Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/webonetoone2/www/wp10retsuden/wp-content/themes/oto-template/functions.php:1) in /home/webonetoone2/www/wp10retsuden/wp-includes/feed-rss2.php on line 8
“ミスターシービー” の検索結果 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Mon, 12 May 2025 11:20:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒 https://retsuden.com/horse_information/2025/12/1261/ https://retsuden.com/horse_information/2025/12/1261/#respond Mon, 12 May 2025 00:50:11 +0000 https://retsuden.com/?p=1261 1998年5月30日生。2022年6月28日死亡。牡。黒鹿毛。メジロ牧場(伊達)産。
父サンデーサイレンス、母レールデュタン(母父マルゼンスキー)。武邦彦厩舎(栗東)。
通算成績は、7戦2勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、朝日杯3歳S(Gl)。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『ある軍団の終焉』

 2011年5月15日、新潟競馬場第4レースの3歳未勝利戦は、競馬ファンから特別な感傷に満ちた注目を集める一戦となった。それは、かつて日本競馬を代表するオーナーブリーダーとして知られた「メジロ軍団」の所属馬が走る最後のレースだった。

 日本競馬のオールドファンにとって、「メジロ」という響きは特別な意味を持つ。

「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」

という言葉があまりにも有名な北野豊吉氏によって率いられ、ごく初期の例外を除いて「メジロ」の名を馬名に冠したこの軍団は、約50年間の歴史の中で、天皇賞7勝をはじめとする輝かしい栄光をいくつも手にしたが、そんな歴史ある軍団も、豊吉氏やその妻であるミヤ氏の死による代替わりと時代の流れによって、その勢いはいつしか衰え、21世紀に入ってからは、Glはおろか、重賞を勝つ機会も少なくなっていた。そして、「メジロ軍団」の中核法人である「メジロ牧場」、そして軍団そのものの解散が発表され、その所有馬が走る最後のレースがこの日だった。

 「メジロ軍団」最後のレースに出走したメジロコウミョウは、単勝980円の5番人気と、前評判こそ決して高くはなかったものの、レースではその評価を覆して優勝し、名門の有終の美を飾った。いつもの未勝利戦とは違う歓声と興奮に包まれたこのレースをもって、「メジロ軍団」の輝かしい歴史の幕は、静かに下ろされた。

 「メジロ軍団」の最後の勝利は、前記の通り2011年5月15日の3歳未勝利戦だったが、最後のGl勝利は、2000年の朝日杯3歳S(Gl)でのメジロベイリーである。メジロ軍団最後の天皇賞馬メジロブライトの弟として生を享けたメジロベイリーは、兄の「晩成のステイヤー」というイメージに反して旧3歳Glを制したことで、翌年のクラシック戦線、そしてそれ以降の活躍が期待されていた。その期待は、結果としてはかなわなかったものの、メジロベイリーこそが栄光ある「メジロ軍団」のGlにおける最後の光芒となったのである。

『羊蹄山の麓にて』

 1998年5月30日、北海道・羊蹄山のふもとにあるメジロ牧場で、1頭の黒鹿毛の牡馬が産声をあげた。やがて20世紀最後の朝日杯3歳Sの覇者、そして「メジロ軍団」最後のGl馬へと駆け上る、後のメジロベイリーである。

 メジロベイリーの母であるレールデュタンが競走馬として残した22戦4勝という戦績は、平凡とは言えない。・・・ただ、重賞は京都牝馬特別(Glll)に1度出走しただけで着順も5着というと、特筆するべきとまででもないかもしれない。現役時代はメジロ軍団と特に関係がなく、それゆえに馬名にも「メジロ」の冠名を持たない彼女は、マルゼンスキーを父に持つ血統を買われてメジロ牧場へ迎えられ、繁殖牝馬となった。

