(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
2011年5月15日、新潟競馬場第4レースの3歳未勝利戦は、競馬ファンから特別な感傷に満ちた注目を集める一戦となった。それは、かつて日本競馬を代表するオーナーブリーダーとして知られた「メジロ軍団」の所属馬が走る最後のレースだった。
日本競馬のオールドファンにとって、「メジロ」という響きは特別な意味を持つ。
「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」
という言葉があまりにも有名な北野豊吉氏によって率いられ、ごく初期の例外を除いて「メジロ」の名を馬名に冠したこの軍団は、約50年間の歴史の中で、天皇賞7勝をはじめとする輝かしい栄光をいくつも手にしたが、そんな歴史ある軍団も、豊吉氏やその妻であるミヤ氏の死による代替わりと時代の流れによって、その勢いはいつしか衰え、21世紀に入ってからは、Glはおろか、重賞を勝つ機会も少なくなっていた。そして、「メジロ軍団」の中核法人である「メジロ牧場」、そして軍団そのものの解散が発表され、その所有馬が走る最後のレースがこの日だった。
「メジロ軍団」最後のレースに出走したメジロコウミョウは、単勝980円の5番人気と、前評判こそ決して高くはなかったものの、レースではその評価を覆して優勝し、名門の有終の美を飾った。いつもの未勝利戦とは違う歓声と興奮に包まれたこのレースをもって、「メジロ軍団」の輝かしい歴史の幕は、静かに下ろされた。
「メジロ軍団」の最後の勝利は、前記の通り2011年5月15日の3歳未勝利戦だったが、最後のGl勝利は、2000年の朝日杯3歳S(Gl)でのメジロベイリーである。メジロ軍団最後の天皇賞馬メジロブライトの弟として生を享けたメジロベイリーは、兄の「晩成のステイヤー」というイメージに反して旧3歳Glを制したことで、翌年のクラシック戦線、そしてそれ以降の活躍が期待されていた。その期待は、結果としてはかなわなかったものの、メジロベイリーこそが栄光ある「メジロ軍団」のGlにおける最後の光芒となったのである。
1998年5月30日、北海道・羊蹄山のふもとにあるメジロ牧場で、1頭の黒鹿毛の牡馬が産声をあげた。やがて20世紀最後の朝日杯3歳Sの覇者、そして「メジロ軍団」最後のGl馬へと駆け上る、後のメジロベイリーである。
メジロベイリーの母であるレールデュタンが競走馬として残した22戦4勝という戦績は、平凡とは言えない。・・・ただ、重賞は京都牝馬特別(Glll)に1度出走しただけで着順も5着というと、特筆するべきとまででもないかもしれない。現役時代はメジロ軍団と特に関係がなく、それゆえに馬名にも「メジロ」の冠名を持たない彼女は、マルゼンスキーを父に持つ血統を買われてメジロ牧場へ迎えられ、繁殖牝馬となった。
しかし、繁殖牝馬となったレールデュタンは、まず第3仔のメジロモネ(父モガミ)がオープン級へ出世したことで注目を集め、さらに第6仔のメジロブライト(父メジロライアン)が97年クラシック戦線の主役へと躍り出たことで、その存在感を一気に高めた。個性派世代として名高い97年クラシック世代で常に中心的地位を張り続けたメジロブライトは、三冠レースでそれぞれ1番人気、1番人気、2番人気に推されながら、4着、3着、3着にとどまって無冠に終わったが、菊花賞が終わった後は中長距離Gllを3連勝し、その勢いで挑んだ天皇賞・春(Gl)では、「メジロ軍団」にとっては7回目の天皇賞制覇、そして自身にとっては悲願のGl制覇を果たした。いつも人気を背負っては不器用な追い込みで栄光に迫りながら、最後は惜しくも敗れることを繰り返してきたメジロブライトが日本競馬の頂点に立ったこのレースは、
「羊蹄山のふもとに春!」
という実況が生まれたことでも知られている。
レールデュタンの第9仔となるメジロベイリーが羊蹄山のふもとのメジロ牧場で生まれたのは、4歳上の半兄メジロブライトの戴冠から約1ヶ月後のことだった。
]]>(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の歴史の中で、競馬ファンに「最強馬」として称えられ、あるいは「名馬」として尊敬を集めたサラブレッドたちは少なくない。しかし、競馬ファンのみならず、一般大衆にいたるまでの誰もがその名を知り、彼らを競馬ファンへと引きずり込むほどのインパクトを残した馬となると、きわめて限られる。
「ハイセイコー」は、そんな限られたサラブレッドの中の1頭である。この馬の知名度は、おそらく日本で走ったサラブレッドの中で屈指のものだろう。この馬と並ぶ知名度を誇る馬といえば、長い中央競馬の歴史の中でも、おそらくオグリキャップくらいしかいないに違いない。
その一方で、「最強馬」を問う議論の中にハイセイコーの名前が挙がってくることは、稀である。ハイセイコーの主な勝ち鞍を見ると、八大競走の一角とされる皐月賞以外は、当時まだ現在のように高い位置づけとされていなかった宝塚記念、高松宮杯といったあたりである。日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念といった、「最強馬」と呼ばれるために決して避けて通れない大レースにおいて、ハイセイコーはことごとく敗れている。
ハイセイコーが大衆的な人気を集めたのは、南関東競馬という地方競馬の出身である彼が、無敗のまま中央へと攻め上り、日本競馬の権威の象徴である日本ダービーを目指すという図式の中に、高度成長期という時代に、その時代に生きる国民が自らの夢を重ねることができたからにほかならない。日本ダービーでは史上最高の支持率を背負いながら3着に破れたハイセイコーだったが、ひとつの夢から覚めた大衆は、その後、ハイセイコーの強さとともに、その弱さをも愛するようになった。もしハイセイコーの生まれが5年ずれていたとしたら、あれほどの「ハイセイコー・フィーバー」は起こらなかっただろう。ハイセイコーこそ、時代が求めた英雄だった。彼によって競馬の魅力を知ったファンがあまりに多かったゆえに、ハイセイコーは
「競馬界に特別な貢献をもたらした」
と認められ、顕彰馬に名を連ねることになった。
競走馬としてそれほどの人気を誇ったハイセイコーは、種牡馬になってからも、父が勝てなかったダービーと天皇賞を勝ったカツラノハイセイコ、単勝43060円の20頭立て20番人気でエリザベス女王杯を制した馬サンドピアリスなどを輩出し、父内国産種牡馬の評価が低かった当時としては極めて優秀な成績を残している。・・・だが、そんなハイセイコーのあまりの偉大さと特異さゆえに、その産駒たちは、彼ら自身の戦いにおいても、彼ら自身ではなく父親の姿を投影されることが珍しくなかった。
ハイセイコーが晩年に輩出した傑作の1頭が、父とともに皐月賞父子制覇を成し遂げたハクタイセイである。彼はカツラノハイセイコと並ぶハイセイコー産駒のクラシックホースとなり、1990年クラシック世代を担う1頭として、ターフを沸かせた。父とは似ても似つかぬ芦毛にもかかわらず、「白いハイセイコー」と呼ばれたハクタイセイは、かつて父が泣いた血の限界とも戦わなければならない宿命を背負っていたのである。
ハクタイセイは、当時繁殖牝馬11頭という家族経営の生産農家だった三石の土田農場で、父ハイセイコーと母ダンサーライトとの間に生まれた。
父のハイセイコーは、前述のように日本競馬の歴史の中でも特異な地位を占める名馬である。彼はデビュー当初、南関東競馬で無敗のまま6連勝を飾って「南関東の怪物」とうたわれた。その後はさらにより強く、より大きな相手を求め、4歳クラシック戦線を前に中央競馬へと移籍し、弥生賞、スプリングS、そして皐月賞と勝ちまくった。無敗のまま連勝街道を驀進し、「南関東の怪物」から「地方から来た怪物」へと変わったハイセイコーに、大衆は
「地方馬出身初のダービー馬誕生か」
と熱狂したのである。彼こそは、「中央のエリートをなぎ倒し、実力で頂点を奪う地方馬」という高度成長期の夢を体現する存在だった。中央競馬の頂点・日本ダービーでの彼は、単勝120円で、同レースにおける単勝馬券の売上の66.7%を占める最高支持率を記録した。
その日本ダービーで宿敵タケホープの後塵を拝して3着に敗れ、さらに菊花賞でもタケホープの2着に終わったハイセイコーには、明らかに距離の壁があるとみられるようになった。天皇賞は春だけでなく秋も3200mで行われ、八大競走に含まれない宝塚記念の位置づけは現代ほど高くないなど、明らかに長距離偏重の感があった当時のレース体系のもとで、彼は本来の実力を発揮しきれず不遇をかこつ現役生活を送らざるを得なかった。・・・だが、ファンがハイセイコーに向けた愛情は、彼が日本ダービーで敗れる前と変わることなく、引退まで続いたのである。彼こそは、高度成長期を支えた名もなき大衆たちの代表者だった。
その一方、ダンサーライトは、レースには不出走ながら、土田農場では高い期待をかけられた繁殖牝馬だった。土田農場では、最初にダンサーライトを買いたいという申し出があった際、
「もしこの馬を第三者に売って競馬場に送り出した場合、万が一にも土田農場に戻ってこないかもしれない・・・」
と恐れて、その申し入れをあえて断った。その後、
「せっかく買いたいという申し入れを断った以上、他の馬主に競走馬として売ったら、最初に断った相手に申し訳ない」
ということで、ダンサーライトを競走馬として売ること自体をあきらめてそのまま繁殖入りさせ、牧場の基礎牝馬としたのである。
こうして競走経験がないまま繁殖入りしたダンサーライトが初仔を出産したのは、旧5歳の時だった。
ダンサーライトが初子を無事に出産した後、生産者の土田重実氏は、ダンサーライトの2度目の種付けにあたっては、もともと繁殖牝馬としては骨太で頑丈なタイプだった彼女のパワーを引き継ぐ馬を生産したい、と考えた。また、馬主に馬を買ってもらう工夫としては、なじみのある内国産種牡馬が望ましい。そこで、ダンサーライトには、さらなるパワー型の種牡馬であり、さらに現役時代には内国産馬としてカリスマ的な人気を誇ったハイセイコーを交配することにした。
やがてハイセイコーの子を無事受胎したダンサーライトが出産を待つばかりとなると、土田氏はまだ見ぬその子馬に、
「ハイセイコーによく似た子になってほしい・・・」
という願いすら抱くようになっていた。
ところが、実際に生まれたハクタイセイを見た時、土田氏は自分の期待が見事に裏切られたという失望を感じずにはいられなかった。生まれたばかりのハクタイセイはひ弱で、牝馬のように線が細い馬だったからである。
そして、ハクタイセイの毛色は、ハイセイコーではなくダンサーライトの芦毛を受け継いでいた。無論、血統的には何の不思議もない現象ではあるが、ダンサーライトよりハイセイコーの再来を夢見た配合だった以上、生産者としては、父に似た仔が出ることを望んでいた。それなのに・・・。
しかも、この年の土田農場では、もう一つの重大な問題が生じていた。土田農場ではこの年8頭の仔馬が生まれたが、その中の牡馬はハクタイセイ、ただ1頭だったのである。
日本では、少し前まで「男女7歳にして席を同じくせず」という言葉があったが、馬の場合も、放牧においては当歳から牡牝で分けることが多かった。しかし、ハクタイセイを他の牝馬から隔離して1頭だけ放しておいたのでは、競争心が育たない。サラブレッドの競争心とは、世代の近い馬たちと互いに競いあうことなしには育ち得ない・・・。
ハクタイセイは、当歳時に早々とセリに出された。ところが、700万円に設定されたハクタイセイに手を挙げる買い手は現れず、無情にも「主取り」となってしまった。・・・土田氏がハクタイセイに向けた思いは、裏切られてばかりだった。
セリでの結果は残念なものに終わったが、売れ残ったことに文句を言っても仕方がない。土田氏は、ハクタイセイの競争相手に近所の牧場から牡馬を1頭借りてきて、ハクタイセイと一緒に運動させることで、なんとか急場をしのいだ。ちなみに、このとき土田農場に牡馬を貸したのは、オグリキャップを生産した稲葉牧場だったという。
そんな苦労もあって、ハクタイセイは、旧2歳のセリではむしろ値段が上がり、1020万円となかなかの値で売れ、中央競馬への入厩も決まった。父とは似ても似つかぬ芦毛の仔馬は、「白」+「大成」という意味でハクタイセイと名付けられ、競馬場にと向かうことになった。
栗東の布施正厩舎に入厩したハクタイセイは、仕上がりが非常に早かったことから、3歳戦の小倉・芝1200mの新馬戦でデビューした。デビュー戦では3番人気の2着だったものの、レース内容に将来性を感じさせるものを見せたハクタイセイは、その後、軽いアクシデントもあって次走との間隔が空いたものの、勝ち上がりは時間の問題とみられていた。
