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-天皇賞・秋 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Fri, 24 Feb 2023 16:12:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~ https://retsuden.com/horse_information/2023/25/473/ https://retsuden.com/horse_information/2023/25/473/#respond Fri, 24 Feb 2023 15:38:03 +0000 https://retsuden.com/?p=473  1993年4月11日生。2010年4月26日死亡。牡。鹿毛。 社台ファーム(千歳)産。
  父サンデーサイレンス、母バブルカンパニー(母父Lyphard)。藤澤和雄厩舎(美浦)
 通算成績は、13戦7勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、
 毎日王冠賞(Gll)、スプリングS(Gll)、鳴尾記念(Gll)、府中3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『未完の大器』

 競馬界ではよく「未完の大器」という言葉が使われる。しかし、実際に注意深く見てみると、そうした馬たちの中には、「未完の大器」というより、単なる見込み違いだったのではないか、という馬も少なくない。本当の意味で「未完の大器」という言葉にふさわしい馬は、そうそういるものではない。その点、バブルガムフェローは「未完の大器」という言葉がよく似合う、数少ないサラブレッドの1頭である。

 そう言うと、

「バブルガムフェローは、天皇賞・秋(Gl)と朝日杯3歳S(Gl)で、Glをふたつも勝っている。『未完』とは言えないのではないか」

という疑問が返ってくるかもしれない。しかし、バブルガムフェローが当時の人々から寄せられていた期待の大きさは、天皇賞・秋と朝日杯3歳Sを勝っただけで「完成した」と言い切れる程度のものではなかった。その卓越したレースセンスと底知れない大物感は、同じ時を共有した競馬関係者やファンに

「どこまで強くなるのだろう・・・」

と思わせ、そんな彼が積み上げていく実績はその期待をますます高めていった。彼に寄せられた期待は、やがて彼が1996年の天皇賞・秋(Gl)でサクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった当時の最強古馬たちをことごとく封じ込め、59年ぶりとなる4歳での天皇賞制覇を果たしたことで、ついに頂点へと達した。

 だが、天皇賞・秋の次走となったジャパンC(国際Gl)で謎の大敗を喫したバブルガムフェローは、その後まるで成長が止まってしまったように足踏みするようになった。彼が単なる早熟馬だったわけではない。バブルガムフェローは5歳時にも5戦走っているが、常に安定した結果を残し、馬券に絡まなかったことは一度もない。古馬になってからの彼に「衰えた」という評価は当てはまらないのである。

 それでも、彼に対して寄せられた期待の重さを思えば、Gl2勝という実績だけでは不完全燃焼だったのではないかという感が否めない。あるいは、大きすぎた期待が彼のくびきとなったのかもしれないが・・・。

 今回のサラブレッド列伝では、そんな「未完の大器」バブルガムフェローの軌跡を追うことによって、我々が彼に何を求めたのか、そして我々は競馬に何を求めるのかという疑問の答えを探ってみたい。

『バブルガムフェロー』

 バブルガムフェローは、千歳の社台ファームで生まれた。父はサンデーサイレンス、母はバブルカンパニーである。

 バブルカンパニーは、もともとフランス、アメリカで繁殖生活を送っていたところ、セリで社台ファームの吉田照哉氏に見出されて日本へ輸入された繁殖牝馬である。

 彼女が日本へ輸入された時、彼女は既に15歳(旧表記)になっていた。牧場が新たに繁殖牝馬を手に入れる場合、「今後何頭の産駒を取れるか」という問題に直結する牝馬の年齢は、極めて重要な意味を持つ。15歳という年齢は、新たに手に入れる繁殖牝馬としては、かなり高いリスクを負うものである。しかも、バブルカンパニーの価格は37万ドルと、年齢を考えるとかなり高額なものだった。

 それでも社台ファームがバブルカンパニーを手に入れる決断をした背景には、彼女の優れた血統的背景があった。バブルカンパニー自身の競走成績は12戦1勝にすぎないが、彼女の母Prodiceはサンタラリ賞(仏Gl)優勝、フランスオークス(仏Gl)2着などの実績を持つ名牝であり、その産駒でバブルカンパニーの全妹にあたるSangueも、米国のGlを3勝している。また、バブルカンパニーがフランスで生んだ産駒からは、仏2000ギニー(仏Gl)で2着となり、現役引退後はアルゼンチンに渡ってチャンピオンサイヤーとなったCandy Stripes、クリテリウム・ド・サンクルー(仏Gl)を勝ったIntimistが出ている。

 これほどの血統背景を持つ馬だけに、社台ファームがバブルカンパニーに寄せる期待は、非常に大きなものだった。しかも、年齢を考えると、そう多くの子は取れそうになく、悠長に構えている時間もない。

 バブルカンパニーは、1991年、92年とたて続けにサンデーサイレンスと交配された。サンデーサイレンスは、89年に米国三冠のうち二冠とブリーダーズCを制し、80年代の米国競馬の最強馬とも称される名馬である。そんなサンデーサイレンスは、吉田善哉氏が率いる社台ファームによって日本へ輸入され、91年春から種牡馬として日本で供用を開始したばかりの期待の種牡馬だった。

