(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界には、直線での迫力ある末脚のことを指す「鬼脚」(おにあし)という言葉がある。言葉の由来は読んで字のごとき「鬼のような脚」ということになろうが、この言葉は、逃げ馬や先行馬が直線でさらに脚を伸ばす場合に使用されることはほとんどなく、中団よりさらに後方からの差し、追い込みが決まった時に使用されることが多い。
一般的に、後方からの競馬は、自分でペースを作れない上、勝負どころで前が壁になって閉じ込められる可能性があるため、好位からの競馬に比べて不利であるとされている。個々のレースに限れば、強豪たちが単発の作戦、あるいは展開のアヤによって後方からの競馬をすることはあるし、彼らがそうしたレースで「鬼脚」を見せて勝つこともある。しかし、そんな勝ちっぷりが彼ら自身のイメージとなるまでには、そうしたレースをいくつも積み重ねて実績を残さなければならない。最も不利な作戦で、誰もが認める成績を残す・・・そんな馬は滅多にいないというのが現実である。「追い込みの名馬」の代表格としてまず名前が挙がるのは1983年の三冠馬ミスターシービーだが、その彼ですら、第4コーナーで10番手以下の位置にいて勝ったのは、皐月賞と天皇賞・秋の2度しかない。スタート直後は最後方にいても、第3コーナーかその手前から進出を開始するミスターシービーの競馬は、純然たる直線勝負の追い込みというよりは、いわゆる「まくり」に近いものである。
だが、1993年牡馬クラシック戦線において、それほどに厳しい直線での追い込みを武器としてライバルたちに挑み、ついには「平成新三強」と呼ばれるまでに成長した稀有な強豪が現れた。その馬・・・ナリタタイシンは、いつも馬群の後方につけながら直線での追い込みに賭け、「鬼脚」のなんたるかを常に証明し続けた。直線で、掛け値無しに最後方から飛んでくる追い込みこそが彼の唯一無二の武器であり、420kg前後の細身の身体から繰り出される瞬発力は、まさに「鬼脚」という形容がよく似合うものだった。
ナリタタイシン・・・閃光のような末脚でファンを魅了した第53代皐月賞馬は、果たしてどのようなサラブレッドだったのだろうか。
ナリタタイシンは、1990年6月10日、新冠の川上悦夫牧場で生まれた。彼の血統は、父が米国のGlを3勝したリヴリア、母が日本で走って25戦1勝の戦績を残したタイシンリリィというものだった。
リヴリアは、仏米で通算41戦9勝の戦績を残し、ハリウッド招待ハンデ(米Gl)、サンルイレイS(米Gl)、カールトン・F・ハンデ(米Gl)を勝っている。もっとも、リヴリアの最大の特徴は、これら彼自身の実績ではなく、その血統にあった。リヴリアの母は、キングジョージⅥ世&Q.エリザベスll世S連覇をはじめGl通算11勝という輝かしい戦績を残した歴史的名牝Dahliaだったのである。
リヴリアは、
「Dahliaの子が欲しかった」
という早田牧場新冠支場の早田光一郎氏によって、引退後すぐに日本へと輸入されることになった。・・・もっとも、早田氏がこの時狙っていたのは、Dahlia産駒はDahlia産駒でも、リヴリアの半兄にあたるダハールだったという。ダハールの輸入交渉は値段の折り合いがつかずに決裂したが、そんな時にちょうど競走生活の末期を迎え、凡走を続けていたのがリヴリアだった。早田氏は、リヴリアについて
「僕が行った時に大差のどん尻負けなんかしちゃって、それで予想より安く買えた」
と語っている。
だが、そんなリヴリアに対して独自の視点から注目を寄せていたのが、早田氏と親しく、また独自の血統論を持つ生産者として馬産地で定評がある川上悦夫氏だった。
「Ribotの癇性とRivermanのスピードがはまれば面白いかも・・・」