ところが、その後のハクタイセイは、期待に反してなかなか勝つことができない。人気は集めるものの、4着、6着という着順が続いた。未勝利戦の場合、強い馬は次々勝ち上がっていくから、出走馬は時とともに弱くなっていくはずである。それなのにハクタイセイは、走れば走るほど着順が落ちていく。
ハクタイセイを管理する布施師は、考えた。芝の良馬場だと頭打ちである。ハクタイセイは血統的にはダート向きの力馬でもあるから、今度はダート戦を使ってみようか・・・。
すると、ハクタイセイは生まれ変わったかのように躍進を遂げた。やはり南関東競馬で圧倒的な強さを誇ったハイセイコーの血は生きていたのである。ダート初戦こそ2着に敗れたものの、次走では逃げて4馬身差の圧勝を飾り、5戦目にしてようやく勝ち上がりを果たした。もう1戦、400万円下でもダートを使ってみたところ、今度もやはり3馬身差の快勝で、悠々のオープン入りである。
早い時期にオープン入りすると、別の欲が出てくるのは、ホースマンの常である。旧3歳のうちに2勝を挙げたハクタイセイであれば、重賞のシンザン記念(Glll)に進むことは自然なローテーションだったし、無理をすれば中1週で当時は牡牝を問わない「西の旧3歳王者決定戦」だった阪神3歳S(Gl)に進む選択肢もあった。
しかし、布施師はあえてこれらのローテーションは選ぶことなく、オープン特別のシクラメンS(OP。当時は芝で開催)から若駒S(OP)へと歩みを進めることとした。
非情に慎重なローテーションの背景に、ハクタイセイの実力への疑念があったことは、事実だった。芝の未勝利戦でもたつき、持ち時計も平凡。力のいる馬場ならともかく、スピードでは一線級に及ばない、というのがハクタイセイに対する評価であり、強い相手と無理にぶつけるよりは、自分のペースで走らせようというのが、布施師の本音だった。
ところが、布施師の慎重な選択は、ハクタイセイのために「吉」と出た。同世代の有力馬たちが次々と重賞戦線に挑んでいく中で、「裏街道」ともいうべき地味なレースを選んで出走したハクタイセイは、さしたる強敵と戦う必要もないまま、シクラメンS、若駒Sを勝って4連勝を達成したのである。そうなれば、皐月賞、そして日本ダービーと続く春のクラシックも、現実のものとなってくる・・・。
もっとも、4連勝したからといって、それでただちにハクタイセイの評価がうなぎのぼりになったわけではなかった。勝ち続けたとはいっても、それは強い相手との厳しい競馬を避けてのことである。クラシックを勝ち抜くためには、彼がまだ経験していない本当に厳しい競馬を制することが、必ず必要になる。そうすると、ハクタイセイの厳しい競馬への経験の薄さは、マイナス材料となる可能性も高い。
ハクタイセイがこれから戦うべきこの年の4歳世代には、未対戦の強豪が2頭いた。疾風の逃げ馬アイネスフウジンと、雷光の末脚を持つメジロライアンである。
ハクタイセイが地道に勝ちを稼いでいたころ、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューティリティS)では、アイネスフウジンがあのマルゼンスキーに並ぶ1分34秒4というレコードタイ記録を叩き出し、圧勝していた。またメジロライアンはひいらぎ賞(400万円下)とジュニアC(OP)を鮮烈な差し切りで制し、大器の片鱗を明らかにしつつあった。当時の予想では、クラシック戦線はこの2頭の関東馬を中心に回っていくものとみられ、関西のハクタイセイにはあまり注目が集まっていなかった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
「日本ダービーとは何か」
―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。
しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」
とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、
「ダービーだけは特別だから・・・」
と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。
このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。
ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。
しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。
1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。
戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。
アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。
大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。
しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに
「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」
と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。
アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。
アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。
しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。
テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。
テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。
その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。
そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、
「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」
と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち
「うちに入れてくれないか」
という申し出があったという。
だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、
「手の施しようがありません」
と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、
「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」
と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。
すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。
結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。
そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も
「いい子が生まれた」
と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。
次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。
中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。
この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに
「こいつは走る・・・!」
という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。
大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。
アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。
加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。
ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。
中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。
ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。
「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」
と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は
「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」
と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。
しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。
もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。
実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。
調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって
「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」
では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。
「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」
こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。
しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。
しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。
馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。
中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。
加藤師は中野騎手に声をかけた。
「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」
中野騎手は、こう返したという。
「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」
中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。
「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」
次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。
「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」
中野騎手は、震えた。
中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から
「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」
と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。
中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に
「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」
と思ったという。
しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。
(こいつは走る!)
柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。
「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」
中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本の競馬界の歴史の中で「名馬」と呼ばれた馬は少なくないが、その中でも「歴史を変えた」と明言しうる存在は、ごく限られる。そんな少数の歴史的名馬の1頭が、オグリキャップである。
オグリキャップは、1987年から90年にかけて、32戦22勝の戦績を残した名馬である。地方競馬の中でも決して主流とはいえない笠松競馬でデビューし、やがてJRAへと移籍して様々な強豪と死闘を繰り広げ、2度の有馬記念(Gl)制覇を含むGl4勝を果たし、現役最後の年である90年には安田記念(Gl)と有馬記念を制覇によってJRA年度代表馬に輝いた劇的な競走生活は、多くの大衆の心をとらえ、競馬人気の爆発的な成長のきっかけをもたらしたことで知られている。
ただ、オグリキャップが人気を集めた要素は、単なる競走成績だけではない。JRAへ転入した4歳(現表記3歳)時に、圧倒的な強さを見せながら、クラシック登録がなされていなかったがゆえに最も格式あるクラシック・レースへの出走が許されなかったという悲劇性が彼の人気に大きく影響したことも、厳然たる事実である。幼駒時代のクラシック登録がされていなかったために皐月賞、東京優駿への出走を許されなかったオグリキャップが、「裏街道」と呼ばれる重賞を次々と制し、夏に高松宮杯(Gll)で古馬たちまで撃破したことで巻き起こった
「強い馬が出られないクラシック・レースとは何なのか」
という疑問は、やがて追加登録料の支払によるクラシックの追加登録を認める制度改革、そして後の「世紀末覇王」テイエムオペラオーによる99年の皐月賞や「みんなの愛馬」キタサンブラックによる15年の菊花賞制覇へとつながっていく。
ただ、その生涯が様々な角度から語られるオグリキャップだが、彼自身が出走できなかったクラシック・レースを、彼と非常に縁の深い牝馬が達成していることについては、近年意識されることが少なくなっているように思われる。そこで、今回のサラブレッド列伝では、オグリキャップの6歳下の半妹であり、1994年の桜花賞を制して兄の果たせなかった夢をかなえたオグリローマンについてとりあげてみたい。
1990年12月23日は、日本競馬における伝説のひとつとして記憶されている。この日、中山競馬場で開催された有馬記念(Gl)で、当時の最強馬と認められていたものの、秋は不振が続いて「もう終わった」と言われていたオグリキャップが優勝し、「奇跡」とも呼ばれた復活を遂げたのである。
笠松競馬でデビューして連戦連勝の強さを見せたオグリキャップは、JRAに転入した後も、「三流血統」「雑草」などと呼ばれながら、88年はタマモクロスとの「芦毛対決」、89年はスーパークリーク、イナリワンとの「平成三強」を形成して数々の名勝負を繰り広げ、日本競馬史の中でもレベルが高すぎる同時代のライバルたちとの過酷な戦いの中心にあり続けた。しかし、現役最後の年となる90年は、安田記念(Gl)こそレコード勝ちを飾ったものの、確勝とみられた宝塚記念(Gl)で伏兵オサイチジョージから大きく離された2着に敗れると、秋は天皇賞・秋(Gl)6着、ジャパンC(Gl)11着と惨敗を繰り返し、6歳(現表記5歳)という年齢もあって、有馬記念を最後に引退が決まっていた。
そして、最後のレースとなる有馬記念に出走したオグリキャップは、定員が17万人とされる中山競馬場に集結した17万7779人の大観衆の前で、天皇賞・秋で皐月賞に続くGl2勝目を達成したヤエノムテキ、宝塚記念でオグリキャップを下したオサイチジョージ、90年のクラシック戦線を牽引したメジロライアン、ホワイトストーンといった当時の強豪たちを相手に勝ち切り、自身の物語に美しい終止符を打ったのである。
オグリキャップの物語は、「三流血統の地方馬」が、約3年半の競走生活で9億1251万2000円の賞金を稼ぎ出し、18億円のシンジケートを組まれて馬産地へと帰っていくという形で大団円を迎えた。しかし、そんな彼が残した最大の遺産は競馬界の爆発的な人気であり、彼がJRAへ転入する直前の87年に過去最高の約251億円を記録した有馬記念の売上が、90年には480億円とほぼ倍増している。
何はともあれ、オグリキャップの引退によってひとつの伝説が終わり、大衆の関心は次なる夢へと移っていった。そして、オグリキャップを継ぐ夢は、この時、既に胎動していた。
時を半年ほど遡り、オグリキャップが円熟期を迎えていた90年春ころ、彼の生まれ故郷である稲葉牧場で、稲葉裕治氏、馬主の小栗孝一氏、笠松競馬の鷲見昌勇調教師の三者が話し合いをしていた。オグリキャップの母ホワイトナルビーのこの年の配合…つまりはオグリキャップの弟妹の配合を相談するためだった。
オグリキャップの生産者は、書類上は稲葉不奈男氏の生産馬とされているが、実際の牧場経営は息子の裕治氏に代替わりしていたようである。小栗氏はホワイトナルビーの馬主であり、それ以前のホワイトナルビー産駒をすべて自らの所有馬として笠松競馬場でデビューさせていた。鷲見師は、そんな小栗氏の笠松競馬場における主戦調教師である。
小栗氏と鷲見師の関係は長い。1929年生まれの小栗氏は、事業に成功して28歳ころに笠松での馬主生活をスタートさせた。きっかけについては、馬券を買うだけでは満足できなくなったため、友人を誘って共同馬主になったという説と、馬券を買っても全く儲からないと不満を持っていたところ、
「馬を持てば儲かる」
と人に勧められたからという説がある。いずれにしても、馬主になってもなかなか儲からず、辞めようかとも思っていた小栗氏だったが、鷲見師に強く勧められたアングロアラブのオグリオーが活躍して笠松競馬場に「オグリオー記念」というレースまで作ってもらったことで
「(馬主を)やめられなくなった」
とのことである。
ホワイトナルビーは、オグリオーより3歳下の1974年生まれで、JRAではマルゼンスキーと同世代にあたる。鷲見師が自厩舎に迎える逸材を探して日高の牧場を渡り歩いていた際に「ピンときた」ということで、「価格は600万円だが、引退後に繁殖牝馬として牧場が200万円で買い戻す条件が付いているから、実質400万円で買える」と言って、小栗氏に持ち込んだという。
しかし、鷲見厩舎が所属する笠松競馬場を含めた東海競馬における最大のレースとされていた東海優駿の当時の1着賞金は、1000万円である。JRAを見ても、日本ダービーの1着賞金が5000万円であり、同世代の優勝馬ラッキールーラの取引価格は800万円だったと言われる時代だから、「実質400万円で買える」と言っても、元を取るハードルはかなり高い。小栗氏が、そんなホワイトナルビーを買ったのは、鷲見師の熱意に推されたから、という一点だった。
ところが、8戦4勝という戦績を残したところで故障したホワイトナルビーを約束通りに牧場へ返そうと思って引退させたところ、牧場から一方的に買戻しをキャンセルされたという。
「そんな馬鹿な話があるか!?」
と小栗氏が立腹したのも当然だが、結局小栗氏は、ホワイトナルビーを自己所有の繁殖牝馬として引き取ることにした。そこで鷲見師が、買戻しがキャンセルされる以前から彼女に興味を示していたという稲葉氏と話をつけ、彼女は稲葉牧場で繁殖生活を送ることになったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドや競馬を語る場合、よく「あの馬は血統がいいから走る」「あの馬は血統が悪いから勝てない」という言い方がされることがある。現存するサラブレッドの父系をたどるとすべて「三大始祖」のいずれかにたどりつく閉鎖的な血しか持たないサラブレッドの世界は、それゆえに血統をこの上なく重視し、その価値観を究極まで推し進めたところで発展してきた。
本来ならば、サラブレッド自体が限られた血統しか持たない以上、「血統がいい」「血統が悪い」といっても、その違いはそう大きなものではないはずである。「良血」といわれる馬と「雑草」といわれる馬の血統表を見比べてみると、2~3代も遡れば同じ馬に行き着く・・・ということは、珍しいことではない。そうであるにもかかわらず、実際には「良血」といわれる馬は高値がついて大切にされる反面、「雑草」といわれる馬は、捨て値で売られてばかにされ、やがてその血統自体が滅び去っていくことが多いのは、非常に悲しいことである。