 93年4月11日にサンデーサイレンスの2年目産駒として生まれたのが、バブルガムフェローである。生まれたばかりのバブルガムフェローは、「ちょっと華奢にみえるくらい線の綺麗な馬」だった。バブルカンパニーの輸入後の産駒たちのうち91年生まれの持込の牡馬は故障で競走馬になれず、生まれた直後から「凄い馬になるかも・・・」と期待されていた92年生まれのサンデーサイレンス産駒も、デビュー前に病気で急逝している。それだけに、牧場の人々がバブルガムフェローに寄せる期待は大きなものだった。

『溢れる才気』

 血統と馬体の線の細さゆえに、生まれた直後から期待を集めていたバブルガムフェローは、実際の動きを見てみると、予想以上に素早く軽い動きを見せた。当時は産駒がまだデビューしていないが、サンデーサイレンス産駒の一流馬は、共通して高い身体能力を備えている。他の馬とは次元の違う身体的能力を生まれながらに備えた彼に対し、牧場の人々が

「どんな馬になるんだろう」

と希望に満ちた夢を抱いたのは、むしろ当然のことだった。

 もっとも、生まれた直後に分かる資質である肉体面では「サンデーサイレンス産駒らしい」長所を備えていたバブルガムフェローだったが、成長するにつれて初めて分かる資質・・・気性面では、他のサンデーサイレンス産駒とはまったく違った長所を持っていた。

 サンデーサイレンス産駒は、初年度産駒がそうであったように、2年目産駒もやはり癇性が強く、牧場のスタッフが馬の扱いに苦労することも珍しくなかった。まして、バブルガムフェローの場合は、父のサンデーサイレンスだけでなく、母の父であるLyphardも気性の激しい血統として知られている。バブルガムフェローの血統だけを聞いたスタッフたちは、

「けがをさせられないように、気をつけないと」

と身構えた。

 ところが、バブルガムフェローは、血統からのイメージとは正反対に、人間の言うことをよく聞く素直な馬だった。狂気と表裏一体の闘争心を武器とするサンデーサイレンス産駒において、バブルガムフェローのような馬は珍しい。

「(同期の)ダンス(インザダーク)みたいにやんちゃな奴は、『この野郎』って覚えてるけど、『バブ』は手がかかった記憶がひとつもない」

 そんなバブルガムフェローの入厩先は、当歳のうちに関東のトップトレーナー・藤澤和雄厩舎に決まっている。その経緯について藤澤師は、

「当時からいい馬でしたね。照哉さん(社台ファームの社長)のお気に入りで、だいぶ期待していた子だったみたいですね。照哉さんから『いい馬だよ』と勧められて預かることになったんです」

と述懐している。バブルガムフェローは、社台ファームで93年に生まれたサラブレッドたちの中でも最高級の期待を受けていた。

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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~ https://retsuden.com/age/1980s/2022/19/529/ https://retsuden.com/age/1980s/2022/19/529/#respond Tue, 19 Apr 2022 14:39:19 +0000 https://retsuden.com/?p=529  1985年4月11日生。2014年3月28日死亡。牡。栗毛。宮村牧場(浦河)産。
 父ヤマニンスキー、母ツルミスター(母父イエローゴッド)。荻野光男厩舎(栗東)。
 通算成績は、23戦8勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、皐月賞(Gl)、
 産経大阪杯(Gll)、鳴尾記念(Gll)、京都新聞杯(Gll)、UHB杯(OP)。 

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『平成三強時代の中で』

 競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。

 強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。

 その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。

 もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。

 しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。

 ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。

 そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。

『明治男の意地』

 ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。

 そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。

 ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から

「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」

とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。

『セピア色の残照』

 このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。

 そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、

「なにかいいことがあるかもしれん」

ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。

『血統の深遠』

 荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。

 ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。

 やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。

 しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。

 ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。

 種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。

 そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。

 ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、

「忘れた」

と答えている。なんとも人を喰った話である。

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プレクラスニー列伝~勝者の屈辱~ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/141/ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/141/#respond Thu, 08 Jul 2021 15:28:10 +0000 https://retsuden.com/?p=141  1987年6月10日誕生。1998年1月30日死亡。牡。芦毛。嶋田牧場(三石)産。
 父クリスタルパレス、母ミトモオー(母父ヴィミー)。矢野照正厩舎(美浦)。
 通算成績:15戦7勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍:天皇賞・秋(Gl)、毎日王冠(Gll)、エプソムC(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『プレクラスニー』

 「日本の馬産界には血統の多様性が根付きにくい」という点は、日本の馬産界の構造的な欠点として、古くから指摘され続けてきた。

 競走馬の血統にも栄枯盛衰がある以上、ある時代、ある地域に特定の系統が流行するという現象自体は、当然に起こりうる。新たに流行する系統があれば、廃れる系統があるのもまた道理である。だが、日本の馬産界は、ある系統が日本で流行し始めるとみるや、後先を考えずその系統の種牡馬ばかりを大量に輸入することを繰り返してきた。日本の馬産家たちがあまりに同じ系統の種牡馬を買い漁ったため、本場のアメリカやヨーロッパからほとんど姿を消してしまった系統すら、いくつもあったほどである。しかも、そこまでしてかき集めた系統でも、日本での流行が過ぎ去ったとみるやたちまち忘れ去ってしまい、1代か、せいぜい2代ほどで滅亡させてしまうことを繰り返してきたかつての日本は、海外から「種牡馬の墓場」として強く批判されてきたのである。