彼が目をつけたのは、自分の好きなRibot系の繁殖牝馬と、リヴリアが持つRivermanの血だった。
川上氏は、母系としてのRibotの血をもともと高く評価していた。彼は、親交があった千葉の東牧場から繁殖牝馬を譲ってもらえることになった際に、Ribotの直系の孫にあたるラディガの肌馬を、3頭も譲り受けたほどだった。ナリタタイシンの母であるタイシンリリィも、その時に川上氏が東牧場から譲り受けた繁殖牝馬の1頭であり、1980年のオークス馬ケイキロクとは従姉妹同士にあたる良血馬だった。
タイシンリリィは、競走成績こそ25戦1勝というものだったが、川上氏は、多くの活躍馬を輩出する牝系の活力、そして自らが信奉するRibotの血が持つ底力に、ひそかに期待をかけていた。やがて、タイシンリリィが東牧場に残してきた娘のユーセイフェアリーがデビューし、阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残すと、彼女にかかる期待はより大きなものとなっていった。
タイシンリリィは、川上悦夫牧場にやって来てからも走る産駒を出し続け、川上氏の相馬眼が間違っていなかったことを証明した。タイシンリリィの2番子ドーバーシチー、3番子リリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げている。日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも半分程度という現実の中では、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。
川上氏は、自分の牧場の中でも屈指の繁殖牝馬となりつつあったタイシンリリィを、供用初年度のリヴリアと交配することにした。最初はなかなか受胎せず、種付けに何度も通うはめになったタイシンリリィだったが、最終的には無事にリヴリアとの子を受胎した。それが、後の皐月賞馬ナリタタイシンである。
ちなみに、リヴリアのシンジケートの株を持っていた川上氏は、この春にタイシンリリィのほかにもう1頭の繁殖牝馬をリヴリアと交配した。そして翌年、同じ1993年に川上悦夫牧場で生まれた2頭のリヴリア産駒は、ナリタタイシンが皐月賞馬となっただけでなく、もう1頭のマイヨジョンヌも新潟大賞典(Glll)連覇をはじめとして重賞を3勝することになる。だが、神ならぬ川上氏は、リヴリアが種牡馬として収める成功、そしてその後に待っている運命を、まだ知る由もない。
翌春、タイシンリリィは出産予定日を過ぎたにも関わらず、いっこうに出産の気配はないままだった。3月から5月にかけて出産シーズンを迎える生産牧場では、この時期はぴりぴりした緊張感に包まれる。しかし、6月に入っても生まれる気配すらないというなら、話は変わってくる。緊張があまり長く続くとどうしても気が抜けてしまうし、そもそも出産の気配すらないのだから、何か手を打つこともできない。
タイシンリリィには、1993年6月10日の朝も、何の異常も見られなかった。そこで彼女は、この日もいつもどおりに牧場の牧草地に放牧されていた。そして、昼過ぎのこと・・・
「できちゃってるよー!」
牧場の従業員が思わずあげた大声に、川上氏たちは放牧地へと集まってきた。・・・朝は1頭だったはずのタイシンリリィのそばに、1頭の見慣れない子馬がいた。タイシンリリィは、人間の手を借りないままに、放牧地で子馬を生んでしまったのである。・・・それが、ナリタタイシンの誕生だった。
]]>ふと思い立って、過去40年のジャパンCにおける日本馬の人気最上位と、最先着馬を並べてみました。本当はスペシャルウィークの専売特許ではない、ジャパンC名物「日本総大将」たちです。
