のパートナーの丸山騎手ではなく、彼の兄弟子に当たる西浦勝一騎手だった。丸山騎手は、こともあろうに菊花賞を目前にして騎乗停止処分を受けてしまい、オサイチジョージの一生に一度の晴れ舞台に、パートナーとして上がることができなくなってしまったのである。

 レースが始まると、バンブービギンは1番人気の意気に感じたか、好スタートを切ってからすぐに6、7番手に抑え、オサイチジョージ、ウィナーズサークルがそれを見るような形で道中を進んだ。・・・本来オサイチジョージに流れるミルジョージの血は、スタミナに富むものであり、淀の長距離にも充分対応できるはずだった。

 そんな血の力を封じたのは、ほかならぬオサイチジョージ自身の気性だった。ゆったりとした流れに耐えきれなくなったオサイチジョージは、かかり気味となってスタミナを消耗していったのである。西浦騎手にはそれを抑えることはできず、バンブービギンが二度目の坂で徐々に進出を開始した頃、それについていくことさえできなくなったオサイチジョージは、ずるずると後退していった。

 直線に入ってからは、バンブービギンが一気に先頭に立ち、そのまま快勝した。2着には弥生賞を大差勝ちしながら故障で皐月賞とダービーを使えなかったレインボーアンバー、3着にはダービー2着馬リアルバースデーが入った。日本ダービー馬のウィナーズサークルは10着に敗れ、後にレース中の骨折が明らかになった。

 オサイチジョージは、骨折したウィナーズサークルにさえ先を越される12着という無残な結果に終わってしまった。長距離への適性の限界か、はたまた馬と人との呼吸が原因なのか。原因は不明のまま、オサイチジョージの生涯一度のクラシックは寂しく幕を閉じた。

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