 もっとも、無数に日本へ輸入された系統の中には、ごく少数ながら日本競馬界への高い順応性を示し、日本競馬に深く根づいたものも存在する。古くアローエクスプレス、フォルティノらによって成功がもたらされたGray Sovereignの血を引く系統は、その代表格ということができよう。

 この系統のうち、現在にも父系を残している系統は、凱旋門賞馬トニービンの子孫たちがほとんどであるが、それ以外の系統からも、シービークロス・タマモクロスと続いた系統や、ビワハヤヒデ、アドマイヤコジーン、エイシンキャメロンといった、当時を知るファンであれら馴染みの深い名馬たちを少なからず生み出している。長い歴史の中で日本の馬場への適性が証明されてきたGray Sovereign系の血統は、牝系を含めればかなり広い範囲で日本競馬に影響を与え続けていると言えよう。

 しかし、数々の栄光を謳歌したGray Sovereign系の片隅で、1998年春に、1頭の内国産天皇賞馬が、活躍馬を残すこともなく、否、その機会すらほとんど与えられることすらないままに、寂しくこの世を去ったことは、あまり知られていない。

 その天皇賞馬とは、1991年の天皇賞・秋(Gl)を制したプレクラスニーである。

 プレクラスニーは、古馬の最高峰とされる大レースを制しながら、その生涯を通じて実績にふさわしい評価をほとんど得ることができなかった、不遇の天皇賞馬である。彼が低い評価しか受けられなかったことの背景には、彼の恵まれなかった競走生活が、様々な形で反映している。

 競馬界の歴史とは、あらゆる人々から賞賛と尊敬を受ける少数の名馬だけによって築かれるものではない。正当な評価を受けることなく埋没していく多数の馬たちによって築かれた部分も多い。そして、後者の中に、プレクラスニーのようなGl馬が含まれることも、決してまれではない。今後のサラブレッド列伝では、そうした馬たちも含め、様々なサラブレッドの生涯を叙述していく予定だが、その第1回として、まずは古馬最高の名誉を手にしながら、不遇のままに短い生涯を終えたプレクラスニーの生涯を追ってみたい。

『最強世代に生まれて』

 プレクラスニーは、1987年6月10日、北海道三石町にある嶋田牧場で生まれた。1987年の競馬界における主なできごとをたどってみると、牡馬クラシック戦線では悲運の二冠馬サクラスターオーがクラシックを戦い、また牝馬クラシック戦線では、マックスビューティが圧倒的な強さを見せた年である。

 プレクラスニーの父は、仏ダービー馬クリスタルパレスである。クリスタルパレスは、もともと芝の短距離に向くスピード血統と言われてきたGray Sovereign系種牡馬の中では、同時にスタミナも兼ね備えるバランスのとれた父系と評価されていた。種牡馬としての彼は、日本へ輸入される前にフランスでも供用され、仏リーディングサイアーに輝いた実績もあったため、そんな名馬が導入されるということで、馬産地から寄せられる期待は非常に熱いものがあった。

 プレクラスニーの母は、7歳まで現役馬として走って通算53戦8勝の戦績を残し、重賞の新潟記念を勝ったミトモオーである。このタフな牝馬は、その他にもビクトリアC(エリザベス女王杯の前身)、牝馬東京タイムス杯(府中牝馬Sの前身)、毎日王冠で2着、オークスで5着といった成績を残している。

 視点を変えてプレクラスニーと同じく1987年に生まれた牡馬たちを見てみると、高い水準でしのぎを削った実力馬たちが揃った世代として知られている。彼らの世代の中でも早くから頭角を現したエリートたちが激突した春のクラシックでは、疾風の逃げ馬アイネスフウジン、ハイセイコー最後の傑作ハクタイセイ、そして鮮烈な差しでファンに愛されたメジロライアンが「三強」を形成し、皐月賞はハクタイセイ、日本ダービーはアイネスフウジンが制した。やがて夏を越し、三強のうち春のクラシックを制した二強が去った後の菊花賞では、無冠の大器メジロライアンを押しのけ、夏以降に力をつけていったメジロマックイーンが主役を演じ、中長距離戦線は彼のもとに統一されることとなる。

 また、彼らの世代からは、王道を歩む主役たちばかりでなく、「1番人気だと勝てない」という謎のジンクスを背負いながらもマイル~中距離戦線を荒らしまわったダイタクヘリオスや、独特の逃げで宝塚記念、有馬記念の両グランプリを制したメジロパーマーなど、いわゆる「脇役」と呼ばれる存在も多数輩出する、非常に層が厚い世代であった。

 しかし、若かりし日のプレクラスニーは、そんな高い水準の同世代の中で、いずれ一流馬に数えられるようになるとは思われていなかった。ロシア語で「素晴らしい」「非常に美しい」という意味を持つプレクラスニーという名を与えられたサラブレッドの姿は、華やかりしクラシック戦線には、影も形もなかったのである。それどころか、6月生まれと生まれた時期がかなり遅いこともあって、デビュー自体が4歳の2月までずれ込んでいる。