1981 モンテプリンス(2番人気) ゴールドスペンサー(5着)
1982 スイートネイティブ(7番人気) ヒカリデユール(5着)
1983 ハギノカムイオー(6番人気) キョウエイプロミス(2着)
1984 ミスターシービー(1番人気) カツラギエース(1着)
1985 シンボリルドルフ(1番人気) シンボリルドルフ(1着)
1986 サクラユタカオー(1番人気) ミホシンザン(3着)
1987 レジェンドテイオー(7番人気) ダイナアクトレス(3着)
1988 タマモクロス(1番人気) タマモクロス(2着)
1989 スーパークリーク(1番人気) オグリキャップ(2着)
1990 オグリキャップ(4番人気) ホワイトストーン(4着)
1991 メジロマックイーン(1番人気) メジロマックイーン(4着)
1992 トウカイテイオー(5番人気) トウカイテイオー(1着)
1993 ウイニングチケット(4番人気) レガシーワールド(1着)
1994 マーベラスクラウン(6番人気) マーベラスクラウン(1着)
1995 ナリタブライアン(1番人気) ヒシアマゾン(2着)
1996 バブルガムフェロー(2番人気) ファビラスラフイン(2着)
1997 バブルガムフェロー(1番人気) エアグルーヴ(2着)
1998 スペシャルウィーク(1番人気) エルコンドルパサー(1着)
1999 スペシャルウィーク(2番人気) スペシャルウィーク(1着)
2000 テイエムオペラオー(1番人気) テイエムオペラオー(1着)
2001 テイエムオペラオー(1番人気) ジャングルポケット(1着)
2002 シンボリクリスエス(1番人気) シンボリクリスエス(3着)
2003 シンボリクリスエス(1番人気) タップダンスシチー(1着)
2004 ゼンノロブロイ(1番人気) ゼンノロブロイ(1着)
2005 ゼンノロブロイ(1番人気) ゼンノロブロイ(3着)
2006 ディープインパクト(1番人気) ディープインパクト(1着)
2007 メイショウサムソン(1番人気) アドマイヤムーン(1着)
2008 ディープスカイ(1番人気) スクリーンヒーロー(1着)
2009 ウオッカ(1番人気) ウオッカ(1着)
2010 ブエナビスタ(1番人気) ローズキングダム(1着)
2011 ブエナビスタ(2番人気) ブエナビスタ(1着)
2012 オルフェーヴル(1番人気) ジェンティルドンナ(1着)
2013 ジェンティルドンナ(1番人気) ジェンティルドンナ(1着)
2014 ジェンティルドンナ(1番人気) エピファネイア(1着)
2015 ラブリーデイ(1番人気) ショウナンパンドラ(1着)
2016 キタサンブラック(1番人気) キタサンブラック(1着)
2017 キタサンブラック(1番人気) シュヴァルグラン(1着)
2018 アーモンドアイ(1番人気) アーモンドアイ(1着)
2019 レイデオロ(1番人気) スワーヴリチャード(1着)
2020 アーモンドアイ(1番人気) アーモンドアイ(1着)
・・・特に20世紀において、ところどころでイメージと違う名前が並んでいたりしますが、たぶん気のせいです。。。うん。
こうして並べてみると、日本馬最上位人気で日本馬最先着を果たした馬たちは、名馬が並んでいます。シンボリルドルフ、トウカイテイオー、マーベラスクラウン、スペシャルウィーク、テイエムオペラオー、シンボリクリスエス、ゼンノロブロイ(2回)、ディープインパクト、ウオッカ、ブエナビスタ、ジェンティルドンナ、キタサンブラック、アーモンドアイ(2回)。
トウカイテイオーは故障と前走の大敗で人気を落としたと言いながら、実はジャパンCでも国内では最上位人気だったのです。・・・ん? マ ー ベ ラ ス ク ラ ウ ン で す と ?