だが、時にそうした運命に正面から戦いを挑む「雑草」が現れるのも競馬の面白さと魅力である。1991年、92年のマイルCS(Gl)を連覇した名マイラー・ダイタクヘリオスは、そんな競馬の面白さ、魅力を体現した1頭に数えることができる。
ダイタクヘリオスという馬を語る場合、「雑草」とか「マイルCS連覇」とか「名マイラー」といった一般的な言葉を並べただけでは、そのすべてを表すことはできない。ダイタクヘリオスの特色を並べてみると、他の馬たちではとても真似できないヘンなものばかりである。1番人気で重賞を勝ったことがない。それどころか彼が古馬になってから出走した重賞では、彼以外の馬も含めて、一度も1番人気の馬が勝ったことがない。レース直前の併せ馬では、Gl2勝馬でありながら、平気で未勝利馬に大差をつけられる。パドックで暴れれば暴れるほどレースでは強く、静かにしているときは全然ダメ。負ける時は、直線で笑いながら沈んでいく・・・。ひとつだけでも十分面白いのに、これだけ重なればもはや奇跡である。そんな面白い馬が、いざレースになると素晴らしい先行力を見せ、さらに第4コーナーから凄まじいダッシュをかけて後続を突き放すとそのまま粘り切ってしまうのだから、そんな競馬を見せられるファンがしびれないはずがない。嵐のような激しさでターフを荒らし回ったダイタクヘリオスは、伝説の時代ならいざ知らず、日本の現代競馬においては、ほぼ間違いなく有数の個性派ということができるだろう。
こうして圧倒的な個性をひっさげてマイル路線に乗り込む彼の前に立ちふさがったのが、華のような華麗さでマイル戦線に輝いた同年齢の名マイラー・ダイイルビーだった。ダイイチルビーは名牝マイリーの血を引く「華麗なる一族」の出身で、さらに母がハギノトップレディ、父がトウショウボーイという当時の日本ではこれ以上望みようがないという内国産の粋を集めた血統を持っていた。生まれながらに人々の注目という名の重圧を背負った彼女は、直線に入ってからの馬群を切り裂くような鋭い切れ味を持ち味としており、ダイタクヘリオスとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていったのである。
今回は、マイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたダイタクヘリオスの軌跡を語ってみたい。
ダイタクヘリオスは、1987年4月10日、平取の清水牧場で産声を上げた。父がスプリングS(Gll)、NHK杯(Gll)などを勝ったビゼンニシキ、母が未出走のネヴァーイチバンという血統は、決して目立つものではない。後にダイタクヘリオスの血統は、ライバルのダイイチルビーと対比してたびたび「雑草」といわれるようになったが、それもあながち理由のないことではない。
ただ、当時の日本競馬においては、ダイイチルビーの血統と比較すると、たいていの内国産血統が「雑草」になってしまうことも事実である。また、ダイタクヘリオスの牝系を見ると、華やかさにおいてはダイイチルビーの一族に遠く及ばないとはいえ、長い歴史と堅実な成績という意味では決して恥じるべきものでなかったことについては、注意しておく必要がある。
ダイタクヘリオスの牝系は、1952年に競走馬として輸入された外国産馬スタイルパッチに遡る。スタイルパッチは短距離ハンデをはじめ競走馬として41戦9勝の戦績を残し、繁殖牝馬としても期待されていた。
繁殖牝馬としてのスタイルパッチは明らかに「男腹」で、死産を除く11頭の産駒のうち、牝馬はわずかに3頭だけだった。ダイタクヘリオスは、この3姉妹の「長女」にあたるミスナンバイチバンの孫にあたる。ミスナンバイチバンは26戦4勝の戦績を残し、そこそこの期待とともに繁殖入りを果たした。ちなみにその2頭の妹を見ても、シギサンは4勝、リンエイは南関東競馬とはいえ10勝を挙げている。牡馬も8頭のうち6頭が勝ち星を挙げており、スタイルパッチの繁殖成績は、目立たぬながらもなかなかのものだったと言えよう。
だが、スタイルパッチの血の真価が発揮されたのは、子の代ではなく孫、ひ孫の代に入ってからだった。まず1975年、ミスナンバイチバンの長女カブラヤの子であるカブラヤオーが、歴史上類を見ない逃げで皐月賞、日本ダービーの二冠を奪取した。カブラヤオーの名前は、通算13戦11勝の二冠馬という記録以上に、ついていった馬が次々と故障したという悪魔的な逃げの記憶が語り継がれている。
カブラヤオーの鮮烈な登場によって再び脚光を浴びたスタイルパッチ系からは、その後79年にエリザベス女王杯を勝ったカブラヤオーの妹ミスカブラヤ、そして82年に7戦6勝でスプリングSに臨み、「82年クラシックの主役」と謳われながらもこのレースで故障し、そのままターフを去った悲運の大器サルノキング・・・と次々強豪が輩出した。ちなみに、このサルノキングが敗れたスプリングSは、それまで逃げで勝ってきたサルノキングがなぜか突然最後方待機策をとったこと、そしてそのスプリングSを勝ったのが「華麗なる一族」に属するやはり逃げ馬のハギノカムイオーだったこと、さらにハギノカムイオーの馬主がレース直前にサルノキングの権利を半分買い取っていたことから、一部では
「血統的に、勝てば高値で売れるハギノカムイオーを勝たせるための陰謀ではないか」
という説まで流れた。それはさておき、このレースの後皐月賞の本命としてクラシックへと進んだハギノカムイオーに対し、このレースを最後に故障によってターフを去ったサルノキングは、種牡馬入りこそしたものの、実績以前に最低限の人気すら集められず、最後は用途変更によって行方不明になるという運命をたどった。あまりにも対照的な明暗に分かれた2頭の物語は、ダイタクヘリオスの一族とダイイチルビーの一族の、最も古い因縁である。
閑話休題。こうして次々と活躍馬が出たことによって、スタイルパッチ系の牝馬への注目度は当然高まるはずだった。・・・だが、そうした一族の栄光への余光は、ダイタクヘリオスの母であるネヴァーイチバンのところまでは回ってこなかった。
スタイルパッチ系自体ミスナンバイチバンをはじめとして多産の系統だったが、これは希少価値の面からは見劣りするものだった。また、スタイルパッチ系の活躍馬であるサルノキングはいとこ、カブラヤオー、ミスカブラヤ兄妹は甥姪にあたり、同族とはいっても、ネヴァーイチバンからしてみれば、その血脈は、微妙にずれたところにあった。
それらに加えて、ネヴァーイチバン自身も、生まれつき両前脚が曲がっている奇形があった。彼女が未出走に終わったのもその欠陥ゆえだったし、彼女の初期の産駒は、母の脚の形まで受け継いでしまい、ろくに走ることができなかったのである。
ネヴァーイチバンの初期の産駒は、3番子までがすべて未出走か未勝利に終わり、4番子のエルギーイチバンが初めて勝ち星を挙げたと思ったら、それは北関東競馬での結果だった。繁殖牝馬としてこのような結果が出つつあった情勢の中では、いくら同族が活躍しても、彼女まで脚光が及ぶことはない。ネヴァーイチバンは、一族の活躍とはまったく無縁のままに、ある牧場でひっそりと繁殖生活を送っていた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。
スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。
そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。
しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。
そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。
「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
と、これまた大真面目に答えたという。
ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。
インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。
しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。
こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。
強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。
その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。
もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。
しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。
ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。
そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。
ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。
そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。
ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から
「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」
とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。
このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。
そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、
「なにかいいことがあるかもしれん」
ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。
荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。
ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。
やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。
しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。
ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。
種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。
そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。
ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、
「忘れた」
と答えている。なんとも人を喰った話である。
]]>(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
かつて、ある名馬を管理した調教師が、こんな発言をしたことがある。
「競馬に絶対はない、でも、この馬には絶対がある」
実際には、彼が「絶対」と称えた名馬もまた、生涯のうちに予期せぬ敗北を幾度か喫している。競馬に「絶対」が存在しうるとすれば、その瞬間、競馬は存在意義を失う。だからこそ、ホースマンたちはその時代に「絶対」と思われる存在を見出した場合、「絶対」の存在を否定し、競馬の存在意義を証明するために死力を尽くす。そうした心ある人々の思いと戦いが、競馬の歴史と伝統を築いてきた。
1987年牝馬三冠戦線は、ありうべからざる「絶対」の名牝を中心に回っていた。マックスビューティ・・・「究極美」という意味の名前を持つ彼女は、桜花賞を8馬身差、オークスを2馬身半差で制しただけでなく、その他のレースも含めて8連勝を飾り、ついに牝馬三冠の最終関門・エリザベス女王杯(Gl)へと駒を進めた。前年にメジロラモーヌが史上初の牝馬三冠を達成したばかりだったが、最後の戦いを見守る当時のファンのほとんどは、マックスビューティが2年連続の快挙を達成することを望み、また確信していた。
ところが、そんな彼らの目の前で、「絶対」は崩れ去った。彼らが信じた未来を突き崩し、歴史を未知へと誘い込むその鋭い末脚は、スタンドを包む歓声を悲鳴に変えた。「絶対」と言われた究極美を牝馬三冠の最終章で打ち破り、その野望を阻止したのは、くしくも「才媛」の名を持つタレンティドガールだった。それは、多くの人々の思いを背負ったサラブレッドが、競馬に「絶対」がないことを証明し、自らの手で未来をつくりあげた瞬間だった。
タレンティドガールは、1984年4月27日、静内の名門牧場・千代田牧場で生まれた。千代田牧場は、タレンティドガールの誕生以前にも、1975年の天皇賞馬イチフジイサミ、82年のエリザベス女王杯馬ビクトリアクラウンらを輩出した実績によって競馬界にその名を知られた名門牧場で、21世紀になってからも多数のGl馬を送り出している。
タレンティドガールの父は、ダービー馬オペックホースや南関東三冠馬サンオーイを輩出した名種牡馬リマンド、母は1勝馬チヨダマサコという血統になる。チヨダマサコの牝系は、遡っていくと小岩井農場、そして日本競馬史の誇る名牝ビューチフルドリーマーに行き着く古い歴史を持っている。
そんな彼女の系統が千代田牧場へやって来たのは、タレンティドガールの曾祖母にあたるワールドハヤブサの代からだった。
しかし、千代田牧場の高い期待を集めたワールドハヤブサとその子孫たちからは、なかなか活躍馬が現れなかった。ワールドハヤブサの長女・ミスオーハヤブサは不出走のまま繁殖入りし、その弟妹たちからも、これといった馬は出なかった。
千代田牧場は、オーナーブリーダー兼マーケットブリーダーという経営形態をとっている。日本の馬産の大多数を占める専業マーケットブリーダーの場合、馬を馬主に売却した代金に収入を依存せざるを得ないことから、馬主に高く買ってもらえる牡馬が生まれると喜び、逆に値段が安くなる牝馬は嫌う傾向がある。しかし、マーケットブリーダーだけでなくオーナーブリーダーも兼ねている千代田牧場の場合、将来牧場に残したい牝馬については、売却するのではなく自己名義で所有する方針をとっている。牝馬は大きな賞金を稼いでくれる可能性は低いものの、競走馬としてもたらす賞金よりも、引退後に繁殖牝馬としてもたらしてくれる高価値の産駒による売上増を望むのが、千代田牧場の伝統的な経営方針とされてきた。
ただ、そうは言っても、自己名義の持ち馬にした牝馬があまり走らないと、その牝馬が将来生む子馬の価値が上がってこない。それに、自分たちの意気、従業員たちの士気も、高まらない。
当時の千代田牧場の当主・飯田正氏の妻である政子夫人は、持ち馬たちが走らないことを気にして、ミスオーハヤブサの初子が生まれた時、夫に
「この馬には、走りそうな名前をつけてくださいよ」
と頼んだ。
すると、飯田氏は何を考えたのか、その子馬に「チヨダマサコ」と名づけてしまった。由来は読んで字の如く、「千代田・政子」・・・。政子夫人は怒ったというが、その名前は変更されることなく、チヨダマサコはそのまま競馬場でデビューすることになった。ちなみに、後になぜそんな名前をつけたのか聞かれた正氏は、
「お尻が大きいところが似ていたから」
と答えているが、本気なのか冗談なのかは判然としない。
さて、チヨダマサコは、デビュー戦を勝ったものの、その後2勝目をあげることができないままターフを去っていった。飯田氏は、やはり夫人に責められたのであろうか。
しかし、チヨダマサコと入れ替わるようにデビューしたのが、彼女より1歳年下にあたるビクトリアクラウンだった。それまで期待に応える産駒を出せなかったワールドハヤブサの7番子、つまりチヨダマサコの叔母にあたるビクトリアクラウンは、デビュー戦こそ凡走したものの、その後怒涛の4連勝を飾り、「東の女傑」として春のクラシックの有力候補へとのし上がった。その後、脚部不安を発症してそれらのレースは棒に振った彼女だったが、8ヵ月後に復帰してクイーンS優勝、牝馬東京タイムズ杯2着を経て、エリザベス女王杯でついに同世代の牝馬の頂点に立ったのである。
ビクトリアクラウンがエリザベス女王杯を制したことで、忘れられかけていたワールドハヤブサの一族は、再びその価値を注目されるようになった。そうなってくると、チヨダマサコに対する期待もいやおうなしに高まってくる。
毎年サンプリンス、リィフォーといった種牡馬と交配されていたチヨダマサコが、3年目にリマンドと交配されて生まれたのがタレンティドガールである。彼女が生まれたのは、ビクトリアクラウンによるエリザベス女王杯制覇の1年半後のことだった。