 また、プレクラスニーは、デビューが遅かっただけではなく、4歳時に残した戦績も、条件戦ばかりに出走して6戦2勝というものにすぎなかった。この時点での彼の成績は、高いレベルといわれるこの世代でなくとも、人々の脚光を浴びるような代物ではない。

 ただ、プレクラスニーにまったく将来の「兆し」すらなかったかというと、そうではなかった。プレクラスニーの鞍上は、デビュー直後の2戦を除いては、いずれも2000勝騎手の増沢末夫騎手が手綱を取っていた。また、4歳時に挙げた2勝はいずれも芝1800mでのもので、後に中距離戦線で活躍することになる伏線は、この時既に用意されていたのである。

『予感に満ちた夏』

 そんなプレクラスニーが本領を発揮し始めたのは、5歳を迎えて古馬の仲間入りをした後のことだった。2勝目を挙げた後は放牧に出されて4歳秋を全休したプレクラスニーだったが、放牧から帰ってきた彼を見た管理調教師の矢野照正調教師は、たくましく成長している様子を認め、

「秋にはきっと大きな仕事をする馬」

と彼に熱い期待をかけていた。

 そして、プレクラスニーも、矢野師の期待に応えて芝1800mの条件戦を次々と勝ち上がっていった。

 1991年の4月になると、それまでプレクラスニーの主戦騎手を務めていた増沢騎手が騎手を引退することになり、新たに江田照男騎手とコンビを組むことになった。江田騎手は1990年に騎手としてデビューしたばかりだったが、いきなり27勝を挙げて新人賞を獲得したり、同年のうちに重賞初勝利を挙げたりするなど、その将来を嘱望される有望な若手騎手で、プレクラスニーとの新コンビでの緒戦となる晩秋S(1500万円下)でも、5馬身差の圧勝によって実力の違いを示した。

「今なら、重賞でも通用する・・・」

 矢野師の承認のもと、プレクラスニーはいよいよ重賞への初挑戦を許された。彼のために用意された舞台は、それまで2戦2勝と相性の良い東京競馬場で開催される重賞で、通算5戦4勝の芝1800mコースで行われるハンデ戦(当時)のエプソムC(Glll)だった。

 エプソムCに出走するころには、プレクラスニーは既に競馬関係者や一部のファンの間で「東の成長株」として注目を集めつつあり、この日の単勝オッズ280円は、堂々の1番人気である。そして、このレースで終始2番手につけ、直線できっちり抜け出したプレクラスニーは、あっさりと重賞ウィナーの仲間入りを果たし、「関東の秘密兵器」という一部での評価が決して的外れなものではないことを示した。

矢野師をはじめとする関係者たちは大いに喜び、プレクラスニーはご褒美として秋までの充電に入ることになった。もっとも、これがただの休養であるはずもない。プレクラスニーの東京芝コースでの戦績は、3戦3勝となった。このとき矢野師の視線の先には、おそらく東京の芝2000mで行われる古馬の最高峰・・・天皇賞・秋の盾があったに違いない。

『盾への片道切符』

 夏を越して秋競馬が始まると、プレクラスニーの復帰戦は、毎日王冠(Gll)と決まった。毎日王冠の舞台はエプソムCと同じ東京1800mであり、コース適性という意味では、プレクラスニーにとって申し分ない。だが、ハンデGlllで天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)といったGl戦線には足りない馬たちばかりが集まっていたエプソムCと異なり、毎日王冠は天皇賞・秋(Gl)の重要なステップレースと位置づけられている。このレースには、毎年天皇賞・秋を目指す強豪たちが集結しており、1991年もその例外ではなかった。

 この時の出走馬には、89年の安田記念(Gl)、90年のスプリンターズS(Gl)を制したGl2勝馬バンブーメモリー、90年の宝塚記念(Gl)でオグリキャップを破ったオサイチジョージがいた。また、この時点ではまだGlを勝っていないものの、後に91年、92年とマイルCS(Gl)を連覇する希代のクセ馬ダイタクヘリオスの姿もある。プレクラスニー自身を含めると、このレースに出走した13頭のうち、4頭が引退までにGlを計6勝したことになる。さらに、脇を固めるメンバーも淀巧者のオースミロッチ、無事是名馬のカリブソングという渋い個性派が揃い、それまで一線級との対決を経験していなかったプレクラスニーにとって、天皇賞・秋へ向けた見通し、そして彼自身の真価が問われるレースとなった。ちなみに、東京競馬場では、その週から初めて「馬番連勝」馬券が発売されている。

 この日のレースは、ダイタクヘリオスが力強く逃げる中、プレクラスニーは2番手を追走していった。力のある2頭に引っ張られ、ペースはつり上がっていったが、充実期を迎えつつあるこの2頭は、自ら作り出した厳しいペースに飲み込まれるような並みの馬とは次元が違う。直線に入ってからも彼らの脚色は衰えることなく、むしろ激しい叩き合いを続けたのである。そして、死闘の末に半馬身相手を競り落としたのは、ダイタクヘリオスではなくプレクラスニーの方だった。