 しかし、繁殖牝馬となったレールデュタンは、まず第3仔のメジロモネ(父モガミ)がオープン級へ出世したことで注目を集め、さらに第6仔のメジロブライト(父メジロライアン)が97年クラシック戦線の主役へと躍り出たことで、その存在感を一気に高めた。個性派世代として名高い97年クラシック世代で常に中心的地位を張り続けたメジロブライトは、三冠レースでそれぞれ1番人気、1番人気、2番人気に推されながら、4着、3着、3着にとどまって無冠に終わったが、菊花賞が終わった後は中長距離Gllを3連勝し、その勢いで挑んだ天皇賞・春(Gl)では、「メジロ軍団」にとっては7回目の天皇賞制覇、そして自身にとっては悲願のGl制覇を果たした。いつも人気を背負っては不器用な追い込みで栄光に迫りながら、最後は惜しくも敗れることを繰り返してきたメジロブライトが日本競馬の頂点に立ったこのレースは、

「羊蹄山のふもとに春!」

という実況が生まれたことでも知られている。

 レールデュタンの第9仔となるメジロベイリーが羊蹄山のふもとのメジロ牧場で生まれたのは、4歳上の半兄メジロブライトの戴冠から約1ヶ月後のことだった。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2025/12/1261/feed/ 0
タマモクロス本紀~白の伝説~ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/#respond Mon, 21 Apr 2025 12:27:48 +0000 https://retsuden.com/?p=410 1984年5月23日生。2003年4月10日死亡。牡。芦毛。錦野牧場(新冠)産。
父シービークロス、母グリーンシャトー(母父シャトーゲイ)。小原伊佐美厩舎(栗東)。
通算成績は18戦9勝(旧4-5歳時)。1988年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1988年天皇賞春秋(Gl)制覇、1988年宝塚記念、1988年阪神大賞典(Gll)、1988年鳴尾記念(Gll)、1988年京都金杯(Glll)。

第1章:「白い十字架」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…

『昭和最後の名馬』

 西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。

 時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。

 だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。

 日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。

 名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。

『白い稲妻』

 タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。

 名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。

 もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。

「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」

 シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。

 もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。

 しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。

『魅せられて』

 現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。

「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」

 錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。

 錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。

『予感に賭けた男』

 もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。

 初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、

「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」

「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」

 そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。

 しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。

 グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、

「この馬の子供は走る!」

と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。

 1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。

]]>
https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/feed/ 0
シリウスシンボリ列伝 ~漂泊の天狼星~ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/#respond Sat, 15 Apr 2023 14:03:23 +0000 https://retsuden.com/?p=306 『悲しき天狼星』

 冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。

 かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。

 シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。

 さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。

 ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。

 確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。

『不世出のホースマン』

 シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。

 シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。

 和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。

 しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。

 当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、

「和田に会いたい」

とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。

 和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。

 シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。

『シンボリの血』

 シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。

 モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。

 和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。

 もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。

 このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。

 しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/feed/ 0
サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/#respond Sun, 02 Apr 2023 17:52:46 +0000 https://retsuden.com/?p=293  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『雨に泣いたサラブレッド』

 全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。

 そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。

 栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。

 その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。

 だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、

「フォアボールを出してしまうかもしれない」

と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは

「お前の好きな球を投げろ」

と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。

 試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、

「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」

と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で

「わたしは雨を愛した詩人だ
 だがわたしは江川投手を愛する故に
 この日から雨がきらいになった
 わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」

と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。

 野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。

 サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。

『星のふる里』

 サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。

 サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。

 サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が

「どんな馬だろう」

と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、

「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」

と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。

 そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。

 谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。

『桜の星の下で』

 谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。

 兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、

「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」

などと話し合っていたという。

 ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、

「サクラセダンの子が生まれた」

と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。

 サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。

 谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。

「この馬はきっと走る!」

 彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。

 全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。

 とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。

 だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。

「3000万円!」

 ・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。

 こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。

]]>
https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/feed/ 0
スクラムダイナ列伝~夢の途中~ https://retsuden.com/horse_information/2023/05/338/ https://retsuden.com/horse_information/2023/05/338/#respond Sat, 04 Mar 2023 19:45:13 +0000 https://retsuden.com/?p=338  1982年3月21日生。牡。鹿毛。社台ファーム(白老)産。
 父ディクタス、母シャダイギャラント(母父ボールドアンドエイブル)。矢野進厩舎(美浦)。
 通算成績は、6戦3勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、朝日杯3歳S(Gl)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『ダービーを勝つということ』