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(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1990年秋、JRAは翌91年のレース番組編成にあたり、それまで「西の3歳王者決定戦」として親しまれてきた阪神3歳Sを牝馬限定戦の「阪神3歳牝馬S」に改め、東西統一の3歳女王決定戦としてGlに格付けすることを発表した。
実質的に91年から始まった阪神3歳牝馬Sは、20世紀最後の年である2000年まで続き、馬齢表記が数え年から満年齢に改められた2001年以降、「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めている。20世紀の終焉とともに姿を消した「阪神3歳牝馬S」の勝ち馬は、全部で10頭ということになる。
ところで、日本のホースマンたちの意識の中では、3歳戦(現表記では2歳戦)を勝つために最も重要な仕上がりの早さは、単体での「名馬の条件」とされてこなかった。それゆえに3歳Glは、サラブレッドたちの最終目標としては位置づけられず、ホースマンたちの目標は、あくまでも翌年のクラシック戦線やその後の古馬戦線に向けられていた。彼らの中では、3歳戦はクラシック戦線の「予選」にすぎない、という意識が強く、その固定観念は、3歳牝馬にとって唯一のGlである阪神3歳牝馬Sについても例外ではなかった。
前記のとおり、「阪神3歳牝馬S」として行われたレースは1991年から2000年までの10回で、その歴史には10頭のサラブレッドが勝ち馬として刻まれている。その阪神3歳牝馬Sの歴史を振り返ると、確かにこのレースが翌年以降のGlの「予選」としての役割を果たした年も珍しくない。91年ニシノフラワー、93年ヒシアマゾン、96年メジロドーベル、そして2000年テイエムオーシャン・・・。彼女たちは、いずれも阪神3歳牝馬Sの勝ち馬となっただけでなく、そこからさらに大きく羽ばたいて別のGlをも手にしている。彼女たちの名前だけを見れば、阪神3歳牝馬Sが翌年以降のGlの「予選」として機能していた、という見方は誤りではないように思われよう。
だが、強さと仕上がりの早さを両方備えた名馬として3歳Glを制したのは、10頭の勝ち馬のうち4頭だけである。阪神3歳牝馬Sというレースの性質を考える上では、残る6頭のこともあわせて考えなければならないのは、むしろ当然のことであろう。この6頭の名前と戦績をみると、このレースの勝者たちを単純に色分けすることの難しさに気づく。もし阪神3歳牝馬Sが、翌年以降のGl戦線、例えば牝馬三冠路線の単なる「予選」であれば、彼女たちのその後の「馬生」も、「重要な予選を勝ちながら、本戦に勝つことができなかった、あるいは出走できなかった」といったある意味で画一的な物語の中に組み込むことが可能だろう。しかし、阪神3歳牝馬Sは、まぎれもないGlでもあった。彼女たちの馬生には、その時点でGl勝ちというキャリアが刻まれる。Glというすべての馬たちが目指す目標をすでに制しながら、それだけでは十分な評価につながらないという中途半端さは、彼女たちの物語を「同じ阪神3歳牝馬Sを勝った」という共通点だけでとりまとめることを難しくする。
スエヒロジョウオー、ヤマニンパラダイス、ビワハイジ、アインブライド、スティンガー、ヤマカツスズラン。阪神3歳牝馬Sが唯一のGl勝ちとなった6頭も、同じ阪神3歳牝馬SというGlを勝ってはいても、その馬生における阪神3歳牝馬Sの位置づけはさまざまである。勝利がただちに栄光と幸福を約束するわけでもないまま、ただGl勝ちという色をつけられてしまった彼女たちの物語は、一様ではない。競走馬たちの早すぎる春・・・それが20世紀の3歳Glであった。歴代阪神3歳牝馬Sのうち、他のGlを勝っていない6頭の勝ち馬たちが、仁川を舞台に綴った早春物語は、果たしてどのようなストーリーだったのだろうか。今回のサラブレッド列伝では、そんな彼女たちにスポットライトを当ててみたい。
1992年の阪神3歳牝馬S勝ち馬スエヒロジョウオーのイメージを当時のファンに聞いてみた場合、たいてい返ってくるのは次のような答えだろう。
「ああ、あの12万馬券のスエヒロジョウオーか・・・」
1991年の阪神3歳牝馬Sを9番人気で制し、さらに2着に13番人気の馬を連れてきたために、馬連120740円の配当を演出したこと。スエヒロジョウオーについてのファンの記憶は、その一点に集約されている。彼女の別の姿を思い出すというファンは、競馬ファン全体の中でも極めて少ないであろう。
それもそのはずで、スエヒロジョウオーの通算成績は11戦3勝、阪神3歳牝馬S以外の勝利は未勝利戦、きんせんか賞(500万下特別)で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sひとつだけである。さらに、彼女が敗れた8戦を見ても、函館3歳S(Glll)で5着に入ったのを除くと、あとは掲示板にすら載っていない。人気でも生涯1番人気に支持されたことがなかったのはもちろんのこと、5番人気以内に入ったことすら、チューリップ賞(OP)での3番人気、一度きりというのだから念が入っている。
そんなスエヒロジョウオーの勝利には、「フロック」という評価がつきまとう。・・・「フロック」という言葉は、本来Gl馬に対して使うのは非常に失礼な形容であるが、ことスエヒロジョウオーに関していうならば、それ以外の形容は見つからない。
ただ、スエヒロジョウオーの場合、「フロック」を貶し言葉としてとらえることは間違いと言っていい。なぜなら、スエヒロジョウオーの名前は、その「フロック」のイメージの強烈さゆえに、並の阪神3歳牝馬S勝ち馬よりもはるかに深く競馬史、そしてファンの記憶に焼きついているからである。
スエヒロジョウオーの生まれ故郷は、小泉賢吾氏が個人で経営する小泉牧場だった。
スエヒロジョウオーの血統は、母がイセスズカ、父がトウショウペガサスというものである。イセスズカは、スズカコバンやサイレンススズカの生産牧場として知られる稲原牧場の生まれで、マルゼンスキーの娘という血統的な魅力もあったが、なにぶん通算成績が13戦1勝では注目されるはずもなく、引退後も稲原牧場ではなく小泉牧場に引き取られていた。