 この日の勝ち時計は1分46秒1で、サクラユタカオーが持つコースレコードに僅か0秒1差という優秀なタイムだった。強い相手に強い勝ち方を収めたプレクラスニーは、見事に重賞2連勝を飾り、堂々と盾へと駒を進めることになった。

『第104回天皇賞』

 そして、運命の1991年天皇賞・秋、第104回天皇賞(Gl)当日がやって来た。単勝190円の圧倒的1番人気に支持されたのは、前年の菊花賞に続いて天皇賞・春(Gl)を制しているメジロマックイーンだった。

 名門メジロ牧場の誇りともいうべき天皇賞父子制覇を達成したメジロアサマ-メジロティターンを父系に、やはりメジロ牧場によって長い時間とともに育てられた基礎牝系たるシェリル系を母系に持つメジロマックイーンは、両親から晩成の血を受け継ぎ、前年の秋以降、その血を無限の成長力へと変えつつあった。既にGlを2勝しながらさらに充実の一途をたどる王者メジロマックイーンは、秋の緒戦に選んだ京都大賞典(Gll)で、他の馬たちが彼を恐れて次々と回避する中、いともたやすく楽勝することで、疑う余地のない圧倒的な実力を見せつけていた。彼の鞍上にいるのは、前々年のイナリワン、前年のスーパークリーク、そしてこの年メジロマックイーンで天皇賞・春3連覇を達成し、天才の名をほしいままにする「平成の盾男」こと武豊騎手である。

 しかも、メジロマックイーンのライバルたりうるとしたらこの馬しかいない、といわれ、宝塚記念(Gl)では悲願のGl制覇を成し遂げた東の横綱メジロライアンは、この時屈腱炎に倒れ、既に戦線を離脱していた。最大のライバルなき今、メジロマックイーンが史上2頭目の天皇賞春秋連覇を達成することは、もう既成事実のように言われていた。穴党はなんとか荒れる要素を探し出そうと血眼になり、「距離不足」「外枠不利の府中2000mで13番枠は外すぎる」という主張をむりやり引っ張り出してはいたものの、そうした主張の頼りなさは、主張する人々が一番よく分かっていた。大部分のファンにとってこのレースは「軸不動」で、あとは連下に何が来るか、というのが予想の焦点であり、注目と関心の対象だった。

 この日の2番人気は、前年に日本ダービー3着、菊花賞2着、ジャパンC4着という戦績を残したホワイトストーンだったが、秋はオールカマー(Gll)で公営の雄ジョージモナークに後塵を拝していた。プレクラスニーは、ホワイトストーンに続く単勝870円の3番人気で、いちおう期待馬の端くれという評価といえようが、それ以上のものでもない。圧倒的支持を受けるメジロマックイーンの前で、プレクラスニーを含めた他の馬たちの影はかすみがちとなった。

 しかし、この時のファンには、「マックイーン神話」が浸透しすぎていた。また、この日の東京競馬場には雨が降り続いており、馬場状態が悪化の一途をたどっていたことも、湿って力のいる馬場を得意とするメジロマックイーンに有利な材料と思われた。一方、脚質こそメジロマックイーンと同じ先行タイプではあるものの、ダートでのデビュー戦を除くとそもそも重馬場以上で走ったことすらないプレクラスニーにとって、この気候と馬場状態は、明らかにマイナス材料だった。

『雨の日曜日』

 小雨降りしきる東京競馬場で、馬場状態は不良というコンディションの中、第104回天皇賞(Gl)のファンファーレが憂いを秘めて鳴り響き、ゲートが、そして戦いの幕が開けられた。

 すると、スタートとともに敢然と飛び出したのは、メジロマックイーンと武騎手だった。外枠が絶対不利とされる東京2000mコースで13番枠を引いたハンデを跳ね返そうとばかりに、先頭を行きながら、するすると内へ切り込んでいく。そんな現役最強馬に対し、挑戦者であるプレクラスニーも負けじと挑み、先頭をめぐって激しく対峙する。・・・そして第2コーナー過ぎで馬群を抜け出して先頭を奪ったのは、プレクラスニーの方だった。

 プレクラスニーがレースを引っ張り、メジロマックイーン、ホワイトストーンが続く展開・・・それは、かつて「走らない」という迷信があった芦毛の3頭が上位人気3頭を独占し、さらに前半はすべて好位で競い合うものだった。後続の馬たちは彼らについていくことができず、展開は変わらないまま第4コーナーを回り、いよいよ直線の攻防が始まる…かと思われた。

 ・・・だが、直線で始まったのは、「攻防」などと呼べる代物ではなかった。渋った馬場を味方につけ、泥をはね、馬場を切り裂き、翔ぶが如く1頭の芦毛が、残る2頭の芦毛の横をすり抜けてあっという間に置き去りにし、雨の中へと消えていった。遠ざかるメジロマックイーンの背中を懸命に追うプレクラスニーだったが、彼らの間の差は、たちまち絶望的なものへと変わっていった。