 日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく

「ダービーを勝つことが夢だった」

というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。

 しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。

 もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。

 かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。

 彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。

『故郷と一族の源流』

 1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。

 スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。

 社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。

 種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。

 しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に

「牧場が潰れるんじゃないか」

と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。

 スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。

『血のルーツ』

 ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。

 だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。

 ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。

 ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。

 社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も

「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」

ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。

『社台の暴れん坊』

 ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。

 そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。

 スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。 

 もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、

「これ、くれよ」

と場長に申し出た。

 矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。

 スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2023/05/338/feed/ 0
ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/#respond Thu, 23 Feb 2023 13:52:05 +0000 https://retsuden.com/?p=109  2000年5月21日生。2021年3月8日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
 父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス(母父Kris)。瀬戸口勉厩舎(栗東)
 通算成績は、13戦7勝(新2-4歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、皐月賞(Gl)、
 スプリングS(Gll)、産経大阪杯(Gll)、きさらぎ賞(Glll)。

『王道』

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。

 時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。

 彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。

「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」

 同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。

 大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。

『兄の幻影』

 2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。

 すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。

 そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。

 しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。

 ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、

「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」

と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、

「今年の一番馬は、この馬だ」

と噂しあった。

 だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。

「こんなはずではなかった・・・」

 生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。

 しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。

「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」

 それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。

『夢の跡から』

 こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に

「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」

と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。

 最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。

「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」

 それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/feed/ 0
ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~ https://retsuden.com/age/1990s/2022/08/460/ https://retsuden.com/age/1990s/2022/08/460/#respond Thu, 08 Sep 2022 14:48:30 +0000 https://retsuden.com/?p=460  1990年6月10日生。2020年4月13日死亡。牡。鹿毛。川上悦夫牧場(新冠)産。
 父リヴリア、母タイシンリリイ(母父ラディガ)。大久保正陽厩舎(栗東)
 通算成績は、15戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)、目黒記念(Glll)、
 ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『鬼脚』

 競馬界には、直線での迫力ある末脚のことを指す「鬼脚」(おにあし)という言葉がある。言葉の由来は読んで字のごとき「鬼のような脚」ということになろうが、この言葉は、逃げ馬や先行馬が直線でさらに脚を伸ばす場合に使用されることはほとんどなく、中団よりさらに後方からの差し、追い込みが決まった時に使用されることが多い。

 一般的に、後方からの競馬は、自分でペースを作れない上、勝負どころで前が壁になって閉じ込められる可能性があるため、好位からの競馬に比べて不利であるとされている。個々のレースに限れば、強豪たちが単発の作戦、あるいは展開のアヤによって後方からの競馬をすることはあるし、彼らがそうしたレースで「鬼脚」を見せて勝つこともある。しかし、そんな勝ちっぷりが彼ら自身のイメージとなるまでには、そうしたレースをいくつも積み重ねて実績を残さなければならない。最も不利な作戦で、誰もが認める成績を残す・・・そんな馬は滅多にいないというのが現実である。「追い込みの名馬」の代表格としてまず名前が挙がるのは1983年の三冠馬ミスターシービーだが、その彼ですら、第4コーナーで10番手以下の位置にいて勝ったのは、皐月賞と天皇賞・秋の2度しかない。スタート直後は最後方にいても、第3コーナーかその手前から進出を開始するミスターシービーの競馬は、純然たる直線勝負の追い込みというよりは、いわゆる「まくり」に近いものである。

 だが、1993年牡馬クラシック戦線において、それほどに厳しい直線での追い込みを武器としてライバルたちに挑み、ついには「平成新三強」と呼ばれるまでに成長した稀有な強豪が現れた。その馬・・・ナリタタイシンは、いつも馬群の後方につけながら直線での追い込みに賭け、「鬼脚」のなんたるかを常に証明し続けた。直線で、掛け値無しに最後方から飛んでくる追い込みこそが彼の唯一無二の武器であり、420kg前後の細身の身体から繰り出される瞬発力は、まさに「鬼脚」という形容がよく似合うものだった。