彼女に与えられた「タレンティドガール」という馬名には、千代田牧場の人々の特別な思いがこめられている。飯田夫妻の間に生まれた子供たちのうち三女は、若くして亡くなっていた。娘の夭折を深く惜しみ、悲しんでいた夫妻は、妻と同じ名を持つチヨダマサコの初子の牝馬に「スリードーター」と名付け、さらに1頭の牡馬を挟んで生まれた牝馬にも、彼女にちなんだ名前をつけることにした。
タレンティドガールの馬名申請時は、最初、三女の愛称だった「ロコ」で申請したものの、なぜか申請が通らなかったという。そこで、才気煥発だった娘のために「タレンティドガール」で再申請したところ、今度は申請が通って馬名登録された。このように、千代田牧場の人々が彼女に寄せる思い入れは、ただごとではなかった。
千代田牧場の人々の期待を一身に受けて順調に成長したタレンティドガールは、やがて栗田博憲厩舎からデビューすることになった。
菅原泰夫騎手を鞍上に迎えて臨んだタレンティドガールの新馬戦は、デビュー戦、折り返し戦とも2着に敗れるというほろ苦いものになった。彼女の初勝利は、通算3戦目となる未勝利戦でのことである。
ちなみに、その時タレンティドガールの手綱を取ったのは、後にマックスビューティの主戦騎手となる田原成貴騎手だった。当時の田原騎手は、まだマックスビューティに騎乗しておらず、タレンティドガールの初勝利の翌週にマックスビューティ陣営から騎乗依頼を受け、バイオレットS(OP)・・・そして牝馬三冠戦線へと参戦していくことになる。
もっとも、当時既にオープン入りを果たし、「大器」との呼び声も高かったマックスビューティと違って、タレンティドガールはまだ初勝利を挙げたばかりの1勝馬の身だった。クラシックすら視界に入ってきていない彼女に、83年、84年の2度にわたって全国リーディングに輝いた騎手を鞍上へ留めおくことができるはずもない。タレンティドガールとともに戦う騎手は、通算4戦目となる次走の桃花賞(400万下)では、またもや変わっていた。
蛯沢誠治騎手・・・それが、この日タレンティドガールと初めてコンビを組んだ騎手の名前だった。彼こそが、その後タレンティドガールの主戦騎手として戦いをともにする男である。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
名馬の条件とは、どのようなものだろうか。100人の競馬ファンがいれば、100の名馬像があるだろうから、その条件を即断することは難しい。ある時代に君臨し、どんな舞台でも、どんな挑戦者が相手でも、常に己の卓越した実力のみをもって叩き伏せた強豪は、おそらく誰からも名馬と呼ばれるだろう。しかし、実力においてその域に達していなくとも、別の魅力によって「名馬」と呼ばれる馬たちが多数存在することも、競馬界の厳然たる事実である。
競馬の歴史とは、必ずしも圧倒的な強さを持つ馬のみによって築かれるわけではない。圧倒的な強さ以外の何かでファンに感動を呼び起こす馬たちが築きあげるものも、もうひとつの競馬の歴史なのである。
1997年牡馬クラシック世代とは、歴史が持つ様々な側面を私たちに示してくれた世代である。この世代に生まれて日本で走った馬たちの中で、最も圧倒的な強さを見せたのがタイキシャトルであるということについて、おそらく争いはないだろう。タイキシャトルは外国産馬だったため、日本競馬の花形であるクラシックへの出走権はなかったが、それゆえに早い時期から短距離戦線に照準を絞り、古馬たちに混じって走った大レースを勝ちまくった。やがてタイキシャトルは、国内のGlを4勝しただけでなく、欧州のベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞(国際Gl)まで制し、日本競馬の短距離界に、ひとつの歴史を築いたのである。
そんな輝かしい栄光の主であるタイキシャトルに比べた場合、同じ世代に生まれた中長距離路線の主役たちの実績は、見劣りするものといわなければならない。春の二冠馬サニーブライアン、菊の上がり馬マチカネフクキタル、4歳(旧表記)で有馬記念を制したシルクジャスティス、希代の逃げ馬サイレンススズカ、黄金旅程ステイゴールド・・・。彼らはいずれも特徴的な馬たちではあったが、全盛期が短かったり、距離適性が限られていたり、とにかくジリ脚だったり、といった注文がつく馬ばかりだった。彼らの本質は、強さよりも個性が目立つ「個性派」ではあり、競馬ファンの誰もが「名馬」と認めるような存在ではなかった。そんな彼らは、やがて台頭してきた下の世代の馬たち、絶対的な名馬と呼ばれる存在を擁した新時代の担い手たちとの、時代の覇権を賭した戦いに敗れることによって、過去の馬となっていく宿命を背負っていた。
だが、そんな彼らが残した戦いの記憶は、短距離戦線でタイキシャトルが築いた歴史にも劣ることなく、それどころかより強く、私たちに強く深く刻まれている。それは、彼らもまた、彼ら自身が残した記憶ゆえに「名馬」と呼ばれることがある存在だからである。おそらく彼らは、100人の競馬ファンのうち100人から「名馬」と呼ばれることはないだろう。しかし、彼らを名馬と呼ぶ100人のうち一部のファン1人1人の思い入れは、誰からも「名馬」と認められる馬と比較しても、決して見劣りするものではない。
そんな彼らの世代の中長距離馬たちを代表する印象深いサラブレッドの1頭が、メジロブライトである。日本を代表する名門オーナーブリーダー・メジロ牧場に生まれたメジロブライトは、同じ世代の馬たちを代表する1頭として、クラシック戦線から古馬中長距離戦線へと続く日本競馬の王道を走り続けた。そして、ついには天皇賞・春(Gl)で日本のサラブレッドの頂点に立ち、生まれ故郷を見下ろす羊蹄山に、そして日本の競馬界に新たな春の到来を告げたのである。
だが、メジロブライトをメジロブライトたらしめたのは、そうした輝かしい春の栄光ではない。それよりもむしろ、彼がその前と後に過ごした、長い苦しみと屈辱の季節だった。
3歳戦、クラシック戦線で常に世代の先頭付近を走り続けながら、Glにはどうしても手が届かなかった若き日のメジロブライト。天皇賞・春を勝ったことで現役最強馬への道を期待され、若い世代との抗争に明け暮れる中で一線級の実力を保ち続けながらも、二度と古馬中長距離戦線の頂点に立つことはできなかった古馬メジロブライト・・・。そして彼は、現役生活を終えてみると、当時の競馬界を代表する強豪の1頭であったことは誰もが認めるものの、時代を代表するただ1頭の最強馬と認められることはなかった。
しかし、メジロブライトは、そんな馬でありながら、常にファンから愛された。というよりも、そんな馬だったからこそ愛された。誰もが認める実力を持ちながら、その不器用さゆえに、実力にふさわしい名誉と栄光を手に入れることはできなかったメジロブライトだが、ファンはそんな彼の姿にこそ、競馬の原点と魅力を見出したのである。
メジロブライトは、他の馬には代えがたい馬として、その競走生活を通して異彩を放ち、今なお輝き続けている。競走馬のピークが短くなった現代競馬において、約4年の長きにわたって現役生活を貫いた彼は、まさにその間の競馬界の季節を見つめ続けた生き証人であり、競馬そのものだった。今回のサラブレッド列伝では、現代競馬史に残る個性派として私たちに深い印象を残し、今なお根強い人気を誇るメジロブライトについてとりあげてみたい。
1997年クラシック世代を代表する強豪の1頭であるメジロブライトの生まれ故郷は、羊蹄山を見上げる日本有数の名門牧場・メジロ牧場である。
メジロ牧場は、古くからの有力馬主だった北野豊吉氏が
「自分の生産馬でダービーや天皇賞を勝ちたい」
と志し、1967年に開設した生産牧場である。メジロ牧場は、生産だけを行って生産馬を馬主に売ることで生計を立てている通常の牧場とは異なり、その生産馬を他の馬主に売ることはしない。メジロ牧場は生産馬を売る代わりに、自らの名義で走らせることで賞金を稼ぎ、その賞金で経営を成り立たるオーナーブリーダーだった。
また、メジロ牧場は、オーナーブリーダーとしての形態だけでなく、その血統についても強いこだわりを持ち、自家生産の種牡馬と繁殖牝馬を重視したことでも知られている。メジロ牧場の生産馬の血統表を見ると、父も母も「メジロ」の名を冠した馬名が並び、母系については3代母、4代母に至るまで「メジロ」ということが珍しくない。流行の血統に流されがちで、長い時間をかけて系統ごとを育てる馬産が忘れられがちな日本にあって、メジロ牧場の馬産は、多くのホースマンたちの敬意を集め、競馬ファンからメジロ牧場が広く親しまれるゆえんとなっていた。