『ウイニング・ラン』

 メジロマックイーンは、後続に圧倒的な着差をつけて、ただ1頭ゴール板に飛び込んだ。その差、実に6馬身の圧勝だった。若き天才武豊は「ウイニング・ラン」を終えると、12万大観衆の歓声にガッツポーズで応え、ゴーグルをスタンドに投げ入れるほどの興奮ぶりである。その瞬間、誰もが天皇賞春秋連覇の偉業の達成を信じた。

 一方のプレクラスニーは、初めて経験する不良馬場に脚を取られ、最後はすっかり脚が上がっていた。しかし、彼はそれでも、追ってきたカリブソング以下を3/4馬身抑えて2着で入線した。

 メジロマックイーンと武騎手が大観衆の祝福と賞賛を一身に集めるその最中、歓声も雨の音に消される向こう正面で、江田照男騎手は、静かにプレクラスニーから下馬していた。彼の愛馬は、苦手な不良馬場の激闘ですべての力を出し尽くし、跛行を生じていたのである。「勝者」と「敗者」のコントラストがかくも鮮明に浮き彫りになった光景も、そう滅多にあるものではない。だが、一緒に前でメジロマックイーンと戦おうとしたホワイトストーンが掲示板にすら残れなかったことを考えると、プレクラスニーの不屈の精神は称えられるに値するものだった。ただ惜しむらくは、勝った馬が強すぎた・・・。江田騎手の胸に去来するのも、敗れた無念さではなく、力を出し切ったことに対する満足感だった。

 ・・・だが、この時の約12万人の観衆のほとんど、そして当事者である騎手たち自身さえ、着順掲示板に灯る「審」のランプの意味に気付いてはいなかった。それは、15分後に起こる天皇賞史上最大の逆転劇の予兆だったにも関わらず。その大逆転劇は、この時既に始まっていた。

『プレクラスニー逃切』

 ウイニング・ランを終えて検量室へと戻っていった武騎手を迎えたのは、他の騎手たちによる凄まじい抗議と叱責・・・否、罵声と怒号だった。メジロマックイーンと武騎手がスタート直後の第2コーナーで大きく外から内へと切れ込んだ際に、他の馬たちの進路を妨害したというのである。パトロールフィルムを目にした武騎手の表情からも、たちまち血の気が引いていった。この時既に、審議はきわめて深刻な段階に入っていた。

 天皇賞史上最大の大逆転劇は、ゴールから約15分後に完結した。メジロマックイーンは、第2コーナーでプレジデントシチーらの進路を妨害したとして、18着への降着処分を受けたのである。・・・勝者に与えられる盾と名誉はメジロマックイーンの手から奪われ、2着で入線したプレクラスニーへと与えられることになった。こうしてプレクラスニーは、突如勝者の地位へと転がり上がったのである。

 パトロールフィルムを確認すると、第2コーナーのメジロマックイーンが内へ切れ込んだところで、馬群が異常なまでに混乱しており、中でもプレジデントシチーは、落馬寸前になっているのが一見して分かる。メジロマックーンの18着降着はやむを得ないと思われる。降着制度は当時始まったばかりで、この古馬最高のレースが適用第1号となった。だが、過去の例を見ても、88年の天皇賞・春で2着入線のニシノライデンが失格となった例はあるものの、天皇賞の長い歴史の中で1着入線の馬が失格となった例はなく、繰り上がり優勝は初めてだった。

 この日の天皇賞・秋の記録に記されたのは、「プレクラスニー逃切」というものだった。メジロマックイーンという「勝者」の存在が抹消された以上、プレクラスニーの競馬は「逃げ切った」と評するよりほかにない。秋の天皇賞が2000mに短縮されて以来、逃げ切り勝ちを納めたのはわずかに2頭で、プレクラスニーの他にはニッポーテイオーがいるのみである。

『勝者の屈辱』

 しかし、この裁定は、第104回天皇賞に関わった人々の多く・・・特にメジロマックイーン陣営の人々と、プレクラスニー陣営の人々の運命を大きく変えるものだった。

 18着降着の裁定が、敗者とされた若き天才と王者に深い屈辱を与えたことは、想像に難くない。レース直後には、

「不当な降着だ!」

「提訴する!」

といったメジロマックイーン陣営の激しい反応も大きく報じられている。しかし、この裁定がメジロマックイーンの犯した進路妨害という罪の結果である以上、それは彼らにとって受け入れなければならない罰である。この裁定がもたらした真の悲劇とは、敗者とされた側ではなく、勝者とされた側にこそあった。

 「天皇賞馬」となったプレクラスニーを迎えるスタンドの雰囲気は、例年のそれとは明らかに異なるものだった。そこに古馬の頂点に立った者への賞賛と尊敬はなく、あるのは目の前で起こった現実に対する当惑と、当事者たちへの同情だった。

 当時19歳だった江田照男騎手は、この日、最年少天皇賞制覇の栄誉を手に入れたが、若くして大きな名誉を手に入れたはずの勝者の顔に、晴れやかさはまったくなかった。彼の表情から読み取れるものも、いかんともしがたいばつの悪さと戸惑いのみである。プレクラスニーがメジロマックイーンに完全に力負けしていたことは、彼が一番よく知っていた。ここに立つのは、本来自分であるはずがない。それなのに・・・。直後にJRA史上最年少天皇賞制覇の感想を聞かれたときも、