 ナリタタイシン・・・閃光のような末脚でファンを魅了した第53代皐月賞馬は、果たしてどのようなサラブレッドだったのだろうか。

『名牝の血脈』

 ナリタタイシンは、1990年6月10日、新冠の川上悦夫牧場で生まれた。彼の血統は、父が米国のGlを3勝したリヴリア、母が日本で走って25戦1勝の戦績を残したタイシンリリィというものだった。

 リヴリアは、仏米で通算41戦9勝の戦績を残し、ハリウッド招待ハンデ(米Gl)、サンルイレイS(米Gl)、カールトン・F・ハンデ(米Gl)を勝っている。もっとも、リヴリアの最大の特徴は、これら彼自身の実績ではなく、その血統にあった。リヴリアの母は、キングジョージⅥ世&Q.エリザベスll世S連覇をはじめGl通算11勝という輝かしい戦績を残した歴史的名牝Dahliaだったのである。

 リヴリアは、

「Dahliaの子が欲しかった」

という早田牧場新冠支場の早田光一郎氏によって、引退後すぐに日本へと輸入されることになった。・・・もっとも、早田氏がこの時狙っていたのは、Dahlia産駒はDahlia産駒でも、リヴリアの半兄にあたるダハールだったという。ダハールの輸入交渉は値段の折り合いがつかずに決裂したが、そんな時にちょうど競走生活の末期を迎え、凡走を続けていたのがリヴリアだった。早田氏は、リヴリアについて

「僕が行った時に大差のどん尻負けなんかしちゃって、それで予想より安く買えた」

と語っている。

『期待をその身に受けて』

 だが、そんなリヴリアに対して独自の視点から注目を寄せていたのが、早田氏と親しく、また独自の血統論を持つ生産者として馬産地で定評がある川上悦夫氏だった。

「Ribotの癇性とRivermanのスピードがはまれば面白いかも・・・」

 彼が目をつけたのは、自分の好きなRibot系の繁殖牝馬と、リヴリアが持つRivermanの血だった。

 川上氏は、母系としてのRibotの血をもともと高く評価していた。彼は、親交があった千葉の東牧場から繁殖牝馬を譲ってもらえることになった際に、Ribotの直系の孫にあたるラディガの肌馬を、3頭も譲り受けたほどだった。ナリタタイシンの母であるタイシンリリィも、その時に川上氏が東牧場から譲り受けた繁殖牝馬の1頭であり、1980年のオークス馬ケイキロクとは従姉妹同士にあたる良血馬だった。

 タイシンリリィは、競走成績こそ25戦1勝というものだったが、川上氏は、多くの活躍馬を輩出する牝系の活力、そして自らが信奉するRibotの血が持つ底力に、ひそかに期待をかけていた。やがて、タイシンリリィが東牧場に残してきた娘のユーセイフェアリーがデビューし、阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残すと、彼女にかかる期待はより大きなものとなっていった。

 タイシンリリィは、川上悦夫牧場にやって来てからも走る産駒を出し続け、川上氏の相馬眼が間違っていなかったことを証明した。タイシンリリィの2番子ドーバーシチー、3番子リリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げている。日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも半分程度という現実の中では、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。

 川上氏は、自分の牧場の中でも屈指の繁殖牝馬となりつつあったタイシンリリィを、供用初年度のリヴリアと交配することにした。最初はなかなか受胎せず、種付けに何度も通うはめになったタイシンリリィだったが、最終的には無事にリヴリアとの子を受胎した。それが、後の皐月賞馬ナリタタイシンである。

 ちなみに、リヴリアのシンジケートの株を持っていた川上氏は、この春にタイシンリリィのほかにもう1頭の繁殖牝馬をリヴリアと交配した。そして翌年、同じ1993年に川上悦夫牧場で生まれた2頭のリヴリア産駒は、ナリタタイシンが皐月賞馬となっただけでなく、もう1頭のマイヨジョンヌも新潟大賞典(Glll)連覇をはじめとして重賞を3勝することになる。だが、神ならぬ川上氏は、リヴリアが種牡馬として収める成功、そしてその後に待っている運命を、まだ知る由もない。