だが、同系統の種牡馬、繁殖牝馬ばかりで馬産を続けていると、生産馬の血統構成が単調になってしまい、近親配合の弊害も出やすくなる。古今東西、この危険性を軽視したために強い馬が作れなくなり、やがて牧場自体が衰運に向かったオーナーブリーダーは多い。メジロ牧場も、オーナーブリーダーとしての伝統を維持しようとすればするほど、定期的に外部から新しい血を導入していく必要があった。
メジロブライトの母レールデュタンは、元来メジロ牧場以外の生産馬だった。マルゼンスキーの直子であり、現役時代に22戦4勝の戦績を残していたレールデュタンには、繁殖牝馬としての引き合いがさまざまな牧場から来ていた。しかし、メジロ牧場は、レールデュタンが引退するかなり前の段階から目をつけて動いており、そのかいあって、レールデュタンは、引退後すぐにメジロ牧場へやってくることになった。
現役を引退した後、すぐにメジロ牧場で繁殖生活を開始したレールデュタンの繁殖成績は、ある意味で非常に極端なものだった。メジロブライトの兄姉にあたる5頭のうち、3番子のメジロモネは5勝をあげてオープン馬に出世したものの、それ以外の4頭は勝ち星を挙げるどころかレースへの出走さえ果たせなかったのである。レールデュタンには特に期待をかけ、
「何かがかみ合えば、きっといい子を出してくれるに違いない」
と信じていたメジロ牧場の人々ではあったが、現実にはなかなか「何かがかみ合う」ことはなかった。
そんなレールデュタンからメジロブライトが誕生するきっかけは、1993年春、メジロライアンが種牡馬として帰還したことだった。
メジロライアンは、通算19戦7勝、宝塚記念(Gl)をはじめ、重賞を4勝した強豪である。また、メジロライアンは、メジロ牧場の歴史の中でも最も輝かしい成績を残した1990年クラシック世代の中心を担った1頭でもあった。
そして、メジロ牧場にとってのメジロライアンは、単なるGl馬としての位置づけを超えた特別な存在だった。メジロ牧場の、それもメジロ牧場の主流血統から誕生したメジロライアンは、その現役生活を牧場の夢に捧げ、そして殉じた馬だった。
メジロライアンを語る場合、勝利よりは敗北の歴史の方が分かりやすい。メジロ牧場の悲願である春のクラシック、そして日本ダービー(Gl)への夢を背負い、生まれながらに牧場の期待を集めて走ったこの馬は、期待どおりに早々と出世して春のクラシックに乗ったものの、その結果は皐月賞(Gl)3着、日本ダービー2着と惜敗に終わった。その後も菊花賞(Gl)3着、有馬記念(Gl)2着、天皇賞・春(Gl)4着・・・と惜敗の歴史を積み上げ続けたメジロライアンは、5歳時に宝塚記念(Gl)を制して悲願のGl制覇を果たしたものの、「八大競走」と呼ばれる日本で最も格式が高いとされるレースには、ついに手が届かなかった。
そんなメジロライアンに対するメジロ牧場の人々の思い入れは深かった。競走馬としては超一流になれなかったメジロライアンを、せめて種牡馬としては成功させてやりたいと願った。
「ライアンの子でダービーを!」
それは、人ならざる馬の身に、夢という名のエゴを背負わせたことへの、人間たちのせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。だが、その気持ちは間違いなくメジロ牧場全体の意思であり、望みでもあった。
しかし、種牡馬入りした当初、種牡馬メジロライアンの人気は、決して芳しいものではなかった。
メジロライアンの父は有馬記念、天皇賞・春を勝ったアンバーシャダイであり、さらに祖父は11年連続リーディングサイヤーに君臨したノーザンテーストに行き着く。だが、こうした父系の血統的背景は、当時の日本では必ずしもプラスにはならなかった。内国産種牡馬軽視の風潮が根強かった当時の日本の馬産界では、内国産種牡馬ということは、その一点をもって人気を落とす材料とされていた。まして、それが2代続けばなおのことである。
もともと成績的に一流馬ではあっても超一流馬とはいえなかったメジロライアンゆえに、種牡馬としての可能性は疑問視する向きが多かった。種牡馬としてのシンジケートも、総額2億4000万円と比較的安価だったにもかかわらず、公募期間が過ぎた後も50口の募集が満口にならなかったため、残口をメジロ牧場が埋める形で出資することで、ようやく発足にこぎつけたほどだった。このような状況のもとで、生まれ故郷のメジロ牧場が何もしなかった場合、メジロライアンが種牡馬として失敗に終わることは目に見えていた。
メジロライアンを種牡馬として成功させるためには、メジロ牧場が率先して良質な牝馬を交配し、子供たちの活躍でメジロライアンへの評価を引き上げるしかなかった。メジロ牧場はシンジケートの穴埋めをしたことで種付け権を多く持っていた関係もあって、初年度から5頭の牝馬をメジロライアンと交配した。年間の馬産が20頭程度のメジロ牧場にとって、これは大きな、それもリスクの高い賭けだった。
ただ、メジロ牧場の繁殖牝馬をメジロライアンと交配するためにあたっては、ひとつの問題があった。メジロライアンはメジロ牧場の主力牝系であるシェリル系の出身だったため、多くがシェリルの血を持つメジロ牧場の繁殖牝馬たちでは、交配できる馬が限られていた。そこで浮上した1頭が、もともと外部の血統でシェリルの血を持たないレールデュタンだった。
メジロライアンと交配されたレールデュタンは、翌年の春、自身の6番子、そしてメジロライアンの初年度産駒として、メジロブライトを出産した。
]]>競馬におけるグレード制度の特徴として、グレードが単なるレースの格付けにとどまらず、Glを頂点とする競馬界のレース体系を決する重要な要素となっている点が挙げられる。
Glに格付けされたレースとは、競馬界の数あるレースの中である体系の頂点に位置づけられるものである。強い馬がGlで勝ち負けし、Glで勝ち負けする馬が強い馬として評価されることこそが、グレード制のもとでの競馬のあるべき姿である。無論ひとつのGlだけでは「体系」たり得ず、それ以前のGlやGll以下のステップレースを通じて「強い馬」がある程度見えてきたり、そうした馬がGlでころりと負けて意外な馬が勝ってしまうこともある。だが、そうした事態があまり続いてしまうと、それは「レース体系」としては欠陥があるといわなければならず、ハンデGlllあたりならいざ知らず、Glとしてのそのレースは、存在意義を疑われてしまう。
その点、数あるGlの中でもフロックが少なく、実力どおりに決まるレースとされてきたのが、天皇賞・春(Gl)である。中央競馬のGlの中でも最も長い距離で行われる天皇賞・春の歴代勝ち馬を並べてみると、特に20世紀の勝ち馬たちは、そのほとんどが一時代を築いた名馬か、それに準ずる存在というに足りる存在である。京都3200mを舞台に行われるこのレースは、歴史と伝統を象徴する勝ち馬たちの名前が物語るとおり、フロックでは決して勝てない真の最強馬決定戦というにふさわしいレースとされてきた。
グレード制度導入以降の20世紀における天皇賞・春の勝ち馬の中で、それ以外のGlを勝てなかったのは、わずか3頭にすぎない。84年のモンテファスト、86年のクシロキング、98年のメジロブライトだけである。そのうちモンテファストは、彼自身こそ天皇賞・春以外にGlを勝てなかったとはいえ、兄に続く天皇賞兄弟制覇を成し遂げたという血の物語を持っている。メジロブライトも、祖父アンバーシャダイ、父メジロライアンと継承された内国産馬の血脈は、十分な物語性を持っている。・・・ところが、「クシロキング」はそうではない。名馬たちの谷間の中でひっそりと勝ち馬に名を連ねる彼の存在は、歴代天皇賞・春勝ち馬の中でもあまりに希薄であり、彼の名前は、競馬ファンから完全に忘れ去られつつある。果たして歴史的名馬たちの狭間に埋もれて忘れ去られた天皇賞馬クシロキングとは、どのような馬だったのだろうか。
クシロキングは、北海道・浦河にある上山牧場で生まれた。上山牧場というと、かつてスプリングS、阪神大賞典など重賞を5勝したロングホークや、京都記念、日経新春杯を勝ったマサヒコボーイを出したことで知られている。当時の上山牧場にいた繁殖牝馬は14頭だったというから、個人牧場としては、普通よりやや大きめといった規模である。
クシロキングの母・テスコカザンは、非常に骨格がしっかりした牝馬だったが、その身体があまりにも大きかったために仕上げがうまくいかず、ついに未出走のまま繁殖に上がることになってしまった。
上山牧場では、そんなテスコカザンの配合をどうするか迷っていたところ、かねてから親交があった大塚牧場から
「ダイアトムを付けてみないか」
と誘われた。