「本当にね、勝ったわけじゃないですからね。だから、そんなにうれしいということはないですね」

と、とても勝利騎手とは思えないコメントを述べている。

 つらい思いをしたのは、江田騎手だけではない。プレクラスニーの生産者である嶋田克昭氏も、レース後こんな感想を漏らしている。

「正直言って、表彰台に立っているのが辛かった・・・」

 嶋田氏は、周囲の人々から「ルールに則って勝ったのだから」と慰められ、祝勝会を開くことを勧められたが、嶋田氏本人は、そんな誘いに決して首を縦に振ることはなかったという。

『名誉を取り戻すことなく』

 天皇賞・秋のレース後、報道陣に囲まれた江田騎手は

「この次にマックイーンと闘うときは、先頭でゴールを駆け抜けてみせます」

というコメントを残した。繰り上がり優勝・・・この空虚な栄光は、確かな敗北を知る彼の心に、深い影を落としていた。

 プレクラスニー陣営は、次の目標を「憧れていた」と矢野調教師が語る有馬記念(Gl)一本に絞り、メジロマックイーンとの再戦に備えることになった。有馬記念の舞台は中山2500mであり、距離が伸びれば伸びるほど強さを発揮するマックイーンに比べ、中距離を得意とするプレクラスニーには明らかに分が悪い。しかし、あまりにも後味の悪い天皇賞・秋のイメージを払拭するために、プレクラスニーは勝たなければならなかった。

 有馬記念でのプレクラスニーは、今度も3番人気の単勝900円となった。1番人気がメジロマックイーンであることは当然として、2番人気は4歳馬ナイスネイチャだった。京都新聞杯(Gll)、そして有馬記念の直前に鳴尾記念(Gll)を勝っているとはいえ、菊花賞で4着だった4歳馬よりも低評価というのが、天皇賞馬の現実だった。

 年末のグランプリは、今は亡き狂気の逃げ馬ツインターボが玉砕的な逃げを打つ形で始まった。プレクラスニーは2番手に抑えたものの、2周目の第3コーナーでツインターボが急激に失速したのを見るや、敢然と先頭に立った。この失速は鼻出血の発症の影響だったことがレース後に明らかになったが、レース中の江田騎手にはそこまで知る由もない。それでも、ここを勝負どころと見定めて進出していくその様子は、まるで天皇賞・秋の悪夢を払おうとするかのようだった。

 しかし、ツインターボによるハイペースを見越して中団で脚をためていたメジロマックイーンらも、大歓声に合わせるように上がって来た。脚色が違う。

 プレクラスニーは、毎日王冠に続いて直線での叩き合いとなったダイタクヘリオスの急襲をしのぎ、直線の半ば過ぎまで必死の抵抗を見せた。それまで2000mまでのレースしか走ったことのない中距離馬が、残り100mを切る2400m地点でも先頭を維持し、懸命に粘っている。・・・だが、それが彼の限界であった。

 力尽きたプレクラスニーの横を、何頭かのサラブレッドが突き抜けていく、そして、その中にはメジロマックイーンの姿もあった。・・・この時、プレクラスニーの戦いは終わった。

 レース自体は、一世一代の豪脚を見せたブービー人気のダイユウサクが、大本命メジロマックイーンを差し切るという大波乱で幕を閉じた。しかし、そのような狂騒劇はプレクラスニーには関係なかった。プレクラスニーにとって、メジロマックイーンに敗れたことがすべてだったのである。

 そして、この日の有馬記念は、結果としてプレクラスニーの最後のレースとなった。プレクラスニーは6歳になってすぐに脚部不安を発症したのである。こうして江田騎手のマックイーン打倒の誓いは、ついに果たされぬまま終わった。復帰への努力は1年に渡ったものの、その努力は空しく彼が再びターフに戻ってくる日はこなかった。

『果たされぬ使命』

 現役を引退し、7歳春から種牡馬入りしたプレクラスニーには、天皇賞馬としてその血を後世に伝えるという第二の使命が与えられていた・・・はずだった。古馬の最高峰・第104回天皇賞を制したのは、まぎれもなくプレクラスニーだったのだから。

 しかし、世間はそうは見てくれなかった。プレクラスニーにとって最大の栄光であるはずの天皇賞は、常に「メジロマックイーン降着」という形容詞のみによって語られ、決して「プレクラスニーが勝った」という形容詞で語られることはなかった。降着、繰り上がり優勝という強烈な残像は、プレクラスニーの粘り強い逃げは勿論のこと、前走までのレコードと僅差での連勝すら、吹き飛ばすには充分すぎるものだった。

 プレクラスニーの生涯戦績を見ると、芝の1800m戦は7戦6勝2着1回であり、東京の芝コースでも5戦5勝と無類の強さを示した。彼が芝で連を外したのは、有馬記念を含めてもたったの2回だけである。だが、彼の実力を証明してくれるはずのこれらの数字は、プレクラスニーに対する評価の材料としては、何の役にも立たなかった。常に最強馬を追い求める時代の流れの中で、「最強ならざる勝者」であるプレクラスニーの存在は、黙殺されることになったのである。