『野性児、大地に立つ』

 翌春、タイシンリリィは出産予定日を過ぎたにも関わらず、いっこうに出産の気配はないままだった。3月から5月にかけて出産シーズンを迎える生産牧場では、この時期はぴりぴりした緊張感に包まれる。しかし、6月に入っても生まれる気配すらないというなら、話は変わってくる。緊張があまり長く続くとどうしても気が抜けてしまうし、そもそも出産の気配すらないのだから、何か手を打つこともできない。

 タイシンリリィには、1993年6月10日の朝も、何の異常も見られなかった。そこで彼女は、この日もいつもどおりに牧場の牧草地に放牧されていた。そして、昼過ぎのこと・・・

「できちゃってるよー!」

 牧場の従業員が思わずあげた大声に、川上氏たちは放牧地へと集まってきた。・・・朝は1頭だったはずのタイシンリリィのそばに、1頭の見慣れない子馬がいた。タイシンリリィは、人間の手を借りないままに、放牧地で子馬を生んでしまったのである。・・・それが、ナリタタイシンの誕生だった。

]]>
https://retsuden.com/age/1990s/2022/08/460/feed/ 0
ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/#respond Tue, 23 Aug 2022 14:16:06 +0000 https://retsuden.com/?p=362 1987年4月15日生。牝。黒鹿毛。荻伏牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母ハギノトップレディ(母父サンシー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
通算成績は、18戦6勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、スプリンターズS(Gl)、京王杯スプリングC(Gll)、京都牝馬特別(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『華』

 日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。

 古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。

 とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。

 このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。

 その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。

 「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。

 だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。

 そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。

『名牝マイリーから』

 ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。

 ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。

 当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。

 ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。

 ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。

「このままでは、子供が産まれてしまう!」

 もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。

閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。

 マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。

『華麗なる一族』

 こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。

 しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。

 こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。

 重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。

 このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/feed/ 0
ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/ https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/#respond Mon, 14 Feb 2022 16:54:30 +0000 https://retsuden.com/?p=237 1886年4月10日生。2016年8月27日死亡。牡。芦毛。栗山牧場(茨城)産。
父シーホーク、母クリノアイバー(母父グレートオンワード)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は、11戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『芦毛の時代』

 かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに、日本競馬においては、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬がほとんどいなかった時代もあった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣っているわけではないことは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。

 芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったから、というべきだろう。今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割弱と、それほど多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。

 かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給するという建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では、優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給に資するため、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、その必要性を説くことによって、軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。

 サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、遠目からでも目立つ馬体ゆえに、軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。

 芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。

 しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていったことも、少なくなかったことだろう。馬の才能は、それを見抜く人がいない限り、決して生かされることはない。

 1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏したことで解体の道をたどり、戦後の日本は平和憲法のもと生まれ変わり、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていった。…しかし、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見まで、一朝一夕で消滅することはなかった。

 競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けた。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。

 迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういう迷信を気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。20世紀の競馬界において

「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」

「ジャパンCも1番人気が勝てない」

という迷信がどれほど語られてきたか。そして、今日においても

「青葉賞に出走した馬は日本ダービーでは用なし」

「皐月賞を勝っていない日本ダービー馬は、菊花賞を勝てない」

・・・そんな理屈では説明がつかない迷信が、「ジンクス」という形ではあっても、単に公然と語られるばかりか、馬券の検討にも大きな影響を与えていることは、公知の事実なのだから。

 このように競馬界に確かに存在していた「芦毛馬は走らない」という迷信が、明確な形で打ち破られたのは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛の名馬が次々と現れて多くのGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、芦毛の強豪が定期的に現れるようになり、さらに近年は白毛の強豪まで現れるようになった。こうした時代の中で、芦毛馬の競走能力に対する偏見は、いまや完全になくなったと言っていい。

 このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。

 もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。これほどの名馬たちですら手が届かなかったことからすれば、そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。