そんなイセスズカと交配されたトウショウペガサスも、重賞2勝でGl勝ちはなく、「トウショウボーイの半弟」という血統的背景がなければとうてい種牡馬入りできないクラスの種牡馬にすぎなかった。後に彼がスエヒロジョウオー、そしてフェブラリーS(Gl)勝ち馬グルメフロンティアを出して2頭のGl馬の父となることなど、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。
要するに、スエヒロジョウオーは、血統的な部分からは、どこをどう見ても注目されるはずがない馬だった。
そんなスエヒロジョウオーだったが、小泉氏の自慢の土で育った牧草を食みながら、順調に育っていた。この土は、小泉氏が牧場を継ぐことになった時、腰が弱い馬しか育たないことに危機感を覚えた小泉氏が、
「土の悪さを何とかしなくては、とあせったね。でも、土を改良するにはカネがかかる」
ということで、自分の肉体で土に鍬を入れて掘り返し、生き返らせたものだった。やがて、手を入れた土地からミミズが大量に湧いて出るようになったことで
「これならいける!」
と自信をつけた小泉氏は、相変わらずの自分なりの方法で「土との戦い」を続け、他の牧場が自分の家や生活にお金をかけていた時期も、草と馬のためにお金をかけたという。そうした成果もあって、小泉氏の牧場で育った馬たちの体質は、最初に比べて目に見えてよくなり、スエヒロジョウオーもその成果の1頭だった。
ただ、スエヒロジョウオーには、同期の馬たちと比べても馬格が小さいという問題点があった。小泉氏の自慢の牧草を食べても、不思議と馬体が大きくならない。もともと牝馬の馬格は牡馬より小さいものだが、スエヒロジョウオーの場合、同じ牝馬と並べても、明らかにひとまわり小さい。
サラブレッドの馬格は、ただ大きければいいというものではない。しかし、競馬場に出れば、馬格が小さい馬も、大きい馬と対等に戦わなければならない。レース中に他の馬と激しく接触することもある。小さな馬体を跳ね飛ばされたり、馬群を割れずに閉じ込められることもある。それでも、負けは負けでしかない。馬格が大きな馬なら自力で切り抜けられることがあるが、馬格が小さい馬だとそれっきりである。そのため、スエヒロジョウオーが
「こんな小さな馬体で、レースになるのかな」
という懸念を持たれるのもやむをえないことで、幼いころのスエヒロジョウオーとは、その程度の存在だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。
もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。
その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。
だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。
阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。
「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。
もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。
=ダイゴトツゲキの章=
1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。
ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。
ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。
土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。
ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。
ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。
もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。
一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。
オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。
日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。
スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは
「こいつは走るんじゃないか」
と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、
「せめて1勝でもしてくれよ」
というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は
「牧場史上最高の大物になってくれよ」
と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。
「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。
もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。
ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。
新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。
ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。
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