ダイアトムは、現役時代には、ワシントンDCインターナショナルやガネー賞を勝っており、種牡馬としてもアイルランドダービー馬を出し、英愛サイヤーランキング6位になったこともあった。しかし、14歳で日本へ輸入されてからのダイアトムは、大塚牧場で供用されてはいたものの、今ひとつ成績が上がらない状態だった。大塚牧場の人々は、欧州でも実績を残しており、実力があることは分かっているのに不遇な状態にいたダイアトムをなんとか種牡馬として成功させたいと、親しい牧場に種付けを勧誘していたのである。
こうして決まったのが、ダイアトムとテスコカザン・・・天皇賞馬クシロキングを生み出す配合だった。テスコカザンは、翌春、ダイアトムとの間に第2仔となる黒鹿毛の牡馬、後のクシロキングを出産した。
しかし、この仔は残念ながら、それほど見映えのする馬とはいえず、牧場の人々をがっかりさせていた。後世の結果を知っていれば
「後の天皇賞馬だから、どこかにタダモノではないと思わせるところがあったのではないか」
と期待しがちだが、クシロキングの場合は本当のタダモノだったようである。生まれた時点で目立ったものがなく、血統的にも人気といえなかった彼は、牧場にとってもあまり期待が持てない存在だった。運命がこの当歳馬のために劇的な出会いを用意していることなど、誰にも知るよしがない。
その年の上山牧場では、クシロキングを含めて13頭の当歳が誕生していたが、彼はその中ですら期待馬とは思われていなかった。
ところが、そんなクシロキングの行き先は、同期の子馬たちの中でも一番先に決まった。幼いクシロキングは、彼の競走馬時代の馬主となる阿部昭氏と、運命的な出会いを果たしたのである。
それは、クシロキングがまだ当歳の秋のことだった。阿部氏はこの年生まれた当歳馬を見に、上山牧場を訪れた。一緒に訪れた調教師が少しの間席を外したため、阿部氏は牧柵の所で子馬たちを何気なく見ていた。
すると、1頭の子馬が突然母馬の所を離れて阿部氏のもとへ擦り寄って来た。子馬は、阿部氏の上着の匂いを嗅いだり袖口を軽く噛んでじゃれ付いてきたりして、一向に阿部氏のそばから離れようとしない。阿部氏の短からぬ馬主生活の中でも、こんな馬は初めてだった。
阿部氏は、それまでにも多くの競走馬を所有していたものの、どの馬も条件戦止まりで、重賞はおろかオープンクラスの馬さえ持ったことがなかった。阿部氏は、
「この馬こそが自分の夢を叶えてくれる馬かも知れない」
という運命を感じとり、大喜びで上山牧場に対し、この馬をぜひ買いたいと申し出たのである。
この申し出に驚いたのは、大塚牧場の方だった。普通庭先取引では、期待された馬、値段の高い馬から売れていく。クシロキングがそんなに早く売れるとは夢にも思っていなかった大塚牧場では、この子馬はまだ値段すら決めていなかった。
しかし、阿部氏は牧場側があわてて決めた言い値の1500万円を即座に飲み、その場で手付け金として1000万円を支払ってまで運命の子馬を手に入れた。これが、天皇賞馬クシロキングの競走馬生活の始まりだった。
阿部氏は、自分自身が買ってきたこの子馬に、自らの出身地である釧路に因んでクシロキングという名前を与え、そのクシロキングは、美浦の中野隆良厩舎へ入厩した。中野師といえば、あのTTGの一角グリーングラスを管理したことで知られている。恵まれた環境の下で調教を積まれたクシロキングは、3歳の秋には早々にデビューした。
もっとも、この頃のクシロキングはあまり一般の期待を集める存在ではなかった。彼が初勝利を挙げたのは4戦目の未勝利戦であり、2勝馬の身で幸運にも何とか出走を果たした皐月賞も、勝ったミホシンザンからはるかに離された13着に終わっている。
皐月賞の後のクシロキングは、調教中に骨折したために、ダービーを断念することになった。秋に復帰は果たしたものの、実績がないだけに菊戦線に名乗りを上げることもできず、クラシック戦線は諦めて、条件戦を地道に戦うことになった。
しかし、故障明けのクシロキングは、春とは別の馬のように成長していた。クシロキングのことを心配して電話をかけてきた上山牧場の場長に対し、中野師はこう答えたという。
「脚もとはきれいに治っているし、馬も張り切っているよ」
その言葉を裏付けるように、クシロキングは、復帰戦を2着したあと自己条件を連勝し、阿部氏の所有馬の中で初めてのオープン馬となった。条件戦とはいっても勝ち方も抜群だったため、クシロキングはようやく、競馬界の将来を担う大器として注目を集めるようになり始めた。
オープン馬となったクシロキングは、次走を中山金杯(Glll)に定めた。前走の準オープンで2着に4馬身差をつけて圧勝したことが評価され、堂々の1番人気に支持されての出走となった。
ところが、この日クシロキングの鞍上に、主戦安田富男騎手の姿はなかった。彼は、もう1頭のお手馬だったアサカサイレントに乗るために、クシロキングを捨てたのである。1番人気でありながら鞍上に振られてしまい、レースの2日前に急遽鞍上に招かれたのは、岡部幸雄騎手だった。・・・この出会いは、クシロキングのその後の運命を大きく変えることになった。
岡部騎手は既に前年の有馬記念でシンボリルドルフとともに連覇、そして七冠を達成するなど、この時期の大レースを一人で総なめにする、当代一の騎手だった。
そして、名手の手綱は、クシロキングの実力を十二分に発揮させた。先行して直線で他馬を測ったように差し切るその勝ちっぷりは、クシロキングと岡部との呼吸がぴったりと合ってこそ可能となるものだった。クシロキングが見せた充実したレース内容に、そのクシロキングに直線であっという間に置いていかれたアサカサイレントの安田騎手は、唖然とするばかりだったという。こうして前年をシンボリルドルフの有馬記念で締めくくった岡部騎手は、この年のスタートもクシロキングで飾った。この勝利は、時代が単なるシンボリルドルフの時代ではなく、岡部幸雄の時代の到来であることを誰もに実感させるものだった。この勝利は、岡部騎手にとって通算999勝目にもあたっていた。
シンボリルドルフと出会うまでの岡部騎手の評価は「一流ではあっても超一流ではない」という程度だったが、「ルドルフに競馬の深遠を教わった」と語る岡部騎手は、シンボリルドルフの引退後、ついに騎手界の第一人者としての地位を不動のものとした。シンボリルドルフなくとも、岡部は岡部。中山金杯は、そんな彼の王道の始まりだったのかもしれない。
中山金杯を勝ったクシロキングの春の目標は、天皇賞・春(Gl)におかれることになった。日本のGlにおける最長距離のレースとなる天皇賞・春を目指す以上、長距離に対応できるかどうかが大きなポイントとなってくる。そこで中野師は、それまで2000mまでしか走ったことがないクシロキングの長距離適性を確かめるため、2500mの目黒記念に出走させることにした。
このレースでのクシロキングは、ハイペースの先行集団についていったため、最後にはスタミナがなくなり、ゴール前で差されてしまった。しかし、先行勢の中ではよく頑張った3着に残っている。レース自体もレコードでの決着だったことを考えると、上々の出来といえた。
だが、この当時は、クシロキングが乗り越えた不利はあまり意識されず、むしろ2500mで敗れたという事実のみが重視された。この敗北は、その後のクシロキングに対する距離不安説の根拠とされることとなった。
「クシロキング中距離馬説」は、次走の中山記念で決定的なものとなった。目黒記念で3着となった後、クシロキングは中山記念へと出走することになった。このレースは、かつてミスターシービーの主戦騎手として知られた吉永正人騎手の現役最後の日でもあった。
そんな吉永騎手の最後のレースを演出したのは、やはりクシロキングと岡部騎手だった。吉永騎手が騎乗したモンテジャパンは、「逃げか追い込みか」といわれた吉永騎手の騎乗スタイルを象徴するように逃げにかかったが、クシロキングはモンテジャパンの様子を窺うように先行集団につけ、第4コーナーあたりでは並びかけていった。「岡部乗り」ともいわれた好位からの抜け出しは、シンボリルドルフをもってミスターシービーを完膚なきまでに叩き潰した彼の得意技であり、持てる技術のすべてをもって、去りゆく吉永騎手に戦いを挑んだのである。
最後は岡部騎手と同期の柴田政人騎手が手綱を取ったトウショウペガサスも加わり、3頭での激しい直線のデッドヒートとなったが、最後に抜け出したのはクシロキングだった。岡部騎手は、新時代の雄として、見事に旧時代の象徴たる吉永騎手に、引導を渡してみせたことになる。
そんなドラマを演出したクシロキングにとっては、この日の勝利は中距離重賞2勝目となった。もはや、この馬が中距離ならば一線級であることを否定する者は、誰もいなくなった。こうしてクシロキングは、名馬への階段を着実に上がっていった。
]]>