 もしその馬が存在しなかったとすれば、2021年まで経ってなお、「芦毛馬は日本ダービーを勝てない」ままであり、「芦毛馬は走らない」という迷信の残滓がジンクスと名を変えて、生き残っていたことだろう。そのジンクスが生き残っていた場合、日本ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、日本ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見落とす理由となっていたかもしれない。

『ダービー馬の周辺』

 ウィナーズサークルの父であり、彼に芦毛という毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えた種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けて日本ダービー馬の父となっている。

 シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー血統でもあった。

 競走馬としては10戦1勝とさほどのものではなかったが、繁殖牝馬として栗山牧場に帰ってきて、なかなかの産駒を出していたクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。

 栗山牧場は茨城にあるため、周囲に良質な種牡馬がほとんどいない。そこで、交配の際には繁殖牝馬を日を決めて北海道へ連れていき、種付けしていたのだが、この年はもともと種付け予定だった種牡馬が急死したため、困って松山師に相談した。すると、松山師からは、かつて彼の父親である松山吉三郎師が管理したモンテプリンス・モンテファスト兄弟を輩出したシーホークを勧められた。そこで、栗山牧場の人々は、クリノアイバーを北海道へ連れていき、シーホークとの交配を実現させた。こうして生まれたのが、後のウィナーズサークルだった。

『神の馬』

 クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。

 普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、それまでは、年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは、なぜか生まれたときから真っ白だった。

 牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。

「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「いや、神の馬かもしれないぞ」

 皆でそう噂しあったという。

『いずれ立つべき場所』

 やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕を高く評価されていた。

 松山師は、ウィナーズサークルの1歳上の半兄にあたるクリノテイオーも管理し、若葉賞(OP)を含めて3勝を挙げ、日本ダービー(Gl)出走も果たしている(サクラチヨノオーの14着)。そんな半兄を超える馬に育ててほしい・・・そんな思いを込めて、栗山氏はウィナーズサークルを松山師に託し、さらには命名も任せてみたところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。

 ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所で、競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。

 ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに「評判の期待馬」として有名になっていった。血統的にも距離が延びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から

「ダービーを意識して育てよう」

と思ったという。

 松山師がウィナーズサークルのデビュー戦での北海道遠征を避け、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後は休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。

『謎の気性難』

 しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、突然騎手に反抗し始める。そして、騎手と喧嘩しているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬から2秒以上離された4着に惨敗してしまった。

 ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。

 郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。

 郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2022/15/237/feed/ 0
マックスビューティ列伝~究極美伝説~ https://retsuden.com/horse_information/2022/11/507/ https://retsuden.com/horse_information/2022/11/507/#respond Thu, 10 Feb 2022 15:54:26 +0000 https://retsuden.com/?p=507  1984年5月3日生。2002年2月27日死亡。牝。鹿毛。酒井牧場(浦河)産。
 父ブレイヴェストローマン、母フジタカレディ(母父バーバー)。伊藤雄二厩舎(栗東)
 通算成績は、19戦10勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、オークス(Gl)、
 神戸新聞杯(Gll)、4歳牝馬特別(Gll)、ローズS(Gll)、オパールS(OP)、チューリップ賞(OP)、
 紅梅賞(OP)、バイオレットS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『究極美伝説』

 日本の中央競馬においては、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というそれぞれ条件の異なる3つの世代限定Glが「三冠レース」として位置づけられ、世代最強馬を決する戦いとして高い格式を誇るとともに、多くのファンの関心と注目を集めてきた。

 ただ、これらのレースは建前としては「牡牝混合戦」とされているものの、事実上は牡馬しか出走しないのがほとんどである。これらのレースを牝馬が勝った例を探してみると、日本競馬の長い歴史の中でも5頭が6勝を挙げただけで、それも1947年にトキツカゼが皐月賞、ブラウニーが菊花賞を勝った後、2007年にウオッカが日本ダービーを勝つまでの約60年間にわたって、牝馬による三冠レースの制覇は途絶えている。