 1994年に生まれたプレクラスニーの初年度産駒は、わずか10頭だった。内国産の天皇賞馬としては、あまりに悲惨過ぎる数字である。しかし、その翌年には、その数字ですら彼にとって幸せなものだったことが明らかになる。翌95年生の産駒数はさらに落ち込んでわずかに4頭となり、98年生の1頭を最後に、ついにプレクラスニーの産駒自体が1頭もいなくなった。

 初年度産駒の中で中央デビューを果たした数少ない1頭であるストレラー(牡)は、江田騎手とのコンビで3戦目に勝ち上がり、府中3歳S(Glll)ではゴッドスピードの4着と健闘した。この馬はその後アクシデントに見舞われるなどの不運にもめげることなくその後2勝目を挙げている。・・・だが、そんな彼も、平地17戦2勝、障害3戦未勝利の戦績を残したまま、レース中の事故で世を去った。96年生まれでストレラーの全妹になるタンドレスも、17戦1勝の戦績を残したものの、繁殖入りすることなく乗馬となった。プレクラスニー産駒が中央競馬で挙げた勝ち鞍は、この2頭によるものがすべてである。

 一方、第104回天皇賞で敗者とされたメジロマックイーンは、勝者とされた者とはまったく違う経路を辿った。ターフからプレクラスニーの姿が消えた後も、メジロマックイーンは最強馬として競馬界に君臨し続けた。トウカイテイオーやライスシャワーといった数々の名馬たちと死闘を繰り広げ、回転の速いサラブレッドの世界で約3年に渡り王者の地位に君臨した彼は、天皇賞・春連覇をはじめとするGl4勝、天皇賞父子3代制覇を成し遂げた偉業を称えられ、顕彰馬にもなった。メジロマックイーンを語る場合、第104回天皇賞は常に伝説として語られる。2着に6馬身差をつける圧倒的なレースをしながら、不運にも優勝の栄誉をはく奪された悲劇―勝者の悲哀と対照的な、敗者の栄光として。

『滅ぶもの、生きるもの』

 種付け希望がなくなり、種牡馬生活を続けることができなくなったプレクラスニーは、1998年初冬、JRAに引き取られて余生を過ごすことになった。JRAによる余生の保障は、当時は旧八大競走勝ち馬のみに認められた特権であり、彼には着順も成績も問われない第三の馬生が待っているはずだった。しかし・・・新しい環境に移って1ヶ月も経たないうちに、彼は着順も成績もまったく問われない世界へと旅立ってしまった。環境の急激な変化に耐えられなかったのだろうか、それとも競争の機会すら与えられることなく競争世界から追い出されたことへの抗議だったのだろうか。

 プレクラスニーの父クリスタルパレスも、プレクラスニーの他には中央競馬の重賞勝ち馬を出すことができないまま、1995年に死亡した。クリスタルパレスは、自らは仏ダービーを勝ち、凱旋門賞でも3着に入ったほどの馬であり、種牡馬としても、日本に輸入される前にはフランスで多くの活躍馬を出し、1985年の仏リーディングサイアーに輝く能力を秘めていた。だが、日本での産駒成績を見ると、プレクラスニーは前記のとおりで、期待されていたプレクラスニーの全弟プレストールも1戦しただけで引退するなど、他の活躍馬は特に出すことができなかった。クリスタルパレスをブルードメアサイヤーとする馬からは、後に2002年の日本ダービー馬タニノギムレットが現れたものの、後継種牡馬はプレクラスニーしかいなかったため、そのプレクラスニーが死亡したことによって、父系は完全に断絶した。

 21世紀に入って、日本競馬界の情勢は急激に変わった。日本の有力馬は当たり前のように海外に遠征し、有望な子馬は海外のバイヤーによって買われていき、種牡馬の交流も、かつてのような一方的な入超ではなくなりつつある。しかし、日本が「名馬の墓場」という汚名を返上できたとしても、それ以前に消滅した血統が再び蘇ることはない。失われたクリスタルパレスの直系がそうであるように。

 確かに、競馬の世界では血統の栄枯盛衰はつきものであり、栄える血統もあれば、滅びゆく血統が出てくることもやむを得ないのかもしれない。だが、それを当然のことと冷たく突き放すだけでは、あまりにも悲しく、あまりにもむなしい。名馬の血が残らないのならば、せめて記憶に留めておくことが、私たちの責務ではないだろうか。フランスからやってきた名馬の仔に、天皇賞を勝った馬がいたこと。そして、その馬は運命に翻弄されるうちに、ひっそりと短い生涯を閉じたこと・・・。

 幸い、プレクラスニーの弟妹、産駒たちの多くは、彼に魅せられながらも彼の運命を止めることができなかったことを悲しんだあるファンに引き取られ、平和に暮らしたという。かつて府中を愛し、そして府中で不敗のまま逝った芦毛の天皇賞馬の血統は、競走馬、サラブレッドとしてはとうに絶えてしまったが、せめて単なる馬として、日本のどこかで生き長らえてはいないのだろうか―

記:1998年7月29日 補:1999年2月10日 2訂:2000年6月22日 3訂:2003年2月09日 4訂:2006年2月26日

復刻:2021年7月●日

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