 中長距離戦で牡馬と牝馬を同じレースで走らせた場合、牡馬が圧倒的に有利であるというのが、長らく競馬界の常識だった。そこで、牝馬たちのために用意された独自路線が、出走資格を牝馬に限定した、いわゆる「牝馬三冠」である。桜花賞、オークス、秋華賞からなる「牝馬三冠」は、牝馬による「三冠」挑戦があまりに難しいことから、一流牝馬たちのローテーションとしても承認されており、世代別牝馬チャンピオン決定戦として定着している。

 ところで、「三冠」をすべて制した「三冠馬」は過去8頭が出現しているものの、「牝馬三冠」をすべて制した「牝馬三冠馬」は6頭にとどまっている。中央競馬が範をとった英国競馬では秋華賞にあたるレースが存在せず、日本で「牝馬三冠」が成立したのは1970年にビクトリアCが新設された(76年にエリザベス女王杯に改称、96年にはエリザベス女王杯の古馬開放に伴って秋華賞に改編)後であることを考慮に入れたとしても、皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬は16頭(三冠馬を除く。2021年まで)いるのに対し、桜花賞、オークスを制した牝馬二冠馬は9頭(牝馬三冠馬を除く。2021年まで)しかいないという差は、明らかに有意な差であるといわなければならないだろう。

 牝馬が牡馬に比べて体調管理が難しく、消長も激しいことは、多くのホースマンたちが口を揃えるところである。その名を青史に刻む多くの牝馬たちが、あるレースでは圧倒的な強さを示しながら、やがて牝馬ならではの困難につきあたって敗れることで、そんな評価の正しさを心ならずも証明してきた。1987年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬マックスビューティも、そんな系譜に名を連ねる1頭である。

 マックスビューティ・・・日本語で「究極美」という意味の名前を持つその牝馬は、日本史上初めてにして20世紀唯一の牝馬三冠馬・メジロラモーヌが牝馬三冠戦線を戦った次の年の牝馬三冠戦線に現れ、メジロラモーヌ以上の安定感と破壊力をもって戦い、そして勝ち続けた。桜花賞、オークス、そしてそれらのトライアルまで勝ちまくったマックスビューティが、秋に8連勝でエリザベス女王杯のトライアルレースであるローズS(Gll)を制した時には、誰もがマックスビューティの歴史的名馬たることを信じ、彼女が前年のメジロラモーヌに続く三冠牝馬となることを疑わなかった。それは、もはや歴史の必然ですらあった。

 ところが、栄光とともに戴冠するはずだったエリザベス女王杯で、マックスビューティの連勝と伝説は終わりを告げた。その後の彼女は、それまでの栄光の日々とは対照的に長い不振にあえぎ、苦しみ続けた。競走生活が終わってみると、彼女が頂点に君臨した期間は1年にも満たず、さらにその範囲も、世代限定の牝馬三冠戦線のみにすぎなかった。そんな彼女の戦いの光景は、私たちに牝馬の消長の激しさを改めて思い知らせるものだった。

 ・・・それでいてなお、マックスビューティがその短い期間に放った輝きは、私たちを魅了するものだった。「究極美」というその名に恥じない美しさ、そして強さを兼ね備えた彼女の牝馬三冠戦線は、競馬界の歴史、そしてファンの記憶に残る。なればこそ、彼女の「その後」もまた、競馬の難しさを表すエピソードとして語り継がれる。

 「名は体を現す」ということわざがある。今回のサラブレッド列伝では、その名によって自らを現し、そして自らの戦いによってその名を表現し尽くした名牝マックスビューティについて語ってみたい。

『名門の冬』

 マックスビューティの生まれ故郷は、浦河の酒井牧場である。消長が激しいサラブレッドの生産牧場の中で、創業が1940年まで遡る酒井牧場は、浦河で指折りの名門牧場だった。先代の酒井幸一氏が指揮を取っていた1961年には、生産馬のハクショウが日本ダービー、チトセホープがオークスを勝ち、牡牝それぞれのクラシックで世代の頂点を独占するという栄光の歴史を持ち、後にも93年のエリザベス女王杯(Gl)を制し、さらに交流重賞の黎明期に交流重賞10連勝という金字塔を打ち立てた「砂の女王」ホクトベガを輩出している。

 ただ、マックスビューティが出現する直前期は、酒井牧場にとって、そんな栄光の狭間となる「冬の時代」だった。75年に父の幸一氏から牧場の実験を譲り受けたのは酒井公平氏だったが、代が替わった途端、牧場の生産馬が走らなくなったのである。名門牧場の看板の重み、先代が残した輝かしい実績・・・それらとは対照的に、その後の酒井牧場の生産馬による重賞制覇は途絶えていた。

 このままではいけない。なんとかしなければいけない。酒井氏は悩み苦しんだ末、様々な手を打った。繁殖牝馬はもちろんのこと、牧場の土をすべて入れ替えたりもした。・・・それでも結果は出なかった。酒井氏の耳に入ってくるのは、周囲の

「酒井牧場は、跡取りのせいでダメになった・・・」

という声ばかりだった。酒井氏は、やがて自分の馬産に自信を失っていった。そんな矢先に突然酒井牧場に降り立ったのがマックスビューティであり、自信を失いかけた酒井氏、そして衰えゆくかに見えた名門牧場を救う光明だった。

『意味不明の配合』

 父、ブレイヴェストローマン。母、フジタカレディ。マックスビューティの血統自体は、決して目立ったものとはいえない。ブレイヴェストローマンは、後には種牡馬としての評価も定まって高く評価されるようになったとはいえ、当時は輸入初期の産駒が走り始めたばかりで、自らの競走成績から、奥行きの無いマイラーと思われていた。トウカイローマンがオークスを勝ったことでブレイヴェストローマン産駒の実力と距離適性が再評価され始めたのは、マックスビューティが生まれた84年のことである。

 マックスビューティの母フジタカレディも、自らは未勝利馬だった。この牝系の血統表からアルファベットの馬名にたどりつくには、1918年生まれの9代母Silver Queenまで遡らなければならない。ちなみに、8代母のタイランツクヰーン産駒には「幻の馬」トキノミノルがいる。

 だが、そんな一族も、トキノミノル以降は鳴かず飛ばずとなり、それ以降の彼女の一族の代表馬は、1972年のAJC杯をレコード勝ちし、ヒカルイマイが勝った71年の日本ダービーで5着に入った・・・というよりは、吉永正人騎手の騎乗とともに「後方ぽつん」の追い込み馬として知られたゼンマツ、80年から83年にかけて重賞を3勝したフジマドンナが出た程度だった。

 これほど古くから日本にあった系統でありながら、ここまで活躍馬が出ないというのは、もはや運やめぐり合わせの問題とは言い難い。この血統は、活力が失われつつある一族と評価される・・・というよりは、評価される価値すら認められていなかった。

 もともとは青森屈指の名門である浜中牧場で生まれたフジタカレディだったが、そんな彼女に目をつけ、彼女を管理していた松山吉三郎師に頼み込んで牧場に連れてきたのが酒井氏だった。上の2頭は期待外れで未勝利に終わったフジタカレディだったが、酒井氏は彼女への期待を捨てきれず、この年はマルゼンスキーと交配する予定にしていた。

 ところが、フジタカレディがいざ発情した当日、マルゼンスキーは予約がいっぱいで種付けができない状態だった。そこで急きょ交配されることになったのが、ブレイヴェストローマンだった。

 後になって、なぜこの時数いる種牡馬の中からブレイヴェストローマンを選んだのかを聞かれた酒井氏は、

「分かりません。あの時の僕は、何を考えていたんでしょうかねえ」

と首をひねっている。酒井氏は、本来フジタカレディにプレイヴェストローマンは体型的に合わないと考えており、最初に配合を考えた際には、真っ先にリストから外したほどだった。

 マックスビューティをはじめとする活躍馬を輩出した後、馬産地では酒井氏が配合について独自の理論を持っていると評価されるようになり、浦河近辺の馬産農家で、配合に困って酒井氏に相談したことがあるという者は少なくないという。そんな酒井氏が選んだ、意味不明の交配から名馬が現れるのだから、競馬は深遠である。

]]>
https://retsuden.com/horse_information/2022/11/507/feed/ 0